第3話 始まり 身体の傷

 アパートに帰ると郵便受けには鍵が置いていなかった。

 ドアノブをガチャガチャすると鍵はかかっている。

 財布から合鍵を取り出そうかと思っていたらガチャンと鍵が開く音がした。


 ドアを開けると今朝の少女が今朝の姿のまま玄関に立っていた。

 僕は静かに中に入るとドアと鍵を閉める。

「ただいま。のんびり出来たかな?」

 布団に戻る少女は複雑そうな顔をしていた。

 部屋の様子から少女が朝から何も食べていないようだった。

「今夜、雑炊でいい?いきなり重いものは胃が辛いよね」

 僕は部屋着に着替えると普段は行くことがないスーパーで買ってきたレンチン式のお米(スーパーでレンチン済み)と刻みネギと卵をローテーブルに置く。


 僕にとってこの部屋はシャワーを浴びて寝るだけの部屋なので最低限の家具しかない。

 電子レンジや洗濯機、炊飯器もない。

 僕は持っている唯一の鍋に水を入れて火にかける。傍らには卵雑炊の作り方を検索したスマホが置いてある。

 少女はソファーベッドで布団にくるまってちょこんと座っていた。

 ボーッとしている。

「ご飯できるまで時間あるからシャワー浴びてくる?」

 少女は少しの間を置いて小さく首を横に降った。

「それじゃ、僕と浴びよっか?」

 少女はじっと僕を見たあと、今度は小さく縦に首を振った。

 笑顔を返すと沸騰してきた鍋にご飯を2パック入れる。

 彼女は僕と似ている。


 内部対話に入る。

 親から肉体、精神、性的な虐待を受けたこと、満足に学校に通えなかったこと、タバコの押付痕……。

 鉄球のようにぶつけられる怒声。どんなに抵抗しても力で押さえつけられる無力感。外に出ることすら許されなかった。

 僕も気がついたら見知らぬ土地にいた。

 そこで出会った裕福な人のおかげで、僕は地獄から抜け出すことが出来た。

 法的な手続きは全てその人がやってくれた。

 僕が高校を卒業する頃その人は老衰で亡くなった。

 僕と同い年の孫がいたので相続はその孫がした。今でも時々会うことがある。……というか、お店に来る。

 断片的な記憶しかないのは部分欠乏症と言うらしい。小さな子供には抱えきれない辛い記憶は脳が自衛のために消してしまうのだ。

 僕は自分の名前や年齢は覚えていた。誕生日は元々知らなかったのかもしれない。記憶にない。親の顔も名前も覚えていない。

 少女は僕より悪化して、自分の名前さえも忘れてしまったんだろう。


 米がお湯を吸って溶けるまで煮詰めるらしいけど、放置でもいいかな。

「シャワー、浴びようか」

 少し身体を強ばらせつつも頷いた。

 バスタオルを2枚と小さめの細長いタオルを2枚、足ふきマットを浴室の前に置くと自分の下着も置く。

「僕のスウェットのままでもいいかな?君に合うサイズの下着は持ってなくて……」

 少女はゆっくり近づきながら頷く。痣だらけの足元が見える。

 僕は服を脱ぎ腰に小さい方のタオルを巻くとシャワーを出す。

 少女においで、とジェスチャーすると少し呆然としていた。僕の身体に残る痣の痕やタバコの押付痕に驚いたようだった。

「……僕もね、君と同じように痛い思いをしたことがあるんだ。だから、大丈夫だよ。君の身体を見ても驚いたりしないよ」

 実際もう見て驚いているなんて言わない。

 諭すように話すと少女はスウェットを脱ぎ、浴室に入ってきた。

 浴室のドアを閉める。

 狭い浴室はあっという間に湯気に包まれて相手の身体がよく見えなくなる。

「最初に頭を洗おうか。女性もののシャンプーとリンスもあるから君はそっちだね」

 シャンプーを手に出し頭をゴシゴシする。

 少し遅れて少女も試供品のシャンプーで頭を洗い始めた。

 ドアのすぐ側にから離れない少女にもシャワーがかかるようにする。

 さっさとシャンプーを流すとリンスを手に取り、シャワーの下を譲る。

 ドアの側を離れるのに躊躇していたけど、少女は何度も僕を見ながらシャンプーを流した。

 シャワーの下を交代交代に移動しながら身体を洗って顔を洗って行く。

 少女は終始無言だった。


 シャワーを浴び終わると湯気が部屋に行かないように素早くドアを開けてバスタオルを取り閉める。

 浴室のカビの元になるけど、部屋が湯気にみちる方が被害が大きい。

 僕は自分の身体を拭くと少女も拭き終わったか確認する。

 一緒に冷えている部屋に出て急いで服を着る。

 小さな方のタオルとドライヤーを手渡し少女に髪を乾かしてもらう。

 その前に化粧品類一式も貸しておいた。


 寒くなるから早く僕も乾かしたいな、と思いつつ雑炊の様子を見る。

 火をつけて再び煮込みを開始する。ネギを入れて底が焦げ付かないよいようにゆっくりスプーンで混ぜる。お玉はうちにはない。

 少女がドライヤーをかける音を聞きながら唯一の心許せる親友に明日の待ち合わせ時間と場所をLINEで聞いていた。

 僕を助けてくれた裕福な人の孫だ。

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