☂・ミスター・レインマン(Ⅴ)

 

 もう少し……あともう少しで何かが変わりそうな気がする。



 久しぶりにこの街に帰ってきた。


 私がここを出て行ってから、かれこれ二十五年も経つだろうか。


 二十五年……それだけを聞けば永遠のごとく途方もない時間のように思えるのだが、いざ振り返ってみるとなると、なんてことはない。


 一瞬よりもまだ刹那的に月日は流れていったような気がする。


 もちろん、その間にも色々な出来事が起こり、色々な人々と出会った。


 嬉しい事もあれば哀しい事もあった。

 楽しい事も多くあったがつまらない事も多々あった。


 一見すると単純そうだが実は複雑な事。


 はたまた複雑に入り組んでいるように見えて案外簡単だった事。


 不思議な事や不思議ではない事。

 取り返しのきく物事。

 決して戻ってはこない物事……。


 二十五秒とも二十五分とも違う、本来二十五年という歳月は、過ぎゆく間にそれ相応の重みを携えていかなければならないものなのだろう。


 しかし、その長い時間を常に空虚と連れだって過ごしてきた私には、その重さを感じるような記憶の断片が残ってはいない。


 誰とどこで何をして過ごしたのか、私が(あるいは誰かが)何を話し、何を聞き、何を考え、何を思ったのか、私は一つとして思い出す事ができない。


 私はただすべての前を通り過ぎてきた。


 足を止めるでも手に取って眺めるでもなく。

 差し出されるものを受け取るでも突き返すでもなく。


 明確な目的があるわけでも目指すべき場所があるわけでもなく、私はただただ機械的に足を動かし、腕を振り、真っ直ぐに歩き続けてきた。


 同じ歩むだけしか能がないと言うのならば、いっそ私はゼンマイ仕掛けのオモチャにでも生まれてくればよかったのだ。


 そうすれば、私の人生はもう少し意味を持ったものになったのかもしれない。


 背中のネジを巻いたから前に進むし、ゼンマイが止まったから歩みを止める……。


 とても簡潔でわかり易い。


 少なくとも私がミスター・レインマンであることよりは余程わかり易く、なおかつ有意義な人生に見えて仕方がない。


 

 ママの命がそう長くはないかもしれないと予期せぬ風の噂で偶然耳にした。


 海を越え、山を越え、随分と遠いところまで行った気になっていたのだが、そんなものは関係がなかった。


 やはり私はこの街からは離れられない。


 どこに行こうと何をしようと、私とこの街とは長い長いロープの端と端とで固く結ばれていた。


 結局、それが運命というものなのだ。

 

 それでもいざ帰ろうとなると、私の足取りは躊躇のために鈍くなった。


 今更、ママの元に私が駆け付ける意味は果たしてあるのか?


 簡単な手紙のやりとりを数回交わしたきりで、二十五年間ほとんど疎遠になっていた私が駆け付けたところで一体なんになるのだ?


 病床に伏したママはおそらく私の顔を見て不用意に心をかき乱すことだろう。


 私の言葉はその消え入りそうな命の炎を激しく揺らしてしまうことだろう。


 私の訪問はママにとっては死神の来訪とも等しいものになってしまう、絶対に会うわけにはいかないのだ……。


 そう思えば思う程、考えまいと考えれば考える程。


 私は強くこの街に引き寄せられてしまった。


 まるでママが最後の力を振り絞り、私と街とを繋ぐロープを一心に手繰り寄せているような気がしてならなかった。


 背反した精神を抱えて散々もたついた挙句、意を決して私は再びこの地に降り立った。


 相当な覚悟と決意を持ってきたつもりではいたが、それでもいきなり病院に行く前に一度、体と心をこの街に馴染ませる時間と猶予が欲しかった。


 それで空港からタクシーに乗り、とりあえずママの店まで向かってみる事にした。


 懐かしい街並みを見れば昂ぶる精神も落ち着いてくれるだろうと思ったのだ。

 

 しかし、その道すがら、流れていく景色のあまりの変貌ぶりに、懐かしさどころか驚きばかりを感じてしまった。


 その驚く様子から、どうやら私が久しく帰郷していない地元の人間であることを察したらしいタクシーの運転手が、通り過ぎていく街並みについて逐一注釈を加えてきた。


 少子化の影響で児童数が少なくなった二つの小学校が統合した。


 レトロモダンな造りが粋だった公民館は耐震基準を満たしていないとの指摘をうけて取り壊された。


 大型スーパーや郊外にできたショッピングモールに客を奪われた商店街は閉鎖された。


 あまりパッとしなかった自然公園を均してニュータウンに整備した。


 市民プールの使用料が値上がりした。


 汚かった川に魚が戻ってきた。


 ご当地グルメの大会で入賞をした。


 ……運転手は際限なく喋り続けた。


 おかげでスナックに着くまでの数十分あまりで、私と街との空白の二十五年は瞬く間に埋まっていき、もはやここは私の知っている街とはまるで違う街になってしまったという事がわかった。


 やはり二十五年という歳月には、それ相応の重みと変遷の力があるものなのだ。

 

 「時代の流れは良くも悪くも無情ってことですかねぇ」


 運転手はしみじみと言った。

 

 それでも街の発展の流れと逆行するかのように、ママの店の外観は何一つとして変わっていなかった。


 私がママに引き取られた頃からすでに古めかしくて新鮮味がなく、内装工事はすれど殆ど手を入れていなかった日焼けした外装は、その古ぼけた印象までも私の記憶の通り、密やかに住宅街の一角に溶け込んでいた。


 夕方の開店まではまだ時間があった。


 ちょうど私が一人先乗りしてあれこれと開店準備をし始めていた時間だ。


 閉めきられた外側からは中の様子が伺えず、誰かがあの頃の私のように黙々と掃除をしたりおしぼりを作ったりしているのかどうかはわからなかった。


 雨の日も風の日も、うららかな春も、しめやかな秋も、私が毎日欠かさずに熟していた仕事だ。


 かつてそれは立派な私の一部として確かにそこにあった。


 私という人間を構成する大事な大事な一つのピースとして存在していた。


 それを今は他の誰かが代わりにしているのかと思えば不思議な気持ちになった。

 

 ここで過ごすはずだった、ずっとここにいるはずだった私の人生を誰かが代行して消化してくれているような、そんな感覚だ。

 

 だが、そんなものは所詮私の想い過ごしだ。


 多分、懐かしさや不安な心持のために感傷的になっていただけなのだろう。私は待たせてあったタクシーに乗り込み、今度はママが入院していると思しき山間の病院まで向かうことにした。


 その病院に入院しているという確信はなかったが、いつかママが心臓を患った時に入院していたのがそこであった。


 受付で確認すると、やはりママはここに入院していた。


 愛想が良くて話好きらしい受付の女性が聞かせてくれた内容をまとめると、私がこの街を離れていた間にも何度かママは入退院を繰り返したらしい事、その都度体は明らかに衰弱していった事、大きな心臓の手術をした事、それでも著しい改善は見られなかった事、再び入院した事、そしてもはやこれ以上の処置は講じられそうにないという事。

 

 それはつまり……そういう事であるというのを安に示唆していた。

 

 私はその女性に礼を言って、教えられた病室に向かった。


 しかし、階段を上っている最中で私は立ち止まった。


 また迷いと葛藤が胸に去来したのだ。


 もう長い命ではないと聞き及んで覚悟はしていたつもりであったのだが、ママとの実際の距離的にも、そのママをとらえる死という概念そのものにも、もう自分はすぐそこまで近づいているのだと考えたら、私の足はすくんでしまった。


 一目会いたい、ただそれだけのために様々な面倒事やしがらみを打矢って遠路はるばるこの街に帰ってきたはずだった。


 しかし、ここまで来て、やはり自分にはママと顔を合わせる資格などないのだという躊躇いが再沸してきた。


 何をどう言ってみたところで、私が故郷を、そして捨て子である私を救ってくれた恩人であるママを裏切ったのは紛れもない事実なのだ。


 ……私はしばらくその階段の中腹あたりで立ち尽くした。


 行き交う人々が怪訝そうに私の横を過ぎて行く。

 邪魔くさそうに非難の目を向ける人もいる。


 それでも私の足はそれ以上階段の段差を上がる事を拒み続け、反対に降りていく方向へと私の体を向けた。


 

 タクシーを帰してしまったので徒歩で街まで降りる事になった。


 それなりに距離はあったが、緩やかな下り坂が延々と続く道のりを歩くというのは、あれこれと考えながら気持ちを整理するにはちょうど良いように思えた。


 季節は春、長らく待ちわびた芽吹きの季節の訪れに、遠く見渡す山並みも、道端の草花もことごとく萌えていた。


 新鮮な生命力がそこいら中に満ち満ちて溢れかえり、相も変わらず感傷的になっていた私の心を圧倒した。


 私一人、その春の恩恵から虐げられているように思われてならなかった。

 

 いつまでも乱れた心は落ち着かなかった。


 考え事をしようと集中しても、すぐに私の意識はまとまりを欠いて散り散りになってしまった。


 自分の不甲斐なさや無力さを垣間見て嫌気と虚しさばかりが募り、足取りは自ずと重くなった。


 結局、ママに会う勇気が出なかった。


 ……いつもそうだ。


 いつでもあと一歩踏み込む勇気というものが私には欠けている。


 やはり二十五年が経とうとも私は何一つとして進歩していない。


 街を出たあの時から、そして晴子を失ったあの時から何一つ。

 

 ―― 晴子か…… ――

 

 私の足は自然と彼女の住んでいたアパートの方に向いた。


 病院からはさほど離れてはいない。


 あるいはそれまで眺めてきた街並みのように、長い歳月の時間の流れに吞まれ、跡形もなく消え失せていないとも限らなかった。


 だが、例えそうであったとしても構わない。


 そして変わらずに存在していてもまた構わない。


 別に深い意味などなかった。


 ママに会うという唯一の目的が不発に終わり、他に行くあてが思いつかなかっただけという話なのだ。

 

 しかし、実際にあの頃と寸分違わぬままにそびえているアパートを見てしまうと、私の心は思いのほか激しく揺らいでしまった。


 ママの店と同様に、色も形も雰囲気も、それら一つ一つに付随している幾つかの記憶も変わらずにそこにあった。

 

 私はしばらく唖然として立ちすくんだ。


 どうしてだ?


 人にも街にも国にも世界にも等しく二十五年が流れたというのに、どうして私の想いが強く残る場所だけは時間が止まってしまったかのように何も変わっていないのだ?


 私を揺さぶるためか?

 私に哀しみを忘れさせないためか?

 私の雨を止ませないためなのか?

 

 私は居た堪れなくなって踵を返した。


 気がつけば夜は深い闇を広げ、私の周りを黒々と包み込んでいた。


 ……私はなんて無力なんだ。

 


                ***



 『タケシちゃん?タケシちゃんなんだな?』


 ママに会う事もなくおずおずと街を去ってから三か月が経とうとしていたある日、突然、当時のスナックの常連客であった医師の川崎さんが私の元に国際電話を掛けてきた。


 もちろん、私は驚いた。


 遠い異国の地で名前も変え、まるで別の人間として生活を送っていた私の所在などどうしてわかったのだろう?


 『私のことを覚えているかい?』


 「……ええ、カワサキさん、お久しぶりです。……どうして?」


 『どうしてこの電話番号を知ったのか?そしてわざわざ何の用があってその番号をダイヤルしたのか?色々と聞きたいことがあるとは思うんだが、正直、あまり時間がない。単刀直入に言うと、ママが危篤状態だ』

 

 危篤状態……この三か月間、常に危ぶんでいたママの状態ではあったが、改めてそう第三者から告げられてみると、なんと現実感のないことかと私は不思議に思った。


 まるでドラマか映画の中の出来事を画面越しに眺めているかのようにどこまでも他人事だった。


 おかげで私の声は自分でも薄情だと思う程に平静で落ち着いていた。


 「少し前にもそんな噂を耳にしましたが?」


 『ああ、一時とても危ない状態にあったんだが、それはなんとかやり過ごした。まったく大した人だ。しかし、安心する間もなく、またひどい発作が起きた。今度のやつもこのまま過ぎてくれればいいが……。担当医としてもちろん最前は尽くす。ただ、ある程度限界というものがあるのもわかって欲しい』


 「しかし……」


 『タケシちゃんの今の立場も知っている……本当に立派になったものだ。小さな時から只者ではないと思っていたが、今や世界を股にかける高級和食レストランチェーンのオーナーだものな。それほど簡単に日本に帰ってくることもできないのだろう。しかし、私としては是非とも帰ってきてもらいたい。担当医として……というよりは長らくママを慕ってきた一人の人間としての頼みだ』


 「……私にその資格はありません」


 『ママはずっと待っている。発作を起こし、そして目を覚ます度に『もう一度息子と顔を合わせるまでは死ねない』と言って強がっていた。今は事情があって遠く離れているのだけれど、きっとまた会える。年寄のそんな小さな願いくらい叶えられないほど神様は甲斐性なしじゃない、そんなふうに明るく大声で笑ってな。……ママは本当にタケシちゃんのことを愛し、そして信頼しているんだ』


 「……信頼……ですか?」


 『ああ、そうだ。自分が愛しているのと同様に、息子も自分のことを愛してくれているのだという信頼だ。幾ら疎遠となっていても、遠く離れていても、必ず心は繋がりあっているのだとママは固く信じて疑っていない。……正直、今、彼女のボロボロの体を生かしているのは医療の力でも自身の生命力でもなく、ひとえにタケシちゃんへの想いただ一つだけのようだ。医師としてずいぶん無責任な物言いに聞こえてしまうかもしれないが』


 「……」


 『ママはタケシちゃんをどこから連れてきたのか?二人はどんな経緯で親子関係になったのか?そこら辺のことを一切私たちには語らなかった。おそらく複雑な事情がそこにあるのだろうとは推察していたが、誰もそれ以上は詮索することはしなかった。みんなママへは敬意を抱いていたからな、ママが言いたくないのならばそれでいいじゃないかとね。……しかし、私だけは二人がどういう経緯で親子関係になったのか、諸々の事情は把握している。なにせ医者の世界、ドクター同士の横のつながりというものが広いものでね、タケシちゃんが小さな頃に入院していたところの小児科医は私の大学の後輩だったんだ』


 「……」


 何かを言わなければならいのはわかっていたのだが、それでもまるで言葉が出てこなかった。


 『私が何か偉そうなことを言える立場にいないのは重々承知している。経緯はともあれ当人たちの間に交わされている感情や心理などの部分までは推しはかれないからな。……だが、それでもあえて言わせてほしい。どんなに入り組んで複雑でこんがらがった事情があったとしても、タケシちゃんはママの大事な一人息子であることに変わりはない。資格うんぬんなどややこしい話は抜きにして、もっとシンプルに考えてみてくれないか。……そして、神様の代わりにママの最期の願いを聞いて上げてくれないか?』


 「……私は……」


 私がそう言いかけたところでなんの前置きもなく回線が切れた。


 私は受話器を耳に当てたまま、しばらくそこから流れる無音の音を聞いていた。

 

 今の今まで遠い小さな街の山間に建つ病院と、私のいるこの異国の大都市のビルディングが繋がり合っていたというのが嘘のような果てしない虚空が受話器の奥に広がっていた。


「国際電話……仕事関係以外でかかってくるなんて珍しいわね」


 いつの間に部屋に入ってきたのか、妻が私のデスクに寄りかかるようにして立っていた。


 「日本に置いてきた愛しい人からのラブコール?」


 「……」


 相も変わらず言葉が出なかった。


 「お母さまのことね?」


 「……私はどうすればいいんだ?」


 私は両手で頭を抱えた。


 「どうすればいいのか、あなたはとっくにわかっているはずよ」


 妻はキッパリと言った。


 「三月の中頃に、突然日本に帰ると言ったのはいいけれど直ぐに戻ってきたわよね?何かあったんじゃないかなって気になって勝手に調べさせてもらったわ。それでカワサキ先生のところに行きついて色々と話を聞かせてもらった。あなたの過去も、お母さまの容体も。……ごめんなさい、気を悪くしたかしら?」


 「……いや……こちらこそ済まない、何も言わないで」


 「行きなさい」


 「しかし……」


 「行きなさい、愛する人の元へ」


 妻はもう一度強い口調で言い、それから少しだけ寂しそうな顔をした。


 「あなたが私のことを愛していないのはわかっていた。もう二十年以上も前になるのね……あなたがまさか私の元を訪ねてくれるとは思わなかった。『カクテルのお釣りをお返しにあがりました』なんて言ってね。私、こんな性格だし年上としてのプライドもあったから何食わぬ顔であなたを迎え入れたけど、実はあの時、心臓のドキドキは止まらないは、顔も火照っているはで今思い出しても恥ずかしいくらい乙女チックに舞い上がっていたわ。初恋だってあんなにときめきはしなかった。他人の目には服装は派手だし、言動だって生意気だし、お嬢様育ちでかなり高飛車なワガママ女に映っていたかもしれないけど、実際、結構ピュアな部分も多くあったのよね、あの頃」


 「……すまなかった」


 「謝らないで。あなたが私を愛してはいないことも、私を利用してあの街を出ようとしていたのもはじめのその時からわかっていたわ。別に強がりで言うんじゃないわよ?あなたが見ているのは私ではなかったし、あなたが抱いているのはいつも私以外の誰かだった。女の勘ってね、愛する男に対しては本当にビックリするくらい敏感に働くようになっているのよ、知らなかったでしょ?……だけど私はそれでも良かった。どんな理由や事情があるにせよ、愛する人が他の誰でもなく自分を頼って来てくれた、その人のためになれるんだと思えば私は喜んでなんでも差し出した。……もちろん少なからず傷つきはしたけれど」


 「私はまた誰かを無暗に傷つけたんだな」


 ようやく言葉らしい言葉が口を吐いた。しかし、次から次に止めどなく流れ出るのは嘆きの言葉ばかりだ。


 「どうしてだ?どうして私はそんなふうにしてしか生きられないんだ?これまでいいだけ傷ついてきた。父や母、肉親に捨てられ、幼い頃からたくさんの物事に傷つけられて辛い思いをしてきたはずなのに、その痛みを誰よりもわかっているというのに、どうして私はまた新たな傷をこの世に生み出してしまうんだ?恩人を裏切り、愛しいはずの人を見捨て、今度は自分を想ってくれる人の気持ちを利用して……。私がレインマンだからか?私に憑りついて離れない、レインマンの血がそれを求めているのか?私の中に流れる雨男という血が愛を拒むのか?私はただ普通に愛されたいだけだ……ただ普通に愛したいだけだ……それなのに、何故だ?……何故なんだ……」


 「行きなさい、ミスター・レインマン」


 妻は頭を抱えてデスクに伏した私をそっと柔らかく抱きしめた。


 「大丈夫、あなたは何も悪くはない。あなたはまだ幾らでもやり直すことができる。大丈夫、大丈夫だから……」


 妻の抱擁はとても温かみと優しさに満ち溢れたものだった。


 荒涼として渇いた私の心へゆっくりと言葉を馴染ませるように、妻は優しく私を包んでくれた。


 それは幼い頃、不安のために眠れなかった私を寝付くまで抱きしめていてくれたママの抱擁のようだった。


 ……そうだ、ママはそうやって小さな私を守ってくれていた。


 ややこしい話は抜きにして、至極シンプルに、ただ愛情だけをその骨ばった腕に込めて私を抱いてくれた。今度は……私が……。


 「行きなさい、ミスター・レインマン」


 妻はもう一度繰り返した。


 「そして必ず帰ってきて。そのまま黙っていなくなったりしないで、必ず私の元に帰ってきて。お釣りの分の働きはもう充分してもらったけれど、あなたがいないとこの会社も……そして私もやっていけない」


 妻はそう言って少女のように赤くした顔を逸らした。


 五十歳を過ぎても変わらぬ派手な服装と若々しい豊満な体、そして高飛車なお嬢様気質がいつまでも抜けない妻の、ピュアな部分を垣間見たような気がした。

 

              ***

 

 とりあえず差し迫った仕事だけを片付け、次の日の朝一番で私はまた日本に向かった。


 霧の影響による飛行機の遅延と時差、そして空港からの移動時間も含め、私が街に辿り着いた時にはもう真夜中を回っていた。


 ママの容体はもちろん気になったが、さすがにこの時間に病院を訪ねるわけにはいかず、朝が来たらすぐに出向く事にした。


 まるでこうなるのを見越していたかのように妻が要領よく手筈を整えてくれて、彼女の親戚宅(昔、妻が身を寄せ、私が訪ねて行った瀟洒な邸宅)に泊まらせてもらえる事になっていたから寝床の心配はせずに済んだ。


 夜勤の使用人が常駐しているから夜中でも早朝でも遠慮なく来てくれとの事だった。

 

 時刻は真夜中の更にまん真ん中、本来、生きた人間が豊かに活動するような時間帯ではないが、どうせ時差ボケと気持ちの昂ぶりで眠れそうになかったので、私は大通りでタクシーを降り、少し街を歩いてみる事にした。

 

 季節は梅雨入り間近ということで、空には全体的に薄っすらと雲がかかっていた。

 

 雨の予感を秘めた生温い風が吹き抜け、深い眠りの中にいる木々たちの葉と枝を静かに揺らした。


 この間、タクシーの中から見送っていった街の変わりようが、ゆっくりと歩く事によってより鮮明に浮き彫りになった。


 毎年見事な花を咲かせる古い桜の木を自慢にしていたお爺さんの家は、今は桜も家も取り壊されて現代的な新築の家が建っていた。


 私が子供の頃によくママの御遣いに走った個人商店は洒落たイタリアンレストランになっていた。


 ザリガニやフナを取ったキレイな小川のせせらぎは、大通りに抜けるための道路を造るために埋め立てられていた。


 ……確かに時代の流れは良し悪しに限らず無情であるのかもしれない。

 

 そのうちにまた、晴子の住んでいたアパートの前まで来てしまった。


 意図したものではない……と言うと嘘になってしまう。


 やはり、晴子への想いも私は捨てきれないでいた。


 妻が『女の勘』と言っていたが、そこにママ以外の他の女性の影が混じりあっていた事も彼女にはわかっていたのだろう。


 わかったうえで全てに向き合い、諸々のケジメをつけてこいと私を送り出したに違いない。


 本当に妻には敵わないなと思った。


 それも私への愛情が為せる技という事なのだろうか?

 

 ―― 愛情…… ――

 

 私はアパートの門前まで来て立ち止まった。


 オートロック式というわけではなかったので、扉を開け、エントランスを進み、短い階段を上がれば晴子の部屋の前までは簡単に行く事ができたが、もちろんそこまでする気はなかった。


 何故なら晴子との思い出は部屋にではなく、アパートと外界との境界にあたるこの扉の前に多く残されていたからだ。

 

 私はショルダーバックの中から小さな桐の箱を取り出し、その箱に収められた香水の瓶を晴子と別れて以来はじめて手に取り、手首につけてみた。


 二十五年もの間、箱の中で静かに眠っていたとは思えない程にとてもハッキリとした確かな石鹸の香りが辺りに漂った。


 ……これもまた、時間が止まってしまった物の一つなのだろう。

 

 私に誕生日のプレゼントとして彼女が香水をくれたのもこの場所だった。


 はじめてキスをしたのもこの場所だった。


 そしてデートをしては彼女を送り、別れた場所もここだった。

 

 いつもいつも、ここまで歩く道のりが永遠に続けばいいのになと私は本気で思ったものだ。


 そうすればいつまでも私たちは並んで歩き続け、いつまでも一緒にいれるというのに、と。


 そんな事を思っているうちに毎回、意地の悪い悪魔の謀略かというくらいにあっという間にアパートの前に辿り着いてしまった。


 この扉をくぐれば彼女は消えてしまう、この扉は彼女を僕の知らない世界へと連れ去ってしまう……。


 そんな私はきっと無意識に寂しい顔をしていたのだろう、彼女は決まって「また会えるよ」と言って私に笑いかけてくれた。


 約束の口づけを交わすわけでも、固い抱擁をするわけでもなく、彼女はただただ大きく笑った。


 しかし、私にはそれだけで十分だった。


 愛する人とまた会える……それが当時の私にはどれだけ救いになったことか。


 恋というもの、愛情というものは、ある人にとってみればそれだけで明日を生きていく糧となり、生きていく意味そのものにもなりえるものなのだ。

 

 ―― そう、確かに私は晴子の事を愛していた。それは間違いなかった ――


 

 晴子の告白を受けた時、ショックではあったが、それでも私はすぐに何か言葉を紡ごうとした。

 

 例え彼女の兄が母を自分から奪ったとしても、彼女への気持ちは何一つ変わる事はないのだという偽りのない言葉を、彼女がその瞬間一番望んでいたような言葉を、震える彼女の心を芯から温めるための言葉を、二人の関係を繋ぎとめる楔のように確かな言葉を……。


 そうしなければ二人はそれぞれの亡霊に誘われるままに互いの道を違えてしまうような気がした。


 このまま彼女が遠く離れていってしまうような気がしてならなかった。


 そして同時に、もしもその言葉を一つでも紡ぐことができたのなら、二人はより親密に、より深く、本当の意味で愛し合えるようなそんな気もしていた。

 

 しかし、私にその言葉を見つけ出すことはできなかった。


 母の事などもはやどうでもよかったし、彼女に対する愛情に一つも疑念を挟む余地はなかった。


 私は焦った。

 

 だったらどうして何も言えないんだ?

 どうして何も浮かばないんだ?


 簡単なことじゃないか、僕は彼女を愛しているんだろ?


 深く深く愛しているはずだろ?


 気の利いた言葉と巧みな話術を操って人々を魅了する、それがミスター・レインマンではなかったのか?


 たった一言でいいんだ、たった一言僕の想いを彼女に伝えればいいんだ。


 僕は言わなくてはいけないんだ。


 彼女もそれを待っているんだ。


 たった一言でいいんだ、たった一言で……。




 「あの……」


 と背後から声を掛けられて、私は追憶の世界から一気に現実に引き戻された。


 まさかこんな遅い時刻に人がいるとはよもや考えもせず、私はとても驚いた。

 

 私は慌てて「すいません」とだけ言って、その場から立ち去った。


 しばらくして冷静さが戻り、客観的に自分の姿を眺めてみると、桐の箱を小脇に抱えた全身黒づくめの男が、足早に暗い路地をひたすら進んでいた。


 それは誰が見ても空き巣をはたらいた人間が闇に紛れて逃げているようにしか見えなかったし、先程の立ち居振る舞いを省みても、あれは不審者以外の何ものでもなかった。


 声を掛けてきた人が怪しんで警察に通報しないとも限らなかったので、私はセンチメンタルな回想も、この街に再び戻った本来の目的もしばし忘れ、更に歩速を早めて宿泊先の邸宅へ向かった。


 建物の敷居をまたぐと同時にとうとう雨が降り始めた。



 日本では、これからまた雨の季節がやってくるのだ。

 


         ***



 前回よりも強い意志を持って再び病院に赴き、今度はしっかりと階段を上り切る事ができた。


 これでようやくママと顔を合わせられる。


 それはそれでまた別の緊張が高まったが、ここまで来ておいてもうただ帰るわけにいかない。


 私は階段を上がって直ぐのところに掲げられた案内看板で受付から聞いたママの病室の部屋番号を探した。


 そして、廊下の一番端にある個室だという事がわかり、そちらに歩を進めようとしたところでナースステーションが急に騒がしくなった。


 アラームのような警告音が鳴り響き、婦長だと思しき年長の看護師が素早く他の看護師たちに何事かを指示し、皆はそれにまともな返事をする間もなくそれぞれに体を動かし、幾人かがステーションを飛び出して廊下を走り去った。


 彼女達の神妙な面持ちと切迫した様子から只事ではないのだろうと推測はできたが、どんな問題が持ち上がったのかまではさすがに計りかねた。

 

 すると今度は上の階から慌ただしく駆け下りてくる足音がしたと思うやいなや、誰かがあっという間に私の横をすり抜けて行った。


 そのすれ違いざまに一瞬見えた横顔に私の肝は一息で冷えあがった。


 それは川崎医師だった。


 彼は私が立っている事には気付きもせず、全速力で先程看護師たちが走っていった廊下を同じように駆けて行った。


 そして私はその川崎医師の揺れる背中が、その廊下の突き当たりの部屋に消えていくのを確かに見た。


 私は念のため、もう一度目の前にある案内看板で部屋番号を確認した。


 間違いない、そこはママの病室だった……。


 

 川崎医師と看護師たちの懸命の処置の介もあって、とりあえずママは落ち着きを取り戻した。


 薬のおかげで穏やかな表情で眠ってはいるが、それでもママの状態はまったく予断が許されないと医師は言った。


 今のような軽い発作が起こる頻度が増えたうえに、その間隔が日ごとに狭くなってきているらしかった。


 発作の度、確実にママの体力は削られていき、それは同時に命を削られていると言い換える事ができる、根本的な治療ができない以上、相応の心構えはしておいた方がいい……六十代に差し掛かった川崎医師は熟練した医師らしい現実的で落ち着きのある声で現状を淡々と述べた。


 そしてそこまで言うと、少しだけ表情を崩し「来てくれたんだね、タケシちゃん」と小さく微笑んだ。


 「この度はカワサキさんに色々とご迷惑を掛けてしまいまして、申し訳ありませんでした」


 私はそう言って頭を下げた。


 「頭を下げるなら私にではなく、君の奥さんの方に下げてあげなさい。彼女が私に連絡をくれなかったら、私にはタケシちゃんの居場所なんて一生をかけてもわからなかっただろうからね。電話口で話しただけだが、しっかりと芯のある良くできた女性じゃないか」


 「私にはもったいない限りです」


 「そんなに謙遜することはない。相も変わらず憎らしいくらいの男前に歳を重ねたことで渋みまで加わったみたいだな。そのうえ今は立派な肩書まで持っていて……ママが聞いたらきっと喜ぶぞ」


 「……しばらく二人にしてもらっても大丈夫でしょうか?」


 「もちろんだとも。時間のことは気にせずにいつまでも居てくれていい。何か少しでもママに変化があったらそこのナースコールを押してくれ。それとドアも開けておいてくれないか?くつろげなくて申し訳ないが、緊急事態が起きた時に少しでも早く対応したいんだ。あと帰る時はナースステーションに一声かけてくれれば嬉しい」


 「わかりました。……多分、特例なんでしょうね?」


 「その通りだ。本来なら面会謝絶って看板を下げて武装した門番を二、三人立てておかなければいけないくらいの状態なんだ」


 そう言ってイタズラっぽく笑う川崎さんに私も少しだけ肩の力が抜けた。


 「どうだ、私も冗談の一つくらい言えるようになったんだぞ。だいぶママに鍛えられたからな。堅苦しい理屈と訳の分からない詩ばっかり喋るつまらない医者にはかかりたくないからって、無理矢理に性格を矯正されてね」


 そして川崎さんは肩をすぼめてから病室をあとにした。


 その際にちらりと私の眼を見やったのを私は見逃さなかった。……あえてそこに触れてこなかったのは彼なりの気遣いだったのだろう。



 

 二人きりになり、改めてベッドに横たわるママの姿を眺めた。


 もう八十歳をゆうに越えているのだから当たり前なのだが、ママは記憶の中の元気な姿と比べて本当に歳を取って見えた。


 黒々とした豊かな髪の毛はすっかり白く細くなり、元々の痩身な体からは更に肉が削げ落ち、頬もこけ、無数の深いシワが顔中に刻まれていた。


 そして何よりも、全体的に小さく弱くなったような印象を受けた。


 いつも真っ直ぐに背筋を伸ばし、常に強くて気丈であったママの面影はどこにも見当たらず、今はそこに二十五年という歳月が彼女の元にもたらした抗い難い老いの色が代わりに居を構えていた。


 ……しかし、どれだけ歳を重ねても癖というものは変わらないなと思い、私は思わず顔をほころばせてしまった。


 「ママ、いつまで寝たふりしてるんです?」


 「なんだ、気付いてたのかい」


 そう言ってママはゆっくりと目を開けて首をこちらに向けた。


 体を起こそうにも、おそらくそれだけの体力も残されてはいないのだろう。


 「癖があるんですよ」


 「癖?」


 「昔、眠れない僕を安心させるためにママは添い寝してくれていましたよね?僕が寝付くまで自分も一緒に眠るふりをして。その時、よく薄目を開けてママの顔を見てたんですけど、ママ、緊張してたのか目の端の方がピクピク動いてたんです。本当に眠っている時はそんなことなかったから、ああ、ママは嘘寝をしてるんだなってわかりました」


 「おやおや、女の嘘を暴こうだなんて野暮な男だねぇ」


 「野暮で結構……それだけママの顔をよく見てたってことです」


 「いい女だったからね」


 「今でも充分いい女ですよ」


 「ふん、マザコンは相変わらずみたいだね」


 ママは昔よりも一層しゃがれた声をあげて楽しそうに笑った。


 笑うと余計に顔のシワが際立ったが、おかげでそのくしゃりとした笑顔がより楽しげなものに見えた。

 

 私も笑った。


 本当に久しぶりに心から愉快に笑う事ができた。


 不思議なもので、まるで二十五年もの長きに亘って離れ離れになっていたとは思えない程、わだかまりも気後れもなく、私たちはとてもくつろいでいた。


 やはり、ママと話すのは誰と話すよりも面白い。


 「元気そうでなによりだよ」


 ママは言った。


 「ええ、ママの方こそお元気そうで」


 「そうだねぇ、これで病気じゃなかったら尚のこといいんだけど」


 「何か欲しいものや足りない物はありませんか?」


 「あんたが来てくれたんだ、これ以上望むものなんてないさ」


 「……そうですか」


 「ところで、さっきあのヤブ医者と話してたことだけどさ、あんた嫁さんをもらったのかい?」


 「もらわれた……って言った方が正しいですね。彼女のところに婿養子として入りました。何かと面倒でしたけど、なんとか色々な人たちの力を借りて、今は苗字も違っています」


 そう、色々な人の様々な手間と、膨大な額のお金をかけて私は違う自分を手に入れた。


 色々な人に様々な手間を取らせ、膨大な額のお金を手に入れる事ができる自分をだ。


 「子供はいるのかい?」


 「いえ、いません」


 「愛はあるのかい?」


 「……わかりません」


 私は正直に答えた。


 「……やっぱりそうかい」


 ママはそう言うと顔を天井の方に向き直し、一つ大きなため息を吐いた。


 やはり言葉を交わすだけでも相当難儀なようだ。


 「大丈夫ですか?先生を呼んで来ましょうか?」


 「あんたをずっと待っていた」


 ママは私の心配を無視して言った。


 「いつかアタシのところに帰ってきて、アタシの前に立ち、相も変わらずあんたがあんたのままであったとしたら、一言だけ言ってやりたい言葉があった」


 「……」


 「アタシはあんたを愛している」


 断固とした力強い口調だった。


 「……ママ」


 「何が起こっても何が起こらなくても、どんなに時間が経っても、どんなに世界が変わっていったとしても、あんたはアタシの愛する一人息子だ。例えアタシがこのまま死んでも、それだけは絶対に変わらない。……他にももっと言ってやりたい言葉があるし、してあげたいこともたくさんある。だけどもう、アタシには時間がない。だから一言だけ、ただそれだけを、ちゃんと覚えてこれからも生きていきな」


 「……はい、わかりました」


 「その眼の色……全然、似合わないよ」


 「……色々なものから逃げ出したかったんです」


 「全然……似合わない……」


 ママはもう一度そう言って静かに潤んだ目を閉じ、涙が一筋枕の上に落ちた。

 

 念のため脈拍を計り、顔のそばに耳を近づけて細いながらも息があるのを確認した。


 どうやら本当に薬が効いてきて眠ってしまったようだ。私はとりあえず安堵した。


 「愛してくれてありがとう……。僕もあなたのことを愛していますよ、閣下……」


 私は静かな寝息を立てるママの細くなった髪をゆっくりと撫でながら呟いた。

 

 一体、私はこの二人の間に通い合うものの何に迷い、何を疑い、そして何を怖れていたのだろう。


 私たちは決して離れるべきではなかった。


 私はずっとママの傍にいるべきだった。


 例え私が周りの人達を無意識のうちに傷つけて不幸にしてしまう愛を知らない人間だとしても、例え私がミスター・レインマンという永遠の雨が降りしきる呪いの名前を受け継いだ存在であったとしても……。


 それでもママの横でママと共に生き、静かに時を過ごしていかなければならなかった。


 そうしていればきっと、ママはここまで痩せ細り、日々、命を擦り減らしながら必死の思いで生き長らえる事もなかったはずだ。


 親不孝な息子の帰りなどいつまでも待つ事はなく、もっと気楽に、もっとママらしく格好のよい最期を飾る事ができたはずだ。

 

 しかし、あの時の私にそんな事を考えられるような余裕はなかった。


 確信を持って愛情を抱いていたはずの晴子を繋ぎ止める事ができなかったのと……いや、繋ぎ止めなかったのと同様にママとの間に交わされる愛情も、いずれ何かが起こり、時間が流れ、世界が劇的な変化をとげた途端、儚く消えてしまうのではないか?


 あるいは私自身が自らの手で粉々にその愛を壊してしまうのではないか?


 私が私である限り、私がミスター・レインマンである限り、私は愛を損ない続ける。


 父がそうであったように。

 母がそうであったように。

 祖父母がそうであったように。


 私の前にはいつも愛は残されない。


 私は呪われている。

 私は生まれながらに呪われている。


 その呪いは、例えそれが幼き頃からの確固とした絆の上に築かれた、実の親子以上の愛情であったとしても簡単に踏み潰してしまう程に強大な力を持っている。


 だから私はママの元を去った。


 何もかもが消えてしまうその前に、何もかもが手遅れになってしまうその前に……。

 

 ママはずっとわかっていたのだ。


 どれだけ献身的にママが私に尽くしてくれても、私のために一生を捧げる覚悟でいてくれたとしても、私にはそのママの愛を心から信じ切る事ができないのも、それと同じように私がママへ抱いていた愛情もまた信じられないでいる事も。

 

 私は泣きたかった。


 誰にはばかることもなく泣きじゃくりたかった。


 思えば私は生まれてこのかた泣いた事などあっただろうか?

 

 誰かのためにも自分のためにも、私はたった一粒でも涙を流したことがあっただろうか?

 

 ……いや、私に涙を流す事はできない。


 どれだけ違う名前を名乗ってみもミスター・レインマンの血は私の中で息づいていた。


 どれだけ整形手術によって、やはり私の眼は青かった。


 雨はいつまでも降り続いた。


 晴れることもなければ傘もなく、降り注ぐままに私は雨に打たれた。


 雨は体を濡らし、心を濡らし、明日を濡らし、愛を濡らし、私のすべてを冷やして凍えさせた。


 ……それでも……。


 ―― アタシはあんたを愛している ――


 その言葉の響きがどれだけ私の救いとなったのかしれない。


 偉人の残した哲学的な言葉や何かの崇高な経典の一節よりも、そのママの一言は私の心に重たく、そしてとても尊く、熱を持って刻み付けられた。


 一生、消える事も冷める事もはないだろうというくらい、深く、深く、深く……。


 それから一週間、私は毎日朝から晩まで一日中、ママのところに通った。


 ママは元気な時もあれば、あまり体調の優れない時もあった。


 他愛もないことを流暢に喋り続ける事もあれば、昏々とただ眠り続けるだけの日もあった。


 どちらにしても、私が来てからは発作もなく、ずっと顔色もいいし、目に見えて幸福そうだと医師もナースも言ってくれた。

 

 


 そしてその日。


 ママは夏の始まりを告げるには少し気の早い蝉時雨の騒がしさに紛れるように。


 私と医師たちが見守る中、静かに息を引き取った。


 こんなに死というものの来訪は密やかなものなのか。


 そう誰しもに思わせる、とても穏やかな最期だった。

 

 窓の外で間断なく鳴り響く蝉の声。


 それだけが唯一、彼女の魂を送る、音らしい音だった。

 


            ***



 『……それでとりあえずは一段落ついたわけね?』


 電話口で妻がそう私に尋ねた。


 「ああ、店の権利だとか相続だとか細々としたことはまだまだたくさんあるけれど、葬儀やお墓の準備なんかの大筋のところは済ませた。とりあえず四十九日が過ぎるまではここにいたいのだけれど……会社の方は大丈夫だろうか?」


 『ええ、特に問題はないわ。それよりも、ごめんなさい。本当は私がそっちに行ってあれこれやってあげられればいいんだけど』


 「いや、大丈夫、君の手を煩わせることはない。確かにこういう事務的な作業や段取りを組むのは君の方が要領よくできるんだろう。だけど、これは私が自分の手で片づけたいんだ」


 『償いかなにかのつもり?』


 「いや、ただ純粋に、ただシンプルに、私がしたいからというだけの話だ。一人息子として……ね」


 『そう、それならよかった』


 「……ねえ?」


 『うん?』


 「色々とありがとう」


 『……なあに?改まっちゃって』


 「この街を出てから生きてこれたのも、そしてまたこうやって街に帰り、ママの死に目に会えたのも、すべて君のおかげだ。君がいなかったとしたら、私はとっくの昔に路頭に迷って力尽きていたと思う。だから本当に君には感謝をしている、ありがとう」


 『まるで、今生の別れみたいに言うじゃない……』


 「必ず帰る」


 『……』


 「別れることなんてない。今生でも来世でも何でも、私の帰るところはただ君一人のところだ」


 『……私の記憶が正しければ、結婚してからはじめてかしらね、あなたからそんな愛のこもった言葉を言われるのは』


 「必ず帰る」


 私はもう一度きっぱりと繰り返した。


 妻の心に未来永劫、消える事なく刻み込まれるように。


 『うん……待ってるわ』


 そして妻は急いで電話を切った。


 電話口の向こう側で少女のようにはにかむ妻の顔が想像できた。


 

 私とママは戸籍上では何の繋がりもない他人同士なので、何をやるにも人一倍の面倒と手間がかかった。


 妻には自分で全ての事を取り計るとは言ったものの、実際のところは川崎さんをはじめ、昔からのスナックの常連客や隣近所、宿泊させてもらった妻の親類、その他たくさんの人たちの助けを借りなければ、とても私一人で熟しきれはしなかっただろう。


 それに葬儀屋、お寺の住職、仕出し屋、役所の職員に行政書士などのその道のプロが、こちらから頼みもしないうちから次々に私のするべき事を提示してきてくれたのも本当に助かった。


 皆、生前のママに世話になったから少しでも手伝いをしたいと自ら申し出てくれた人達だった。


 ママの顔の広さと人徳の高さに改めて気づかされ、息子として誇らしく思った。

 

 街の人達は長らく帰らなかった私の事も温かく迎い入れてくれた。


 あるいは厳しく糾弾してくる人もいるだろうと覚悟はしていたが、そんな事は一切なく、反対によく帰ってきてくれたと頭を下げられたり、感極まって涙を流されたりする方が多かった。


 久しい顔に会う度にそんな調子で、私の方ではその都度、恐縮してばかりいた。


 多分、それも私の力などではく、ママへの畏敬の念がそうさせたのだろう。


 死してもなお、ママは私の事を守ってくれているようだった。

 

 そんなふうにばたばたと数週間があっという間に過ぎて行った。


 夏は順調に勢力を拡大していき、なぶるような猛暑が連日続き、私たちから水分やら何やらを容赦なく奪い去っていった。


 ……そう、ある人にとっては、その命さえも。

 

 ママと懇意にしていたと言って告別式にも来てくれた老父が、この暑さに負けて亡くなった。


 ママに劣らず、地域の人々の人望がとても厚い好々爺で、惜しい人ばかりが先に逝ってしまうと、皆は少なからずショックを受けていたようだった。


 その老父の告別式には私も参列させてもらった。


 どの程度ママと親しかったかは別として、とにかくママの代理という意味も含めて私は焼香させてもらうつもりだった。

 

 それに、実はその老父と私は少しだけ面識があった。


 ママの告別式の時に挨拶をされた時には私も驚いた。


 どうやら老人の方では私の事を覚えていないようで、とてもうやうやしく故人との思い出を短く語って去って行った。


 その後ろ姿をいつか同じように見送った事があった。


 そう、晴子のアパートの廊下に快活な笑い声を響かせた、あの人の良い大家だ。


 さすがに多少腰は曲がっていたが、足取りも話す口調も確かで、後からママと同い年だと人づてに聞かされて、最近の八十代は本当に元気なものだと私はその時とても感心した。


 大した思い出らしい思い出があるわけでもなかったが、私はその老人に対してとても自然な好意を抱いていた。


 彼はそんな魅力がある人だった。


 もう少し色々な事が落ち着いたら、ママとの思い出話をもっとじっくりと聞きに行ってみようかとさえ思ったくらいだった。


 そんなふうに数週間前にあれ程力強い歩みを見せてくれていた人が亡くなるだなんて……彼の死は、ママの死とはまた違った種類の静けさを私の心にもたらした。



 「あの……すいません」

 

 そんなふうに老父の物思いに耽っているところに誰かが声を掛けてきて、私は少しだけ驚いた。


 前にも同じようなシチュエーションに遭遇したような覚えがあったが、その時のように足早に退散しなければならないシチュエーションではない。


 だから私は「なんでしょうか?」と微笑みながら対応するだけの余裕があった。


 「あの……こんにちは」


 「こんにちは。……何かご用でしょうか?」


 「一か月くらい前の夜に、この神沼栄治さんが大家を務めるアパートの前に立っていませんでしたか?」


 「……アパートですか」


 なるほど、そういう事か。


 思い返してみれば、確かにあの時声を掛けてきたのは女性の声だったような気がする。

 

 彼女が説明するところによると、その夜、彼女が帰宅するとアパートの門のところに人影があった。


 月明かりも弱く、辺りは暗くてその姿の細かいところまでは判別しかねたが、それでもやはりただ黙って見過ごすわけにもいかず、声を掛けてみたらその影はそそくさと歩き去ってしまった。


 そしてそのすれ違いざまに影から仄かに香ってきた石鹸の香りが、今、目の前にいる私からも漂っていたから思わず声を掛けてしまった、との事だった。

 

 香り……ああ、そうか。


 今日の葬儀に着てきたこの黒いスーツをあの時も着ていた。


 確かに気にしてみれば、袖口の辺りに微かではあるが香水の匂いが残っているようだ。


 それにしてもこんな微妙な香りだけでよく……。


 私は改まって彼女の方を見てみた。


 見覚えのない若い女性だった。


 肩ぐらいまでの長さの真っ直ぐで清潔そうな髪、中肉中背の体。


 黒いフォーマルスーツと揃いの小さな黒いポーチを持ち、黒いシックな腕時計がはめられた反対の手には香典返しの海苔が入った紙袋を下げていた。


 遠慮がちに声を掛けてはきたが、おそらく普段はとてもハキハキとした声で話すだろう事が察せられる、利発そうな顔立ちをしていた。


 美人であると表現するよりは均衡のとれた整った顔と言った方がいいのかもしれない。


 だが、なんだろう?


 その印象を素直に真に受ける事ができない引っ掛かりのようなものを感じた。


 例えば、自分に対する圧倒的な自信のなさ、事あるごとにどうせ自分なんてと前置きをしてしまうある種の諦観……。


 利発さと均衡のとれた顔の裏側に、そう言ったものが潜んでいるように思えた。


 私ももう四十代の半ば、幼い時から客商売を生業にしてきた観察眼はそれなりに肥えている方だという自負を抱いてはいたが、それとはまた別に、彼女から受けるものは、私のフィーリングに直接訴えかけてくるような何かがあった。

 

 などと考えているうち、おそらく私はまじまじと見つめ過ぎたのだろう。


 彼女の顔が見る見る赤らんできた。


 それは恥ずかしさからくるものなのだろうが、急に彼女が早口であれやこれやと畳みかけるように弁解をしてきたので、私はそれを一先ずいさめなければならなかった。


 彼女の言うアパートの前の人影は確かに私だと正体をばらした事で、顔の紅潮もスッと引いて落ち着きを取り戻した。


 「あの時は本当にすいませんでした。……怖がらせてしまったのではありませんか?」


 何を置いても私はとりあえず謝るしかなかった。


 「いえ、大丈夫です。怖いとかそういうのはなかったですよ」


 「そうですか、それならば少しは私も救われます」


 「ええ、本当に怖くはなかったですよ。何というか……あなたの立ち方からは悪いものは一切感じられませんでしたから」


 「立ち方ですか?」


 「多分、他の誰かが普通に立っていたなら、素直に恐怖していたんだと思います。なにせ、真夜中の暗がりに紛れて自分の家を眺めているんですから、空き巣か何かが忍び込むタイミングを計っているんじゃないかって私は考えます。そして私は怖さのあまり、きっと声を掛けるだなんて悠長なことはしないで、いきなり飛び掛かったり、その辺の石か何かを拾って後ろから殴りかかったと思います」


 「……他の誰かではなくてよかったと心から思います」


 私は思わず苦笑いをこぼした。


 「でもあなたの場合は、アパート自体を観察しているというよりも、なんと言うか、アパートにくっついている何かを静かに目で追っているような感じがしたんです。記憶、思い出、遠い誰か……そんなあなたにしかわからない特別なものを、あなたは見つめているような気がしたんです。もちろん暗くてよく見えませんでしたけど、とにかく、佇むシルエットからはそんな感じを受けました」


 「……なるほど」


 「そしてさっき声を掛けたのも、香りうんぬんというよりも、あなたがあの夜と同じように、ジッと大家さんの名前が書かれた葬儀案内を見つめていたからピンときたからなんです」


 「…………」


 確かに最近、起きながらに見る夢のように、ボンヤリと過去の回想をしたり何かを深く考え込む事が多くなったような気がする。


 そうやって二十五年前に置き去りにしてきたもの達と、改めて私は向き合い、そして答えを導き出そうとしていた。


 「……それでは」


 と女性は言った。


 「それだけ確認できればよかったです。やっぱり不審者じゃなかったってことだけわかれば安心ですから」


 「そう、決めつけてしまってよろしいのですか?」


 私は尋ねた。


 「ええ、いいんです。あなたは空き巣でも変質者でもストーカーでもありません。断言します」


 彼女はニッコリと笑った。


 「そこまでハッキリ言われてしまいますと、せっかく周到に下見をしたというのに侵入し辛くなってしまいますね」


 「はい、狙い通りです」

 

 そう言って私たちは笑い合った。


 まさかあの晴子のアパートの事でこんなふうに冗談めかして笑える日が来るとは思ってもみなかった。


 本当に焦れるほどに鈍重な足取りではあるが、それでも確かに私は前に進んでいるようだ。それが嬉しかった。


 機械的にではなく、無意識的にではなく、今、私は一つ一つを確実に重たく踏みしめながら歩いているのだ。



 「そうだ」


 別れ際、彼女が思い出したように付け足して言った。


 「せっかくあなたの思い出が残ったアパートも、もしかしたらなくなってしまうかもしれません」


 「なくなる?」


 「ええ、まだ具体的な話は何もされてはいないんですけど、生前、大家さんは自分の代でアパートを取り壊したいと望んでいたので、あるいは……」


 「そうですか……」

 

 私の頭の中にまた過去の情景が蘇った。


 門のところにあった扉を開け、エントランスを進み、階段を上がって『二○三号室』の前に私は立った。


 ドアの鍵は親切な老人が開けてくれた。


 後はドアノブを回してゆっくりと引けば、そこはもう晴子の部屋だ。


 窓が多くて日当たりが良く、晴子という人となりをそのまま表しているように整理整頓された部屋、私が何も恐れずに彼女を愛情ごとこの手に強く抱き留めたなら、きっと数々の思い出を残したであろう部屋、私がミスター・レインマンである事を厳しく痛感させられた部屋……。


 今、あの大きな窓から眺める景色は、あの頃とは違ったふうに見えるのだろうか?


 街並みも変わった、人々も変わった、そして私も……いや、それはまだわからない。


 確たるものが何もない。


 自分が変わったのだと思い込もうとしているだけで、結局、私は何一つあの場所から離れられないでいるのかもしれない。


 そう思うとまた胸には一抹の不安がよぎり、いつかのような嫌な吐き気が沸き起こってくるような予感があった。


 「……大丈夫ですか?」


 女性は心配そうな声で言った。


 「ああ、すいません。少し目まいがしてしまいまして」


 私はあまり質の良くない嘘をついて誤魔化そうとした。


 しかし、私が彼女に何か特殊なフィーリングを感じたのと同じように、彼女の方でも私に感じるところがあるようで、そんな嘘はすぐに見破れたようだ。


 「……よかったら、もう一度、アパートを見に来ませんか?取り壊される前に」


 「いや、本当に大丈夫ですから」


 私は懸命に作り笑いをしたが、うまく笑えているかどうかはあまり自信がなかった。


 「……これ」


 と言って彼女はポーチの中から手帳とボールペンを取り出し、滑らかなに何事かを書きつけて破った紙を私に手渡した。


 彼女の名前と携帯電話の番号だった。


 「もしも、気が向いたら電話を掛けてきてください。大体、暇しているので簡単につかまると思います」


 「……わかりました」


 「ちなみに、私の部屋は二○三号室です。気軽に訪ねて来てくださいね」


 そう言って彼女はまた一つ小さく笑い、去って行った。


 私は手渡された紙に書かれた数字の羅列を目で追い、そして大きなため息を吐いた。


 二○三号室……。


 世の中の全ての偶然は誰かの手によってもたらされた必然である、などという言葉をふと思い出したが、今はそんなものどうでもいい。


 

 もう少し……あともう少しなんだ……ミスター・レインマン……。

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