5・マリコの微かな予感

 大家さんの葬儀が終わり、早くも一か月が経とうとしていた。


 断固として居座り続けた夏も盛りを過ぎたとはいえ、ここ数年の傾向通りに残暑がとんでもなくキツイものになるだろうと気象庁の予報が発表されていたけれど、こういうことに限って彼らの予測の的中率は伝説のスナイパーのライフルの精度よりもまだ高くなる。


 ……要するに相も変わらず暑かったわけだ。

 

 そんな暑さに霹靂しながら、私は病院へと続く長い坂道を一生懸命に自転車を立ち漕ぎして登っていた。


 何でこんな山みたいな高さのところにわざわざ病院を建てなければいけないのだと心の中でぶつぶつと誰に宛てたでもない文句を言い、そんな病院にわざわざ入院することになった弟へ向かって恨めしく呪いの言葉を呟いた。



              ***



 はじめに隆司が病院に担ぎ込まれたという知らせを母から電話で聞いた時にはさすがに驚いた。


 大家さんの奥さんの事故のことを聞いたばかりでもあったから、少し敏感になり過ぎていたのかもしれない。


 交通事故にでも遭ったのかと思って取り乱し、詳しい事情も聞かず、取る物も取らずに隆司が運ばれたという病院へと急いだ。


 幸いちょっと距離の離れた隆司達が暮らす実家の方ではなく、私の住む街の近くの病院だった。


 その時は向かい風が時折強く吹いたにも関わらず、この坂道を登るのにも全然苦労をしたような覚えはなかったから、よっぽど私は心配をしていたのだろう。


 口も態度も悪いし、軽口ばかりたたいて生意気なうえに病的なまでのシスコンではあったけれど、やっぱりただ一人の可愛い弟なのだ。

 

 私が息急き駆けて病院のロビーに着くと母が待ち受けていた。


 私が一人暮らしをはじめてから何か月も経っていたけれど、家を出て以来、顔を合わせるのはそれが初めてだった。


 「久しぶりね、マリコ。どう?元気でやってる?」


 母はずいぶん呑気な様子だった。


 「……タカシは?」


 そのあまりの緊張感のなさが不満で、私は文句の一つも言ってやろうと思ったのだけれど、なにぶん肩で息をしていたもので、それだけを聞くので精一杯だった。


 「いいからまずはあなたの息を整えなさい。何か飲む?ここの自動販売機、種類が充実しててマリコの好きなあのメーカーのサイダーもあるみたいよ。なかなかそこらの自動販売機では売ってないものね、あれ。多分、コンビニにもないわよね?今時のコンビニなんてありとあらゆるものが揃ってて、ないものがないって思っていたのにちょっと驚いちゃう。あなたも飲みたいときに飲めなくて可哀相ね。いい機会だからまとめ買いしておく?いいよ、久しぶりに会ったんだからお母さんが奢ってあげる」


 「……いい……から……」


 「大丈夫、お金なら心配しないで。実はお母さんね、最近パートをはじめたのよ。近所のスーパーの品出し。マリコも独立したし、タカシも立派に働いているから別にお金に困ってるわけじゃないのよ。ただ、あなた達の子育てに一段落着いたら急に時間が余っちゃってね、黙って家にいるのも息苦しいし、それならって思ってお隣の奥さんが働いているスーパーに口を利いてもらったの。なかなか面白いのよぉ、スーパーの裏側って。たまに内緒で余った野菜とか果物貰えたりもするから、今度マリコにもわけてあげよっか?本当は規則でそういうことしちゃダメなんだけど、そこのマネージャーさんが……あなたよりも少し年上くらいの男の子なんだけど、わりとお母さんのことを気にいってくれてるみたいで、何かと優しくしてくれるのよ。もう、ホントにこんな年増に優しくしても何も出ないんだからって言ってるんだけど、その子ったら真面目な顔して……」


 「タ・カ・シ・は!」


 息がある程度整うと共に苛立ちが一気に爆発して、思いのほか強い口調になってしまった。


 だけど、こんな状況下で呑気にコンビニの品揃えの盲点をついたり自分のパートタイム・ロマンスを語ったりするような母の神経に苛立つ私の神経は果たして異常なのだろうか?


 「大きい声出さないでよ。ここをどこだと思ってるの?」


 母は声を潜めて言った。


 「そっちこそなんだと思ってるの?タカシが担ぎ込まれたからここにいるんでしょ?」


 「当たり前でしょ。用もないのに病院なんて来ないわよ」


 「何が当たり前よ、その用はどうなってるのかって私は聞いてるの。お母さんのモテ自慢なんかどうでもいい」


 「まあ、どうでもいいってことはないでしょ?お母さんだってまだまだ……」


 「恥ずかしいから、やめろよ二人とも!」


 背後から声を掛けられたので振り返ると、右足に包帯を巻いて松葉杖をついた隆司が、本当に恥ずかしそうにロビーにいる人達の目を気にしながら立っていた。


 そんな弟の姿を見た私は自分の早合点な勘違いに気づいてとても恥ずかしくなった。


 

 隆司は地元の工業高校を卒業すると実家近くの工務店に就職した。


 そこの社長さんとは家族間で交流があり、幼稚園に通っているくらいの時はとても病弱だった隆司は、そんな工務店の荒々しくも男らしいお兄さんたちにずっと憧れていたらしく、頻繁に作業場に通っていた。


 そのおかげもあってか体もぐんぐんと大きく丈夫になり、小学校を卒業する頃には学校でも一位か二位を争うスポーツ馬鹿として有名になっていた。


 中学校に入り、簡単な手伝いをさせてもらえるようになるとすっかり大工仕事の魅力に取りつかれてしまい、高校も工業高校の建築学科を選択、就職もアルバイトからの格上げという形でその工務店にお世話になることになった。


 社長さん曰く、大工さんとしての筋はなかなかのものらしく、中学からコツコツと下積みを重ねてきた成果も相まって、今年ようやく二十歳を迎えたばかりだというのに社長や兄弟子からの信頼もずいぶん厚いらしかった。

 

 そんな訳で『おい、タカシ。この前の台風で穴が空いちまったカワサキさんのとこの屋根の修理、おまえ行ってこいよ。もう一発でっかい低気圧が近づいてきてて風が強いから気を付けろよ』と言った具合に一人で任せられる仕事も多かった。


 そして隆司は車で一時間ほどかかる私の住む街にある川崎かわさきさんの家に軽トラックを走らせたわけだ。


 確かに距離は少し離れていたけれど、元はこの街の出身である社長の馴染みのお得意様であり、それを一人で任せられるのだから、会社の隆司への信頼の度合いが高いものであるのがそれだけでうかがえた。

 

 だからと言って日頃から硬派で仕事に関してはとことん真面目な隆司に自惚れや油断があったとは考えにくいけれど、隆司は川崎さんの家の屋根から落ちた。


 命綱を固定する金具がキチンと噛んでいなかったのに気がつかないまま、突風に煽られてバランスを崩してしまったのだ。


 幸いそこは旧家の二階であったし、落ちた地面の土はおりからの雨でぬかるんで柔らかかったために、着地の際に着いた右足を折るだけでひどい怪我にはならなかった。


 それでも安静にするには越したことがないというのに、本人は足が使えなくてもトンカチは振るえると言い張って聞かなかった。


 社長は運ばれたこの病院が店からは離れていたのをいいことに、強制的にそのまま入院させることにした。


 万一脱走などを企てても山間に建てられたこの病院から松葉杖で逃げることはかなり至難の業だろうと。


 「マリコちゃん、本当に今回のことは重ね重ね申し訳なかったです。すべての責任はこんな天気の日にタカシ一人で行かせてしまった俺にあります」


 社長さんは私に向かって深く頭を下げた。


 多分、私が来るまで母にも隆司にもこれくらい深々とした謝罪を何度も繰り返していたのだろう。


 普段の軽い人柄を知っているだけに、あまりの社長さんの律義さに謝られているこちらの方が恐縮してしまう。


 「いえいえ、いいんですよ、社長さん。何よりも不注意だった弟が悪いんですから」


 「そうですよ、ハギワラさん。先程から私も言ってますけど、足を滑らせたのは他でもないタカシ自身なんですから。むしろ昔からお世話になっているハギワラさんに対して恩を仇で返すようにご迷惑をかけてしまって……」


 「いやいや、奥さん。迷惑だなんてことはないですよ。こちらこそ大事な息子さんを預けてもらってる信頼を裏切ってしまって……。悪いのは監督責任者たる俺ですから」


 「そう言われましても……」


 「そうだよ、社長。社長が謝ることじゃねーよ」


 「おめーは黙ってろ!」


 「何で怒られるんだよ!」

 

 ともあれ、私が危ぶんでいたような大事に至らなくて本当に良かった。


 本当に心から良かったのだけれど、おかげで家が近いという理由だけで私が足しげく病院に通って隆司の世話をしなければならない羽目になった。


 毎回、毎回、長い上り坂に喘ぎながら……。

 


                  ***

 


 必死で病院まで辿り着いたものの、ちょうど検査の時間と被ってしまったようで、ベッドに隆司の姿はなかった。


 まあ、本人がいなくとも下着類の入れ替えと飲料水の補充をするくらいで世話らしい世話をする必要もなかったから別にそれでも構わなかった。


 ただ、昔から頭よりも体を動かしていないと落ち着かない性質たちで、テレビやマンガを見るのが嫌いな隆司が毎日退屈しているというので、その話し相手をしてあげるというのが差し当たって一番重要な私の使命だった。

 

 検査にそれほど時間がかかるわけでもないだろうと、私はとりあえずロビーまで降りて暇を潰すことにした。


 もちろんコンビニにも置いていない例のマニアックなサイダーを飲みながらということは言うまでもない。

 

 土曜の午後の病院のロビーは本当に静かだった。


 平日や昼間は外来患者や医師や看護師がひっきりなしに行き来する喧噪に包まれているのだけれど、午前中に診療の終わる土曜日の、それも昼食時を過ぎた辺りの時間帯では人の姿は殆ど見られなかった。


 山間にあるために街の忙しない騒音からも離れていたし、節約のために照明も落ちていた。


 広くて仄暗くて清潔で、まるでこの場所だけが世界の流れの中から取り残されてしまっているように思えた。


 そしてそこの硬いソファーに腰かけながらボンヤリとしている私もまた、たった一人、世界から置き去りにされてしまったような気分だった。

 

 私はそれを決して寂しいとは思わなかった。


 むしろこの隔離されたような閉塞感がどこか懐かしく、何ともいえない心地の良さすら感じているくらいだった。


 懐かしいか……一体いつのどこの場所を私は懐かしんでいるのだろうか?


 ……すぐにそれが床屋の待合室であることに思い当たった。


 物心つく以前から中学二年生で慌ててオシャレに目覚めるまでの長い間、ずっと通い詰めた床屋の、あの小さな待合室が私は好きだった。


 こもったタバコの匂い、雑然と積まれた雑誌や新聞の山、一年中キンキンに冷えた麦茶が入っていた魔法瓶、古くなったパーマの機械を再利用したコート掛け、薄いドア一つで隔てられた向こう側から聞こえるくぐもった話し声……。


 決して静かでもなければ清潔でもないあの野暮ったい待合室と、この静まり返った病院のロビーとではかなり相違する部分があるはずなのだけれど、同じように閉めきられ、それこそ世界から忘れ去られたように遮断された空間であるという点では、お互いからとても似たようなものを感じた。


 そして私の夢想は自ずとあの大柄なおかみさんの笑い声と小柄で無口な旦那さんの優しい声を思い出してしまったし、そうなってくると『豊かな生活は日当たりから』という言葉を思い出さずにはいられなかった。


 そうだ、あそこで私はその言葉に出会ったんだっけ……。


 私は頭を反らしてソファーの背もたれの上に乗せて目を瞑り、冷えたサイダーの缶の底を眉間の辺りにそっと当てた。



 部屋を選ぶ時にあれほど固くこだわり続けてきた日当たりの良さだったけれど、正直、近頃ではそんなことはあまり気にならなくなっていた。


 元々はただの不動産情報誌のセンター特集の見出しの言葉だ。


 今まで長い間、頭の中のわりと一等地の場所に門前を構えていた方がどうかしていた。

 

 それに、もしも日当たりの良い部屋に住んで生活が豊かになると言うのならば、確かに今の私の生活はもう豊かであるのかもしれない。


 何故なら、今の私の心は本当にかつてない程に静かで穏やかで、そんな平穏な心で眺める景色に幸福感すらも見出していた。


 幸福だなんて随分大げさな表現に聞こえるかもしれないけれど、私にとってはそれくらい満ち足りた充実感があった。


 そしてそれは『心の豊かな生活を送っている』と言えるのではないだろうか?と私は思うようになった。


 何があるわけでもない、何がないわけでもない。


 ある人から見ればやっぱり退屈で不毛な日々なのかもしれない。


 またある人から見れば光彩を欠いた貧相な生活だというかもしれない。


 ……だけど、とにかく平和なことは平和だった。


 それってなかなか素敵なことではないだろうかと私は思う。


 この平和な生活こそが、この大樹の幹に密やかに出来た秘密の穴のような静かな場所と時間が、私にとっての豊かな生活なのかもしれない。


 少し前までの私が同じことを言っても、それはきっと強がりになっていたことだろう。


 先に自分から自嘲的に、あるいは冗談めかしてはぐらかしたりして語ることで、誰かに私の人生を批判されたり否定されたり、馬鹿にされて笑われたりされることに対して予防線を張り巡らしていた。


 ずっとそんな風に自分を守って生きてきた。

 ずっとブロックを高く積み上げて自分を人目から隠してきた。


 別に中を見たって大したもんじゃないんだからと笑って誤魔化して、本当に大したものじゃない自分を誰にも見せたくなかった。


 そしてそうやって自分に対してさえも誤魔化し続けてきた。

 

 血の咆哮からは逃れられない……。


 やっぱりその呪いの言葉が刻まれた太い杭が、私の心の地面に深々と突き刺さっていた。


 体中を忙しなく駆け巡り酸素を運んで私を生かしている血液、私を形作る骨や肉の微細な細胞たち、それらを構成する一つ一つの遺伝子が高らかに命ずることには決して逆らえない、私が何をどうしようとどこにどう駈け出していこうとも、血の咆哮は必ず私の耳をとらえ、私の身をすくませる。


 私は抗うことはできない、私は平凡な人間にしかなれないという運命に抗うことはできないのだ。


 ……ずっとそんなふうに思っていた。


 だから諦めとも開き直りともつかない態度で何かに真剣に打ち込んだり、必要以上に頑張ってみたりすることをせず、いっぱしのニヒリストを気取って無気力に生きてきた。


 所詮、行きつく先は変わらないのだから何をしたところで仕方がないではないか、と。

 

 だけど、それはただ怖がっているだけだった。


 一度暴走気味に無茶をして倒れてしまったというだけで私はすっかり怯えてしまい、自分は無力でダメな人間なのだと絶望し、挫折した。


 その挫折が私に自身の手首を切らせ、血を流させた。


 あの杭の突き刺さる白い夢が暗示しているとおり、どうせ何をやっても私はダメなんだ、私には何もできはしないんだとはじめから諦めさせた。


 ずっと杭から離れるのが怖かった。


 また歩き出そうとしても結局振り返ればそこに杭がある。


 私と杭とは永遠に縄で繋がっていて私はどこにも行けないのだという現実を見るのが怖かった。


 その揺るがない現実を見た後に振り上げられたナイフは、今度こそ本当に私の命を全てシーツの上へと流しつくしてしまうかもしれない……そうだ、それならば現実を見なければいいではないか。

 

 だから私はあの時、血を受け入れた。


 いや、受け入れたのだと思い込むことにした。


 とにかくすべてを血だとか運命だとか遺伝だとか、父だとか母だとか他の誰かや何かのせいにしてしまうことで、自分の無力さや平凡さや弱さなどの現実を見なくて済む。


 私のせいじゃない、全部外から別の力が働いて私をダメにしてしまったんだ。


 そうだ、そうに違いない、私はなにも悪くはない。

 

 このままではいけないと思いつつも、どうにも勇気がでない。


 何かのせいにしてはいけないとわかっているのに、それがやめられない……。


 私の心は長くそんな背反性にもがき苦しんでいた。


 昔の外国の文豪が好んで描いたような生と死、純情と不純などの激しい背反性と比べてしまうと、私の抱え込んだ悩みなんてどれほど陳腐なものかと笑われてしまうかもしれない。


 だけど、この背反性という精神的板挟みの辛さや深刻さは、抱えた当人にしかわからないと思う。


 勇気を持って一歩踏み出せ、もっと頑張ってみろ……。


 言葉をかけるのは簡単だ。

 理屈を説くのは簡単だ。


 だけど、その何気ない言葉が本当に重たいプレッシャーになってのしかかってくるし、一言一言がどんどん私を追い詰めていく。


 わかっている。

 全部わかっている。


 わかっているうえで私は何もできないでいる。

 

 だからこそ苦しんでいる。

 だからこそもがいている。


 そしてまた私は立ち尽くす。

 

 怖くてその一歩が踏み出せない。

 怖くて頑張る勇気が萎えしぼむ。


 結局、私は何もできない。

 私には何一つできやしない。

 

 それでも、このままではいけないことはわかっている。

 そしてまた私は苦しみ、もがき、立ち尽くす……。


 背反性はこのように永遠に抜け出すことのできない無限ループを繰り返し描いて回り続け、私の中でその熱量や力を徐々に徐々に増していく。


 そしてその熱は私を溶かしていく。


 その力は私を蝕んでいく。

 背反性、自己矛盾というものは決して固定されたり限定されたりしたものではなく、放っておけば幾らでも増えていく雑草のように、勝手気ままに際限なく膨張していくものなのだ。


 やがては私という極々矮小な存在くらい容易く押し潰してしまうくらいまでに、とても大きく、とても強大に……。


 わかっている。

 全部わかっているんだ。


 頑張れ、勇気を持て……ミサキが何度も私に言ってきた言葉だ。


 私が何を具体的に話したわけでもないというのに、彼女は私が何かに怯えて縮こまっていることに感づいているようだった。


 感づいているうえでミサキは容赦なく私に厳しい言葉をかけ続けた。


 私に相当なプレッシャーがかかっていることももちろん承知しているだろう。


 私をとことん追い詰めていることも知っているのだろう。


 だけど、ミサキはそれでも私を厳しく叱咤した。

 

 何度も何度もめげずに声を掛けて励ました。


 そこに私への確かな友情や愛情があることもわかっていたし、彼女がいつまでも中途半端な私に苛立ち、そして何よりも真剣に心配してくれていたのもわかっていた。


 背反性の輪から抜け出すんだ、自己矛盾の膨張を止めるんだ、私の耳には彼女の言葉が確かにそう聞こえていた。


 ただじゃれつきたくて纏わりついていった小さな私にミサキが勇気をもらったというのと同じように、いや、それよりももっとわかりやすい形でもってミサキは私に勇気をくれようとしていた。


 その彼女の想いに私はどう応えてきただろう?


 そう、適当に話を逸らしたり冗談でかわしたりしてミサキの想いを踏みにじってきてばかりだった。


 どれだけミサキが私のために尽くしてくれても、私の足は相も変わらず動こうとはしなかった。


 ……ごめんね、ミサキ。


 小さくても勇ましいあなたの勇者はもうどこにもいなくなってしまったの。


 

 汗をかいた缶から幾筋か水滴が垂れて閉じた目頭に溜り、そしてそのまま頬を伝って流れた。


 端から見れば自分の心の闇と向き合って感極まり、思わず涙が零れてしまったというふうに映えて見えるのだろうけれど、残念ながら私はそう簡単に泣いたりしない。


 涙が色々な面倒なことを巻き込んで一緒に洗い流してくれるというのなら、私の心はとっくに救われていていいはずだった。


 もう涙なんてでない。

 

 誰の喉も自分の心でさえも潤すことがないまま、私の涙の泉は遥か大昔に干上がってしまっていた。

 

 私は目を開けた。そこには缶の底のふちと白い天井と灯りの消された蛍光灯が数本並んでいるのが見えた。


 ありきたりな缶の底と天井と蛍光灯だ。


 入手困難なサイダーとはいえ缶は缶であったし、灯ることができない役不足から幾分不服そうにしてはいるけれど蛍光灯にも特に変わり映えはなかった。


 だけど、確かに何かが変わりそうだった。


 何かが私の中で少しずつ変わり始めていくような予感があった。


 ミサキの想いが通じたのかもしれない。


 潤沢な部屋の日当たりのせいかもしれない。


 大家さんの死が、隆司の入院が、母のささやかなロマンスが関係しているのかもしれない。


 あともう少し、ホントにもう少し、あとほんの少しなんだよ、蛍光灯くん……あと少し……。

 


 ***



 「月曜日にもう一度検査してオッケーが出たらギプス取っていいってさ」


 私が病室に戻るや否や、すでに検査が終わってベッドに寝ていた隆司は何やら得意そうな調子でそう言った。


 まあ、確かに全治一か月というお医者さんの診断にも関わらず、まさか二週間目でギプスが取れるだなんて素人の私の目から見ても驚異的な回復力だ。


 やっぱり若さとしっかりとした摂生、そして隆司自身の生命力の強さの賜なのだろう。


 か細くて病弱で、いつも不安げに私の後ろに隠れていたような弟はもうどこにもいなくなってしまった。


 「あーようやくこの生活から解放されるなぁ」


 「それはこっちのセリフ。毎日、誰かさんの可愛いパンツを運ぶためにせっせと坂道を上る生活からやっと解放されるんだから」


 「可愛いくなんかねーよ、別に普通だよ」


 そう言って顔を赤らめる隆司はやっぱりまだまだあの頃のままの可愛い弟くんだ。


 「それにしても、いつも散々私にはいい歳して男がいないだとかなんだとか馬鹿にしてたくせに、この二週間、女の子どころか男友達の一人もお見舞いに来なかったじゃない」


 「そりゃ、男も女も関係なく友達の誰にも入院のことは知らせてねーもん。あいつらのことだからお見舞いとか言いながらどやどや押しかけてきて騒ぐに決まってるからな。他の人達に迷惑がかかっちまう」


 「偉い偉い、タカシもちゃんと他人様のことにまで気が回せるくらい大人になったんだね。私はてっきり相も変わらず友達がいないんだと思ってまた声を掛けて回ろうかと思ってたんだよ」


 「ふん、おあいにく様だったな、もうその嘘の裏はとったぞ。実は小学校の頃の同級生がこの病院で看護学校の研修をしていたんだ。んで、その子からちゃんと聞いておいた」


 「うん、マキちゃんでしょ?私もこの前声かけられてビックリしちゃった。元から可愛い顔してたけれど、やっぱり美人に育ったよね」


 「え?なんでねーちゃんがマキちゃんのこと知ってるんだよ?」


 隆司の顔が少しだけ不安そうに曇った。


 「知ってるも何もあちら様の方が私のことを覚えていてくれたみたいで、タカシがここに入院してるって言ったら驚いてたよ。同じ病院の中で研修しているとはいえあの子はずっと内科病棟……内科と外科ではまるでセクションが違うから顔を合わせなかったみたい。特に内科的な持病もない生粋の外科患者のあんただから尚更のことね」


 「そうじゃなくて、なんで小学校の時のマキちゃんを知ってんだよ?」


 隆司の顔の半分が不安で占められた。


 「それにも関わらず、ここに顔を出してくれたってことは、まだあの時の私のお願いを律義に覚えてくれていたんだろうね。ホントにマキちゃんって優しくていい子」


 「え?……じゃあ、やっぱり……え?」


 隆司の顔色がまるで内科的病気の入院患者のように蒼白くなった。


 「あ、噂をすればなんとやらってやつね」


 「あ、お姉さん。こんにちは」


 そう言って病室に入ってきたのは噂のマキちゃんだ。


 健康そうな黒い髪を後ろで束ね、真新しい白衣とエプロンを着ている姿は隆司と同い年だとは思えない程に大人びていたけれど、よくよく顔を見れば、昔、バレンタインの日に恥ずかしさで耳まで真っ赤にしながら隆司に手作りチョコを持ってきた頃のあどけない面影がまだまだそこには残っていた。


 『ごめんね、タカシのやつ今友達とサッカーしに行っていないんだ』


 と言った私の言葉に、打ちひしがれたようにへなへなとその場で膝から崩れ落ちた女の子の顔を私はハッキリと覚えていた。


 相当な覚悟と勇気を振りしぼって私たちの家のチャイムを鳴らしたに違いないのに、当の隆司が不在だということで一気に力が抜けてしまったのだろう。


 母が気の毒に思ってしばらく茶の間に上げ、ジュースを飲みながら三人で隆司の帰りを待ったのだけれど、そういう時に限って隆司は全然帰って来ず、彼女の方で門限があるからというので結局直接渡せずじまいで終わってしまった。


 その夜、同じ女として私と母がせめてもの償いとしてマキちゃんの気持ちをそれとなく、なおかつかなり熱っぽく説いてやったのだけれど、色気もへったくりも持っていなかった隆司はまったくピンときている様子はなく、私たちの言葉を適当に聞き流してさっさと眠ってしまった。


 あの調子ならばきっと次の日も何一つちゃんとしたお礼や返事をしなかったのだろう。


 ……さっきの冗談は全女性の敵であるような鈍感馬鹿男に私が代表して復讐してやったまでのことだ。


 「研修はもう終わり?」


 と私はマキちゃんに聞いた。


 「いえ、まだちょっと……少しだけ時間が空いたのでタカシくんの様子はどうなのかなって気になって」


 そう言って俯いて恥らう彼女の気持ちはどうやらあの頃のまま、変わらずに残っているようだった。


 「ちょうどよかった、ねえ、マキちゃん」


 あの頃のままで一向に変わらず鈍感な隆司が神妙そうな顔をした。


 「はい?」


 「本当のところを言ってほしいんだけど」


 「……はい」


 「マキちゃんは俺のことをどう思ってるんだ?」


 「え……あ……え……?」


 「俺のこと嫌いか?」


 「え……あ……あの……好きです」


 「本当に?」


 「……はい……昔からタカシくんのことが大好きでした」


 「ほらみろ、ねーちゃん、マキちゃん昔から俺のこと大好きだってさ。……え?」


 「さてさて、そろそろお邪魔な小姑は帰りますかね」そう言って腰かけていた椅子から立ち上がった私を二人が助け船を求めるように同時に見てきたので「ごゆっくり」


 と言ってニッコリ笑い掛けてあげた。


 天使のスマイルとまではいかないと思うけれど、ようやく私はマキちゃんの恋のキューピッドになれたのかもしれない。


 病室を出る間際に振り返ってみると、見ているこちらの方がなんともむず痒くて身悶えしてしまいそうになるほどに初々しい男女が互いにもじもじとし合っていた。


 このままあそこに座っていたら、きっと私までそのもじもじに巻き込まれて席を立つタイミングを逃してしまっていたことだろう。


 ……九死に一生を得たような気分だった。


 

 さてさて……うっすら暮れはじめた遠くの空を見上げ、そして腕時計の時刻を確認すると、そろそろ夕日が私の部屋に差し込もうかという時間が迫っていた。


 それもまた、私が変われそうな予感を存分に秘めた物事の一つだった。


 もう少し……あともう少し……なんだよ……私……。

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