☂・ミスター・レインマン(Ⅳ)

      ☂


 「開けてもいい?」


 「ええ、どうぞ。気に入ってくれるといいんだけど」

 

 ミスター・レインマンが彼女から誕生日のプレゼントとして手渡された包みを開けてみると、高価そうな桐の木箱が姿を現した。


 「これはなかなかいい仕事をしている。匠の確かな腕とこだわりがひしひしと伝わってくるね。ほら、この辺りのヤスリのかけ具合だったり、焼印の焦がし加減だったり……」


 「冗談はいいから早く開けて」


 彼女は呆れたように言った。


 「僕は昔、性悪の魔女から呪いをかけられてしまって冗談しか言えない口になってしまったんだ」


 「きっと、その魔女はあなたにフラれちゃったのね?」


 「そうなんだ。僕には将来、誕生日に素敵な桐の箱をプレゼントしてくれる素敵な女性と運命的な出会いを果たす予定になってるから、あなたとは付き合えません、ごめんなさい、ってね。なるべく丁寧に断ったつもりだったんだけど、まさかその時は魔女だったとは思わなかったもんな」


 「どうすれば呪いはとけるのかしら?」


 「たぶん、お姫様のキスとかじゃないかな?」


 そう言って彼は箱を開けた。


 美しい彫刻が施された青いガラス瓶に入った香水だった。


 「それをつけて舞踏会に行けば、きっと、お姫様だってメロメロになってキスくらいしてくれるわよ。嗅いでみて」


 彼女は箱の中から瓶を取り出し、彼の手首をとってスプレーした。


 「これは……石鹸?いい香りだ」


 「いいでしょ?オリジナルで調合してもらったの。あなたをイメージしながらね」


 「うん、すごくいいよ。ありがとう、気に入った。だけど僕の方が骨抜きにされちゃったみたいだよ、お姫様」

 

 そしてミスター・レインマンは呪いさえも溶かしてしまいそうな、優雅な仕草で彼女に口づけをした。

 

       ☂



 何かの二次会か三次会かに店にやって来た男女数人のグループの中に彼女はいた。


 もはやデキあがっている皆に比べ、彼女だけは一人鬱々としているように見えた。飲み方もひどく、勢いよく酒を煽るほどに浮かない表情がより蒼白く、より固く強張っていき、それが気に食わないので更に酒を飲み下してはまた嫌な気持ちになる、そんな危険な飲み方だ。


 ミスター・レインマンはどことなく気になり、隙を見て彼女に声を掛けてみることにした。音もなく降り始めた真夜中の雨のように、実にさりげなく。

 

 「それ以上はお身体に触ります」


 うつむき加減で座っていた彼女の目線まで身を屈めて彼はにこやかにそう言った。


 「失礼ですが、お加減があまりよろしくないのではありませんか?カウンターの裏手に従業員用の休憩室があります。ほとほと殺風景で決して心温まる場所ではありませんが、少なくとも横になって休むことだけは辛うじてできます。遠慮せずにお使いになって下さい」

 

 彼女はグラスに注ぎかけたウイスキーの手をピタリと止めて青年の方を見返した。


 確かに相当酔いが回っている様子で、具合はあまり芳しくはなさそうだった。


 しかし、青年を見つめ返すその瞳だけが異様なほどに熱を帯びて煌めき、彼はそこに燃え盛る生命の火のたぎりが見えたような気がした。


 断固とした生への情熱だ。


 その目と対峙した瞬間、ミスター・レインマンの心にこれまで味わったことのない種類の感情が稲光のように刹那的に閃いた。


 彼は自身の身体の全ての毛穴が一斉に粟立っていくのがわかった。


 文字通り、雷にでも打たれたかのような感覚だった。

 

 どれ位そうやって見つめ合っていただろう。


 おそらくほんの数秒間の出来事であったはずなのだが、片や当惑気味に、片や熱情的に佇む二人の間には、時間や空間などの概念を越えた特別な何かが流れていた。


 当人たちにしかわからない、しかし当人たちにも決してわかりえない特別な何かが。

 

 均衡を破ったのは彼女だった。


 彼女の眉間の辺りがにわかにピクリと動き、やがてその微動が波紋のようにゆっくりと顔全体に広がって満ちていった。


 彼女はおもいきり顔をしかめたのだ。


 蒼白な顔色は相変わらずだったのだが、両頬の辺りだけがその中で場違いな程に紅潮し、ぎらついた瞳は一段と熱を増した。


 彼女は怒っているようであった。


 そしてその怒りがどうやら自分に宛てられたものであるらしいことを察したミスター・レインマンが何かを言う暇もなく、彼女は不意にすっくと立ち上がり、そのまま早足で店の外へと出ていってしまった。


 彼女が一人先に帰ってしまったことを、連れのグループの人達も店の従業員も誰一人気がつくことはなかった。


 ただミスター・レインマンだけが呆然と彼女の座っていたソファーのへこみを、この世界に生じた新たな空白を淋しげに見つめているばかりであった。

      

 

 ―― 自分の何が彼女の気に障ったのだろう? ――

 

 交わした言葉や話しかけたタイミング、その時自分が浮かべていたであろう表情……。


 考えれば考えただけミスター・レインマンは自分がどこで間違いを犯したのかわからなくなった。


 そしてわからなくなっただけまた考えた。


 底なしのぬかるみに足を取られてしまった荷馬車のように、もがくほどに思考の蹄も情緒の車輪もすべて混乱の生温い泥の深みへと吞まれていった。


 救い出してくれるはずの主人は当に逃げ出してしまったし、積み荷はあまりにも重すぎた。

 

 その後の数日、そんな風に頭の中はとにかく彼女のことでいっぱいで、仕事がまともに手に付かなかった。


 普段の彼では考えられないような単純なミスを何度も繰り返し、精細を欠いた。


 彼の陽気さは少しだけくぐもった。


 それに呼応したのかしなかったのか、この時の数日間、終日空は厚みのある暗い曇天が支配した。

 

 彼の胸の中の黒雲など露知らず、あらゆる面で完璧すぎるミスター・レインマンでもミスをすることがあるというのがわかって、彼のファンの女性達は一様に「可愛い」と声を揃えたし、常連客やホステスたちはそれをネタにして大いに盛り上がっていた。


 

 「『弘法筆の誤り』『猿も木から落ちる』『河童の川流れ』なんて同じような意味のことわざは多いけど、新しく『タケシちゃんもたまに間違う』なんてのも追加したいところだね」


 「なにそれぇ、センスないよ、ハギワラさん」


 「そうだな、せめてもうちょっとリズミカルで、なおかつ情緒的で叙情的で、言葉のセンテンスとコントラストを……」


 「じゃあ、そういうカワサキさんならどんなふうにいうの?」


 「私か?……ううん……不惑の男にも……いや、完全無欠の……違うな……無欠たる……無欠の……」


 「『無敵のオケツには無欠の穴がある』」


 「あ、それリズム的にサイコ―」


 「それじゃあただの早口言葉じゃないか」


 「いや、早口言葉にもなってないでしょ」


 「それに無敵でも無敵じゃなくても、だいたい人の尻には穴がある。別に無欠ってほど立派なものではないだろうけれど」


 「カワサキさん、お医者さんってみんなそんなに理屈っぽいの?別に意味なんかないんだよ」


 「その通り、意味なんかない。じゃあ、隣の竹垣に竹を立て掛けたかったってのはなんなんだ?どんな意味がある?そもそも隣人の許可はちゃんととったのか?『すいません、お宅の竹垣に竹を立て掛けてもよろしいでしょうか?……いえいえ、特に意味はないんです。ただ、竹を立て掛けたいだけなんですよ、はい』なんて突然言われても困っちまう。俺からすりゃ、そんなおかしな奴が隣に住んでると思うだけでゾッとして引っ越しちゃうね」


 「……竹、竹ってよくまぁつっかえずに言えるもんだね、ハギワラさん」


 「カワサキさん、誰にでも特技ってのがあるんだよ」


 と、言った具合に。



 ただ、ママだけは違った。


 「具合が良くないならいいんだよ、無理をして出なくても」


 息子の様子がおかしいのが数日続き、堪らずママは彼の体調を気遣ってそう言った。


 「今時期は大した忙しいわけでもないからさ、あんたの一人や二人いなくたって大丈夫だから」


 「すいません、最近ちょっと続けて夜更かしをして長い小説を読んでいたせいですね。大丈夫です、心配ありませんよ、閣下。名誉挽回、一生懸命働きますから」


 そう言ってミスター・レインマンは相も変わらず魅惑的な微笑みを浮かべて仕事を続けた。

 

 その魅力の値がほんの少しではあるけれど確かに降格していたのを、ママは見逃さなかった。


 幼き頃から彼のことを常に一番に考えて注意深く見守り続けてきたママだからこそわかる、本当に微妙な変化だった。


 面倒なことを抱え込んでいなければいいのだけれど。


 「こんにちは」


  開店準備を一人で黙々とこなしているミスター・レインマンの背中に、彼女がそう声を掛けた時の彼の驚きと言ったらなかった。


 それもそのまま店内に入ってきて彼の方に近づくや否や「ごめんなさい」と、いきなり頭を下げて謝るではないか。


 最初、ミスター・レインマンは妄想のし過ぎで幻覚でも現れたのだろうかと思わず訝ってしまった。


 「本当にごめんなさい。あの日嫌なことがあったばかりでとても気が滅入っていたの。そこにあなたが優しく声を掛けてくれたものだからなんだか涙が出ちゃいそうで……。私、誰かに泣いているところを見られるのが我慢ならないのよ。でもね、あなたにすごく悪いことしたなってずっと気になっていたの。今更遅いかもしれないけれど、あの時は本当にありがとう」


 そして彼女はもう一度深々と頭を下げた。


 「……いえ、こちらこそ出過ぎた真似をしてしまいまして。もうお加減はよろしいんですか?」


 「ええ、おかげさまで絶好調よ。毎日、嫌なことは何かとあるけれど、あの日以来お酒の類は一切口にしてないわ。だって、あなたみたいに親切に止めてくれる人がそばにいてくれるところで飲まないと、そのうちお酒で溺れ死んじゃいそうだから」


 「そんなに嫌なことばかりなんですか?」


 ミスター・レインマンは楽しそうに笑っていった。しばらくなりを潜めていた最上級クラスの笑みだ。


 「……そう、だからといって毎日ここに通う訳にもいかないものね」


 彼女は急に頬を赤らめて顔を伏せた。

 

 それを見てミスター・レインマンも何故だか気恥ずかしさが込み上げてきた。


 心臓が誰かの見えない手で軽く握られ、少しだけ締め付けられたような微かな苦しさを胸に感じた。


 しかし、決して不愉快な苦しさではないのを彼は不思議に思った。


 「よければ、僕が通います」


 「え?」


 彼女は驚いて顔を上げた。


 「え?」


 そして彼の方では自分の言った言葉にもっと驚いた様子だった。


 「……毎日よ?」


 「……ええ」


 「……他の女の子と掛け持ちされるのは嫌よ」


 「……たぶん、大丈夫です」


 「たぶんなの?」


 そして彼女は心から愉快そうに笑った。

 

 彼女は彼よりも四歳年上の二十五歳で名前は晴子はること言った。


 その名の通り、ミスター・レインマンの心を幾日かぶりに温かな日差しが照らした。


 どうやら自分が彼女に恋をしてしまったらしいことを彼はこの時はっきりと自覚した。


 



 恋心というものが一体どういう感情のことを指すのかよくわからなかった。


 それが愛情というものの仲間かその変形したものだということと、その成り立ちみたいなもの自体はなんとなくわかっていた。


 しかしながら、どうにもそれだけではいまひとつピンとは来なかった。


 それとなく客や従業員などに聞いてみたことはあったのだが……。


 「恋は性欲だ」と言う人がいれば。

 「アタシはお金に恋をする」と言った人。

 「恋は春の芽吹き」だと言った人もいた。


 とにかく、聞く人聞く人それぞれ恋というものの対象が人であったり物であったり、精神であったり肉体であったり情緒的であったり叙情的であったりして、ミスター・レインマンの良く回る頭でも収拾不可能な程にひどい混乱のカオスを生んでしまうばかりで、結局、役には立たなかった。

 

 もしも、恋が本当に愛情から来るものであるならば、彼には恋とは本当に恐ろしいものだった。


 愛情……それは彼にとって絶対的でなければいけないものだというのに、決して絶対的なものにはなりえないという、パラドックス的な趣を持った、いささかややこしい問題にまで発展してしまった。

 

 ミスター・レインマンはすでに、愛情は不変のものではないということを実の母親の仕打ちから証明していた。


 彼は愛情というものにトラウマを持っていた。


 なにせ最愛の人であった母親に、少年にとって絶対無二の存在であった母親に、己の全てを捧げて愛したその人に、想いをあっさりと踏みにじられてしまった経験があったのだ。


 幼い頃の記憶がこんなふうに影響してこようとは彼も思ってもみなかった。


 ミスター・レインマンはどうしても愛情というものが信じられなかった。

 

 確かにママとの間に交わされているのは愛情だった。


 ママは本当に何かと自分のことを気遣ってくれる。


 自分も思考の二言目には何かとママのことが気にかかってしまう。


 ママはきっと息子のためなら幾らでも自分の身を犠牲にするだろうし、自分もきっとママのためなら命だって簡単に投げ出すことができるだろう。


 それを愛情と呼ばずに何と呼べばいいのだ。

 

 しかし二人のその愛情の隙間に、僅かではあるが、遠慮や気後れが入り込んでしまっていることを、彼も、そしてママの方でもわかっていた。


 ママは彼の前では決して弱いところを見せなかった。


 自分が弱くなってしまえばミスター・レインマンが心配をしてしまう、だから弱さをグッと抑えていつでも気丈に振る舞っていた。


 彼の方でもそれはまったく一緒で、ママから気遣われる度に、何も問題はない、いつも通りのミスター・レインマンだよ、というメッセージを込めて、にこやかに笑っていた。


 本当に無味で無臭で無色で無害であって、空気よりもまだ薄く、殆どないと言ってもいいようなものなのだが、それでもそれは間違いなく隔たりだった。


 互いへの過剰な心遣いが、結果二人の心の間を完全に完璧に分けてしまう隔たりを作ってしまったわけだ。


 もちろん、普段の生活には一切影響はしないし、二人の関係はこの先いつまでも末永く良好であるはずだ。


 そこらあたりの血の繋がった母子よりもよっぽど互いの絆は深いものであった。

 

 しかし、それでもミスター・レインマンは隔たりのない愛情というものを心のどこかで求めていた。


 母親との思い出は辛いものでしかなかったが、そう思ったあとにすぐさま悪いことばかりではなかったと擁護している自分もいて、彼はひどく戸惑いを覚えた。


 客観的にみれば、その結末は悲惨なものであるのかもしれない。


 どれほど当人が庇ってみたところで、やはり母親のしたことは許されざる大罪であるのかもしれない。


 でも、確かにそこには本物の愛があった。


 母と二人きりで過ごした八年間、ミスター・レインマンはなんの遠慮も気後れも隔たりもない、ありのままの愛情を母に捧げていた。


 その愛のことを思う時、心が芯の根元から温まってくるような気がした。


 申し訳ないが、ママとの間では決して味わうことができない種類の特別な幸福感だった。


 そして母だって自分のことを同じように同じだけ愛してくれていたはずだと彼は信じていた。


 もし彼女の心に自分への愛情がなければ、どうして自殺なんてしなければならなかったのだろう?


 置き去りにした我が子に愛情があればこそ、良心の呵責に耐えかねて自らを死に追いやってしまったのだと思った。


 そう、思おうとしていた。

 

 このように、絶対ではなかった愛に傷つけられた心は、愛は絶対であって欲しいと切に願い続けていた。


 その背反性に延々と苦しむミスター・レインマンが、簡単に恋になど落ちるはずがなかった。


 学生時代、そして社会人になった現在でも女性から(稀に男性から)愛を告白される機会は過分に多かったが、彼はそのどれもを温和に断ってきた。


 彼女達が打ち明けてくる愛情が信じられなかった。


 もちろん重々しく、鬼気迫る真剣な様子で愛を打ち明けてくる人もいた。


 その愛は確かに本物であるのだろうことは彼にも感じ取ることができた。


 しかし、やはりそんな愛でさえも、やがては薄れ、そして消えてしまうのだろうと信じることができず、ミスター・レインマンは静かに首をふるしかなかった。


 彼がもう少しシンプルに性欲やお金に恋をし、春の芽吹きに対して素直に歓喜できる詩人であったのなら、ちょうど彼が今読んでいた古いフランスの恋愛小説のそれよりももっと愛憎交々とした物語の主人公になれたかもしれない。


 そういうわけで晴子への想いが恋であるという確信は正直抱けなかった。


 しかし、それでもミスター・レインマンは彼女のことを考えると心の芯から温まったし、彼女の隣で言葉を交わすと幸福な気持ちになれた。


 そんな相手に巡り合えたのは母親以来であった。


 そしてもはや母親以上に大きな存在になったと言えるだろう。


 彼女の何が他の多くの人達と違うのか、何がそこまで自分を惹きつけてやまないのか、まだ具体的なものは何もなく、手放しでこの想いを信じることはできそうになかったが、それでもとにかく、彼は彼女と一緒にいたかった。

 

 毎日というのは方便だったが、それから二人は頻繁に店の外で会うようになった。


 食事をしたり、買い物に出掛けたり、映画を観たり、何度もデートを繰り返した。そしてとにかくたくさんの話をした。


 自分をもっと知ってほしかった。

 相手をもっと知りたかった。


 知ってみれば、彼は彼女が思っていたほどチャラついた男ではなかったし、彼女は彼が思っていたほど棘のある女性ではなかった。


 彼は雨降りに関するとっておきの話を披露し、彼女は晴れ空と二匹のシマリスが主人公の美しいお伽話を物語った。


 彼らはとても気が合うようで、話題に事欠くという心配がなかった。


 二人は延々と語り合うことができた。


 そして積み重ねた言葉と過ごした時間の数だけミスター・レインマンは彼女への想いをより確かなものにしていった。


 彼はこんなに楽しいことがこの世にあったのかと、とても満ち足りた日々を過ごした。


 恋に恋い焦がれるミスター・レインマンは、身も心も、そして一対の青い瞳も日に日に美しさが増していくようで、もはや彼は笑い声一つで太陽のように世界中を隈なく照らすことができるのではないかという程の輝きを放っていた。


 

 しかし、彼の名前は雨男……。どこまで行ってもミスター・レインマンはミスター・レインマンにしかなれなかった。


 

      ☂


 二人はその日、遅めの昼食を済ませた後、近所の小さな自然公園で催されている『南国の草花万博』なるものを観に来ていた。


 万博と謳うだけあって確かに南半球の各地から多くの珍しい草花が集まっているようだったのだが、いかんせん器である公園の規模が少々狭かった。


 それらの希少な草花は故郷の国を思わせる真夏の強い日差しが降り注ぐ中、窮屈なスペースで互いの個性や魅力をぶつけ合いながらそれでも人々に素敵な笑顔の花弁を懸命に向けていた。


 まとまりを欠いた多国籍な香りが空間いっぱいに満ち満ちた。


 彼女がいつもより過分に舌を滑らせたのは、そんな密なところで濃縮されて立ち込めた強い花の芳香に心のヒダをくすぐられたせいなのかもしれない。

 

 そう、その日は終始、晴子が会話をリードした。


 公園に着くまでも花を観て回っている最中も、そして歩き疲れて腰を下ろしたベンチに座っても、彼女のお喋りは止まらなかった。


 勤めている会社の話、偶然知り合った浮世離れした生活を送る人の話、テレビで観た新しいダイエット法の話、花の話、犬の話……。


 ミスター・レインマンは晴子が息つく間もなく物語る話のすべてに耳を貸し、律儀に相槌を挟みながらも、彼女のいつもとは少し雰囲気が違う様子を心配していた。


 彼が離れたところにあった自動販売機で冷たい清涼飲料を買って戻って来ると、晴子は先ほどまでの異常とも言える快活さを潜め、神妙な様子で俯いてベンチに座っていた。


 「こんな暑さだっていうのに、未だに甘酒とコーンポタージュがラインナップに揃えてあったよ。さすがに売り切れって表示が出てたから補充はしていないんだろうけど、あの『あったかい』の赤いラベルを見ちゃうだけでクラクラしちゃうね、真面目な話」


 「私は雨女」


 彼女は彼の軽口など取り合わず、突然そんなふうに話しを切り出した。


 私は雨女……まるでこれから美しく洗練された叙事詩の朗読が始まるかのようだった。


 きっと晴子は、今日これから語ろうとしている話をしたいがために延々としゃべり続けていたのだろうと、ミスター・レインマンは思った。


 話の糸口やきっかけを掴む取っ掛かりのようなものを探しながら、心の準備をしながら、いっそ話さないで済むならそうあって欲しいと思いながら先に先にと延ばすようにして。

 

 晴子は大きく息をついて目を瞑った。


 彼女が何か大事な秘密を打ち明けようとしていること。

 同時にそんなもの二度とは口にしたくないと思っていること。


 勇気が背中を押していること。

 臆病がそれを押し戻していること。


 彼を信じてみようとしていること。

 他人など信じられるわけがないと思っていること……。


 ミスター・レインマンは彼女の内側で巻き起こる激しい葛藤の嵐をその青く澄んだ瞳で見出すことができた。


 彼女の気持ちが手に取るようにわかった。


 それは鈍い痛みであり、深い哀しみであり、当てどのない憎しみであった。


 彼女の心はそんな日差しを遮る厚い曇天の中で冷えて凝り固まってしまっていた。雨はしんしんと、されど間断なく降り続いていた。

 

 ミスター・レインマンは膝の上で固く握られた晴子の拳をそっと両手で包みこみ、そして閉じられたままの彼女の瞼をじっと見つめた。


 決して物言わぬ手のひらと視線であったのだが、それでも彼の想いを伝えるのにはこれ以上に饒舌なものはなかった。


 そこには濁り一つない純粋な慈愛が存分に添えられていた。


 一瞬思わずピクリと身震いをしたが、彼女は自分の中に心地よい何かが優しく満ちていくのを確かに感じた。


 ……この人はなんと温かな手をしているのだろう。


 「……私の兄は人を殺したの」


 彼女はゆっくりと目を見開き、絶え間なく注がれ続けている彼の視線をすり抜けるようにして空を見上げ、ミスター・レインマンも彼女の見上げる空を真っ直ぐに見つめてみた。


 そこには薄ら雲一つない見事な夏空が広がっていた。


 しかし、彼にはどうしても彼女と同じものを見ているという自信が持てなかった。


 「私には六歳離れた兄がいた。とにかく根っから軽薄な男だった。勉強もクラブ活動も習い事もすべてが中途半端、少し壁に当たったり面倒くさくなったりしたらもうダメで、すぐに放り投げてしまうような人だった。壁を乗り越えたり面倒事を根気強く処理することで人は成長していくんだっていうことを、あの人はわからなかった。いかに要領よく楽をして生きていくか、どうすれば努力をしないで済むのかということばかり一生懸命に考えていたわ。外面と口先だけは良かったから、周りの人にはずいぶん可愛がられてね……小さな時からそんな兄のことが嫌いだった。ううん、本当は好きになりたかった。だってたった一人の血の繋がった兄だもの、私なりに好きになろうって努力はしたの。だけど、知れば知るほど、兄の軽薄さと甘さに虫唾が走った。六歳も下の小さな女の子にそう思われてしまうのよ?その人間的な薄っぺらさがどれくらいのものだったか想像できるでしょ?そして私が小学三年生、兄が中学三年生の夏休みだった。兄は人を殺したの……」

       

        ☂


 思春期と軽薄な性格は随分と相性が良かったようで、その頃、晴子の兄は不良の真似事をして色々と問題を起こしては皆を困らせていた。


 問題と言ってもそれほど大仰なことをしたわけではない。


 壁にスプレーで落書きをしたり、教師の車にイタズラをしたり、ピアスの穴を開けたり、髪を染めたり、カツアゲをしてみたり……そうやって見た目や息巻いた言葉だけは一丁前ではあったが、相変わらず中身は伴っていなかった。


 その瞬間その瞬間が楽しければそれで良かった。


 重たいものや大変そうなものを避けて通りながら進んで行けば、人生を楽しく生きていくことは割と簡単で、そうしないで説教ばかりたれる大人や優等生ぶってせっせと受験勉強に励むようなやつらは、きっとそういう生き方を見つけられない救いようのないバカなのだと思っていた。


 自分はあいらとは違う、自分は有意義な人生を謳歌している特別な人間なのだと誇らしげに胸を張り、肩をいからせて歩いていた。

 

 その日は、日頃からつるんでいる仲間の家の車を持ち出し、遠くの大きな街へと女の子をナンパしに遠征していた。


 オートマの軽四であったし、運転するのはそれがはじめてというわけでもなかったので不安は微塵もなかった。


 他の仲間二人と乗り込んだ瞬間から期待と高揚で興奮は最高潮だった。


 彼らは若くて健康で軽薄だった。

 何も怖いものなどなかった。

 

 比較的大きな通りに出ると、ハンドルを握る晴子の兄はアクセルを一番下まで踏んだ。


 街中とはいえ見通しの良い直線道路、目視できる限りでは警察のパトカーもいなかったし、他の車も疎らにしか見えなかった。


 歩行者も自分達の車が近づく気配に気づいて車道から離れているのが確認できた。


 条件は揃っていた。


 極限までスピードを出して車内の盛り上がりにより拍車をかけ、今日という一夏の楽しい思い出により色彩豊かな華を添えようと考えたのだ。


 季節は夏で彼らは自由で何よりも軽薄だった。


 誰も彼らを止めることはできなかった。


 ……とある一人の女の子以外は。

 

 後ろの座席で騒ぐ仲間に気を取られていたせいで、女の子が横断歩道の真ん中付近に立っているのに気がつくのが遅れた。


 遠目から確認するには女の子はあまりに小さく、彼には見えなかったのだ。


 晴子の兄は慌ててブレーキを踏んだ。


 未熟な運転技術しか持たない十五歳の少年に、反射的にハンドルを切って避けようという冷静な判断が下せるはずもなかった。

 

 恐怖のあまり思わず目を瞑っていたため、彼はそれから何が起こったのかはよくわからなかった。


 目を閉じた暗闇の中で、何かを跳ね飛ばしたような音と衝撃があり、次の瞬間車がスピンをして回るような感覚があった。


 そして先程よりも強い衝撃と何かクッションのように柔らかな物が顔に激しく押し付けられる感触があって息が出来ず、意識が落ちた。


 それもどうやら一瞬だけだったようで、仲間の苦しそうなうめき声で目を覚まし、意識の覚醒と共に状況が見えてくると、どうやらあの強い衝撃は車が街路樹に頭から突っ込んだものだったらしいことがわかった。


 体のあちこちに重たげな鈍痛があったが、スピンをしたことでスピードが著しく緩み、エアバックの効果も働いてシートベルトをしていなくとも大事には至らなかったようだ。

 

 面倒なことになったなと思いながらも、とりあえず命があったことに安堵し、やれやれと言って彼はひしゃげたドアから外に出た。


 そう、一種のショック状態にあったためだろうか、この瞬間の彼の頭からは直前の記憶が一切欠落していた。


 自分が何をしたがために木に衝突することになったのか、最初に感じた衝撃はなんだったのか……。

 

 彼が車の外に出ると、無数の人だかりが道路の真ん中に集まって口々に何事か厳しい口調で言い合っているのが見えた。


 自分の方を指指さす人、非難めいた目で睨む人、険しい表情で向かってくる人がいた。


 晴子の兄はわけもわからずに、とりあえず防御本能として近づいてくる男性に殴りかかろうとして拳を振り上げたが、人だかりの方から上がった「あいつらが殺したんだ」という言葉にハッとして動きを止めた。


 そして一連の記憶が枯渇したはずの泉の底から一息に湧き出し、彼の頭をいっぱいに満たした。

 

 ―― 俺が……殺した? ――


 遠くから救急車のけたたましいサイレンの音が聞こえた。


 誰かに腕をとられた。誰かに地面に伏せられた。


 頬にあたるアスファルトが暑かった。

 

 人だかりの隙間から誰かが倒れているのが見えた。


 おびただしい量の血だまりが見えた。


 放心している女の子の顔が見えた。


 ……すべての光景は熱い日差しがアスファルトを焦がして作りだした真夏の陽炎の中で不安定に揺れていた。


       ☂

 

「……兄は三年間、少年院に入っていたわ。模範的で真面目で、職員の手を煩わせるようなことも一切なかったみたい。両親が面会に行った時の様子を聞いても、すっかり人が変わったみたいに大人しくなっていて、口に出す言葉と言えば反省や自責や懺悔しかなくて……母親なんて何だか痛ましい程だったっておいおい泣くのよ、信じられる?何をしようとも我が子の可愛さに変わりはないんだと思うけれど、そうやって可哀相だなんて同情して涙を流すのは、何か間違ったことだと私は思った。まるであれはたまたま起こった事故であって、兄はそこに偶然居合わせてしまった被害者なんだみたいに言ってるみたいだった……私、冷たいのかしら?」

 

 「いや……」


 ミスター・レインマンは他になんと答えていいものかわからなかった。

 

 彼女の口調は更に熱を帯びてきた。

 

 「私は一度も面会にはいかなかった。心から兄に呆れていたの。いくら軽い人間だったとはいえ、遊び感覚で車を運転した挙句に人を一人死なせてしまったのよ?改まって考えるまでもなく小学生の私にも簡単にわかりそうなものじゃない?もはや呆れを通り越して私は兄を軽蔑していた。そしてそんな人間と血を分けた兄妹だということに嫌悪感すら覚えていたし、兄を是認する両親も許せなかった。私の全身の血をそっくりそのまま入れ替えたいなんて本気で思ったこともあった。私はそんな人達と同じ人間にはなりたくない、同じ物なんて持っていたくないと思ったのね。……出院の日、兄を迎えに行ったはずの両親から強張った声で家に電話が入った。迎えに行ったけど兄がいない、朝早くに門を出てどこかに歩いて行ったらしい、入れ違いで家に帰っていないか?ってね。私の知らない間に帰って来てるのかもしれないと一度受話器を置き、一応家中を探してみたけどいなかった。戻ってそう言うと、電話の向こうでまた母が泣いているのがわかった。私は苦々しく思ってそのまま何も言わず、叩きつけるように電話を切った。また兄だ……迷惑ばかりかける兄が心配されたり構われたりしているのに、それを反面教師として見習って真面目にいい子をやってる私のことなんて殆ど気にかけてもくれない、そんな不公平に私はいつも苛立ちと寂しさを感じていたわ」

 

 ミスター・レインマンは握った彼女の手を更に力強く、そして優しさをこめて握った。


 ……彼女も自分と同様に、愛を強く求めながらも満たされないという幼少期を過ごしてきたのだ。


 彼女の辛さがまるで自分のことのように思われてならなかった。

 

 晴子は彼の気持ちに応えるように一言「ありがとう」と小さく呟いた。


 普段から表情にまで漏れ出ている強く気高い鉄の意志は幾分影を潜め、代わりにその横顔には淡い悲哀のようなものが浮かんでいた。


 「結局、兄は見つからなかった。ロクに確認もしないで兄を外に出してしまった刑務官は処分を受けた。責任を感じた少年院の職員、そして地元の警察にも要請してかなり大掛かりに兄の行方を捜索した。もしやと思って遺族のところに確認をとってみたけれど、立ち寄った様子はないとその息子さんは言った。……両親は気が触れんばかりだった。仕事も家事も放り出してあちこち探し回ったし、心当たりをしらみつぶしに当たった。さすがに私も心配はした。大嫌いだったし二度と顔を合わせたくはないと思っていたけど、さすがに死んだほうがいいとまでは思わなかったもんね」


 「そして、君はずっと孤独だったんだね?」

 

 「……ええ、そうね、孤独だった。そんな大げさな言葉、使いたくはないんだけど、あの時の私の周りには本当に誰もいなかった。心を許せる人はもちろん、心を許せないと思うような人たちだって傍にいなかった。……孤独って本来そういうことを言うものでしょ?」


 そう言って、彼女は力のない微笑みをミスター・レインマンに向けた。


 こんな哀しみに満ちた薄い笑いを、彼は昔、よく見ていたような覚えがあった。

 

 「兄が事故を起こしたすぐ後だった。両親が街にい辛いからと言って、私たちは他の場所に引っ越していた。誰も私たち家族のことを知らない、遠くの街へ」


 晴子の決して過去として昇華され切れていない物語は続く。

 

       ☂


 

 新しい街での生活に晴子はすぐに馴染むことができた。


 元々の気さくで明るい性格のために友達はすぐできたし、少しでも家族があの日から前に進んで行こうとしている感じを彼女は心地良く思っていた。


 私たちは新しくやり直すんだ、と。

 

 そして何事もなく三年が過ぎ、兄の失踪騒ぎにやきもきしていた夏休みが終わって晴子が学校に登校した時だった。


 最初は本当に些細な違和感だけだった。


 学校まで行く道すがら、教室に入った瞬間、授業中、休み時間、給食の時間……。


 どうにも皆の自分に対する態度がおかしかった。


 具体的にどうこういうわけではない。


 その場の雰囲気や交わす言葉の端々、友達のどこか居心地の悪そうにする様子など、物事のいちいちに不自然さが含まれているように感じた。

 

 別に気にしなければ気にならないような本当に些細な違和感だった。


 気を張ることばかりが続いた。

 それにちょうど女子特有の身体的な変化が色々と起こった頃だった。


 そういうものたちの集積が何かしら関係しているのだろう、自分が少しナーバスになっているだけなんだろうと彼女は思っていた。

 

 しかし、決定的なことが起きた。


 ある朝、いつも通りに晴子が登校してくると、靴箱に彼女の上履きがなかった。

 

 昨日の帰りに確かに入れたはずだった。


 彼女はもちろん首を傾げた。


 他の靴箱に間違えて入れてしまったのだろうかととりあえず辺りを探しても見つからず、いよいよ本格的に困ってきた。


 通りすがる他の生徒は興味深げに眺めて来るし、始業の時間も迫っていた。


 焦りは募れど一向に上靴は見つからない、どうしたものかと途方に暮れている晴子の背中に「○○ちゃんが隠してたよ……」と誰かが囁くように声を掛けてきた。

 

 彼女が振り返るとそこには、何かを怖がるように目を泳がせ、もじもじと落ち着かない様子をしている友達が立っていた。

 

 ○○ちゃんが隠してた……晴子はその言葉の意味がわからなかった。


 何故、あまり日頃から仲が良くない同級生だったとはいえ、その子が今更私の上履きを隠すような姑息なイタズラをしなければならいというのだ?


 そう、どうして今更……。


 晴子の頭に閃きが走った。


 目の前の友達の怯えた様子、ここ数日ずっと感じ続けてきた違和感、そして隠された上靴……なるほど、すべてはつながった。


 晴子は靴下のままズカズカと階段を上がって自分の教室まで来ると、わき目もふらずに靴を隠したという同級生の席まで行き、彼女が上靴のことに対する嫌味一つ言う暇も与えずに思い切りその頬を平手でたたいた。


 教室は晴子が入ってきた時点で水を打ったように静まり返っていたので、頬を打った乾いた音は殊更美しい音を立てて響き渡った。


 皆がぴたりと固まった。


 頬を打たれた方も打った方も、それを見ていたクラスメイトたちも誰も動くことができなかった。

 

 やがて始業のチャイムが鳴り、担任の教師が教室に入ってきたところでようやく均衡が破られた。


 教師は殆どの生徒が席に着いていないのを見て渋い顔をした。


 「おいおい、夏休みはとっくに終わってるんだぞ。おまえらいつまでも気を抜いて……」


 「人殺し!」


 頬を打たれた生徒が教師の言葉を遮るようにヒステリックに叫んだ。


 「人殺しの妹はやっぱり人殺しだ!」

 

 その言葉に、晴子はやはり自分の閃きは正しかったと哀しげに苦笑いを浮かべた。


 晴子の兄が失踪したという騒ぎから、あの事故のことがどこからか漏れてしまったのだろう。


 晴子の兄の一連の騒動は、その閉鎖的で保守的な小さな街の住人にとってみれば歴史上の大事件と双肩を為すかどうかといくらいにとてもショッキングな出来事であったため、瞬く間に噂は広がっていった。


 それは夏休み中の子供たちにも例外ではなく、晴子の兄は車を盗み、飲酒運転をしたうえに女性をひき逃げし、パトカーとカーチェイスを繰り広げた最後に住宅に突っこんで捕まった……などというかなり尾ひれや背びれが加筆された噂がその少年・少女たちの素直な耳に伝えられた。


 市議の一人娘で、教師さえも一目を置いている自分に一切おもねろうとしない晴子を快く思っていなかった例の『○○ちゃん』が、その噂を普及させるのに随分積極的だったようだ。


 奔放気ままに肥大していった噂の中には、晴子自身も何かその兄の罪の重要な一端を担っていたようにさえ言うものすらあった。

 

 そして自然と晴子の周りには誰も近寄らなくなった。


 市議の娘を叩いた一見以来、やはり晴子には暴力的傾向のある血がかよっている危険な人間だという印象を皆に植えつけてしまったうえに、晴子自身もまた、そんな印象を晴らそうとするどころか、自身で丁重に裏付けるかのように誰も寄せ付けない棘のある厳しい態度を貫いていた。


 彼女はもう誰も信じてはいなかった。


 心を通わせて仲良く遊んでいたはずの友達は、自分も晴子の仲間として避けられたり意地悪をされたりするのではないだろうかと怯えて離れていき、教師も自分の人事に影響力がある市議のご令嬢の目を怖れて晴子を守ろうとはしなかった。


 親は相も変わらず兄のことばかり気に病んでいた。


 街行く人々は遠慮のない好奇の目を向けた。

 

 誰も救ってくれなかった。

 誰も庇ってはくれなかった。


 たかだか噂一つ、たかだか血縁者の起こした問題一つでこんなにも脆く人との繋がりは崩れてしまうのかと思えば晴子は哀しくなった。


 ……もう誰も信じないと彼女は心に誓った。


 

       ☂


  「……まぁ、おかげで強くなれたけどね」


 そういう彼女の声は消え入りそうな程に弱弱しかった。


 「絶対に負けたくなかった。あの意地悪な子にも去って行った友達にも、教師にも親にも下らない噂にも、私は負けるもんかって歯を食いしばった。誰よりも朝早く学校に行って誰よりも熱心に勉強をした。熱が出ても頭痛がしても寒気がしてもお腹が痛くても絶対に学校は休まなかった。相手にされなくても白い目で見られても恐れられても何をされても耐え抜いた。母は相変わらず一日中兄のことばかり考えて放心していたし、父は何かを忘れようとするかのようにお酒臭い息を吐きながら毎夜のように遅く帰ってきた。頼れる人なんて誰もいなかった。本当に私の周りには誰一人として私をちゃんと見てくれる人がいなかった。中学生が終わるまでずっと。高校からは親元を離れて一人この街で暮らし、そのままここで就職もした。両親とはそれから二、三度会ったきり、今では全く音信なんてないわ。……そんなふうに私の心にはいつも雨が降っていた。その厚い雲の向こう側に晴れ空や太陽があるなんて信じられるわけがなかった。それなのに私には『晴れの子』なんて名前が付いているんだから、神様もホント皮肉が好きよね。レンタルビデオの貸し出し履歴を調べれば、きっとその手の暗い映画ばかり借りているんでしょうね」

 

 ミスター・レインマンにはわかっていた。


 晴子が何を持って自分のことを『雨女』だと称したのかを、何故それほどまでに強く『生』というものへ執着しなければならなかったのかを、初めて彼女と会い、その目と目を対峙させた時からわかっていた。

 

 彼女が話す会話の端々や一つ一つの言葉、あるいは何気ない仕草や佇まいを薄く一枚隔てたその裏側に、誰もが思わず目を背けたくなる程に深くえぐり取られてしまった大きな心の傷が存在するのをミスター・レインマンは敏感に感じ取っていた。


 どれほど頑強で強い志を掲げてみても隠しきることなど到底できない大きな大きな傷だ。


 治癒することも痛みを緩和する術も見つけられぬまま、その赤い傷口はことあるごとに鈍く重たく疼き、彼女を支配し蝕もうと常に好機を窺っていた。


 いつか彼女が根負けし、疼きに身を任せて堕ちていくのを彼らはしたたかに、虎視眈々と待ち続けているのだ。


 だから彼女は負けるわけにはいかなかった。


 彼女は生きたかった。


 生き抜くため、堕ちないため、飲まれないため、強い意志で自らを厳しく律して戦わなければならなかった。


 瞳の奥に命の炎を熱く揺らしながら……。

 

 そして他でもない、そんな彼女の強さにミスター・レインマンは心を惹かれた。


 何故なら彼自身、周りを明るい気持ちにさせる極上の笑顔の仮面の下に、悲哀と孤独で焼けただれた痛々しい傷だらけの素顔を巧妙に隠していたからだ。


 晴子の話を聞き、やはり彼女は自分と同じなのだと思った。


 自分と同じように毎日必死になりながら命を一つずつ紡ぎながら生きているのだと思った。


 彼女は自分の痛みを理解してくれる。

 彼女となら自分の痛みを共有できる。


 ……一目見たその時から本能的にそう察した。


 そして彼女の方でもそれは同じだったはずだ。だから自分達はこうやって魅かれ合い、彼女は自分になら傷を隠すことなく曝け出してもいいと思ったのだ。


 自分なら理解してくれるはずだと信じ、意を決して過去を打ち明けてくれたのだ。


 ……ミスター・レインマンと晴れの子、いいコンビになれそうだ。


 『北風と太陽』みたいにどことなく皮肉めいた感じが僕は嫌いじゃないな。


 君はどうだろう?


 「……君は……」

 

 「さて、そろそろ帰りましょうか。もうすぐ閉園みたいよ」


 彼の言葉が耳に入らなかったようで、彼女は街灯に括りつけられているスピーカーを指さして言った。


 確かに、もうすぐ閉園時間だから速やかに公園から出てくれというアナウンスが、蛍の儚げな一生が終わりを迎え、その光の瞬きがゆっくりと暗闇の中に消えて行ってしまうような美しいピアノの曲に乗せて流れていた。


 東の空からゆっくりと夜空が迫ってきているのが見えた。ずいぶんと話し込んでしまったものだ。


 ……ま、時間はこれから幾らでもあるさ。


 自分のこともそのうちゆっくりと時間をとって彼女に打ち明けよう。

 

 「そろそろ手を離してくれる?」


 晴子はこれまでで一番の笑顔を見せて言った。


 彼女の本当の笑顔だ。


 それは傷も膿も痛みもある醜いものであるかもしれない。


 しかし、ミスター・レインマンにとっては、それがどれ程美しい笑顔に見えたことかわからない。

 

 「もう少しだけこのままでいさせていただけないでしょうか、お姫様」

 

 「……よろしくてよ。でも今夜の晩餐会までには間に合わせて頂けるかしら?……それとも、あなたも一緒に来て下さる?」


 と彼女は少しだけ顔を赤らめた。彼女が部屋に誘うなんてことはこれまでなかった。


 というよりも、それまで二人はどちらかの家に上がるということ自体、一度もありはしなかった。

 

 「謹んでお供させていただきます」


 ミスター・レインマンは平静さを取り繕って言った。


 こういう時は男の方がリードするものだといつか常連の萩原はぎわらさんが言っていたのを彼は覚えていたのだ。


 結局、二人はどちらからとも手を離すことができず、恥ずかしいと思いつつもそのまま手を繋いで出口へと向かった。


 少しだけ二人の関係は前進したようだった。


 互いに二十歳を超えた大人の男女にしては随分と遅い歩みではあったのだが、二人にとっては偉大なる飛躍だった。

 

 そんな飛躍にミスター・レインマンは浮足立っていたのかもしれない。


 いつもは注意深く緻密な彼の心に僅かなものではあるが隙間が生じた。


 そしてその隙間に、とある疑問がスッと入り込んだ。


 ……それがどれほど小さな隙間であり、どれほど些細な疑問であったとしても、やはり彼はそんなことを聞くべきではなかった。


 

 そう、彼は決してそんなことを聞くべきではなかったのだ



 「そういえば、さっきの話の続きなんだけど……」


 「続き……ああ、兄のこと?」


 「そう、結局見つかったのかなって……。ごめん、もしも言い辛いことだったら無理しないでいいから」


 「ううん、大丈夫。ここまで話してオチがないんじゃ、やっぱり気になるわよね」


 「オチってのもなんだけど」


 「いいえ、オチよ。ああいう人の人生の最後は『オチが着いた』くらいでちょうどいいの。死人をあまり悪く言いたくはないんだけど」


 「死……そっか……」


 「そう、兄と再会したのは死体安置所。母はその時のショックが抜けなくてずっと精神科にかかっているし、父はお酒に飲まれ過ぎてついに肝臓がおかしくなってこちらも病院通い、互いに兄の死の責任をなすりつけ合ってとっくに離婚してるから二人仲良くってことはないでしょうけどね。……まあ、確かにかなりの精神的ショックはあったわよね。もしかしたら無事では帰らないかもしれないと覚悟はしていたけれど、まさか女に包丁で刺されて帰ってくるとは誰も想像していなかったから」


 「……え?」


 トントントン……


 誰かがミスター・レインマンの意識をノックした。


 「あなたも兄は自責の念から自殺したとか思ったでしょ?私だってそんな結末を想像してた。だけど、大外から一気に飛び出してきたのは、どこか遠くの街のラブホテルの部屋で女の人に刺されて死んだという事実。その女の人もすぐに首を吊ったっていうから、無理心中として警察では処理されたの」


 「……それって」


 トントントン……


 誰かがミスター・レインマンの意識をノックした。


 「私も詳しいことはわからない。だけど、どうやらお金も殆ど持たずにフラフラと彷徨い歩いていた兄をどこかの工務店の社長が拾ってくれて、そこにご厄介になっているうちに社長に連れられて通っていた飲み屋さんの女の人と仲良くなって一緒に駆け落ちしたらしいの。その社長さんに恩の一つも返さないままにね。……そんな勢いだけで宛てもなく飛び出しちゃったからきっと色々と関係がもつれちゃったのね。相手の女の人はちょっと年上だったらしいけど、やっぱり何かいわくつきの人だったみたい」


 トントントン……

 ガチャリ……

 キイイイィィィィィ……


「……どうしたの?」

 

 誰かがミスター・レインマンの意識のドアを開けて入ってきた。


 その虚ろな目と哀しげな表情をミスター・レインマンは忘れたくとも忘れられない。


 「ねえ、急にどうしたの?」


 「……」


 「ねえ……」


 「……その女の人は、僕の母だ」


 「え?」


 「君のお兄さんと駆け堕ちし、殺し、そして自分自身さえをも殺したその女のひとは、八歳の時に僕を捨てて出て行った母だ」


 「……え?」


 「君からたくさんのものを奪ったお兄さんは、どうやら僕から母親まで奪ってたみたいだ」


 「……ああ、まさか……そんな……」


  ―― またなのかい?お母さん? ――


 「そんなことって……」


  ―― またなんだね?お母さん? ――


 「……またなのね?お兄ちゃん?」


 やがて係員がアナウンスと同様の文句で直接彼らに閉園を告げる声をかけるまでの間、結局、二人はただの一言も交わすことのないまま道の真ん中に立ち尽くしていた。


 やや間があってから彼女はおもむろに俯いていた顔を起こしてまた空を見上げ「ありがとう」と呟いた。


 それは彼に向けたものでも空に向けたものでも誰に向けたものでもなく、ただ虚無を目がけて発せられた固い言葉だった。


 口元に小さな微笑みを浮かべ、踵を返し、背筋をピンと伸ばして一人出口の方へと歩いて行く時の彼女の背中は、普段通り凛としていた。


 いや、いつもよりも気高く、そしてほんの少しだけ寂しげだったかもしれない。

 

 どちらにしても、ミスター・レインマンはその力強い足取りを青く澄み切った両目で見送ることしかできなかった。


 

 あれほど固く握り合っていたはずの二人の手はいつの間にかほどかれていた。


 夕日が作り出した二人の長い影の間は、もはやこの先、二度とは結びつくことはないだろうという程の断固とした空白によって冷たく隔てられていた。

  

      ☂

      

 あの日から晴子とは一切の連絡が取れなくなった。


 電話を掛けてみても終日応答もなければ、逆に彼女の方から電話をかけてくることもなかった。


 そのうち電話の契約も解約してしまったようで、回線は完全に完璧に遮断された。

 

 直接彼女が一人で暮らすアパートに行ってみることも考えた。


 しかし、どんな顔をして彼女に会えばいいものか、何をどのように話せばいいものかもたもたと考えあぐねいているうちに、養母であるママが突然倒れてしまったのでそれどころではなくなった。


 細身ではあるけれど元来丈夫で、いくら働き詰めてもケロリと平気な顔をしていた人ではあった。


 それでも寄る年波には勝てなかったということなのだろう、医師曰く、長年蓄積された過労に心臓が少しだけ悲鳴をあげたのだそうだ。


 とりあえず命に関わる程に重いものではなく、しばらく入院して静養をすれば問題ないとのことだった。


 唯一の近親者であるミスター・レインマンは、ママが制するのも聞かず時間の許す限り病院に通い、店の運営も進んで代行した。極々控え目に表現して、彼の毎日は多忙を極めた。

 

 だからママの病状が落ち着きを見せはじめ、ミスター・レインマンがようやく彼女の暮らすアパートの部屋を訪ねた時には、あの公園で背中を見送ってからずいぶん時間が経ってしまっていた。


 あまり期待はしていなかったのだが、案の条、ドアベルを鳴らしてみても手応えはなく、そのベルの上部に据えられた表札の小さな金メッキのプレートは取り外され、そこにはいつか彼女が店のソファーの上に残したのと同じような種類の空虚さが代わりに居を構えていた。


 彼女は夏の日の朝露のように音も立てずに彼の世界の中から跡形もなく消えてしまったようだ。

 

 その事実に彼は各別驚きも嘆きもしなかった。


 ただ、それまで張りつめ続けた緊張が解けて気が抜けた様子でドアの前に佇んだ。


 はじめからこんな結末になるであろうことを彼はわかっていたのかもしれない。

 

 あの日、黄昏に向かって遠ざかって行く彼女の背中を呼び止められず、立ち尽くすことしかできなかったあの時から。



 「あんた、その二○三号室にいたお嬢さんの知り合いかい?」

 

 ボンヤリとドアの前に立っていたミスター・レインマンに誰かがそう声を掛けた。


 彼が声のするエントランスの方へと向き直ると、そこには笑みを湛えた初老の男性がゆっくりとこちらに向かって歩み寄ってきていた。


 年の頃はちょうど六十を過ぎたママと同じかもう少し上かというところだろうか。

 微笑む口の端の吊り上りかたと細めた目尻の下がりかた、ゆったりとした歩調や髪の薄くなり具合となどを見ると、まるで昔話の絵本に出てくる人の良い好々爺のように彼がとても温和な人柄であるのが充分こちらに伝わってきた。


 「ワタシはここの大家なんだがね……」


  彼の語るところによると、晴子はつい先日、何の前置きもなしに突然部屋を出たい旨を大家に告げたのだそうだ。


 部屋の出入はもちろん契約者当人の自由だが、それがその日のうちに出てしまいたいというのだから大家も少々困惑してしまった。


 入るにしても出るにしても、事務的な手続きや然るべき手順というものがあるのだ。


 入居時に交わした契約書には部屋を引き払う際、一か月前には大家の方に告げてほしいと一応表記はしていたが、この期間はただ書類上の義務的なもので、だいたい二週間か短くとも十日前くらいに言ってもらえれば大家も余裕を持ってそれに対処できるらしい。


 実際にまだ十年というアパート経営のキャリアのうちでも、一週間で手際よく引っ越していった転勤族や、何か組織的なものの手を借りて一夜のうちに去っていった家族という例も確かにあった。


 しかし、うら若き独身の女性が唐突に今すぐ出ていくと言った例はさすがに経験したことはなかった。


 大家はもちろん『何故か?』と尋ねた。


 すると彼女は『雨……』と小さな声でポツリと呟いた。


 当然大家は意味もわからず『雨漏りがひどいのか?』と聞き返した。


 彼女は静かに首を横に振った後ニコリと微笑み『大丈夫、雨漏りはしていない。ただ急に出なければいけなくなったのだ』と言った。


 「ワタシもそれ以上は聞かなんだ」


 そう言いながら大家はズボンのポケットから一本鍵を取り出して二○三号室のドアの鍵穴に差し込み、そして回した。


 開錠された事を告げるカチンという乾いた音が、静まり返った二階の長い廊下に殊更大仰に響き渡った。


 そして大家はドアを開け、ミスター・レインマンを部屋の中へと手招いた。


 「ちょうどここに用事があったもんでな」


 

 ドアをくぐると、そこには多少頑固そうではあるが芯が強く、生真面目で隙がないが、笑うとどこか少女のようなあどけなさが見え隠れする、命の炎を瞳に燃え滾らせた成人の女性が、一人で慎ましく暮らしているような風合いの部屋が1LDKに亘って広がっていた。


 凛とした晴子らしいとても清潔な部屋だった。


 嫌みのない爽やかなアロマオイルの香りがまだ仄かに漂っていた。


 そしてその空間にあるすべての物が、家主は今ちょっと夕飯の買い出しに出ているだけでもうすぐ戻ってくるのだとでも言いたげに、とてもはっきりとした生活感を醸し出していた。


 彼にはいつまでも母を待ち続けていたいつかの幼い自分のように、部屋自体が彼女の絶対の帰還を頑なに信じているようにも見えた。


 ……無理もない。手つかずの家具や家電、台所で水切り台に載せられたままの皿やカップなどを見て、誰がここの住人が二度とは戻るつもりがないなどと想像できるだろう。


 「申し訳ないけれどすべて処分してくれ、と言われたよ」


 先に立ってゆっくりと部屋を見回すミスター・レインマンの背中を見ながら大家は言った。


 「とにかく時間がなかったんだそうだ。手間を掛けてしまうがなんとか頼むと言って結構まとまった額の現金の入った封筒を私に手渡して、そんなに大きくないバック一つ抱えて、そのままいそいそ出て行ってしまってね。訳を聞く間も事情を推察する暇もなかったよ。……いやはや、こんな経験はまったく初めてでどこからどう手を付けていいものやらさっぱりわからんね。まあまあ、気長にやるさね。出入りの盛んになるシーズンはまだ先だし、このご時世、借り手だってそうそう簡単には見つからんだろう、ハッハッハ」

 

 大家は実に楽しそうに言った。


 まるで手間とも迷惑とも思っていない様子だった。


 彼と晴子が恋仲にあり、そしてあまり尋常とは言い難い事情を経た末に彼女が部屋を出て行ったであろうことを察し、殊更明るく笑い飛ばしてくれたのかもしれない。


 「……しばらく、ここにいても構わないでしょうか?」


 「ああ、いいとも。一階の端しっこにある一○一号室がワタシの部屋だから、帰るときに一声掛けていってくれるかい?」


 「お心遣い、感謝します」


 「まあ、できれば下着類なんかはあんたが処分してくれると助かるんだがね。この歳でよからぬ趣味に目覚めたりしたくはないからねぇ、ハッハッハ」

 

 大家はそう高らかに笑いながら冗談を言ってミスター・レインマンの肩を軽く叩き、部屋を出て行った。


      

 一人になり、彼は改めてもう一度部屋を見回してみた。


 いつか彼女が被っていた見覚えのある白い帽子、透明なケースに整然と並べられた幾つかの洒落たデザインの腕時計、テーブルに伏せたままの詩集とそれに挟まれた空色の紙の栞……。


 こうやって改まって独りで佇んでみると、やはり彼女がいなくなったという紛れもない客観的事実とそれが自分の内側にもたらした深い喪失感を感じないわけにはいかなかった。


 それは多分、彼が彼女のことを本当に愛し、失ってしまったことを心から哀しんでいるからに他ならなかった。


 そう、あの時もやはりその愛に偽りはなかったはずだ。


 彼女の強さからほころび出たか弱い部分を自分が守り、そして彼自身が越えなくてはいけないものを乗り越えようと確かに思ったのだ。


 ―― 何故だろう? ――


 実のところ彼がこうやって晴子の部屋を見たのはこれがはじめてだった。


 デートの後、何度も彼女を送った経験はあったのだが、ドアの前まで来るといつもどちらともなく別れの言葉を述べ、ついぞ部屋には上がったことがなかった。


 どんなに楽しい時間を過ごしても、どんなに互いの想いが強くても、二人が次の段階に踏み込むためのアクションを思い切ることはなかった。


 ―― 何故なのだろう? ――


 ミスター・レイマンにはわからないことが多すぎた。


 ―― 僕は何のために生まれてきたのだろう?どうして僕の愛はいつも報われないのだろう?どうして僕の周りにいる人達は皆離れて行ってしまうのだろう?……どうしてみんな、僕を一人にするのだろう? ――


 彼は昼下がりの日差しが柔らかく差し込む窓辺に誘われるように半ば夢遊状態で向かった。


 このアパートは街を見下ろせる少し小高い丘の上に建っていたため、二階とは言えなかなかの景色を望めることができた。


 窓の作りが一般的な部屋のそれよりも幾分大ぶりで数が多いのも、多分その辺りを考慮して大家が意図したところなのだろう。


 特にこの西向きの窓の前には邪魔な建物や、視界を遮る程に枝を伸ばした樹木もなく、中でも彼女が住んでいたこの『二○三号室』はアパートのちょうど真ん真ん中に位置し、とりわけ美しく展望が開けていた。


 まるでこの部屋をすべての起点として建物が造られているかのように見事に計算された景色だった。


 もしかしたら晴子はこの眺めが気に入ってここに住むことを決めたのかもしれないな、と彼は思った。

 

 視力の良かったミスター・レインマンは肉眼でもずいぶん遠くまでクリアに見渡すことができた。


 眼下には彼の暮らす街が広がっていた。


 ママに引き取られた彼を迎い入れてくれた街、仄暗いトンネルのような思春期を過ごした街、大人として希望の一歩を踏み出した街、新たな愛を見つけた街、そしてそれを失った街……。


 街は何も悪くはない、街はいつでも変わらずにただそこに横たわっているだけだった。


 誰の味方でもないし、誰の敵でもない、それは彼にもわかっていた。


 わかってはいたが、例えば違う人生の中の違う場所、違う街で、まるで違う人間として生きていたのなら、もう少し色々なことが上手くいっていたのではないのかと考えない訳にはいかなかった。


 誰かのせいにしたかった。


 何でもいい、どんなものにでもいいから、とにかく責任というものをそこに生じさせなければ納得がいかなった。


 それが善なるモノでも悪しきモノでも構わなかった。


 確かな理由と原因、そして自分がこれ程に哀しみを一身に被らなければならないその意味を知りたかった。


 そんな物思いに耽りながらぼんやりと下界を眺めているうち、何かに見つめられているような視線を感じ、ミスター・レインマンはハッとした。


 見つめられている?

 

 こちらが何かを見つめるならばまだしも、何かがこちらを見つめるにはいささか不自然な状況だった。


 それもあまり良い気のしない歪みのような不自然さだ。


 ただの気のせいかもしれないとも思ったが、それでも彼はその視線の正体を見極めようと素早く視線を走らせた。


 ひと気がなくて荒涼としている学校の屋上、国産ウイスキーの煌びやかな看板広告、繁華街を往来する無数の車、そして忙しなくうごめく豆粒ほどの大きさの人だかり……。


 目の前には昼下がりの穏やかで平和な街が広がるばかりで、何一つ彼の世界をかく乱させるようなものは見つからなかった。

 

 やはり気のせいだったのだと思い、彼はため息を一つ吐いて目を瞑り、神経を集中させすぎて凝り固まったこめかみを指で揉んだ。


 多分、晴子の部屋に入ったことで気が高ぶっていたのだろう。

 

 もう用は済んだ。


 何か行先を仄めかすものや何かしら自分に向けたメッセージがあるかもしれないと淡い期待を抱いていたのだが、それもない。


 彼女と自分とを繋ぐ回線はやはり完全に完璧に途絶えてしまったのだ。彼はもう一つ、今度はやるせなさからくるため息を吐いて目を開けた。


 

 誰かがこちらを見つめていた。



 あまりにも唐突にその人物はミスター・レインマンの目の前に現れた。


 遠くにばかり気をとられてその身近にいた人物に気がつかなかったのか、はたまた彼が目を閉じた後からどこからか出現してきたのかはわからなかったが、窓の外の平坦に拓かれた芝生の上には間違いなくそこには人間が立ち、程よい距離感を保ちつつ、まんじりと身じろぎひとつせずに彼の方を見上げていた。


 

 青い眼の男だった。



 すらりとした西洋人で年の頃は中年から初老といったところだろうか。


 あまり丈のないシルクハットにタキシードとボウタイ、細身のステッキと飾り気のない革靴、そして口元に湛えた長い髭……。


 いわゆる英国紳士のような装いのそのどれもが一貫して黒く、一貫してくたびれていた。


 シャツの襟元や袖口、胸のポケットから顔を出しているハンカチの白さにしても同じことが言えた。


 そして何よりも、それら全てを包括する彼自身が一番くたびれているようだった。


 その中で、左手の薬指にはめられた指輪のターコイズと思しき小さな石が、陽光を受けて場違いなほどに艶めかしく輝き、自分を主張していた。

 

 しかし、ミスター・レインマンはそんな風体などには目もくれず、ただ男の携えた碧眼の深さに釘付けとなった。


 それは濁り一つなく澄み切った、とても美しい青色をしていた。


 形と言い色味と言い、彼はその瞳をよく知っていた。


 彼は、その青と共に様々な物事を眺めてきた。


 胸躍る歓喜の時も、心をつんざく悲しみの時も、その青色は彼に何の隠し立てもすることなくありのままを見せてきた。


 そう、男の瞳は、ミスター・レインマンの携えるそれと同じものだった。


 まるでどちらかがどちらかの瞳を参考にして忠実に複製したかのようだった。


 

 その男も、ミスター・レインマンだった。



 こちらのミスター・レインマンの表情が込み上げる不快感と驚きのために段々と

引きつっていくのを、あちらのミスター・レインマンはやはり眉一つ動かすことなく静かに見据えていた。


 男の顔からはどんな感情も汲み取ることができなかった。


 夏の日照りを熱がるでもなければ、逆に涼しくて快適だと思っているようでもなく、こちらのミスター・レインマンが困惑する様子を楽しんでいるようでもなければ、かと言って殊更気の毒がっているわけでもなさそうだった。


 これは純然たる観察だった。


 成り行きや事の次第を見届けるだけで、干渉もしなければ意見もしない。

 

 それどころかちょっとした考察や見解や感想すらも持たない、ただの傍観だった。


 彼という人間が歩んできた人生を、そしてこれから歩んで行く人生を、彼がその青く澄んだ瞳に映し出す物事を、目の前を通り過ぎていく哀しみを、同じ瞳を通して男も眺めていた。


 ……男はただ静かに彼のことを見つめていた。


 そう、この広い世界の中にあって、男は確実に、確信を持ってミスター・レイマンただ一人だけを見ていた


 

 ミスター・レインマンは自分の顔から血の気が引いて行くのがわかった。


 悪寒が背中を厭らしい手つきで撫で回し、額には脂汗が滲んだ。


 圧倒的な吐き気をもようし、洗面所に駆け込んで嘔吐した。


 朝からロクに食べていなかったので大したものは出てこなかったが、それでも彼の胃は内容物以外の何かを一生懸命に吐き出そうとするかのように窮々と自らの身を絞り上げ続けた。

 

 洗面台の鏡の中にも男はいた。


 決して男の口は何も語りかけてはこなかった。


 しかし、その美しき青い瞳はそれを補って余りあるだけに、滑らかな舌で彼に語りかけてきた。



 お前はレインマンなのだ



 僕はレインマンだ



 お前はレインマンなのだ



 もちろんわかってる。僕はレインマンだ



 お前は何もわかっていない



 何がわかっていないっていうんだ?



 何もわかっていない



 僕は何がわかっていないんだろう?





 ねえ



 答えてくれよ



 ねえってば……




      ☂


 「これからどうするっていうのさ?」


 気だるげにベッドから起き上がりながら、ママは病人とは思えない程に力強い声でそう言った。


 それは体中から絞り出してきた精一杯の空元気であっただろう。


 自宅療養に切り替わったとはいえ、まだまだ体力は戻ってはいなかった。


 しかしそれでも、虚勢を張れるまでには回復したというのはやはり嬉々としてとらえて良いことなのだろう。


 「そんな無理して起きなくたって。まだ横になってないとダメですよ。僕のことよりママはもう少し自分の身体に優しくしてあげないと」


 ミスター・レインマンは柔和な顔でママを諭した。


 口元に浮かんだ微笑みは、この上なくチャーミングで、普通の女性ならば一目見た瞬間に骨の髄まで魅了されてしまったことだろう。


 「質問に答えてないよ」


 しかし、ママは怖いくらいに真面目な顔で息子を睨んだ。

 

 ママの質問……それはその日、ミスター・レインマンが突然店を辞めたいと言ってきたことに対してのものだった。


 養母として長年彼の傍にいた彼女は、ここ数日の息子の態度が気に食わなかった。


 妙に明るすぎるというか、何かを振り切り、開き直ったというか……。


 そんなところにこの申し出だ、何があったのだろうと、ママは自分の身体などよりも息子のことが心配になった。


 「ふむ……」


 そんなママの気持ちを知ってか知らずか、ミスター・レインマンは顎に手をやって眉間にシワを寄せ、わざと大仰に考えるようなふりをした。

 

 やはり、以前までの彼ならこれほど露骨に人の想いを逆撫でするようなふざけ方はしなかったはずだ。


 軽い冗談の中にもその陽気さの中にも、相手に対する敬いみたいなものが確かにあった。


 少なくても、こんなに人を食ったような態度を取ることは決してなかった。


 「何かあったんだろ?お願いだからふざけないで言ってくれないかい?」


 ママはそんな彼の態度にかかずることなく、相変わらず神妙な顔付きをしていた。


 「何もふざけてるわけじゃありませんし、特別何かがあったわけでもありません。だから心配しないで寝ていてください」


 「何もないわけないだろ?」


 「何もないですよ」


 「……女かい?」


 さすがに勘の鋭い人だ。


 「いえ、彼女は関係ありません、本当に。ただもう少し広い世界を見てみたいなってずっと思っていたんです。こういうことができるのは若いうちだけだろうし、長いこと働かせてもらったおかげでお金もそれなりに貯まりました。今がベストのタイミングかなと思ったんです。店だってほら、しっかりしたマネージャーさんもいることだし、僕の抜けた穴だって知り合いの腕の良いバーテンダ―を一人紹介しますから、簡単に埋まります。彼にはわりと大きな貸しがありますから、僕が丁重に頭を下げれば多分、断わることはないでしょう」


 「アタシは店の心配なんかしてないんだけどね」


 「僕の方ならもっと大丈夫、気まぐれや無考えで適当に言っている訳じゃないんです。熟考に熟考を重ねた上に更に熟考をして出した結論です」

 

 二人は見つめ合った。


 彼にはママが心から心配していることも偽りのない母としての愛情がそこにあることも感じ取れた。


 しかし、ママにはやはり息子が何を考えているのか、今彼の心を支配しているものが一体何であるのか、その真夏の晴れ空のように青く青く澄んだ瞳の中から汲み取ることはできなかった。



 「……わかった」


 ややあってママは諦めたようにため息をつきながらそう言った。


 「どこえなりとも行けばいい。世界は広いんだ。かく言うアタシはそんなに多くの世界を見てきたわけじゃないけどね。だってちょっとした旅行を何度かしたぐらいで、殆どこの街から出たことなんてないんだ。それでもまあ、あんたよりもいくらか余計に生きてきて、色んな人を見たり色んな話しを聞いたりしてきた。だから広い世界のことは知らなくても世界は大きくて不可思議で、決して万人に公平なところじゃないってことだけは知ってる。……アタシの言いたいことわかるかい?」


 「わかると思います」


 「辛くなったらいつでも帰っておいで。世界が狭かろうが広かろうが、丸かろうが平たかろうが、あんたの家はここだってことに変わりはないんだからね」


 「……わかっています、ありがとう」


 多分、二度とは帰って来ないだろうことを、彼も、そしてママもわかっていた。


 「……お互い、涙一つ出やしないね」


 「誰かに涙を見られるのが我慢ならないんでしょう、お互いにね」

 

 二人はニコリと笑い合った。


 そんなママの目は潤み、充血のために赤くなっていた。


 そしてミスター・レインマンの青い瞳は、その透明度をより一層増したように見えた。


 それはもはやどんなものでも汚したりかき乱したり犯したりすることができない程の神聖さすら帯びていた。


 そう、誰もが触れることをためらい眺めることしかできない、聖域のような美しくも危うげな輝きを湛えて。


 


 彼の名前はミスター・レインマン……。


 陽気な気性とハンサムな笑顔を併せ持つ稀代の晴れ男だ。


 しかし、彼は結局ミスター・レインマン。


 永遠に降り続く悲しみの雨の中から生まれ出で、決してそこから出ることの許されない、永遠の雨男。

       

        ☂

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