閑話 ~真夏の夜の夕陽~
◇◆◇
時刻はもう午前零時をとうに回っている。
夜はこれからますますその力を増し、匿名的で隠匿的な暗闇の帳を大きく広げて世界中の秘め事をすべて覆い尽くしていくのだろう。
まるで眠気というものが訪れる気配がない。
八十年以上も生きてきたのだから、考え事や夢想に耽り、眠りの好機を逃してしまうような夜は何度もあった。
多感な学生時代、忙しい商社マン時代、そして妻が自分の横からいなくなってからの時代……。
考えなければいけないことがたくさんあった。
拒むことも寄り好むこともできないまま、自分の頭で考え、自分で答えを導き出さなければいけない事情に、気がつけばがんじがらめに縛り付けられていた。
しかし、今夜の不眠はそれまでのものとは少し趣が違うような気がする。
何がどうだということはない。
確かにいつもよりも眼が冴えているような気がする。
いつもよりも夜が深まっていく音が耳に騒がしいような気がする。
だが、それらはおそらく関係がない。
それらはいつもと違う何かが生んだただの副産物にしか過ぎない。
***
少年は出所すると、真っ先にその足を栄治がアパートの完成まで身を寄せている長男の家へと向けた。
夏の盛りの一番暑い頃だった。
手紙の住所を頼りに、少年院から徒歩で四時間かけて栄治の元に辿り着き、玄関のインターホンを鳴らした時にはもう、顔も衣服も汗と土ぼこりがこびりついて真っ黒で、潤いを欠いた唇はひび割れ、短く刈り込んだ髪の毛では防ぎきれなかった強い紫外線のために頭皮は万遍なくただれていた。
少年院で支給された安物のスニーカーは両方とも底が破れて今にも抜けそうになっていて、その隙間から靴擦れの血で真っ赤に染まった足の指がのぞいていた。
それでも少年は、自分の風体に心底驚いた顔をした栄治の顔を見ると、疲れも渇きも忘れて玄関先で土下座をした。
その土で汚れた額を敷石の上にゴリゴリと擦り付け、余分にあるはずもない水分をどこからか振り絞ってきて号泣し、ひたすらごめんなさい、ごめんなさいと謝った。
もはや声を出すこともままならないであろうことは簡単に見てとれたが、少年は命を少しづつ切り売りして力を得ているかのような切実さでもって、とにかく泣きながら、ごめんなさいと何度も繰り返した。
栄治はその少年の姿を見て、なんともいいようのない感情が込み上げてきた。
やはり憎かった。
息子や親類の怒りをいさめ、あれこれとアパート建築の用事で奔走し、明るく元気に振る舞ってはいたが、やはり心のどこかの僅かなスペースに、本当に小さくてか細くて弱々しいものではあるが、確かに最愛の人を死に至らしめたモノに対する拭いきれない憎しみがあった。
度重なる手紙のやり取りで、少年が真剣に反省をしていることも、罪の意識に苛まれて身を引き裂かんばかりでいることも、妻が決して戻ってこないことも、頭ではわかっていた。
激昂する皆を説得し、少年を許そうと言った言葉も混じりけのない本心だった。
手紙の返事にも確かにそう書いた。
しかし、降り積もった真っ白な雪の中に一点だけついた邪悪な黒いシミは、周りが美しく純白に輝けば輝くほどに、鈍くて不吉な光を栄治に向かって投げかけた。
そして実際に少年の姿をこの目にした瞬間、あらゆる理屈も道理も概念も簡単に跳び越えて、その黒いシミは栄治の心をべったりと塗りつぶして支配してしまった。
誰よりも少年のことを許していないのは自分じゃないか、誰よりも妻を奪われたことに納得できていないのは自分じゃないか……。
「……帰ってくれ」
気がつけば栄治はそう呟いていた。
冷たくて固くて、誰かの脆い心など簡単に貫いてしまえそうなほど鋭く尖った声だった。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」
なおも少年は謝り続けた。
「頼むから、顔をあげて帰ってくれないか、君。……もう謝らなくてもいい、もう何も償わなくてもいい……ただ、もう二度と私の目の前に現れないでくれ」
そして栄治は玄関のドアを閉めた。
決して強く閉めたわけではなかったのだが、思いのほか大きな音を立ててドアは閉ざされた。
栄治はその音にビクリとした。
そしてハッと今自分が少年に言い放った言葉を思い返して血の気が引いた。
今の少年にとって、自分が放つ残酷な言葉が、どんな刃物にも銃弾にも勝る殺傷能力を擁しているのかわからない彼ではなかった。
直ぐに撤回しなければいけない、今すぐこのドアを開けて少年を抱きかかえ、自分も泣きながら少年に許しを乞わなければいけない。
君が心から詫びているのはわかっている、もう私は許しているからもう泣くなと言ってあげなくてはいけない……。
しかし、栄治にドアを開けることはできなかった。
怖かった。
傷ついた少年の顔を見るのが怖かった。
自分の犯した罪を目の当たりにするのが恐ろしかった。
そう、自分は今、罪を犯した。
法律上でどうだとか遺族としての当然の想いだとかいう話は問題ではない。
自分は誰かを傷つけるべくして傷つけた。
憎しみの槌を振るって鍛えた鋭利な言葉を少年の胸へと深く深く突き立てて、妻の復讐を果たそうとした。
それは紛れもない罪だった。
倫理的、道徳的、人間的に犯した凶悪な罪だった。
そして栄治はその罪から逃げたのだ。
少年のように罪から目を逸らさずに正面から向き合うことができなかった。
少年は決して逃げなかった。
自分を罰し、自分を律しながら高い塀の中で過ごし、長い長い道のりを不安と疲れを抱えて歩き続け、逃げることなく勇気を出して遺影の前にただ一本の線香をあげにきたのだ。
……自分は少年以下だ、自分は憎き妻の仇である鬼畜よりもまだ劣る、臆病で卑怯な卑劣漢なのだ……。
「父さん!おい父さん、大丈夫か!」
外出先から帰宅した長男の家族は、胸を押さえ、靴箱にもたれかかるようにして座り込む栄治の姿を見て仰天した。
「……なあ、外に誰かいたか?」
額に尋常ならざる量の脂汗をかき、虚ろな目をした栄治が、そう長男に尋ねた。
「そんなことどうだって……」
「誰かいたのかと聞いている!」
母の死と対面した時も、犯人に激昂して荒ぶる遺族たちの只中にあったとしても気丈に振る舞い、日頃からの温厚さを保ち続けたあの父親が、よもやこれほどまでに険しい剣幕で迫ってこようとは、長男をはじめ、その家族たちも重ねて驚き、気圧されてしまった。
「誰か……いたか?……」
一転して、今にも消え入りそうな声で栄治は
「……いや、誰もいなかったよ、本当に」
仕方なく長男はそう答えた。
「そう……か……」
「ああ、ただ……」
そして長男は端の方を指でつまむようにして持っていたものを見やり。
「なんだかよくわからないゴミが扉の前に落ちてはいたけど。ほら」
とそれを栄治の目前まで持ってきた。
それが少年の抜けた靴の底だとは、栄治以外の人間にわかろうはずもなかったし、そこでそのまま意識を失った栄治の介抱にバタバタとした長男家族が、それと父親の心臓の具合が悪くなったことを関連付けて考えられるような心の余裕もありはしなかった。
その後、病院に緊急搬送された栄治ではあったが、心臓発作の極々軽いもので命に別状はなく、一週間ばかりの入院の後は、元の通り、いつもの温厚で人当たりの良い神沼栄治が戻ってきた。
そして彼の帰還を見計らったかのようなタイミングで、業者からアパートが無事に完成したという連絡が入り、栄治は慌ただしくこの息子の暮らす街を出ていった。
退院したのが昨日の今日なのに大丈夫なのかと心配して引き留める長男家族に対し、父親は穏やかに、されど頑として出立を譲ることはなかった。
更にそれから数日が経ったある日、前触れもなく長男の元に警察官が訪ねてきた。
少年院から出てきたばかりの例の主犯の少年が行方不明になったのだそうだ。
警察官はこちらに顔を出していないかと一応確認をしに来たらしいのだが、長男にその心当たりはなかった。あるいは父なら何か知っていたかもしれないとも思ったが、心臓に余計なストレスを与えるのはよろしくないだろうと、黙っていることにした。
……もう充分苦しんだ。
これ以上、親父を無駄に辛くさせることはないじゃないか、と。
***
―― あの子は一体どうしたんだろうか? ――
今夜はどうにもあの時の少年のことが気になって仕方がない。
おそらくアパートの住人である女の子にあれこれと昔の話をしたからに違いない。
少し変わった娘ではあったけれど、なんだかとても話しやすくて楽しくて、ついつい喋りすぎた。
アパートの歴史を振り返るとき、その傍らには常に妻が寄り添っていたし、妻のことを考えれば必ず最後には事故のことを思い出してしまう。
事故による被害者がいれば、もちろん事故を起こした加害者がいる。
そしてその加害者に対して自分が犯してしまった罪の意識も自ずと蘇ってきてしまう。
もはや憎しみなど欠片らほどもない。
妻が死んでからもうかれこれ三十年以上、もうすぐ四十年になろうかというくらいの時が流れている。
その死を一日たりとも忘れたことなどなかったし、妻に抱いていた愛情も変わらずに持ち続け、長らく独り身を貫いてきた。
しかし想いとは裏腹に、色々なことを忘れていってしまっているのもまた事実だ。
彼女の声、身体、癖、仕草、思い出……何もせずとも勝手に溢れ出でてはその覆ることのない喪失を悔やませた数々の彼女に関する鮮明な記憶は、年を重ねていくごとに色が抜け、細部が削られ、形を異し、あるものに至っては全くの無の中へと帰してしまっていた。
そして少年に対する黒い感情もその中の一つに数えられた。
あの時、彼に向かって投げつけられた憎しみも、その後自分を苛めた罪悪感も、ふと気がつけば栄治のまわりから消えていた。
他の数多くのものと同様に、日々の生活に追われていくうちにいつの間にかどこかへ落としてしまったらしい。
そこに残っているものは、そこにはめられていた感情の型通りにできた窪みだけだった。
中身はない、ただその窪みを見ればどういう形をしていたのかはわかるし、過去には中身が確かにあったのだということも辛うじて思い出せる。
しかし、有りのままではもう二度と思い出すことはできない。
あれ程までに生々しく存在し、終生背負い続けていくのだろうと思っていた数多くのものたちは、もう二度と彼の背中には戻らない。
少年に会って、謝れるものなら謝りたいとは思う。
そして改めて、もう許しているのだという言葉をかけてあげたいとも思う。
しかし、もうそんなことはどちらでもいいのだと思っていることもまた事実だ。
人が年を取るというのはそういうことなのだ。
良くも悪くも、たくさんのものを獲得して裸の身に纏わせながら生きていくのを成長といのかもしれない。
そしてゆっくりと今度はそれらを脱ぎ捨て、失い、あるいは意図せずこぼれ落としながらやがて裸へと戻っていくことを老いというのかもしれない。
そしてそれは無力な人間ごときには拒むことも寄り好むこともできないのだ。
……栄治なりの人生哲学だった。
いつまでも眠れそうになかったので、栄治は布団から這い出して起きることにする。
白湯でも飲んで気を静め、椅子に座っていればそのうち眠くなるか、あるいはいつも目覚める日の出の時刻になるだろう、と。
カーテンを開いて、西の窓辺に置いた揺り椅子の上から月を見上げる。
針金を曲げて作られてでもいるかのような細くて頼りのない月が、雲のない真夜中の夜空に張り付いている。
ずいぶん長く生きてきたものだと栄治は思う。数年後には米寿を迎える。
自分が子供の頃の八十八歳など、仙人か天狗か妖怪の類かくらいに思っていたが、いざ自分がそういった年齢に差し掛かってみると別段なんてことはない、神がかった力もなければ、特に人間に深みが増したようにも思えない。
ただ、えらく年を取ったなと思うだけだ。
あるいは、妻を亡くした時に、自分も一緒に死ねばよかったのかもしれないと栄治は思う。
彼女を失ってからの日々は、ただ彼女を忘れないようにと生きた毎日だった。
アパートを建て、そこに住み、毎日朝から晩まで何かとアパートのために動くことで、常に妻と一緒にいるような気分になれた。
それで良かった。
そうやって自分が生き続けることが、妻を忘れないでいてやることが、彼女への何よりの供養となると頑なに信じていた。
だが、皮肉にも生き続けていけば行くほどに、忘れまいと強く思えば思うほどに、妻との思い出を忘れていってしまう。
どんな些細な出来事も、どれほど小さな記憶のピースも失くすまいと鍵をかけてしまっておいたにも関わらず、箱を開けてみた時にはもうそれらは気泡のごとく消えていってしまった。
まさかそんな未来が待ち受けていようとは、栄治は考えていなかった。
これでは自分は何のためにここまで孤独に耐えながら必死に生きてきたのかわからないではないか……。
ボンヤリと月を見上げていた栄治は、ふと何か視線のようなものを感じるのに気がつく。
視線?
誰かが自分を見ているというのだろうか?
こんな夜中にわざわざこんな年寄りを外から見ているのか?
栄治は視線を感じる方へと目を向ける。
そこには妻が立っている。
ちょうど、どの部屋にもよくよく陽が差すように、そして見下ろす街の展望を遮らないよう、ただ芝だけを敷き詰めて広場のように開いてある場所に、遺影の写真に写ったままの慈愛と優しさに満ち溢れた微笑みを浮かべた妻が佇んでいる。
夢か幻覚か幽霊か、それはわからない。
ただ紛れもなく、妻はそこに立っている。
栄治は何か言葉をかけようとする。
距離は離れていたが、彼女の方にむかって手を伸ばして触れようとする。
しかし、声は一文字も出て来ない。
手をあげることもできない。
栄治はただただ目を見開いて、じっと妻の微笑みを見つめることしかできない。
そんな栄治に構うことなく、彼女はくるりと踵を返して歩き出す。
そちらはさほど高いものではないにしても、一応崖となっていて行き止まりになっている。
そしてやはり景観を気遣い、申し訳程度の低い柵でしか囲っていない。
芝についた夜露で足を滑らせたりしたら大変だ。
「……おい!」
栄治はようやくその一言だけを発する。
同時に体も正常の機能を取り戻したことがわかると、急いで窓を開け、裸足で妻の後ろ姿を追う。
それこそ夜露に濡れた芝に足を取られて何度も転び、顔から倒れ込む。その度に踏み潰された草の青臭い匂いと湿っぽい土の匂いが鼻をさす。
夢でも幻影でもこの世のものでもなくていい。
ただ一言彼女の声が聞きたいと思う。
ただ指の先にだけでも彼女の体の感触を感じたいと思う。
ただもう一度だけでいいから優しく微笑んで欲しい。
愛をたたえた目で自分を見つめ返して欲しい。
栄治は妻の方へと手を伸ばす。
今度はちゃんと伸ばすことができる。
まだ距離としては微妙なところで、触れられるか触れられないかぎりぎりのところだ。
栄治はあらん限りの力と意識で可能な限り腕を伸ばし、指を伸ばし、爪でさえも伸ばそうとして妻に触れようとする。
―― 見て、あなた。キレイな夕日よ ――
妻がそう言った瞬間、栄治の指が彼女の小さくて柔らかい肩に触れた。
―― ああ、本当にキレイだな ――
紅色の夕陽が二人を温かく包み、そして静かに暮れていく。
***
いつも朝の日課である散歩を共にしている仲間数人が、待ち合わせの時間になっても現れない栄治のことを心配して彼の元を訪ねた時、栄治は窓辺の揺り椅子に身を深々とまかせながら眠っていた。
そのあまりに穏やで満ち足りた様子に、居合わせた人々の全員が、まさか栄治に息がないなどとは思わず、一様に微笑み合った。
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