3・マリコの親しい友達
確固たる意志のお導きによって辿り着いたアパートに越してから、はやくも三か月が経とうとしていた。
新年度、新入学などいろいろな『新』に彩られた四月が過ぎ、まだまだぎこちのない五月を越え、人々がようやくある程度おさまるところにおさまり始める六月も半分を終えた。
世間では迫りくる梅雨入りを快く思わない人たちの憂いと、ジューン・ブライドを間近に控えて浮き足立っている花嫁たちの高揚感と、相も変わらず変化のない生活を送り続ける私の退屈さとが、等しく街の風の中に溶け込んで吹き抜けていた。
そう、新しい生活の流れに身をやつした私がワクワクしながら運ばれて行ったその先には、また新しい退屈が愛想よく手を振りながら待ち受けていた。
新しいとは言っても、服の色が緑から黄緑になったくらいの微妙な変化しかなく、つるりとした外観も内容の希薄さも、期待していたようなマイナーチェンジは一つも為されてはいなかった。
私が何通も送った要望やクレームの手紙たちは、誰の心も揺り動かすことなくあっさりと黙殺されてしまったようだ。
二流の私立大学の文学部英米文学科卒で、とりたてて資格も得意なこともない平凡な顔立ちの、いささか皮肉屋の気配がうかがえる中肉中背の女子を採用してくれるような寛容な企業は、このご時世ではなかなか見つからなかった。
有名どころはもちろんのこと、これからの日本経済を担って行くであろう最先端の人気企業などでは、書類選考の時点で落とされてしまい、面接さえさせてもらえない始末だ。
まあ、そもそも私は世界を股にかけた大きな仕事をしたいだとか、一流企業の肩書が欲しいとか、人も羨む高給取りになりたいだとかいう野心に乏しかった。
一人で応募するのが不安だから一緒に出してくれと友達にしつこく頼み込まれなかったとしたら、自分からわざわざそんな一流企業に履歴書を送ったりすることは絶対になかった。
万が一、何かの手違いか神様の気まぐれな采配によってそんな派手でミーハーな会社に受かってしまったとしても、きっと私は周りの洗練された人達の優秀さと煌びやかさに圧倒され、自分のあまりのみすぼらしさから死にたくなってしまうだろうことが目に見えていた。
身の程をわきまえさせたら私くらい秀逸な人間はいないのだ。
……ちなみに一緒に受けることを持ちかけてきた友達ももちろん(と言ってもいいだろう)落とされた。
就職試験をアイドルのオーディションか何かと取り違えて仲間を誘うような真似をする弱い子が、この過酷な就職氷河期の只中を生き抜けるはずはないのだと、彼女はもっとわきまえた方がよかった。
そんなわけで私に仕事を選り好みしているような余裕なんてなかった。
とりあえず、やりたいこともやりたくないことも見つからないので、こんな私を雇ってもいいよと言ってくれるような会社さんがいれば、平身低頭、さっさとそこにお世話になろうと決めていた。そしてそれが今勤めている信用金庫だった。
私が信用金庫に就職が決まったと言うと、社交辞令でも本気にでも祝福してくれる人達が殆どだった中で、どこか卑下したような目をして私を見た人もいれば、心のない嫌味を露骨に言ってきた奴もいた。
中には可哀相だと言って目をウルウルとさせた女の子だっていた。
……あの子は一体、信用金庫を何だと思っていたんだろう?
彼女ほど極端ではないにせよ、おそらく世間では信用金庫というものを銀行の二軍くらいにしか思っていない人が多いことだろう。
かくいう私自身は実際にそう思っていた。
清潔で朗らかでちょっと鈍重で、実直でお人好しでとことん地味で、お年寄りや子供や動物なんかにはとても好かれるのだけれど、年頃の異性からはまるでモテたためしがなくて、優秀でギラギラとした同期や後輩が要領よく大きな仕事をこなして出世して行くその背中を、羨ましく思う反面、自分には出来ないことだと諦観を含んだ目で見つめながら、とりあえず自分の出来ることを日々精一杯こなしている、三十歳手前の善良で優しくて無害で面白みのない男……。
というイメージを私は大学の求人コーナーに張られていた求人票を見た瞬間、そう反射的に連想した。
それから、なんとなく親近感みたいなものを抱いたからという浅はか極まりない理由で私はそこの試験を受け、結果、やっぱり相性が抜群によかったようで無事内定をもらうことができた。
「なんだ、いくら不景気と言ってても就職するのって案外簡単じゃない」
と、私は少々、拍子抜けしてしまった。
そして、社会人になるということは周りがいうほど大層なものじゃないんだろうと、軽い気持ちで残りの大学生活を気ままに過ごした。
だけど実際は、お金を稼ぐというのはそんなに甘いものではなかった。
私は入庫そうそうに自らの心構えの軽薄さと、己の人間的な未熟さを身をもって痛感することとなった。
右も左もわからない研修の身であることなどお構いなしに早速、為替や口座開設、その他細々とした伝票の処理などの庶務的な仕事を連日次々に任されてパニックになった。
しばらく経つと今度は適性を図るためだいう名目で先輩の外回りに同行して、中小・零細企業に融資を取り付けるべく一日中頭を下げて回り、腰や首が痛くなった。
怠惰に学生生活を送ってきたツケがこんな形でもたらされるだなんて……。
本当に、これまでの二十数年間、私は何をやってきたのだろうと思わず弱気になってしまうこともあった。
「正直、この仕事、なめてたんじゃないか?」
新人歓迎会の席で、一緒に外回りをした融資・営業課の先輩が私の隣に座って酒臭い息を吐きながら意地悪そうに聞いた。
「そうですね、正直、なめてました」
私は正直に答えた。
「ハハハ、素直なやつだな。まあ、そうだよな。俺も信金なんて銀行の『でがらし』みたいなもんだと思ってたもんな、最初。俺の先輩なんか豆乳絞った後の『オカラ』なんて表現してたぞ」
「『でがらし』に『オカラ』ですか」
いろんな言い方がある。
「そう、でっかい一流銀行が見向きもせず、二流の銀行も面倒くさがってやろうともしない、そうやって最後に余った小さな仕事を俺らみたいな小さな小さな信金はせっせと拾って処理して、そんでスズメの涙みたいな利益をあげる……それが世界の正しい流れ、資本主義社会っていう入れ物の中に組み込まれたとても平等で合理的なシステムなんだろうなって思ってた」
「そんなのが平等って言えるんですか?」
「どこまでも」
彼は空になったグラスに自分でビールを注いだ。
「どこまでも平等で公平で均等でフェアネスで……あとはなんて言葉があったかな?まあ、いいや、とにかくそんな社会のピラミッド型の図式は、一見すると階級だと格付けだとかで無理矢理順列をつけて差別をしているように見えるんだが、実はこれ以上ないってくらいに平等な制度なんだと俺は思っている。……なあ、プロ野球には詳しいか?」
「いえ、全然。私、サッカー派なんで」
「まあ、いいや。とにかくプロ野球では球団が新人選手を獲るためにはまず交渉権っていう『○○くん、うちにきてくんない?それなりにお金も出すしさ、悪いようにはしないから』っていう話し合いや説得みたいなことをしてもいいですよっていう権利をひとまず持たなくちゃいけないんだ。それで双方の条件や希望なんかが折り合えば晴れて契約を結んで入団となるし、うまくいかなくてご破談ってことも当然ある。しかもその権利をいちいち一人ひとりの分、持たなくちゃならない。A太郎にはA太郎の交渉権、B次郎にはB次郎の交渉権っていう具合にな。そしてその交渉権を持たない他の球団は、極端な話、一定の期間内はその選手に『こんにちわ、いい天気だね』の一つも声を掛けちゃいけないわけだ。この交渉権ってやつがどんだけ大事なもんかわかっただろ?」
「たぶん……」
「そこでだ、そんな大事な大事なプラチナチケットを巡る球団の戦いが行われる、それがドラフト会議ってやつだ。この名前ぐらいは聞いたことがあるよな?」
「なんとなく……」
「ほれ、お前ももっと飲め。今日はお前ら新人が主役なんだからぶっ倒れるくらいまで飲んでハメをはずせよ。それとも先輩からパワーハラスメントを受けたって言ってピーピー泣いて辞めちまうか?」
「センパイ、酔ってますか?」
「ああ、酔ってるかもな。こんな美人の横で飲んでるせいだろう」
「美人って本当に罪づくりなもんですよね」
「まったく、同感だ。昔からそいつらに関わるとロクなことがない」
そう言って先輩はまたグイとビールを飲み下し、泡がこびりついたグラスをジッと見つめた。
しばしの沈黙が流れた。
周りのガヤガヤとした騒がしさの中にあって、とても強い存在感を持った沈黙だった。
私は面倒くさいのにからまれたなと思って鼻をポリポリ掻いた。
はっきりとした口調と、顔色一つ変わらない見た目のせいでわかりにくいけれど、この人は百パーセント酔っ払っていた。
……少なくても酔っ払い並みにはタチが悪かった。
「……俺はなんの話をしてたんだっけな?」
しばらくして、先輩がやはりさもさも素面のような顔でさらりと言った。
「『でがらし』と『オカラ』はピラミッドの中で王様を決める公平なドラフト会議をするにあたっての大事な大事なプラチナチケットだった、ってとこまでです」
「ああ、そうだったな。うん、確かにあれはファラオにとっちゃ命よりも大事なもんなんだよ、真面目な話。……だけどな……うん、俺達は決して『でがらし』なんかじゃないからな、覚えとけ」
と言って、彼は空になったビール瓶を床に投げ捨てて、また新しい酒瓶を探しにフラフラとどこかに退散した。
「あの人何を言いたかったんだろうね?」
横で私たちのやりとりを聞いていた同期の女の子が顔をしかめながらそう言った。きっと酔っ払いが嫌いなのだろう。
「まあ、何代目かのファラオが『オカラ』とヒジキの和え物が何よりも好物だったってことじゃない?」
たとえ百二十パーセント先輩が酔っていたとしても、彼がスフィンクスの謎かけみたいな言葉の羅列の中で何を私に伝えようとしていたのかはなんとなく汲み取ることができた。
前著のように、内定を受けてから毎日を呑気に過ごしていた私は、全く信用金庫という職業の基礎知識も持たずに入庫したわけだけれど、さすがにそれじゃいけないなと思って慌てて勉強をした。
それによると都市銀行ないし、地方銀行などと比べても支店の店舗数や展開範囲の広さ、そして最も客観的に比較しやすいであろう総預金高の項目でも、確かに信用金庫は銀行にことごとく劣っていた。
そこまで詳細に数値化されたものを提示されてしまえば、同じような業務体系を持ちながらも、正直、金融業界的(あるいは世間的)な格付けとしてはどうしても銀行の方が上にきてしまうのは致し方ないことであるのかもしれない。
でも確かに金融サービス業という形態は同じでも、信金と銀行では経営理念というか、目先を向けている方角がまるで違うということを私はみんなに訴えたい。
一般的に『営利至上主義』で大企業との取引が中心となり、国の経済という大きなくくりの行方を見つめているのが銀行で、『地域の利益が一番だよ主義』で街の中小・零細企業や個人と差向いで対話し、管轄地域の発展と明日を考えるのが我らが信金だ。
もちろん地域密着型の銀行だってあるし、上場企業と関係を密にしている信用金庫だってある。
だけど、それぞれに縛られている法律の違いや得手・不得手など何やかにやいろいろとあって、原則的にはこんなふうにそれぞれの役割が明確に分け隔てられている。
そう、私たち信用金庫は決して銀行の二番煎じなんかじゃない。
実際のところ、煎茶と番茶だとか、玄米茶とウーロン茶だとかいうように、お茶っ葉の種類自体がそもそも全然違っているのだ。
ビールを片手にした酔っ払いに改まって諭されるまでもなく、今ではちゃんとそのことを私も理解している。
あの時、私を可哀相だと言った友達によっぽど熱弁してやりたかったけれど、すこし天然ボケの傾向がある彼女にお茶っ葉の例えを駆使して説明したところで理解してはくれないだろうと思ってやめた。
「そっかぁ、マリコちゃんはお茶屋さんに就職したんだね」と言われて終わるのが目に見えている。
***
玄関のチャイムが鳴った時、私はちょうど鶏のカラアゲを揚げる作業の佳境に差し掛かっているところで、直ぐにドアを開けてあげることができなかった。
一秒でもタイミングを見誤ると私の求める理想のカラアゲが仕上がらないのだ……という程にこだわっているわけではないけれど、なんとも途中で目を離すことができない微妙な段階だった。
だから私は間隔を開けて何度も鳴らされるチャイムに申し訳ないなと思いつつも、ジッと菜箸を構えて引き上げの頃合いを見計らった。
こだわってはいないまでも、やっぱり焦げたり半生だったりするカラアゲはなるべく食べたくはない。
「いるんならさっさと開けろよ」
私がようやくドアを開けると、憮然とした表情をした隆司が立っていた。
「なんかあったのかと思うだろ」
「普通、ここまで出てこないなら、留守だと思うんじゃないの?」
私も負けじと不機嫌そうに言ってやった。
「こんなカラアゲのいい匂いがプンプンする留守なんてあるもんかねぇ」
「そりゃぁあるでしょ。世の中には私たちの知らないことがたくさん溢れてるの。実はね、まだ試験段階なんだけど、玄関のチャイムを鳴らせばカラアゲの芳しい香りがスピーカーから漂ってくる最新鋭のインターホンを、どこかの大学の研究チームが開発したらしいの。お好み焼きとか牛カルビ味とかカートリッジを付け替えるだけで、いろんなフレーバーが楽しめるんだって」
「まさか」
「あとチゲ鍋風味とかカキフライ定食……」
「お部屋に上がらせてもらってもよろしいでしょうか、お姉さま?」
弟はさっさと私を押しのけて部屋に入って行った。
「何、なんか持ってきてくれたの?」
隆司は紙袋をたずさえていた。
「ああ、お袋から。誰かのどこかのお土産でソーメンたくさんもらったから持ってけって。よくわかんねーけど結構有名なもんらしいぞ」
引っ越しを手伝ってもらった後も、こうやって何度か隆司は私の家に来た。
父や母が私がちゃんと生活できているか偵察をよこしているというのも少しはあるのだろうけれど、どちらかといえば隆司自身が私のことを心配してちょこちょこ顔を見せに来ているといった感じだった。
もちろん、そんな恥ずかしいことを面と向かって言われたわけじゃないけれど、会話の端々や、さりげなく私の顔色なんかを盗み見ている視線に、私への温かな気遣いが見え隠れしていた。
いつか私が手首を切った時の記憶が相当ショッキングなものとして残っているのだと思う。
その出来事以来、隆司は何かと私の体調や行動を過敏に気にするようになってしまった。
自分でも気づかないくらい些細な風邪の兆候でも隆司は見逃さず、すっと薬を差し出してきたし、私が黙って出掛けようとすると、必ず誰とどこに行くのかと何気ないふうを装って確認してきた。
一人暮らしをしたいんだと家族の前で宣言した時、結婚するまで家にいればいいじゃないかと最後まで不服そうだったのは、父でも母でもなく隆司だった。
これが他の姉弟だったとしたら、そんな弟の過剰ともいえる姉への想いに、あるいはウンザリしていたかもしれないけれど、私はぜんぜんそんなことは思わなかった。
ただ、そんなトラウマにも似たものを心に抱かせてしまったことに申し訳ないなという気持ちはあった。
だから私は弟が心配そうにこちらを見るその度、何も問題はない、いつも通りのおねーちゃんよ、というメッセージを込めて、せっせと冗談ばかりを言っていた。
「しかし、今日の晩飯はえらく豪勢だな」
「うん、ちょっと人が来るの」
「へえ、とうとう男ができたか」
「とびっきりの男前。あんたももう少しその人を見習えば、もっとモテるようになるよ、きっと」
「ふーん……それじゃ親族代表として俺が一回面接してやるよ」
「わかった、一人前追加ね。せっかくだからこの持ってきてくれたソーメンも茹でちゃおうか。あ、確かに有名なやつだよ、これ。創業が江戸時代末期とかいう老舗の」
「おいおい、冗談だよ、帰るってば。こういう時はもっとしおらしく、二人きりでいさせてほしいからごめんね、とかいうもんだろ、普通」
「いいよ、二人も三人も作る手間は一緒なんだから」
「いや、そうじゃなくて……」
結局、隆司も夕ご飯を食べていくことになった。
約束の時間まではもう少し余裕があったのだけれど、隆司の方ではぜんぜん余裕がなく、テレビのチャンネルを忙しなく換えたり、部屋の中をそわそわと意味もなく歩き回ったり、何事かぶつぶつと呟きながらカーペットやフローリングのほこりをガムテープでペタペタと取ったりと、終始落ち着かない様子だった。
姉の彼氏と顔を合わせると思うだけでこれなのだから、もしも将来、自分の娘が結婚相手を家に連れて来るとかいう状況になったら、一体どんな騒ぎが持ち上がることやら、親族を代表して心配をしてしまう。
でも隆司は肝心なところを根本的に見誤っている。
あなたの姉は決して嘘は言わない。
だけど、他でもない、彼女は弟をからかうことに一種の使命感すら覚えているのだ。
「……何が男だよ」
来客をまじえた三人で食卓を囲みながら、隆司はむっつりした顔をしていた。
「私は『男前』と言っただけで『男』だとは一言も言ってないよ」
「屁理屈ばっかりこねんじゃねーよ。話の流れから考えたらどうしたって男が来るんだと思うじゃねーか」
「なになに?アタシのことでケンカしてるの?」
そう言ったのは、今日のゲストであるミサキ。
私よりも五歳年上で、私たちの父方のいとこで、私と同じれっきとした女性だ。
「ねーちゃん、ミサキさんのこと男前だって馬鹿にしてましたよ」
告げ口する子供の用に言う隆司が面白かったのだろう、ミサキは楽しそうに大きく笑った。
「それはアタシみたいな女にとっては最上級の褒め言葉になるのよ、覚えておきなさい坊や。世の中の女のすべてが、可愛いだとかキレイだとか言われて喜ぶと思ったら大間違い。アタシの耳にはただの侮辱か嫌味かセクハラぐらいにしか聞こえないんだから」
自分でそんなことを言っているけれど、ミサキという人となりを形容するのに、確かに可愛いは有り得なかった。
凛とした佇まいと鋭い切れ長の目、そしてサッパリとした性格はクール・ビューティーという表現がピッタリだった。
国立大学の法学部の在学中に司法試験を一発でクリアし、卒業後は学生時代からバイトをしていた大手の弁護士事務所に正式に籍を置き、今や気鋭の若手として法曹界に広く名前が知れ渡っている。
まあ、社会的な立場としては私とはまるで対極に位置する優秀な人物だ。
ハキハキとした物言いや何事にも動じない肝っ玉など、いつまでも姉のからかいにふてくされている隆司なんかよりもよっぽど男らしかった。
「それにしても、相変わらずのシスコンぶりね。いい加減ねーちゃん、ねーちゃんって付きまとうの止めたらどう?そのうちマリコからストーカー被害で訴えられるわよ」
「なんだよ、ストーカーって。別に付きまとってなんかねーし。……ただ俺は……」
見る見る隆司の頬が赤らんできた。
「もし訴えたら私、勝てるかな?」
それを見た私がすかさずミサキに尋ねた。
「そうね、勝算はあるわ。日本ではどうだったか今すぐにはわからないけど、たしかアメリカのどこかの州であんた達みたいな姉と弟の間でのストーカー・トラブルの判例があったはずよ。最終的に禁固十年だか十五年だかが言い渡されたはず」
「十五年かぁ……華の二十代をまるまる刑務所の中で過ごすんだ。気の毒だけど仕方がないよね、こればっかりは」
「まあ、もっと醜悪でえげつないことした弟くんだったみたいだから、そこまでぶち込まれることはないでしょう。でも、この先タカシくんがいつえげつなくなるとも限らないもんね。大きくなる前に犯罪の若芽を摘んでおくということも法曹関係の人間としては大事な責務よね」
「でもそれって本来、警察の仕事なんじゃない?過度の越権行為にうるさいでしょ、ああいうとこって?」
「そうなのよ、そうなのよ。マリコにもわかる?本当にここだけの話なんだけど、あいつら警察のことって大っ嫌いなのよ、アタシ。ちょっと裁判所に書類提出するのに五分くらい車停めてただけだっていうのに、あいつら目ざとく……」
「……俺のストーカー話はどうなった?」
「あ、ついに認めた」
「おねーちゃん、タカシが更生するのずっと待ってるから」
「だ・か・らぁ!」
私とミサキがいるところに同伴したその瞬間から、隆司の負けは決まっていたのだ。
歳は五つも離れていたけれど妙に気が合い、ミサキとは学生時代からよく二人で遊んでいた。
その関係はお互いに大人になった今でも続いていて、もはやいとこ同士というよりも、普通の仲のいい友達として親しくしていた。
もちろん、きっちり週休二日のお休みをいただいている私と違って、ミサキの方では毎日寝る間も惜しんで働きづめていたから、それほど頻繁に会うというわけにはいかなかった。
それでもミサキの方で少し時間が空いたりすると連絡をしてきて、一緒に食事をしたりショッピングをしたりしてストレス発散がてら、おおいに遊ぶわけだ。
私が一人暮らしを始めてから会うのはこれで三回目だったけれど、下手に出歩いたりせず、もっぱら今夜のように私の部屋でささやかな宴を催すのがこれからの恒例になりそうだった。
肩ひじ張らずにゆっくりとくつろぎながら料理をつまみ、お酒を酌み交わし、あれやこれやと話す時間がなんとも楽しかった。そう話すとミサキも私と同じようなことを思っていたようだった。
「なんだか気持ちが楽になるのよね、マリコのところに来ると。もちろん気の合うマリコといるから楽しいっていうのが一番にあるんだろうけど、なんていうかな、そもそもこの部屋の居心地がすごくいいのよね。家具やインテリアの類は別に大したもんじゃないしアタシの趣味でもない、特にリラックス・アロマが漂っているわけでもなければ、心を癒す観葉植物の一つも置いていない。部屋だって窓が多いこと以外は別にこれといって凝ったつくりでもないし、こう言っちゃなんだけど、別にどこにでもある普通の部屋。一人暮らしの女の子の部屋にしてはいささか殺風景なくらい、無個性な部屋」
「ずいぶん、ボロクソに言いますね」
思わず隆司が苦笑いをした。
「別にけなしてるわけじゃないのよ。ただ変哲もなく普通ってこと。それにアタシのマンションなんて殆ど寝に帰るだけだから、まともな家具なんてベッドとデスクだけ、殺風景さの度合いと無個性さの割合ならここなんて足元にも及ばないわ」
ミサキは肩をすくめて渋い顔をした。
それで彼女が謙遜して自分の部屋を悪く言っているわけではなく、本当にそこが寒々とした部屋であることがわかった。
「それよりもアタシが言いたいのは、このただの変哲もない普通の部屋には、とても変哲のある普通ではないほどに美しい調和が確かに存在しているということなの。床や壁、ドアに窓、蛇口や棚、そして家主のマリコ……そんな小さな一つ一つがそれぞれ反発したり出しゃばったり人見知りしたりすることもなく、うまい具合にピタリとマッチし、手と手を取り合ってこの空間に調和という大きな心地の良い和音を生み出して奏でているの。アタシはここに初めて来た時からその和音が聞こえていた。そして、その和音の中心にいるのは紛れもなくあんたなのよ、マリコ。今までもただ一緒に遊んでいるだけで十分ストレスの発散になってたけど、マリコがこの調和の歌を優雅に指揮している様子を見てしまってからというもの、ここでゆっくりとした時間を過ごすことがアタシの心には何より気持ちを落ち着かせるセラピーになっているわ。マリコという絶対的リーダーの存在がこのつくづくつまらない部屋を巧みにまとめ、完結的ともいえる心地の良い調和の空間を作り上げる様子にとても癒されているのね」
「そういえばミサキ、絶対音感、持ってたよね」
「音感の問題じゃないわよ、別に」
「でも、指揮者だなんて私もずいぶん出世したもんだ。音楽発表会といえば、その他大勢のリコーダーか鍵盤ハーモニカしかやったことなかったのに」
「そうよ、マリコ。あんたは出世したの。というか元から指揮者だのピアノだのの花形をはれる能力はあったんだから、別に突然の抜擢というわけじゃない。当然の抜擢よ」
「……また無理矢理そういう話にもっていく」
「あんたがいつまでも無理矢理そういう話から目を逸らしているからよ」
「目を逸らしてなんかない、ミサキは昔から私のことを買いかぶりすぎなのよ。私はいつまでも大勢の中に紛れてピーピー、リコーダーを吹いて生きていくの。そういう人間なの。たまにタンバリンくらい叩いてやってもいいけど、それだって別に私がやってもやらなくても代わりはいくらでもいる」
「この先もあんたはそうやって逃げ続けるのね?自分にはどうせ何もできないんだ、自分には能力がないんだ、だったらはじめから難しいことはやらない方がいいんだ、努力なんてしてもどうせ無駄に終わるんだ……そう言ってちょっとでも高そうな山や険しそうな道やらをこれからも避けて通って生きていくのね?何もやらないうちから無理だと決めつけて諦めて、平らで無難で退屈な道をあんたは歩いて行くんだね?」
「今日はずいぶん熱くなるじゃない。『氷の盾』なんて異名を持つ美麗でクールでタフネスなやり手の弁護士先生の発言とは思えないね」
「そんな恥ずかしい二つ名、あんたにくれてやるわよ。今からだって遅くないわ、弁護士でも検事でも裁判官でも、法律を盾や矛にして勇ましく戦えるだけの力がマリコにはあるんだから、本当に。きっとアタシなんかよりもよっぽど優秀な法律家になれるわよ」
「……あの、何かおつまみでも買ってきましょうか?」
おずおずと隆司が口を挟んだ。
「それじゃ、チーカマと鮭トバとポテトチップスとピスタチオ。あと、明日の朝食用に食パンも」
「あと、ビールをもう少しと白ワインもお願い。銘柄はなんでもいいからとにかく一番高そうなやつを買ってきなさい」
「コンビニですよ?大したワイン置いてないと思いますけど」
「だからなんでもいいって言ったでしょ?とにかく無性に白ワインが飲みたいの。お勘定なら大丈夫、雇われの身とは言え『氷の盾』の稼ぎをなめんじゃないわよ」
隆司はそそくさと部屋を出て行った。
きっと私たちの激しい比喩だの毒だのの応酬に頭が混乱して居た堪れなくなったのだろう。
女同士のピリピリとした辛辣な言い争いの場に平然として座っていられるには、まだまだ弟はお子様だったということだ。
とはいえ、なにも私とミサキはいがみ合っていたわけじゃない。
さらに言えば、こんなやり取りをするのだって別にはじめてのことじゃない。
何かにつけてミサキは、凡庸と退屈の狭間でのうのうと生きている私を説教まがいにたきつけてきた。
そういう時に限ってだけ吹かせる年上風は、悔しいくらいに大人びていて、私はいつも適当にはぐらかすことしかできなかった。
昔から……具体的には私が幼稚園の時からミサキとは親交があった。
当時、三歳になったばかりの隆司が、気管支系の病気のために何か月か入院していた時期があった。
幼い隆司に母は付きっきりにならなければいけなかったし、父はもちろん日中は働きに出て家にいなかった。
そこでお互いの家が近所だったということもあって、ミサキが私の相手役として駆り出されることになった。
十歳と五歳との間には、体格の面でも精神の面でも相当な隔たりがあったことだろう。
十五歳と十歳、あるいは三十歳と二十五歳の間にだってそれなりに世代的な開きがあるのかもしれない。
だけど、多分、十歳と五歳のそれと比べてしまえば、どれもこれもがかくも微々たる隔たりなのだと私は思う。
相手をするとはいえ、話す話題が合うでもなければ、何か遊んでみても小さな私がいくら本気になったところで小学四年生のミサキに敵うわけもなく、ただのお目付け役という呼び方の方が正しかっただろうか。
本当はミサキももっと同学年の友達と話したり遊んだりしたかったことだろう。ゆっくりと宿題をしたりピアノの練習をしたり自分の時間を過ごしたかったことだろう。
だけど父親同士が兄弟だと言うだけで、そして家が近所だと言うだけで幼稚園児のお守を当たり前のように強要され、隆司が退院するまでの、そしてミサキ家族がどこか別の街へと引っ越していくまでのごくごく短い期間ではあれど、殆ど毎日のように放課後の時間を私のために割いてくれた。
私はと言えば呑気なもので、急にお姉ちゃんができたと思って本当に嬉しかった。
それも背が高くて頭が良くて、色白でキレイな長い髪からいつもいい香りを漂わせて、おまけに上手にピアノを弾くことまでできるという自慢のお姉ちゃんだ。
なんでも彼女の真似をしたかった。
ミサキが猫の絵が描かれた可愛らしいポーチを買ってもらったと聞けば、私も同じ物が欲しいと親にねだった。
ミサキがオモチャのピアノを自宅から持ってきて簡単な曲を弾いてくれたりすれば、私もやりたいといってゴネ、結局そのピアノを強引に譲り受けてしまった。
ミサキが紅茶を飲めば、それが飲みたいと言って文字通り苦い思いをしたし、ミサキがトイレに立ったなら、その後ろをついて行ってドアの前でずっと待っていた。
……どうやら隆司のシスコンを裁判所に訴えるような資格は、私にはないみたいだ。
そんなことを思い出していたらなんだか笑いが込み上げてきた。
あの頃の私は本当にミサキのことが大好きだったんだなぁと、しみじみと思った。
「何よ、そのいやらしい笑いは?」
私のニヤニヤとした顔を見たミサキも、顔をほころばせながらそう言った。
「うん、昔のことを思い出しちゃって」
「昔のこと?」
「ねえ、ミサキ。正直に答えてほしいんだけど?」
「何?」
「いいから」
「……わかった。良心に従って、真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」
とミサキは右手を高らかに突き上げ、わざとにかしこまって宣誓した。
「私たちがはじめて会ったあの時、ミサキがおじさん達の言いつけで私と一緒に留守番をしていた頃、本音ではそんな役回り嫌だったんじゃない?」
「そうねえ……良心に従って実のところを述べれば、嫌だった」
「やっぱり」
「さらに隠し立ても偽りも述べないとしたら、嫌だったのは最初のうちだけよ」
「ホントに?」
「ホントに」
ミサキはニッコリ笑って言った。クールなミサキもカッコいいけれど、やっぱり私はこういう温かくて自然な笑いをたたえたミサキの方が好きだ。
「最初は本当に嫌だった。なんでアタシが鼻水垂らした園児の子守なんてしなくちゃならないのよってね」
「確かに、鼻水はよく垂らしてたよね、私」
「その鼻水を拭ってやろうとしても、あんたはちょろちょろと走り回って……追いかける方は大変だったんだから」
お互いがそれぞれに同じ追いかけっこの情景をそれぞれの頭で同じように思い描いた。
だけど少し後退した笑みから、どうやらその後にミサキが継ごうとしている言葉は、私の思っているものとは違うみたいだった。
「だけど、別にマリコの世話をするのが嫌だったっていうわけではないの。ただ、アタシの都合や意見も聞かず、勝手に物事が進められていくのに我慢が出来なかった。アタシ、早熟と言えば早熟な女の子だったから、もはや小さいながらもアイデンティティーみたいなものが芽生え始めていたのよ。……でもね、その頃のアタシには、なにやかにやと両親が押し付けてくるものに対して、まったく逆らう力を持っていなかった。ほら、小さな頃からちょっと周りの子よりも勉強が出来たり、苦も無く何事もそつなくこなしているのを見つけたりしたら、大概の親は自分の子は天才かもしれないなんて舞い上がっちゃって、次から次に色んなことをやらせようとするでしょ?うちの両親もまさしくそうだった。自分達ができなかったことや挫折した夢なんかを娘越しにでも果たしたかったのね、きっと。そして彼らが要求したものをアタシが簡単に、それも期待する以上の成果でクリアすると、今度は更に難しい問題や複雑なことを私に要求してきた。小学校から私立の学校に通わされ、ピアノや習字なんかのお稽古事をやらされ、自分達が着る物や使う物を辛抱してでも、アタシにはキレイな洋服を着させた。信じられる?父親が一年中二着のスーツを着まわしたり底の減った一足の革靴をだましだまし履いているっていうのに、娘の方では毎週のように新しい服や可愛らしい靴をあてがわれて。そういうのがどれだけ当の娘に重たいプレッシャーとしてのしかかっていたのか、父も母もまるで想像ができなかった。それがアタシのために一番良いことなんだと信じて疑わなかったのね。アタシはアタシで、両親に申し訳ないなっていう気持ちと期待に応えなくちゃっていう気持ちを何より優先させて、好むと好まざるなんて関係なく、差し出されるままに全部を受け入れていた。生まれたてでまだ目も開いていない無力で矮小なアイデンティティーなんて、にべもなく踏み潰されてしまったわけね」
軽い思い出話をするつもりで言ったものが、まさかそんな話にまで発展していくとは思わなかった。
私は戸惑った。
冗談で笑いとばすような空気でもないし、驚いたように相槌を打つのもどこか違うような気がした。
かと言って他に何と応えたらいいものかもわからず、私はただ黙って目の前に転がるビールの空き缶を手でもてあそんだ。
全然気がつかなかった。
ミサキは何てこともなくさらりと言ってのけたけれど、私が鼻水をすすりながら、いつもいい匂いのする素敵なお姉さんとして無邪気に憧憬の眼差しで見つめていた十歳の彼女が、その膨らみを見せ始めた小さな胸のうちにそんな心の闇を抱えていただなんて、今の今まで一片だって気が付きもしなかった。
……またアイデンティティーだ。
十四歳の夏休みに私をけしかけ、わき目もペース配分も考えずに必死で走らせ続け、挙句に冷たいナイフまで手に取らせたあのアイデンティティーの囁きが、十歳のミサキの耳にはもう聞こえていた。
もちろん耳の良さはこの場合にも関係はない。
だけど、そんな絶対音感を備えるまでには、きっと私なんかが気安く軽口をたたくネタに使っていいような、安易な道のりを辿ってきてはいないんだ。
弾きたくもないピアノを弾いて皆に感心されなければいけなかった。
書きたくもないくずし字を書いてコンクールの賞を取らなければいけなかった。
やりたくもないことを、それでも一生懸命にミサキはやり続けなければいけなかった。
自我の発露をグッと押し殺したままで、ずっと……。
「そんなしんみりした顔しないでよ。嫌だったのは最初だけだって言ったでしょ?」
とミサキは殊更大きく笑いながら、私の頭を優しくポンと叩いた。
「……ねえ、アタシが適当にあしらったり煙たそうな顔してるのもお構いなしに、マリコはぐいぐいと寄ってきたわよね?」
「それは……私、バカだったから」
「マリコはバカなんかじゃない」
ミサキは小さく首を振った。
「それは自分がやりたいと思ったこと、自分がこうだと信じたことに、マリコは素直に従っていただけ。アタシがどれだけ嫌悪感を示したとしても、マリコはさらにその上をいく自分の信念を振りかざしてアタシに向かってきた。いくら無邪気な子供だとは言ったって、自分を快く思っていない人間がいたらなんとなく本能的に察して近づかないようにするもんでしょ、普通。そりゃ肉体的な差もあるから相撲をして組み合ったり、かけっこの勝負をしてみたりしてもアタシがことごとく全部勝ってた。だけどね、何度倒されても、どれだけ邪険に押しのけようとしても、あんたはただただ一心不乱にアタシに突進し続けてきた。それも体だけじゃない、精神的な領域においても一緒にね。実質、アタシは負けてばかりいたのよ、マリコ。あんたの想いや気迫の強さに、アタシは圧倒されてばかりいた」
「やっぱりただのバカじゃない、そんな奴。自分が負けたことにも敵わないことにも、嫌われていることにも気がつかないで」
我ながら、本当にバカな子供だったんだとつくづく悲しくなった。
「アタシは羨ましかった」
「……バカなことが?」
「そう、あんたが言うところのバカ、アタシが思うところの心の強さ。だってその強さに毎日打たれ続けたアタシは、ある日マリコのところに行くのを楽しみにしている自分がいるのに気がついた。学校の授業中なんかにふと、今日はどんなことで挑んでくるんだろう?また相撲?それともこの間ボロ負けしたトランプ?何がきたって簡単に打ち負かしてやるけどね、なんて具合に思ってわくわくしちゃってるわけ。いつの間にか、あれだけ嫌だったお守役が、ううん、マリコっていう小さくて生意気で心が真っ直ぐな鼻たれの女の子のことが大好きになっていたの。……それってすごいことだと思わない?あんたは頑なになったアタシに一貫して近づこうとし続けて、そしてついには心まで貫いてしまったのよ。マリコはバカだなんて言ってるけど、アタシにとっては強い想いは必ず報われるんだという、今では化石のように古くなってしまった精神論を、これ以上ないってくらいの具体例で示してくれた。アタシにはあんたのことが小さくも勇ましい勇者のように見えた」
「変わってる」
「そう、アタシは変わったのよ。マリコのおかげでアタシは変わることができた。やっぱり人の気持ちってキチンと言葉や行動で示さなくちゃいけないって思ったし、察して欲しいとかサインに気がついて欲しいとかいうのは、多分、甘えなんだろうなって思った。だからマリコみたいにアタシも正面から両親に向き合うことを決めたの。アタシはピアノなんてやりたくないし、キレイな洋服だっていらない、お金は持っているけど中身がまるでないような今の学校のお嬢様たちとは付き合えない、普通の学校に行って、普通の友達を作りたいのってね」
「もしかして突然、私の家の近くから引っ越したのって……」
「その通り、両親はわかってくれたのよ、アタシの気持ちを。そりゃ驚いてたわよぉ、なにせ自分達が良かれと思ってやっていたことが、まさか反対に娘を苦しめていただなんてね。父も母もちゃんと誠意をもって謝ってくれたわ。そしてアタシも同じくらいの誠意を込めて謝ったの。別に二人も悪気があってしてたことじゃないっていうのもわかっていたし、二人が望むような理想の娘にはなれなかったわけだしね。それからどうしたと思う?なんと親子三人、抱き合いながらおいおい泣きじゃくったのよ。ちんけなスポ根青春ドラマのワンシーンみたいで笑っちゃうでしょ?でもアタシたちは確かにそれで一つになれた。ガッチリとスクラムを組んで家族の絆を確認し合ったの。……ちょうどその頃、父親の会社で地方への転勤を志願する人を求めていたの。左遷とか降格とかじゃなく、その会社がまだ未開発だった地域へ進出するために新しい支社を置くから、やる気のある人は志願してくれないかって感じで、まあ言ってみれば開拓団の有志を募っていたわけね。そして、よかったらそこからまた新しく家族を始めてみないかって父が提案してきたの。場所を変え、生活のペースを変え、一度リセットボタンを押すみたいに気持ちを新しくしないかってね。アタシも母もその案に同意した。もちろん、そんな安易に生まれ変わることなんてできないのは全員わかっていたけど、それでも新しいスタートをするんだっていう象徴として、住む場所を変えるっていうのはなかなか良い選択に思えた。……日程が迫っていたから、慌ただしい出発になっちゃったけど、タカシくんも退院していたし、キチンとマリコにもお礼をかねたお別れも言えたし、何も思い残すことなく、街を出ていけた。出発の日の朝の清々しい空気を、アタシは今でもまだハッキリと思い出すことができる」
「ちょっと待って、お礼もお別れも言われた覚えがないんだけど」
「本気で?」
ミサキは本気で呆れたように言った。
「詳しい個人的な事情はともかく『今日でサヨナラだね、今まで楽しかったよ、本当にありがとうね、マリコちゃん』ってアタシが言ったら『うん、サヨウナラ、アリガトウ』ってあんた返してきたじゃない」
「ぜんぜん覚えてない」
「やっぱりあんた、ただのバカだったのかしら」
そう言ってまた大声で笑い合っていたところに、隆司が帰ってきた。
両手にはパンパンに膨らんだビニールの買い物袋を提げていた。
「なんだ、仲直りはできたのか?」
「ううん、これからするところ」
「そうそう、飲み直しながらゆっくりとね。……それにしても歩きとはいえずいぶん時間がかかったのね?近くのコンビニでしょ?」
「いや、頼まれた物は全部あったんですけど、この家、そういやーコルク抜きなかったなと思って」
「え、そうだっけ?」
「そうでございますよ、お姉さま」
苦々しそうに隆司が言った。
「でもコンビニにも置いてなかった?」
「それが普段はあるらしいんですけど、今日に限って二、三本いっきに売れたらしく、日頃大した売れるもんでもないから在庫も置いてないって言われて、そんでちょっと離れてるんですけどホームセンターまで行ってきたんです」
「本当に?ああ、ごめんなさい、タカシくん。アタシがワインなんて余計な物頼んだせいね」
「いえいえ、いいんです。もしも責任があるとすれば、コルク抜きの一つも部屋に置いてないどっかのへそ曲がり女にでしょうから」
「そういえば、缶切りとか栓抜きとかいう類の物もなかったような気がする。あと食器洗い洗剤もなくなってたなぁ」
「そう思って、アウトドア用の缶切りも栓抜きも小型のナイフも一緒になったコルク抜きを買ってきたぞ。あと、食器洗い洗剤の他にラップも切れてただろ。それにこんだけたくさん料理しておいて保存用のタッパーも用意してなかっただろ?だから買っといてやったぞ」
「タカシくんって本当に気が利くのねぇ」
ミサキが感心したように言った。
「仕事のアシスタントに雇いたいとこだわ」
「ホント、たまに利口な犬みたいに見える時がある」
「あ、わかるかも。犬耳と尻尾、似合いそうだものね」
「ほらタカシ、お姉さまたちがいい子いい子してあげるからこっちに来なさい」
「ハアァァ……」
隆司の大きなため息が部屋の空気の中に溶け込んで、私の率いる調和の音楽隊の演奏に更に奥行と幅を付け加えた。
それからまたもう一盛り上がりして遅くまで騒いだ後、ミサキは朝早くに仕事が入っているから帰ると言った。
私がタクシーを呼ぼうとすると、酔い覚ましに大きな通りまで歩いてひろうからいいと断った。
「仕事があるなら言ってくれればいいのに……大丈夫?そんなに飲んで?」
ずいぶんお酒を飲んだから心配で、大通りまで一緒に付き添って歩きながら、私はミサキに言った。
休みなのだろうと思っていたから止めなかったっていうのに。
「大丈夫、大丈夫。アタシが酒と法律には誰よりも強いのを知ってるでしょ?それに信念の赴くまま、アイデンティティーの気の向くままに好きで飲んだんだから、マリコが悪く思う必要はないの、わかった?だからこの話はもうなし、いい?」
それ以上私は言葉を継げなかった。
私たちはしばらくそのまま黙って歩いた。
先程ぷっつりと切られてしまったせいか、なんとなく、次の会話の糸口が見つからなかった。
だから私たちは黙々と夜の住宅街の中を、六月のまだ少し肌寒い夜風を切りながら並んで歩いていた。
途中、野良猫が二匹、私たちと同じように黙りこくりながら連れだって前を横切っていった。
この時間の二人連れは決して言葉を交わしてはいけないなんていう世界のルールがどこかの誰かの手によって急きょ決まり、即時施行されたのかもしれない。
「マリコはどうして変わっちゃったの?」
前置きもなく、おもむろにミサキがそう口を開いた。
「……私、変わったかな?」
ちらりと彼女の顔を見て真意をうかがってみたけれど、特に顕著な表情の変化もなく、いつものクールなミサキだった。
「引っ越してから何年か経って、うちの母親がなんかの機会にマリコのお母さんから聞いた話をそのまま教えてもらったんだけど……」
私の不安を察してか、こちらを見返して、ミサキはイタズラっぽく笑った。
「あんた十歳の時、無理矢理おばさんに連れて行かれた美容院でやらかしちゃったんだって?」
「やらかしたなんて別に……」
「その話を聞いた時は嬉しかったなぁ。ああ、マリコは何にも変わってない、アタシの知っている、アタシを救ってくれた時のまま真っ直ぐに生きてるマリコだなって。そしてすごいなぁとも思った。同じ十歳でもアタシなんかとじゃ比べ物にならないくらいの強さを持った十歳なんだなってね」
「成長してなかっただけだよ、五歳から」
「でも、アタシ達が再会した時、それから今みたいな友達づきあいが始まった時には、もうアタシの知っているマリコはどこにもいなかった」
「私が十六で」
「アタシが二十一だった」
その時のミサキが、失望とまではいかないまでも、確かに自分の運命に対して開き直って適当で投げやりな毎日を送っていた私に、少なからずがっかりしていたのは薄々感じていた。
それでも二言、三言会話をするうちになんだか意気投合してしまい、すぐに互いに気が置けない存在となって今の関係があった。
私が倒れたことも、リストカットをしたことも私から直接言ったことはなかったけれど、多分、いつも時計で隠している手首の傷や叔父さん達から一連の出来事を聞いてミサキは知っていたと思う。
「……ねえ、ミサキ」
「うん?」
「人間、十六歳にもなれば色んなことが小さなの頃とは変わってしまう。二十二歳だってそうだし、百二十歳だってそう。いくら私がバカで人よりも成長が遅いと言ったって、さすがにいつまでも五歳や十歳の頭ではいられない。それは多分、間違ったことなんだと私は思う。私たちはピーターパンじゃないの。大人になるに従って、歳を重ねるにつれて、いろんなものを細かく足したり引いたりして調整してやらないと、バランスを崩して倒れちゃう」
「そんなことわかってる。別に今のマリコを否定してるんじゃないのよ。それだったらこんなにしょっちゅう会ったりなんかするもんですか。今ではマリコは唯一無二、この世でたった一人心の許せるアタシの大好きな親友よ」
「ありがとう、私も同じ気持ちだよ」
「だけどね……アタシはいつまでもマリコには五歳の鼻たれでいてほしかったの、本当のところ」
「無茶ブリってやつだよ、お姉さま」
「まったくよね」
それから私たちはまた言葉を失くした。
通りには出たけれど交通量はまばらで、なかなかタクシーはつかまらなかった。
どれくらいそこに二人、立ち尽くしていたのだろう?
それほど長い時間ではないはずだ。
私は私の考えること考えていたし、ミサキはミサキの思うことを思っていた。
少なくともそれだけの時間は流れた。
そしてようやくタクシーが停まった。
乗り込んだ後にミサキは窓を開け「オヤスミ」と言ったから、私は「うん、サヨウナラ、アリガトウ」と返し、ミサキは笑い、そしてタクシーは彼女を『氷の盾』として出迎える世界へ向けて発進した。
私はすぐに踵を返して家路を急いだ。
角を曲がるまで見送るなんてことはなしなかった。
『そんな名残惜しそうに見送られたら、さもさも今生の別れみたいで嫌だ』
といつかミサキが言っていたことがあったからだ。
確かにこれっきりお別れになるだなんてこと、考えるだけでも嫌だった。
そう、私たちはまた会える。
今夜と同じようにまた私の部屋で食べて飲んで、いっぱい話しをして、いっぱい笑って……。
だけど今夜と同じように、一歩踏み込んだ話をすることは果たしてあるだろうか?
……わからない。
ミサキがあんな真剣な顔で腹を割って自分の過去について触れたことなんてこれまで一度もなかったことだ。
どうしたんだろう、今夜に限って?
はじめからそうしようと心に決めて電話をしてきたのだろうか?
それとも隆司という第三者がいたから話しやすかったんだろうか?
……それもわからない。
私には何もわからない。
ミサキの真意も風の行方も、日本の未来も世界の明日も、自分はこのままでいいのか、それとも悪いのかも、私には何一つわからない。
ふと見上げた空は曇りガラスを隙間なく張り巡らしたように薄くくぐもっていた。
梅雨の訪れの予感を秘めた湿り気のある雲から、うっすらと透けて見える月は、ほとんど満月に近いくらいに丸く大きいのだけれど、どうにも思うような輝きを下界に注げなくて少し苛立っているようにも見えた。
でも仕方がないんだよ、月くん。
世の中なんて大体そんなもんだよ、本当に。
何でも自分の思い通りになんていかない、いつまでも鼻水を垂らした五歳のままじゃいられないんだよ、わかった?
***
アパートの門前にまで辿り着くと人影が見えた。
ちょうど街灯の死角となるところに立っていた上に、どうやら黒っぽい服を着ているようで、はっきりとした姿かたちは確認できなかった。
それでもジッと私のアパートを見ているのが……もっと正確に言えば、アパートに付随する思い出とか記憶だとかいう目には見えないモノを見ながら、それらに思いを巡らせているのが、その微動だにも揺るがない影の佇まいから察することができた。
なんだろう?
なんとも説明しにくいのだけれど、そこからは私の動物的危機察知能力の琴線を揺らすような邪悪な気配も嫌な感じも受けなかった。
「あの……」
それでも私は声をかけてみた。
妖しげな雰囲気はなかったけれど、やっぱりジッと自分の住まいを見られているというのは決して気持ちのいいものじゃない。
影はビクリと身を震わせた。
やっぱり近づく私に気がつくこともなく、どっぷりと夢想世界の中に入り込んでいたようだ。
「すいません」
と短く言うと人影は顔を伏せ、手に何かを大事そうに抱えているような姿勢でそそくさと退散しようとした。
すれ違う時、ほのかに石鹸のいい香りがした。どんなに張りつめた心も月の苛立ちも、一瞬で洗い流してくれるような清潔で優しい香りだった。
「……あ」
私は呼び止めようと振り向いた時にはもうそこに人影はなかった。
私はなんとも煮え切らずに首を傾げた。
オバケにしてはとても律儀だったし、泥棒や変質者にしてはあまりにも清潔過ぎた。
……一体、なんだったんだろう?
「ねえねえ、ちょっと『すいません』って言ってくれない?」
部屋に戻ると私は宴の後片づけをしてくれていた隆司に向かってそう言った。
「おいおい、茶碗洗ってやってんのに謝れってか?」
隆司は不服そうに言った。
「一回だけでいから、ね?それと、なるべくいい声でお願い」
「……すいません」
「やっぱりダメね」
「なんなんだよ!」
さっきの声は、もっと清潔で優しくてカッコ良かった。
窓の外ではとうとう雨が降り始めた。
長く、じめじめとした梅雨が、今年もはじまる。
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