☂・ミスター・レインマン(Ⅲ)

 ☂


 梅雨入り宣言が出されてから三日三晩、雨は降り続けた。

 

 ミスター・レインマンは少しの間手を休めて憂鬱そうに窓の外を見やった後、また忙しなく店の開店準備に取り掛かった。

 長雨の影響かここ数日客足は疎らで、気候も気分もあまり爽快だとは言い難かった。

 

 それでもミスター・レインマンは、一人で黙々と動き回った。

 もう少しすれば、ママや従業員たちがやってくる。


 それまでには全ての準備を整えておかなくてはならない。


 そう、いつものように、完璧に……。

 

 ☂


 

 本人が知る由もないところで、『呪いの子』という残酷極まりない烙印を押されてしまい、まったく行き場を失ってしまったレインマン少年を、その後、自分が引き取って養うと名乗り出てきた人物がいた。


 母が働いていたスナックのママだ。

 

 商売柄、スネに傷持つ客や、その人生に暗い影を落とした従業員を数多く見てきたママにとって、今回のようにホステスの一人が断りもなく突然消えてしまうようなケースも、頻繁にあるとは言えないにせよ、決して珍しいことではなかった。


 むしろ、日頃からあまり覇気もなく、ふとした瞬間に現実から逃避するような遠い目をする少年の母親が、遅からず何か仕出かすのではないかと心配していた矢先の出来事だった。

 

 ――まさか、あんな二枚舌男にそそのかされるとは思ってなかったけどね――

 

 ママは皮肉を帯びた調子で肩をすくめた。


 その時は、まさか子供を置いて男と二人で消えてしまったなど、考えもしなかったわけだ。

 

 しかし、病院関係者と近しい従業員のホステスから、その子供が長い間たった一人アパートに残され、衰弱した状態で病院に運び込まれたということを聞いて、ママは驚いた。

 

 ―― 母親が子を捨てるだなんて……そんなことがあっていいのかい? ――

 

 ママは従業員の不手際だからという名目で見舞いに通っていたわけなのだが、実のところ、ただただ子供が心配でならなかっただけだった。


 彼女はとある事情から、子供の不幸というものに敏感に反応し過ぎてしまう傾向があった。


 そして、何度目かの見舞い中の病院内で彼の母の自殺を知らされ、一層その想いは強くなった。


 あわよくば退院までの期間、自分が出来るだけの世話をつくしてあげようと思った。

 

 それは決して安っぽい同情からくる気まぐれではなかった。


 何度も見舞いに訪れるにつれて、親しく話すようになっていた医師から、祖父母が養育の権利を放棄した旨を聞かされた時、やりどころのない怒りが湧いてきて気が狂いそうだった。


 今すぐに祖父母の家へと乗り込み、この手で天誅を下してその腐った性根を叩き直してやろうかと本気で考えた。


 しかし、それほどに激しい怒りにも増して彼女の心を占めていたものは、他でもないレインマン少年に対する申し訳なさだった。


 自分の目の前で行われていたはずの不貞行為を見抜けなかったこと。

 母が子を捨てたこと。

 

 子供を養い守るべき立場の人間たちがその義務をあっさりと踏みにじったことを、職場の監督者として、女として、一人の大人として、彼女はそれらの人間を代表して心から少年に謝りたかった。

 

 だが、どれだけ頭を下げてみたところで、現実的な問題が魔法のように片付いてくれるわけではない。


 この先、おそらくレインマン少年は施設に預けられることになるだろうと医師は言っていた。


 やるせなかった。


 どうしてこんなに無垢な子供が大人の都合で不当に傷つけられなければいけないのだろうと、本当にやるせなさだけがママの胸中に募った。


 そして、そんなやるせなさの陰からひょっこりと顔を出してきたものがあった。


 ……そうだ、自分が引き取ればいいのだ。

 

 突然ふって湧いたこの思いつきを、ママは稀代の名案ではなかろうかと何度も頷いた。


 元々溢れ出でる潤沢な母性本能を持て余していたような人だったから、思い立った途端に、彼女は自分こそがこの不幸な少年の救済者にならなければいけないという熱い使命感にとらわれた。


 実を言えば彼女自身、母親になりたいと強く望み続けてもついに子宝には恵まれてこなかったというあまり明るくない過去があった(若い時分それが原因で離婚し、以後長らく独り身)。


 それ故に、子供が巻き込まれる事件、特に子の肉親が関係する事件などには人一倍過剰に反応してしまうのだった。


 少年を自分が引き取ろう、いや、ぜひとも引き取るべきなのだとママは固く決心した。


 これは多分、昔、あらゆる神仏に必死にすがって捧げた祈りや願いのうちのどれかが、ようやく聞き入れられ、長い時を経て、自分の元に天使のように美しい男の子を授けてくれたのだろうと思った。

 

 医師も、彼女の献身的な看護や子供好きな様子、そして幾分ガサツそうではあるが優しい心の持ち主であろうことを間近で見ていたので、ママの案に異論はなかった。


 あるいはレインマン少年ならば、一人でいてもたくましく生き抜くことができるかもしれないと、少年の強さに敬意を表しつつも、やはり子供は大人の大きな愛によって庇護されながら育つべきだという基本を尊重することも忘れてはいなかった。


 もし誰も引き取り手が現れずにこのままただ施設に預けられるよりは、信頼のできる里親の元で大事に育てられて暮らした方が良いに決まっている。


 改まって面接のようなものをしてみたが、多少の歳の差はあれども、ママはその信頼のできる里親になりうる資質を十二分に備えているように見えた。

 


 そして肝心のレインマン少年の気持ちはどうだっただろう?いつかは病院を出なければいけないことも少年にはわかっていた。


 しかし、あのアパートには絶対に帰りたくはなかった。


 これからはもう母のことは胸の奥深くに閉まっておかなくてはならないというのに、あそこにいれば嫌が応にも母の顔を思い出して哀しい気持ちになるに違いない。


 そしてそうなると当然、自分は最愛の者に捨てられたのだという現実も一緒になって思い出すことになるだろう。


 そんなのは嫌だった。

 もう何ものにも心をかき乱されたくはなかった。


 でもそうするには、やはり母と二人で暮らした六畳一間にはあまりにも思い出が詰まりすぎていた。


 ……さて、そうなれば自分はどこに行けばいいのだろうか?


 もしもこの女の人と一緒に暮らすことができるというのなら、それはとても素敵なことなのではないだろうかと少年は思った。


 自分のために足しげく通って細々とした気遣いや面白い話をしてくれるママのことは好きだった。


 母にも向けられたことがないような慈愛に満ち満ちた温かなまなざしで見つめられると、むず痒さと恥ずかしさを覚える反面、ホッと心が和んだ。自分は決して一人ぼっちではないんだと思えることができた。


 ……ちなみに、あの一件以来姿を見せない祖父母のことは一瞬たりとも頭によぎることはなかった。


 少年にとって彼らはもはや、他人よりもまだ遠いところにいる存在だった。


 「どうだい?アタシのとこに来る気はあるかい?」


 愛の告白の返事を待つウブな女学生のように不安そうな表情をしているママに、少年はまた得意のニッコリとした大きな笑顔で頷いた。


 話はまとまった。


 


 レインマン少年の退院を待ってから、晴れて二人は一緒に暮らすこととなった。


 正式な親権を持った者が亡くなり、その親族もそれを拒んだということで宙に浮いてしまった親権のせいで、各種手続きは複雑に入り組んで途中で頓挫してしまった。


 結局、正式な養子縁組を組むことは叶わず、法的な面から見れば二人は母と子という関係ではなく、後見人と被後見人というなんとも素っ気のない立場でしかなかった。


 あくまでも他人なのだと一線を引かれているようでママは不愉快だった。


 おまけに彼女の立場では苗字の変更すらも認められないということを知らされ、なおさら寂しく感じた。


 無神経な世間の好奇の目が容赦なく二人に注がれた。

 決して少年の耳には入れたくないような汚らしい陰口が囁かれた。


 面白半分の醜聞が独り歩きしていた。

 二人とも気が滅入ることが多々あった。

 

 そんな出来事が続いたせいもあってか、さすがのレインマン少年でも、引き取られた当初は深い戸惑いの中でふさぎ込むことがあった。


 新しい家、新しい景色、新しい家族、新しい生活……。


 それらの変化を新鮮だと感じられる程に彼はまだ人生を謳歌してきてはいなかった。


 やはり八歳は八歳なのだ。


 彼にとって環境の変化とは、慣れ親しんだ安息の場所を不当に奪い去られ、突如として不安の荒野の只中に放り込まれてしまったようなものだった。

 

 眠れない夜もしばしばだった。


 そんな時、ママはそっと少年を抱き寄せ、「大丈夫、大丈夫」と言いながら優しく愛情を込めて頭を撫でた。


 「あんたは何も悪くない、大丈夫、大丈夫だよ」


 といつまでも言い続けた。


 少年は痩せて骨ばったママの胸に耳をあて、そこにある心臓の音を聞いた。


 規則正しく脈打つ音に少年は不思議と体が内側から温まってくるのを覚えた。


 少年には何よりもそのような安らぎが必要だった。


 大丈夫、自分は守られているのだという安心感が。


 そしてママの鼓動を子守唄代わりに、少年は穏やかな眠りへと誘われていくのだった。

 

 そんなふうに少年とママは互いに励まし合ったり慰め合ったりしながら『家庭』というものを必死で作り上げようとしていた。


 それまでお互いにあまり家庭生活に恵まれてこなかったため、二人ともひどく漠然としたイメージでしか捉えきることはできなかったが、それでも日進月歩、一つ一つブロックを積み上げていくような行程を、少年もママも心底楽しく感じた。


 家庭が形作られる確かな手応えみたいなものがあった。

 

 やがて、レインマン少年は持ち前の明るさを段々と取り戻していった。


 以前のように大きく無邪気に笑うようになった。


 見ている方も思わずつられて笑ってしまうような、一級品の笑顔だ。


 やはりどこにいたとしても彼の笑顔は皆を明るい気持ちにさせることができた。

 

 そして、ミスター・レインマンはやはりミター・レインマンであり続けた。



 ☂


 「お疲れだね、色男?」

 

 そう言ってママは、ミスター・レインマンの肩に手を置いた。


 彼はピクリと小さく反応したかと思うと、ハッとしたように素早く身を起こして寝ぼけまなこをママの方に向けた。


 開店準備を一通り終え、一息つきながら皆を待っている間に、どうやらカウンターテーブルに突っ伏して眠ってしまったようだった。


 「ごめんなさい、もう時間ですか?」


 彼はまだボンヤリとした顔をしながら壁に掛かった時計の時刻を確認した。


 頬にはシャツの袖のボタンの跡がくっきりと残り、その姿がなんともチャーミングで、ママは思わず顔をほころばせた。


 「どっかのババァはこき使い過ぎるかい?」


 「いえ、決してそんなことはありません、閣下。閣下の元で閣下のために尽くせるのならば、この身が朽ち果てようとも本望であります」


 ミスター・レインマンはママに向かってうやうやしく敬礼した。


 「なんだい、その閣下ってのは?」


 「今、いろいろと昔のことが夢に出てきたんですよ」


 彼はニッコリと笑った。


 八歳の時のそれよりも、さらに洗練された魅力的な笑みだ。


 「小さい時、僕がママのことをなんて呼べばいいかって聞いた時、ママは最初『閣下』にしてくれって言ったの覚えてます?」


 「ハハハ、そんな下らない冗談、あんたこそよく覚えてたもんだね」


 ママは幾分しゃがれた笑い声を上げた。


 「僕はそれを冗談だなんて思わなくて『わかりました、カッカ』って言ったんです。もちろん『閣下』なんて言葉の意味もわからなかったから、多分、『おかあさん』を縮めたようなもんなんだろうなって思ってましたよ」


 「あんたはやっぱり頭のいい子だったんだねぇ。普通、そこまで掘り下げたとこまでは考えないよ」


 「さて……そろそろみんなが来ますかね。雨、まだ降ってましたか?」


 「うん、少し小降りにはなったけど」


 「名前のせいか、彼らに仲間意識を抱かないわけじゃないんですけど、いい加減お客さんに戻ってきてもらわないと困っちゃいますもんね」

 

 ☂


 

 小学生のうちから夜の早い時間には少年もスナックの店内で過ごす時間が多かった。


 店のすぐ近くに住まいはあったし、一人で放っても大丈夫なくらいにレインマン少年はしっかりしていたが、やはりなるべくなら一人にはさせたくなかった。


 ママ曰く「これまでお互いにいいだけ一人ぼっちをやってきたんだ。これくらいの過保護させておくれ」だそうだ。

 


 それに、人見知りも物怖じもせず、いつも愛想の良いレインマン少年はすぐに人気者となった。


 従業員のホステスたちも自分たちの息子か弟かというように何かと構ってくれたし、わざわざ少年目当てにそれまでより早い時間に顔を出すようになった常連客も何人かいた。


 晴れ男ぶりは相も変わらず健在であった。

 

 そして、もう少し大きくなると彼は当然のように店を手伝いはじめた。


 おしぼりのセットや店内の掃除、つまみ類の下ごしらえなどの簡単な作業だとはいえ、自発的にはじめた仕事はどれも他の人がやるよりも的確で要領も良く、やがてそれらは自然と少年の役割となっていった。

 

 もちろん未成年だったのであまり公には働けなかったが、それでも彼は中学校を卒業すると高校には進まず、店のボーイとして正式に勤めたいと言った。


 幼い自分を引き取り育ててくれたママに対して少しでも恩返しができればとのことだったが、確かにその言葉に嘘はなかった。


 ママとしては彼には世間一般の子供と同様に高校・大学と進学して、青春を存分に満喫してほしかったし、そうさせるつもりでコツコツと学費の積み立てもしてきていた。


 しかし、何度説得してみても当人はその度静かに、されど頑なに首を横に振り、進学するのを拒んだ。


 中学校の学校生活の中で、周りの同級生たちにうまく馴染めていない自分がいることをレインマン少年は、はっきりと自覚していた。


 男女を問わず、彼らが醸し出す思春期特有の鋭さと危うさを兼ね備えた未成熟な匂いが少年には我慢ができなかった。


 なにも彼が不完全な物を毛嫌う傲慢な精神を抱えていたというわけではない。


 むしろ彼はいつでも謙虚で聡明だった。


 偏狭な傲慢さとはまるで対極の場所に立っていたと言ってもいい。


 ただ彼はとても不安だった。


 同級生達の佇まいに見え隠れする未成熟なもの、微風にも容易く揺らいでしまうような不安定な何かが、心の奥底にしまいこんだ在りし日の母の放心した顔を自ずと呼び起こしてフラッシュバックさせ、心を激しく煽り立ててしまうのだ。

 

 彼は人気者だった。


 ただでさえ人目を引く美しい外見と陽気で気さくな態度、スポーツ万能、成績優秀の彼の周りには自然と人の輪ができた。


 休み時間になると男子は何かにつけてレインマン少年と一緒に遊んだり話しをしようとして近づいてきたし、女子の間では学校の半数以上の女の子が一度ならず彼に恋をしたのではないかとまことしやかに噂されるくらい人気があった。

 

 ようするに皆が彼に晴れ男であることを望んだ。


 必ずや楽しい時間、至福のひと時を自分たちに提供してくれるものだと信じて疑わなかった。


 そしてその度ミスター・レインマンは彼らの期待にことごとく応えてきた。

 

 しかし、それはただの恐怖の裏返しでしかなかったことに、誰一人気づいてはくれなかった。


 彼は怯え、震え、恐怖するほどにそれらに対抗しようと一層陽気に振る舞った。

 

 不安に飲み込まれ、堕ちてしまわぬようにと、とある小説の主人公のそれのように、道化を演じて踊り続けた。


 いつ幕が下りるとも知れないまま、ただ毎日ひたすらに。

 

 ミスター・レインマンは疲れていた。


 当人は気付いていないようだったが、気が抜けた時に見せる疲弊しきった顔は、皮肉にも彼の心を揺さぶり続ける母親の弱々しい顔に驚くほど似ていた。


 学校生活で彼に安らぎなどなかった。

 

 ママも無理強いはしなかった。


 確かに彼女の目から見て、彼にはもはや教養も倫理感も十分過ぎるほどに備わっているように思えた。


 そこら辺の大人達と見比べても、彼の方が余程落ち着きと気品と風格があり、今更学校で学ぶことなどないような気がした。


 ……そしてなにより、決して口にこそ出さなかったが、何か他に大きな理由があるのだろうといことをママもそれとなく感じとっていたのだった。

 

 かくしてボーイ・ミスター・レインマンが誕生した。


 レインマン少年は満ち足りた日々を送った。


 これまでの、そしてこれからの彼の人生を含めてみても、この頃が一番の安定期だったと言ってもいいかもしれない。


 苦痛だった学校生活からも解放され、心的なものとは別の、労働をするところからやってくる疲労を心地よく感じた。


 少額ではあれど、給与という確かな対価を得ることに充実感を覚えた。


 彼はとても活き活きとしていた。


 人生そのものが本当に心から楽しくて仕方がないという様子で、より屈託のない笑い顔を浮かべた。

 

 仕事ぶりは有能で、飲み込みも早かった。


 向上心もあったし、店への思い入れも人一倍あった。


 ウイスキーやビールなど他店とあまり変わり映えのしない酒類しか置いていないことを物足りなく思い、一生懸命に独学でバーテンの勉強をして美味しいカクテルをメニューのラインナップに加えた。


 店の改装が行われた際には、新たに最新なバー・カウンターを設置することを提案し、その立派な設備に見合うだけの品を提供するために寝る間も惜しんで商品開発に精を出した。


 いつも店内全体を見回し、何かトラブルは起こっていないだろうか?何かもっとお客様を喜ばせることはできないだろうか?従業員に何か変わった様子はないだろうか?と注意深く目を光らせていた。


 そんなふうに彼はすぐに店にはなくてはならない大事な戦力となった。


 ミスター・レインマンは何のてらいも違和感もなく、社会の中にしっかりと身を溶け込ませながら、成長していった。


 

 ☂


 「タケシちゃん、一体幾つになったね?」


 バー・カウンターに座った客がミスター・レインマンに尋ねた。


 彼がママに引き取られる以前から通っている常連の中年男性だ。


 「今年でようやく二十になりますね」


 優雅にシェイカーを振りながら彼が答えた。


 「はぁーハタチか?タケシちゃんはようやくなんて言うけどね、俺にしてみりゃもうハタチになんのかって感じがするよ」


 「ようやくですよ、ハギワラさん。ようやく警察の目にビクつかないで合法的にカクテルを作ることができるようになるんです」


 「そりゃ、今まで違法と言えば違法なのは知ってたけど……その物言いじゃ何だか危ないもんでも入ってるみたいだな」


 「実は隠し味に少々」


 「おいおい」


 「どうりであなたの作るカクテル、美味しいわけね」


 そう言って彼らの会話に女性が割り込んできた。


 こちらは近頃見かけはじめた比較的新しい顔だ。


 年の頃は二十代後半から三十代前半といったところ。


 胸と背中の部分が大きく開いた、見るからに高価そうなピッタリとした濃いブルーのイブニングドレスを、決して着らされているなどということはなく見事に手なずけて着こなしていた。


 ホステスたちの華やかさとはまた一線を画した、本格的にゴージャスな雰囲気があった。


 「お粗末さまです」


 ミスター・レインマンは女性の方に向き直り、にこやかに謙遜した。


 「お世辞じゃなくてよ。私、バーの飲み歩きが趣味のようなもので、毎夜のようにいろいろなお店でお酒を嗜むのだけれど、あなたのお薦めのオリジナルカクテルは何度頂いても絶品ね。……なんてお名前だったかしら?」


 「ブルー・レインマンです」


 「ブルー・レインマン……」


 彼女は復唱した。


 そしてその名前を舌先で弄び、転がし、最後の一滴まで味わい尽くすようにしてからゆっくりと飲み下した……ように見えた。


 このように少し考え事をするだけで、ここまで妖艶に魅せる女性もあまりいない。


 「それはあなたの美しい青い色の瞳に関係しているのかしら?」


 「ご明察です。ちなみにレインマンというのは僕の苗字から取ったものです。特にこだわってつけたわけではありませんが、とりあえず青色の具合が僕の瞳の青によく似ていたものですから」


 「それでも、自分の名前を名乗らせるからには相当な自信があったのね?」


 「ええ、その通りです。お気に召してもらえて何よりです」


 「そうね、とても気に入った。まるであなた自身を飲み干してしまった気分だわ」


 と言って彼女は艶やかな仕草で財布からシワ一つない一万円札をだしてカウンターに置いた。


 「ごちそうさま、また来るわ。今夜はこれから友人のパーティーに行かなくてはならないの。おつりはあなたのチップとして取っておいて」


 「いえ、お客様、さすがにカクテル一杯でこれは……」


 「いいのよ、本当に美味しかったわ。少なくともこれから向かう友人がパーティーに用意した名前と値段ばかり一流のワインよりも余程価値のある一杯だったわ。それでも気が済まないというのならここに連絡をしてくれるかしら?お釣りの分だけ他のことをして働いてもらうから」


 そう言って彼女は名刺を一枚手渡し、誘うような目つきで一度ミスター・レインマンの全身を眺めまわしてから、長いドレスの裾を翻して去って行った。


 「……えらい美人さんだったな」


 常連の萩原はぎわらは、先程まで女性が座っていた椅子を見ながら言った。

 そこにはまだ彼女のうなじや胸元から発せられた強い存在感が色濃く残されていた。


 「というか……単純にエロかったな」


 「そうですね」


 「あれ、確実にタケシちゃんをねらってるぞ」


 「そうですね」


 ミスター・レインマンは何でもなさそうに言った。


 「やれやれ、相変わらずママ以外の女に興味なしか」


 「そうですね」


 「こんないい男が色恋の一つ二つしないのは罪作りだぜ?一体、何人の女の子がタケシちゃんを想って儚く散っていったと思ってんだ」


 「そうですか?」

 

 ☂


 

 レインマン少年が成長していくにつれて、彼の長身でほっそりとした体躯とこれ以上ないというくらいに整った端正な顔立ちが、その界隈で評判となった。


 愛らしさから皆にもてはやされた少年期とはまた異なり、理知的で品のある佇まいとハンサムな笑顔、そして嫌みのない陽気な語り口調など溢れに溢れた男性的魅力は、人々の心を、特に年上の女性の心を否応なく震わせた。


 彼が成人を前にする頃辺りには、ただの微笑み一つで複数人の女性を一息に骨抜きにすることができるなどという大げさな噂も出回ったが、実際に彼に微笑みかけられた人(男女問わず)は、噂はあながち大げさなものでもないのかもしれないと本気で思ったりもした。

 

 もちろん、胸をときめかせるだけでは終わらず、直接言い寄ってくる女性が後を絶たなかった。


 近所の暇とお金を持て余した人妻。

 評判を聞きつけて遠くからわざわざ足を運んできた独身女性の数々。


 主に中年男性向けに展開していたママのスナックに、念入りな化粧やセクシーな衣装に身を包んだ女性がよく来るようになった。


 ミスター・レインマンが巧みにシェイカーを振り、鮮やかに空いたテーブルの片づけをし、羽ばたくようにおしぼりを丸めるだけで、女性陣は湿り気のある熱いため息を吐いた。

 

 しかし、そんな彼女達の誘惑にミスター・レインマンは決して心を傾けることはなく、言葉で迫られたり何かをプレゼントされたりするその度に、誠心誠意、穏便かつ丁重にお断りしていた。


 余計な嫉妬心やいざこざが起きないよう、誰かに特別おもねることもせずに、いつでも皆におなじように公平に接した。


 ここはホストクラブではなく、自分はあくまでもスナックの一従業員であり、一ボーイ、一バーテンダーであるのだと柔らかく諭した。


 それでも粘り強く口説いてくる女性はいるもので、そんな時でもやはり同じくらいの粘りを持って辛抱強く説き伏せた。


 あまりに誰にもなびかないのと、その整い過ぎた容姿とで、もしかしたらゲイなのではないかと訝る人も多くいたが、そんなどこか謎めいた部分も、彼という人物の魅力を引き立てる一つのオプションとして確実に機能していた。

 


 不思議なもので、その色恋沙汰の輪の中に店のホステスが加わることは殆どなかった。


 いつも身近にいればこそ、よりミスター・レインマンの外殻だけではない内面の美しさなどにも気がついて心を奪われてしまいそうなものだが、彼女達からすれば、いつも身近にいるからこそ、彼の心はいつもママの方にしか向いていないのだということに嫌でも気が付いてしまうのだった。

 

 ミスター・レインマンのママに対する熱い忠義と恩義の念は、いくら体が大きくなったとしても、いつまでも褪せることなく残っていた。


 他の女性にうつつを抜かしている暇があるならば少しでもママの役に立つことをしよう、誰かに恋心を抱いて胸を焦がす余裕があるならばママのために一円でも店の売り上げの向上のために死力を尽くそう……彼は本気でそんなことを思っていた。


 はたから見れば異常と言ってもいいくらいの想いの強さだ。


 もちろん、ママの目から見てもそう映っていた。


 「あんた、誰か好きな女の一人でもいないのかい?」


 見かねたママが一度尋ねたことがあった。


 「いますよ、もちろん」


 「……アタシ以外にだよ」


 「だったらいませんね」


 「世間じゃあんたみたいなのをマザコンって言うの知ってるかい?」


 「ええ、僕は札付きのマザコンです。世間もたまには正しいことを言ってくれます」


 「真面目な話をしてるんだけどねぇ……」


 「ごめんなさい、別にからかってるわけじゃないんですけど」


 「わかってるよ、そんなの。ただアタシだってこの先いつどうなるのかわからないような歳になってきた。孫の顔がちゃんと見れるのか心配でね」


 「この前、還暦のお祝いをしてから急に年寄りじみたこと言うようになりましたね。いきなり孫の話になっちゃいますか?」


 「そりゃ、アタシらの頃の六十って言ったら、体の三分の二は棺桶に入ってるような歳だったからね、仕方がないんだよ」


 「まぁ、気長に待ちましょう。こういうのは何と言っても巡り合わせですから」


 「やれやれ、他人ごとみたいに言うじゃないの」


 「……本当に待たせてしまうことになるかもしれません」


 「……ま、無理をすることはないさ」

 

 ミスター・レインマンが女性と関係を持たない理由にはもう一つあった。


 どちらかと言えばこちらの理由の方が比重は重たかったかもしれない。


 それをママも少なからず理解していたので思わず心配になってしまったのだった。


 ―― 孫はともかく、果たして、アタシが生きている間にこの子の心はキチンと恋をできるようになるのだろうか ――


 


 そんなママの疑念を呆気なく一蹴してしまうように、彼はある日、前置きも含みも予兆も間奏もなく、突然キチンと恋に落ちた。


 それは青天の霹靂が瞬くよりもまだ唐突で。


 その落ち様は奈落の底を更に深くまで突き破らんばかりの見事な勢いの直滑降だった。

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