☂・ミスター・レインマン(Ⅱ)

 母は自殺、父は消息が不明、更に今後の身元の引受人もまだ決まっていないレインマン少年の前途は、誰の目から見ても深い闇と多難の道のりしか待ち受けてはいないように思えた。


 母の死が判明してから数日が経った。


 しかしながら、未だに誰一人として彼に向かって母が殺人を犯した上に死亡したという残酷な事実を伝えられないままでいた。


 レインマン少年のこれまでの僅か八年あまりの人生の中に巻き起こった波乱を客観的に眺め、そしてこれから彼が人生で抱え込まなくてはいけないであろう様々な問題を考えた時、医師も看護師も職務を越えた一人の人間としての同情と慈しみの念が、いけないことだとは思いつつも自然に込み上げてきてしまった。


 人間の生死を司る神聖な医療という仕事に従事するからには、私情や感情を時には強く押し殺さなければいけない場面に何度となく遭遇する。


 ……そんなことは研修や看護学校時代に嫌というほど叩き込まれていたはずだった。


 しかし、相も変わらず母の帰りを待ち続ける健気なレインマン少年の曇りのない笑顔を見てしまうと、誰もがこの小さな少年のイノセントな心にこれ以上の傷を負わせたくはないと、直前で躊躇してしまうのだった。


 もちろん院内には精神科の医師は複数人いたし、小児科にも子供の心理をケアする専門のスタッフがいた。

 

 彼ら曰く、大人と子供とでは同じ人間であっても、その精神の成り立ち自体が根本的に違うものらしく、おまけにレインマン少年のように物心もつかない幼児期から特殊な環境下に置かれ続けてきた子供の心は、薄氷を幾重か重ねて作られてでもいるかのように、とても脆くて繊細なものだった。


 誰かが触れた指先の体温や何かの小さな衝撃を受けただけで、その精神は儚く崩れ、その後の修復が著しく困難になるという。


 慎重にならざるをえなかった。


 医師も看護師もベテランも若手も、病棟や専門分野の違いなどの垣根を越え、病院全体でレインマン少年にとって一番の善処となる選択を、治療のかたわらで皆が熱心にあれこれと考え、各々が真剣に頭を悩ませていた。


 しかし、彼らの苦悩と苦労を呆気なく徒労に終わらせる人物が、突然少年の病室を訪れた。


 母の両親、つまりは少年の祖父母だ。


 祖父母が医師と看護師に案内されて病室に入った時、少年はちょうど昼寝をしていた。

 

 白いベッドの上で穏やかな眠りに包まれ、作り物のように整った顔の口元にはうっすらと眠る前の微笑みの名残が浮かび、窓から差し込む昼の陽光が頬や額のキメの細かい肌に弾かれるようにして輝いていた。


 実に美しく神秘的な光景だった。


 少年をとりまく空気中の粒子の一つ一つが浄化され、何の変哲もない無個性な病院の大部屋が、どこかの崇高な神殿のような清らかさを湛えていた。


 ……少なくとも、祖父母の目にはそう映った。

 

 彼らは呆然と立ち尽くし、そして怖くなった。


 強い畏怖を抱いたと言ってもいい。


 レインマン少年から発せられた聖なる光を前に、秘密も建前も虚像も幻想もすべては呆気なくあばかれ、世界中にあかるみになってしまった。


 神なるものや仏なるものを前にした人々は、思わず自分の胸に手を当てて過去の罪悪を省みてしまうというが、まさしく祖父母はそんな心境だった。


 自分達がそれまで選んできた幾つもの選択肢の正否を裁かれているような、自分達が生きてきた人生を改まって計られているような……それほどまでに、眠れるレインマン少年の佇まいは神々しかったのだ。

 

 多分、彼らの抱いた罪悪感がそんなふうに大仰に見せてしまったのだろう。


 結婚や子育てを含め、あらゆる物事への考え方が甘いのを少し懲らしめてやるつもりで娘を冷たく突き放したのが、まさかこんな結果になってしまおうとは思ってもみなかった。


 実子を失った悲しみよりも、どちらかと言えば、結局は自分達がその死をもたらす発端となってしまったのではないかという罪の意識の方が強かった。


 だから長女の死と同時に孫の入院のことも警察からは当然聞かされてはいたのだが、どんな顔をして会いに行けばいいのだろうとぐずぐずしているうちに、日は過ぎて行った。


 そして、とうとう血縁者のあまりの無関心さに業を煮やしたレインマン少年の担当医から電話が入った。


 何でもいいから一度病院に来てほしいという怒りを含んだ強い口調だった。


 そうして遅ればせながらようやく祖父母はレインマン少年の元におそるおそる馳せ参じた次第だった。

 

 病室の入口でそれ以上足を踏み入れるのを躊躇っている二人の横をすり抜けて医師が少年のそばに行き、そっと肩を揺らして声を掛けると、祖父母は思わず息を飲んだ。そんなふうに神のまどろみを不当に侵してしまったら、怒りの業火や裁きの雷(いかずち)が落ちてくるのではないかと本気で危ぶんでいた。


 もはや普通の心理状態ではなかった。

 

 勝手に神仏化されているとは思いもしないレインマン少年は、ゆっくりと目を覚ますと優雅に一つ体を大きく伸ばした。


 そして、その澄み切った碧眼に、自分を見ながら立ちすくんでいる見慣れない二人の人物の姿をとらえると、とりあえずそちらに向かってニコリと微笑んだ。


 それは元来、愛想の良いレインマン少年にとっては初対面の人を相手に決まってする挨拶みたいなものだったのだが、怯える祖父母にとっては心を焼き尽くす灼熱の炎となり、身をつんざく稲妻となってしまった。


 「許してちょうだい!」


 祖母は突然、少年に激しく抱きつき、


「ごめんなさい!ごめんなさい!あの子を死なせるつもりなんてなかったのよ!ごめんなさい!許して!お願いだから許してちょうだい!あなたから母親を奪うつもりなんてなかった!ホントよ!ホントだから許して!」


 と気が触れたように泣き叫んだ。


 「チクショウ……死ぬことなんてなかったんだ……チクショウが……」


 と祖父はその場に膝から崩れ落ちた。


 怒りや後悔や悲しみなどが一息に込み上げ過ぎて収拾がつかなくなっているようだった。


 うまく言葉にして表せられなかった感情を、爪が食い込むほどに両手の拳を握りしめたり、血が滲むほどに強く唇を噛んだりすることでなんとか発散させていた。

 

 レインマン少年は痛いほどに自分にすがり付いて喚く女性に困惑し、助けを求めるように医師の方を見た。


 「○○さん、お気持ちはわかるんですが、とりあえず一回落ち着きましょう、ね?」


 騒ぎを聞きつけた他の医師や看護師も病室に駆け付け、数人がかりで祖母を少年のそばから引き剥がしにかかった。


 今ならまだなんとか間に合いそうだが、このままではいらないことまで少年に教えかねない。


 我々が慎重に段階を踏んでやってきたことがすべて水泡に帰してしまう、と。


 「ごめんなさい!ホントにごめんなさい!許して!ねえ、許すと言って!」


 「チクショウ……チクショウ……」


 「お二人とも、一旦外に出ましょう、ね?何か飲んで一服つきましょう」


 「ああ許して!わたしがあの子を死なせたの!許して!」


 「チクショウ……自殺なんて……首つりなんて」


 「○○さん!いいですか、二人とも、落ち着いて!」


 「許してよぉ!」


 「ねえ……ジサツってなに?」

 

 それぞれの思惑が乱雑に入り混じった混濁の中、医師たちの苦労や苦悩はまさに水の泡のように弾け飛び、跡形もなく消え失せた。      


 精神を患ってしまう子供の多くは、親からどれだけ理不尽かつ身勝手極まりない虐待を受け、自分の身や心にどれだけ深い傷を負ったとしても、決して親を責めることはない。


 すべては自分が悪いんだ、自分がいい子にしていないから親は怒鳴ったり叩いたりするんだ、自分が耐えていればきっと親は優しくしてくれるんだと思う。


 あるいは思い込もうとすると言った方が正しいのかもしれない。


 親のことを恨みたくもないし恐れたくもない、まして嫌いになりたくもなければ否定などしたくはない……子供はただただ親に愛されたいという一心しか持ち合わせてはいない。


 だから込み上げる怒りも恐怖も嫌悪も無理に全てを飲み込もうとする。


 そんなふうにしてその小さな体一つでは到底おさまり切れないだけの負の感情がどんどん内包してしまう。

 

 そしてその結果、パンクをする。

 

 か細く頼りない子供たちの心は、たやすく限界を迎えてパンク……つまりは壊れてしまう。


 そして先にも述べたように、一度壊れてしまった心を修復しようとすると、大人よりも更に膨大な時間と労力を費やし、人生そのものが修復のためだけに消耗されてしまう。


 中にはその治療の途方もなく長い過程の半ばで精神が耐え切れずに力尽き、ドロップアウトしてしまう子供も多くいる。


 そんなケースに出くわしてしまうたび、医師たちは助けてあげることができなかったという無力感と絶望感にとらわれ、幼い命をそんな境遇にまで追いつめた大人達に向かって底知れぬ怒りが込み上げた。


 子供にはなんの罪もない。


 幼児の精神の疾患の殆どは、決して子供自身が先天的に抱え込んで生まれてきたものなどではなく、このようにして周りの大人達から何かしらの影響を受けたことによって、後天的に備わってしまうものだった。


 レインマン少年は強く、聡明な子供だった。


 改めて母親の死を医師からキチンとした言葉に変えて告げられたが、彼女が永遠に自分の元に帰ってくることはできなくなったのだという意味をしっかりと理解することができた。


 その死が祖父(祖父だと教えられた)の口からこぼれた『ジサツ』というものによってもたらされたことであるのもわかったし、『ジサツ』という言葉があまり良い響きを持つものではないことも皆の空気感から敏感に察することができた。


 そしてすでに、どこで聞き及んだものか、母の死の背景にいる若い男のことやその男を母が殺したということまでも知っていた。


 さらに自分がこの世の中でただ一人ぼっちになってしまったということもレインマン少年にはわかり過ぎるくらいにわかっていた。


 ずっと帰りを信じて待っていたのだからショックも大きかったし、何と言ってもとても哀しかった。


 涙が込み上げてくる気配があった。


 もはや母は戻ってこない、顔を洗って誤魔化したりせずに溢れ出るままに泣きじゃくっても構わないはずだった。

 

 しかし、少年はそれをグッと堪えた。


 母の死は嘘偽りのない現実であり、自分はこれからその現実を受け入れて強く生き抜かなくてはいけない、泣いているような暇はないのだ、というようなことを、もっと感覚的にではあるが確かにそう思った。


 「大丈夫かい?」


 と尋ねた医師の言葉に、少年は大きく頷き、そして微笑んだ。

 

 その決意を込めた濁りのない青い瞳と対峙した担当医は、とりあえずレインマン少年に懸念していたような精神の乱れが見られないことに安堵の息を吐いた。


 しかし、それと同時に、よわい八つの子供にしては落ち着き過ぎているのではなかろうか?


 と、別の不安が胸に去来したのも事実だった。


 心が壊れて欲しかったとはもちろん思わないが、こんな小さなうちからこれだけのタフな精神を持っているというのは、どこか不自然で間違っていることであるような気がしてならなかった。


 いつか、大人になった時につじつまを合わせるように反動やシワ寄せが訪れて、対価の支払いを強要するのではないのだろうか、そしてその請求は存分に利子のついた凄まじいものなのではないだろうか。


 ……いや、今からそんなこと訝っても仕方がない。


 俺は少し懐疑的に過ぎるのかもしれない。


 ここは素直にこの子の強さを称えることにしよう……。


 医師はレインマン少年の頭を優しく撫でた。


 

 その時のレインマン少年の将来に対する医師の考察が的を射たものであったか否かは、またもう少し後の話で明らかになる。


 


 病院側の献身的な看護の甲斐もあり、レインマン少年の体はすっかり元通り元気になった。


 むしろこの一か月の規則正しい入院生活の中で前よりも体重が増えたくらいだった。


 しかし、レインマン少年が順調に回復していくのを喜びつつも、病院側では着実に迫りくる退院の予定日に焦りを感じていた。


 少年の身元の引受人が一向に決まらないのだ。

 

 もちろん、その最有力候補は祖父母だった。


 血縁者であるとか何親等に属しているとかいう理屈を抜きに、何よりも一般的な道理として当然、彼らがレインマン少年を引き取るべきであったし、病院側もそういう方向で話を進めようとしていた。

 

 しかし、祖父母は引き取りの意志はないとキッパリと言い放った。


 断固とした主張だった。


 おかげで担当医はまた電話口で声を荒げなくてはならなかった。


 まさか家族と行き場を同時に失った無力な子供の引き取りを、唯一の肉親が拒否しようとは、若手とはいえ、豊富な経験をもった彼の小児科医としてのキャリアの中でも前代未聞な話だった。

 

 理由は何かと聞くと、何てことはない、やはり自分達の罪悪感に耐えられないということだった。


 とりかえしのつかないことをした、自分達が勘当さえしなければ娘は死ぬことはなかった、レインマン少年がそばにいると常にその負い目に苛まれて頭がおかしくなりそうだ、入院費や治療費、幾ばくかまとまった額の養育費は工面するが、その後は一切関わり合いにはなりたくない。


 「あんた達、自分らが何を言っているのかわかっているのか?」


 医師は顔を真っ赤にしながら受話器に向かって怒鳴り散らした。


 「ひどいことを言っているのは重々承知しています」


 「承知?何を承知していると言うんだ!あんた方は実の孫を見捨てると言っているんだぞ!それを……それを……正気じゃない」


 あまりに頭に血が昇りすぎて医師は眩暈がした。


 「……娘を失った時から私たち家族はもう正気ではありません」


 祖父は淡々と言った。


 正気ではないというよりもすっかり魂が抜けてしまっているようなまるで生気のない声だった。


 「身勝手な言い分だとは思います。人道に反していることも理解しています。娘の死に責任を感じ、償いをするというのなら、それはきっとその子を娘の代わりに立派に育ててあげることが何よりの償いになるのでしょう。しかし、私たちはそれ程に強くはありません。私も家内も次女も、罪の重さには到底耐え切れそうにもありません。その子の顔を見れば必ず罪の意識が私たち家族を捕らえ続けます。なまじ私たちが引き取ってみたところで、その子に寝床や食料を用意してあげることはできたとしても、抱いてやることも愛情を注いであげることもきっとできないでしょう。そうするにはあまりにも私たちは弱すぎるのです。その子の存在そのものが私たちを責め立てるのです。あるいはその責めに耐えかねてその子を傷つけ、最後には首をしめて殺してしまうことにならないとも限りません。その子の前で正気でいられる自信がありません」


 「そんなことは……」


 「目の色以外、本当に小さな頃の娘に顔が瓜二つなんですよ」


 「え……」


 「その子は私たちにとって『呪いの子』です」

 

 そういって少年の祖父は電話を切った。


 医師の耳には回線が遮断されたことを知らせる無機質な機械音が流れたが、彼の耳にはただただ祖父の最後の言葉だけが何度も響き続けた。

 

 後日、病院の事務にかなりまとまった額の現金が入った段ボールが宅配されてきた。


 添えられた手紙から、それが少年の祖父母からのものであるのがわかった。


 その手紙の文面にも、やはり少年の担当医と電話で話したのと同じような内容が書かれていた。


 さすがに『呪いの子』とまでは書かれていなかったが、それでも彼らの揺るぎのない意志は手紙を読んだ誰しもが感じとることができた。


 そう、少年を引き取らないということとはまた別の、とある確固たる意志までも一緒に……。

 

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