2・マリコの退屈な人生
「しかし、この頃から比べたら少しは見られるようになったよな」
と、弟の
「だってあの頃、学校の友達にねーちゃんだなんて間違えても紹介できなかったもんな」
「どうして?」
「どうして?よく聞き返せるもんだな、こんな戦時中みたいな髪型しておいて。こんなのがお姉ちゃんじゃ恥ずかしくて誰にも見せられるわけねーよ」
「そっか、だからあんた学校の廊下ですれ違う度に私を無視し続けてたんだ。そういえば一緒の時間に家を出たこともなかったし、なんだか変だなって思ってたんだよね」私は大仰に感心した風を装った。「あんた全然友達連れてこないから、タカシ、友達いないのかなって真剣に悩んだこともあったんだよ」
「まさか」
隆司は鼻で笑った。
「ホント。だから私、こっそりあんたのクラスの子捕まえて『タカシと仲良くしてあげてね』ってよくよく丁重に頼み込んだりしたんだから。よかったね、みんないい子達で。きっと同情してくれてたんだよ」
「まさか」
隆司の顔から余裕が消えた。
「ほら、バレンタインの時だってそう。ほとんど『チョコあげてね』って毎年私が女の子達にお願いして回ったやつよ、あれ」
「……まさか」
隆司の顔から血の気が静かに引いて行った。
「さ、そんなこといいから早く手を動かして。今日中に運べるだけ運んじゃうんだから荷物」
「まさか……なぁ。そんなこと……え、じゃあマサキがよく声を掛けてきたのも、え、マキちゃんが……え?」
単純スポーツバカな弟の軽口をひねり返してやるくらい、私の手に掛かれば造作もないことだった。
***
散々、不動産屋のお兄さんを振り回した挙句、ようやくたどり着いたこの部屋は、私の予想を遥かに超えて素晴らしいものだった。
街を見下ろせるくらいのちょっと小高いところにこのアパートは建っていた。
街の中でも比較的古くから住宅地として拓いていた地域だそうで、確かに年期の入った木造の平屋から新築の瀟洒な輸入住宅、庭の大きさにこだわり過ぎて住まいが小さくなってしまった家や、物置のスペースまで惜しんでギリギリまで建物を大きくした家などなど、定礎年も造りも価格も三者三様な住宅たちがびっしりとそこには集まっていた。
しかしながら、ここに限ったことではないのだろうけど、時代の移ろいとともにやっぱり古い家屋は徐々に取り壊され、更地にされていく傾向にあるそうだ。
住宅が増えていくにつれて人一人に車一台の時代、駐車スペースも当然多く確保しなければならず、自治会の調べでは空きの順番を待つ車がもはや飽和状態で、一刻も早い月極め駐車場の整備が必要だった。
そして私の入居することになったアパートもそんな取り壊しを待つ老年の建物の一つに数えられた。今すぐにどうこうというわけではないのだけれど、数年の後、部屋を明け渡してくれと何か月か前に事前に通知するので、そうなると必ず出てもらわなければならなくなるというのが入居の際の契約書の注意要項に大きく記されていた。
確かにそれなりに築年数は経っているようだったけれど取り壊すほど老朽化しているようにも見えず、キチンと手入れが行き届いた外観は、むしろ懲りすぎてゴチャゴチャとした感じを受けるへたな新築マンションよりもよっぽど清潔に見えた。
私はそう思ったままを大家さんにもぶつけてみた。
「あんたもそう思うかい」
大家さんは言った。
温和な人柄が前面に出ているおっとりとしたしゃべり口調だった。
腰の曲がり方といい、頭の禿げ具合のキレイさといい、必ず最後には幸せな結末が待ちうけるであろう昔話の好々爺が、絵本からそのまま飛び出してきたような風体をしていた。
「再開発のためですか?」
「いやいや、そんな大層なもんじゃない。ただワタシももういい歳だし、大家としてここを管理していくのも年々大変になってきてね。息子たちに面倒はかけたくないし、他人様に譲る程の価値もない。それなら相続とかなんだとかややこしくなる前に、平らに均してみなさんのお役に立てればいいなと思ってね。まあ、ワタシもしばらく死ぬつもりはないし、いよいよってなったら急に手放すのが惜しくなったりするかもしれん。その時は年寄りの気まぐれってやつだから、大目に見てやってくれるかねぇ、ハッハッハ」
確かにこのお爺さんなら枯れ木に花を咲かせることだって簡単にやってのけてしまうかもしれない。
きっと街が生まれ変わっていくというのはこういうものなんだろうなと、格別その問題をひきずることもなく、私はさっさと契約書に判を押した。
せっかく苦労の末に巡り会えた部屋ではあったのだけれど、かといって何十年も同じアパートに住んで骨を埋めるつもりは毛頭なかったし、出ろと言われれば素直に出ていけばいい、それだけの話だと思った。
部屋には間取りのわりには窓が多かった。
その中でもとりわけ大きな窓が一つあり、そこから申し分のないだけ日の光が入った。
西日の照り付けが夏場にはちょっときついかもしれないけれど、それでも私は構わなかった。
豊かな生活を送るためにとこだわり、求め続けた日当たりなのだから、ありがたく全て頂戴しておこうと思う。
それに、その大きな窓は日光だけじゃなく、素敵な景観までをも私に提供してくれた。
余計な植え込みや視界を遮る他の建物もなく、窓辺に立つと、眼下には街が広くあまねいていた。
実家と大学がある街とは隣町のそのまた隣町くらいしか違わぬと言えども、土地勘もなく、まるで見知らぬこの街でこれから生活をしていくのだと思えば自然と胸が躍った。
この二○三号室からはじまる私の新しい生活の前途には希望しかないように思えた。
世界が温かな日差しとともに私を包み、優しく手招きしていた。
「これからよろしくね……」
窓から見下ろす街に向かって私はそう呟いた。
***
私の出生や育ってきた環境について語ろうとする時、何か特出したエピソードの一つや二つあれば、それを軸にして、もっと話しやすくなるのになといつも思う。
映画やドラマのように生死を分けた一瞬があったり、まさかのどんでん返しが待ち受けていたり、複雑な血縁関係があったりと、そこまで劇的なモノは望まないにしても、せめて人が思わず唸ったり、そこそこ感心したり、ぷっと吹き出してしまったりするくらいのレトリックは付けたかった。
だけど、実際の私の人生にはほんの小さな取っ掛かりさえもなく見事につるりとしていて、全くの無味・無臭、味も素っ気もないものだった。
とにかく何に関しても中くらいな家庭だった。
社会的な地位としては中流階級の中でも更にまん真ん中あたり、決して貧しくはなかったけれど、かといってとりわけ富んでいるわけでもなく、父は中くらいの規模の商社の中くらいの役職に就き、それなりの熱心さで仕事をしてそれなりの額のお給料をもらい、そこそこ走行距離を走ったそこそこのランクの車に乗っていた。
休日には人並みにゴルフを嗜み、人並みのスコアでラウンドを回った後には、月並みな造りの扉を構えた月並みな造りの家に帰った。
中肉中背の背格好のお腹は最近歳並みに前に出てきたし、髪の生え際の後退加減もまた歳並みだった。
もうすぐ五十路だと本人はよく嘆くけれど、その見た目は確かに六十歳にも四十歳にも見えず、もうすぐ五十路くらいの人に見えた。
他にも数え上げればきりがない程にとにかく何においても平均的でこれといった特徴のない人、それが父だ。
その点においては母も決して負けてはいなかった。
長年連れ添えば夫婦は似てくると言うけれど、やっぱり母も春夏秋冬、季節を問わずに全身から面白みのない、凡庸な雰囲気が溢れ出ていた。
多分、父と添うたばかりに母はそんな凡庸の渦の中に否応なく巻き込まれてしまったのだろう。
母方の祖父母の家に行けば、孫の私や弟よりも圧倒的に多く、一人娘である母の写真がたくさん飾られている。
百日のお祝いや、七五三、幼稚園の入園式、卒園式、小学校の入学式……といった具合に、写真は母が歩んできた歴史の年代順に整然と並んでいる。
偉人の記念館でもあるまいにと思うこともしばしばだったけれど、同時にそこまで愛されている母は幸せ者だなとも思う。
ありったけの愛情で寵愛し、大切に育ててきた娘がすっかり凡庸な中年の主婦として落ち着いてしまったことを祖父母は一体どう思っているのか、今ではめっきり会う機会の減った孫の私の目からは計りかねた。
そんな写真年表を辿れば一目でわかるように、母は本当に美しく可憐な少女であった。
フリルのついたスカートを可愛らしく着こなした幼少時代。
清楚で透明感のあるセーラー服姿の高校時代。
そして大学の学校祭でのミスコングランプリ準優勝のトロフィーを胸に抱き、黒目の多い瞳を潤ませ、スラリとした体躯で誇らしげにポーズを決め、白い歯を魅惑的な赤い唇の隙間から覗かせている大学時代。
大学できっとこんなキレイな友達が隣にいたら、私も鼻が高かったろうなと思う。
実際、「この頃お母さんは本当にモテたんだぞ」と父は自分のことのように鼻高々に私に自慢してきた。
それなら今はどうなの?とその時私が尋ねたら、父は何も言わず、ただ苦笑いとも微笑みともつかない中くらいの笑いを浮かべるばかりだった。
二人は大学の同級生だった。
どんな因果の応報か、あるいはどんな特殊な化学反応が起こったのか。
二人が添うようになった理由はどちらも恥ずかしがって教えてくれなかったのだけれど、かたや大学のミスコン準グランプリ、かたや命を吹き込まれた退屈の塊が服を着て歩いているような冴えない男という異色の組み合わせの間に恋が成立するには、きっと次元がグニャリと歪んでしまうくらいの相当な熱量を帯びたドラマティックな馴初めがあったに違いないというのが私の推測だ。
まあ、そこにはせめて私の知らないところくらい、劇的であって欲しいという願いが存分に含まれてはいるけれど。
私が物心ついた頃にはもう、母は準グランプリを取った面影など一つもない、私のよく知っている凡庸な母だった。
写真では白磁の陶器のように輝いていた肌はただただ気色が悪く蒼白で、エキゾチックだった黒い瞳には常に疲労や諦観の色が浮かんでいた。
家事に追われ、子育てに追われ、なかなか落ちてくれないお腹まわりの贅肉のプレッシャーに追われ、寄る年波ににべもなく押し出され、更年期の影に怯え、男勝りな娘の将来を心配し、息子の反抗期に気を揉み、夫のつまらない話に霹靂し、韓国の俳優にときめき、他人の家庭のスキャンダルに聞き耳を立て、家計のやりくりに四苦八苦した。
かつて限定された狭い世界の中とはいえ一時代を築き上げたミスコン準優勝者は、いつのまにやらその栄花を刈り取られ、どこにでもいる普通の専業主婦になってしまったのだった。
……こんな盛者必衰みたいな物言いじゃ、さもさも母は不幸を背負い込み、結婚を悔やみ、その悲壮感と苛立ちが家庭内の温度を冷めさせているように聞こえてしまうかもしれないので、私は慌てて弁解しようと思う。
実際のところは全然そんな不和なんてことはなく、家庭環境はすこぶる良かった。
今更あまり説得力はないかもしれないけれど、本当に私の家は平和だった。
母の抱える悩みの全ては、とりたてて変わったことではなくて、昔も、多分これからも、大抵の家庭の母親が少なからず抱え込むであろう月並みな悩み事だった。
おまけに母は華やかな過去の自分を鼻にかけることも懐かしむこともしなかったし、細々とした愚痴はよくこぼしていたけれど、格別凡庸と退屈の入り混じった生活に不平も不満もなく、それなりに満足してさえいるようにも見え、家庭環境は穏やかだった。
行き過ぎた家庭内暴力、屈折した愛情が招く近親相姦、子を置いて自分の色恋に走るなどの無責任な育児放棄、親殺し、そして子殺し……。
一般の家庭の中で毎日のようにそんな哀しい事件が起きている。
垣根一つ、壁一枚隔てた隣の家でそんなことが行われていても、今時の世の中にあっては決して珍いことではなくなった。
最近、テレビや新聞でそれらのニュースを観るたびに、私は心からやるせない気持ちになり、そして自分の家庭は恵まれている方なんだなとつくづく思うようになった。
例え救いようもないくらいに退屈で光彩を著しく欠いた平凡な家であったとしても、家が平和であるということは、結構幸福なことであるのだ。
あるいは私の家だって、そんな事件を起こしてメディアを賑わす側になっていなかったとは言い切れないのだから。
……とまあ、自分の出生や育ってきた環境について語ろうとする時、こんな具合に社会の問題まで引き合いに長々としたフォローを入れでもしないと、あまりに語るべきことがなさ過ぎて、私は思わず泣きそうになってしまうわけだ。
私という人間のつまらなさも、これでよくわかってもらえたと思う。
今ではこんな風に冗談めかして語ることもできるけれど、そんな淡白な家庭と人生に抗おうと必死にもがいていた時期もあった。
夏休み中になんでもいいから一冊本を読んで感想文を書きなさいという国語の課題で、その一冊にたまたま家にあったミステリー小説を選んだのがそもそもの発端だった。
それは一昔前のベストセラー小説で、当時、社会現象と言ってもいいくらいの賑わいを見せたものらしかった。
持っていること自体が人間的ステイタスの一つとなり、物語の主人公とヒロインの名前は、その年の新生児の名前ランキングで男女ともどもダントツの一位に輝いた。
そしてあまりにも売れ、たくさん刷られ過ぎた結果、今では全国の古本屋のワゴンセールで殆どタダみたいな値がつけられて出されているくらいだった。
うちの両親も御多分に漏れず流行に乗っかっていたようで、家の本棚を物色すると、職業別電話帳と『ママのお悩み解決・お弁当のオカズ百品』という本の間に挟まれていたのを見つけ、これでいいやと何の気なしに私は手に取った。
そもそも純粋なミステリー好きの人々の間で評判に火がついてベストセラーになったのだから、内容自体にとにかく人を惹きつけられるだけの地力があった。私はそれまでロクに本を読む習慣なんてなかったけれど、読み進めていくうちにすっかりこの物語にのめり込んでいってしまった。
愛憎、ユーモア、悲哀、純情、狂気、誤解……わかり易い言葉と巧みなストーリーテリングで、さまざまな陰謀や計略や思惑が渦巻きつつ展開していった話の最終盤、結局、全ての物事の黒幕は、とある家系に突如発生し、古くは戦国時代の頃から人知れず、しかし確実に受け継がれてきた圧倒的なまでの殺人衝動という特殊な遺伝子、つまりは『血』だったということで話は大団円を迎えた。
『血の咆哮からは決して逃れられないのだ……』
遺伝子に深く刻み込まれた情報を前にすれば、良識も常識も、モラルも理性すらもただ無力だという意味を持つその結びの一言は、もちろん流行語大賞にノミネートされた。
―― 血か……私の血ってどんなだろう ――
何故そこまでずんなりと物語に影響され、大仰に考え込まなくてはならなかったのか……だけど当時の私はどこまでも本気だった。
本を閉じたその瞬間から、私は本気で自分の血統、果ては人生や運命といったものに生まれてはじめて真剣に対峙したのだった。
それは俗に人が一生の内で最も心揺らぐとされている、思春期を迎えたばかりの中学生二年生の夏だったのも少なからず関係していたのかもしれない。
父のように何もかもが中くらいになってしまうのが怖いと思った。
母のように凡庸に落ち着くのが嫌だと思った。
そして、その中くらいと凡庸の血をキレイに二分したサラブレットであるこの私を待ち受ける運命は、結局両親と同じような家庭を作り上げ、新たなる中くらいと凡庸をこの世に生み出すことになるのだろうと、私のアイデンティティーは目覚めたそばから絶望に捕らわれてしまった。
十四歳のうら若き少女にとって、そんな夢のない人生なんて絶望以外のなにものでもなかった。
認めたくなかった。
受け入れたくなかった。
そのような現実は、私の華やかさばかりに彩られた未来の青写真の中から断固排除しなければならなかった。
……そう、あの小学校時代のませた同級生の女の子達と同じような狭苦しい偏見を威勢よく振りかざして。
私は絶望と不安を振り払うために本当に必死になった。
背後から迫りくる危機感に追いやられるように猛烈に勉強をした。
毎日ヘトヘトになるまで部活のバスケットの練習に打ち込んだ。
女の子らしくなろうと頑張ってオシャレを覚えた。
生徒会に入って率先して学校奉仕に努めたし、地域のボランティアなんかにも積極的に参加した。
その成果はすぐに満足いくだけの形として現れ、その年の終わり頃には私は才色兼備・文武両道の完璧な優等生として近所でも評判の女の子になった。
私はそんな名声を手に入れたことよりも何よりも、とにかくホッと安心したのを覚えている。
これで大丈夫、私は両親とは違うんだ、私は特別な人になったんだ、『血』という黒幕を見事に振り切ったのだと思った。
そして、ふと張りつめ続けた気を緩めた途端。
私はパンクした。
はっきりとしない意識の中で「成長途上の身体と精神に負担をかけ過ぎたのが原因でしょうね」と医師が両親に向かって説明しているのを聞いたのは、病院の真っ白なベットの上だった。
辛うじて開けられた薄目に写ったのは。
「なんでそんなに無理してたの」と力なく呟いて涙で目を真っ赤にした母の顔と。
「おねーちゃんが死んじゃった!」と言って喚いている弟を抱きしめてなだめている父の姿だった。
―― 一体、何があったんだろう?私は何か無理をしたのかな?私は死んじゃった? ――
何かを考えようとするとひどく頭が痛み、私の意識はまたどこかに飛んで行ってしまった。
そして、私は夢を見た。
白い世界に立っていた。
空も地面もとにかく見渡す限りの何もかもが病院のシーツのように潔癖的な白さで支配された世界だ。
私と、そして私の目の前にある太い杭だけが色を持っていた。
そう、目の前には丸太のように太い杭が地面に突き刺さっていた。
あるいは単に地面から生えた大木を切っただけなのかもしれなかったけれど、夢の中の私はそれを杭だと認識していた。
そしてその杭にはぐるりと縄が巻かれ、ふと見れば私の体にも同じように縄が巻かれていた。
かたわらに無造作に束ねられた縄の余りから、それなりに長い縄であることが見て取れた。杭と私とは縄の端と端とで繋がっているのだ。
私はもちろん、縄をほどこうとした。
理由はよくわからなかったけれど、そんなものが巻き付けられて良い気分はしない。
何が哀しくて私は杭なんかと繋がっていなければならないんだ。
だけど、固結びになった縄はなかなかほどけない。
苛立ちが募った。
焦りが手元を狂わせた。
苛立ちを発散するために杭を蹴り飛ばした。
焦りを落ち着けるために何度も深呼吸をした。
そのうち言い知れぬ恐怖が私を捉えた。
どこからもたらされたものか、何に対して抱いたものなのか、正体はわからない。
しかしそれは確かに恐怖だった。
私はパニックになった。
急いで逃げなくてはと思った。
だけど縄はほどけない。
結び目は私が急げば急ぐほど、余計に固くなっていくみたいだった。
悪寒が背中を舐めまわした。
脇の下に嫌な汗がにじみ出した。
固唾を飲み込むこむ余裕一つなかった。
そこで私はとうとう駈け出した。
杭や縄のことなどもうどうでもよかった。
ただただこの場から遠く離れなければいけなかった。
どこでもいい。
何でもいい。
とにかく私は全力で走りだした。
白い空間を駆け抜けて行き過ぎるその景色もまた同じように白く、遠近感も距離感もまるで曖昧だった。
荒げた息。
激しい鼓動。
物音一つしない世界の中にあって、私だけが静寂をかき乱すただ一人の侵入者だった。
どれくらい走っただろうか。
少しづつ冷静さが戻って来た頭が何か違和感があるんじゃないかと訴えた。
違和感?
なんだろう?
何かおかしなことがあっただろうか?
……そうだ、縄だ。
幾ら長い縄だと言えども、これだけたくさん走ったのに体が引っ張られないのはおかしいじゃないか。
私は反射的に振り返った。
嫌な予感はしていた。
だけど、この目で確かめずにはいられなかった。
その予感がはずれていて欲しいという一筋の希望にすがりたかった。
そして、やっぱり希望は踏みにじられた。
杭があった。
駈け出した時と寸分たがわぬ太さと恰好で、私の目の前にそれはあった。
愚かな私を卑下するでも同情するでもなく、杭はただただそこにあった。
あんなに頑張って走ったっていうのに……。
白い世界のどこを見渡してみても、救いは見当たらなかった。
そして、私は目を覚ました。
相変わらず私はベッドの上に一人、横たわっていた。
今度はとてもはっきりとした覚醒だった。
目は大きく見開かれ、意識の感度はすこぶる良好だった。
こんなに冴えわたった頭でなら、どんなに難解な数式でも簡単に解くことができそうだったし、世間に一大センセーショナルを巻き起こす新時代のミステリー小説だって書けそうだった。
私が寝ていたのは六人部屋の病室で、隣にはロウソクのように痩せ細ったおばさんが私に背を向けるように横になっていた。
その人のベッドの横にある棚に置かれたお見舞い用のフルーツの籠の傍に、おばさんと同じくらい細身の果物ナイフが見えた。
何の変哲もないシンプルな果物ナイフだった。
だけど、その抜身の刃物の妖しいきらめきが、冴えた私の意識に冷たく訴えかけた。
血の咆哮からは逃れられない
私はそれを受けいれるしかなかった。
どれだけ背伸びをしても無理をしても逃げ回っても、遺伝子に『並大抵』という焼印がつけられている限り、その影からは一生逃れられないんだ。
だからもう、何かを頑張るのは止めよう。
何か高望みをしたりして無理をするのは止めよう。
……何をしてみたところで、結局、私は杭の傍からは離れられないんだから。
そう……
どうせ……
私なんて……。
不思議と痛みはなかった。
まるで完熟した桃に突き立てたかのようになんの手応えもなく、ナイフはスルリと私の皮膚を裂き、肉を断ち、血管を切った。
切り口からはすぐに血が溢れだしてきた。
本当に湧き出すように次から次に間断なく切り口から血が流れ、真っ白なシーツを赤く赤く染めた。
そうだ、その調子だ。
そうやって体中の血が全部外に出てしまえばいいんだ。
そうすれば……
私は……
何?……
みんな何を騒いでいるの?……
やめてよ……
とめないでよ……
私は……
ただ……
ただ……。
明くる日には帰れるはずだった病院に、結局私は三週間も入院することとなり、せっかくの夏休みを丸々棒にふってしまった。
おまけにそれから半年以上も精神科の医師の元へと通うはめになったのにも霹靂した。
あんな私の全てを見透かしているとでも言いたそうな目つきのおじさんに、毎週あれこれとプライベートな質問をされるのがどれだけ苦痛だったことか。
素直に質問に答えても答えなくても「ほうほう」とか「ふむふむ」などと言って勝手に納得している様子に、この医師が私と向き合うにあたり、この子は精神疾患を抱えた憐れむべき人間なのだから、という前提の元で接してきているのだということが容易に察せられた。
その時の不愉快さと、周囲の人達のあまりの騒ぎようにすっかり懲り、私は二度と自分の血を抜こうなどという考えを起こさないことを心に誓った。
今でもナイフで裂いた傷跡は残っている。
それを見た人があれこれと詮索してくるのが面倒だったので、傷跡を隠すために私は腕時計なりブレスレットなりをつけるのが習慣となった。
毎日Tシャツを着替えるように手首の宝飾を替えていた私のことを、相当オシャレな人間だと言って聞かなかった同級生もいた。
幾人かの男性に裸を晒したことがあったけれど、その時にも決して腕輪をはずすことはなかった。
むしろそちらの方がいいと鼻息を荒くした男もいれば一切気にも留めない男だっていた。
そもそもその下に何かが隠されているかもしれないと真剣に私のことを考えてくれるような優しい人と付き合った経験がないのだ。
……ほら、傷なんて隠そうと思えば幾らでも簡単に隠せる。
それが目に見える物でも見えないモノであったとしても、簡単に……。
***
「いやー終わった、終わった」
最後の荷物を軽トラックの荷台から降ろし終え、隆司は先ほど敷いたばかりのまだ真新しいラグカーペットの上に大の字で寝そべった。
昼前から始まった引っ越しも、気が付けばもう日暮れがすぐそこまで近づいていた。
「うむ、ご苦労であったぞ、弟くん」
「幾ら荷物が少ないったって、さすがに二人はしんどかったよ、ねーちゃん」
「ごめんね、他に引っ越しの手伝いを気安く頼めるような男子とのコネクションがなかったんだ」
「なんだよ、いい歳こいて電話一本ですぐさま駆け付けて来てくれる便利な男の一人や二人囲ってないのかよ」
「そうね……お姉ちゃんぜんぜんモテないから」
「モテるモテないじゃねーよ。別になんてことない男友達だっているんだろ?」
「……私ね……男の人が……怖いの」
「え……」
隆司が驚いたように体を起こした。
「高校の時にね……私、部活の先輩にね、ミーティングをするからって部室に呼び出されてね……そしたらそこにはその先輩しかいなくてね……そしたらいきなり……もうタカシだけなの……私がこの世で信じられる男の人はタカシしかいないの……」
「それって……」
私は両手で顔を覆いながら隆司に背を向けた。そして、わなわなと肩を震わせ鼻をすすりあげた。
「ごめん、ねーちゃん。俺、そんなことがあったなんて知らなくて……と騙されればいいのか?」
と呆れたような溜息と共に隆司が言った。
「あ、ばれた?」
私はおどけた顔で振り向いた。
「さすがに、ねーちゃんが襲われたっていう設定には無理がある」
「なるほど、脚本のミスか。でも演技の方は完璧だったでしょ?」
「ったく……。早く手伝いの報酬をよこせよ。そんであと腹減った。晩飯もおごれ」
「いいよ、はい、報酬」
と私は目を瞑って唇を突きだし、キスをしようとした。
「冗談しか言えねーのか、この口は」
隆司は私のほっぺたを軽くつねった。
確かに私は冗談を言ったり、ふざけて隆司をからかったりするのは好きだ。
しかし、嘘だけはつかないようにして生きていきたいなと、日頃から心がけている。
私は本当に高校の時、バスケ部の男子の先輩から急に部室に呼び出されて、襲われそうになったことがあった。
もちろんそんな不届きな輩は股間に一発蹴りを入れて成敗したけれど、襲われたことは襲われたのだ。
自分の私物を触ったり見られたりしてもいいくらいに心を許せる男友達も本当にいなかったし、男女を問わず、実の弟である隆司以上に信頼の置ける人物はいない。
隆司の運転する軽トラックで近くの回転ずし屋に行って夕ご飯を済ませ、ついでにホームセンターによってもらい延長コードやら何やら引っ越しの最中に足りないと気が付いた物を買い、ついでにスーパーで幾らか食材や日用品を買い込むと、アパートまで帰り着く頃にはもうすっかり夜だった。
「ごめんね、すっかり遅くなっちゃって」
「まあ、仕方ない。何回か友達の引っ越し手伝ったことがあるけど、だいたいこんな風にバタバタして時間がおしちゃうんだよな」
「だからもうこのまま帰っていいよ。トラック返しに行ったりもしないといけないし、明日も仕事、朝早いんでしょ?なんとか自分でやってみるから、テレビとかコンポとかの配線」
「なんとかったって、なんとかなるのか?」
「大丈夫。やればできる子よ、私は」
「それはできない子の常套句ってやつだよな」
結局、隆司は部屋にあがって私の苦手な家電の設置や細かい掃除までも付き合ってくれたあとにようやく帰って行った。
口も態度も悪いし、軽口ばかりたたいて生意気だけれど、何かと気の付く心の優しい弟なのだ。
神経の摩耗から頭のネジが飛び、散々暴れ回った挙句に意識を失って倒れてしまったあの時も、私が自分の手首にナイフを突きたてた時も、まだ小学生だった隆司は、私のためにたくさん泣いてくれた。
まるで自分のことのように心配し、隆司まで私と同じように発狂してしまうんじゃないかと、両親は本気で危ぶんでいたらしい。
―― タカシは自分の血についてどう思っているんだろう? ――
父に似てこれといって取り柄のない私と違い、弟は運動神経が抜群によくて頭がずば抜けて悪いという、どちらかと言えば母譲りのカラフルな要素をたくさん持っていた。
身長はそれほど高くはないけれどスラリとしていて、顔立ちや容姿は姉の私から見ても整っている方だと思う。
私がわざわざ根回しをするまでもなく、小さな時からバレンタインといえば家にはひっきりなしにチョコレートを携え、恥ずかしげに頬を染めた女の子達が何人も訪ねてきて、その対処に家にいた私と母はよく追われたものだった。
そんな隆司だからこそ、もしもあの時の私と同じように自分の血統を憂い、未来や将来に絶望したとしら、きっと激しく運命に反発をしたに違いない。
元々失うものなかった私なんかに比べ、隆司にはその跳ね返りの力がより大きかっただろうから。
だけど私の知る限り、もがいたり抗ったり、神経を窮々と擦り減らしたり、募る苛立ちから暴れまわったりなんてこともなかった。
もちろん小さな反抗期みたいなものはあったけれど、それも特別なことではなく、はた目からは何事も問題なく成長しているように見えた。
やっぱり私が過剰に意識しすぎていただけなのだろうか。
隆司は血や運命なんて大げさなことを全く気にかけてはいないのかもしれないし、あるいは家族の退屈さに呆れながらも、そのことと自分とをキチンと切り離して考えることができているのかもしれない。
それとも隆司は隆司なりの戦いを繰り広げていたのか、あるいはまだその途中にいるのか……。
遠ざかるトラックの背中を見送りながら、私はボンヤリとそんなことを思っていた。
アパートの中に戻ろうとした背中に視線を感じたような気がして私はハッとして振り向いた。
だけど、そこには新たな門出に立った私の前途の多難ぶりを暗示するかのような夜の深い闇が広がるばかりで、私は慌てて部屋へと駆け戻って見なかったことにした。
そう、血からは逃れられそうになくても、私はまだ豊かな生活を諦めたわけじゃない。
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