☂・ミスター・レインマン(Ⅰ)

 ミスター・レインマンは決して雨男ではなかった。


 むしろ彼の口から滑るように溢れ出る軽妙なジョークは人の心を和ませ、ハンサムで大きな笑顔はたちどころに誰かの悲しみの曇天を吹き飛ばし、一息で明るい気持ちにさせた。

 

 幼少期から彼がいる場所、向かう場所の空はことごとく晴れだった。


 どのような低気圧も彼には敵わなかった。

 どんなネガティブも彼の前ではひれ伏した。


 そう、ミスター・レインマンは稀代の晴れ男だった。

 

 タカシ・レインマンというのが彼の本名だった。


 本当は少し長くてややこしいミドルネームがあったのだが、彼自身、少し長くてややこしいから面倒だというので、基本的にはそれを割愛しながら生活していた。


 『ミドルネームなんて大した特技もないのに真ん中でやたら前に出て目立とうとするデベソみたいなもんさ』と彼はよく、そうおどけて人々の笑いを誘った。


 黒く艶やかな髪色と決して高いとは言えない鼻筋、端正な卵形の顔立ちは純日本風であったのだが、携えた一対の瞳は美しい碧眼だった。


 それは海や空、地球の青さを見る人に連想させる程にどこまでも澄み切り、どこまでも美しかった。


 もちろん、ミスター・レインマンは純粋な日本人でもなかった。


 イギリス人の父と日本人の母の間に生まれたハーフで、彼が生まれてから程なく両親が離婚、泥沼の離婚調停の末に親権を勝ち取った母親が彼を引き取り、そのまま彼女の故郷である日本で暮らすこととなった。

 

 そもそも根っからの流浪の人であったイギリス男がふらりと立ち寄った日本で、緩慢な毎日に程よい刺激を求めて夜の街をさ迷い歩いていた日本の女子大生と偶然出会い、意気投合し、その流れにまかせて肉体関係を結んだところからこの物語は始まった。


 周囲の猛反発にもめげず、むしろ反対されればされるほど、その道のりが困難であればあるほどに二人の決意はいよいよ頑ななものとなり、彼女は大学を中退、誰の賛同も祝福も受けることのないまま、遂には籍まで入れてしまった。


 もちろん式を挙げるだけの経済的な余裕などなかった。


 二人は婚姻届を役所に提出したその帰りに、普段は踏み台の上で背伸びをしてもまず届かないようなフレンチ・レストランでささやかなディナーを食べ、彼は世界を旅している最中に中東の露店市で手に入れたという対になったターコイズの指輪の一方を、彼女の左の薬指に仰々しくはめた。


 それだけで精一杯だった。

 しかし、それだけでよかった。


 とにかく二人は若く健康だった。

 前途はどこまでも明るく開けていた。

 地平線の彼方の更にその向こう側まで、幸福は続いているように思えた。


 彼らのラフすぎる正装をギャルソンが給仕の度に冷たい目で見つめることも、指輪のサイズが彼女の指には少し大きかったことも気にならなかった。


 二人でいれば何も怖いものはなかった。

 

 しかし、そんな行きずりの恋の延長がそう長く続くはずもなく、やがて潮が引いて行くように、ゆっくりと恋慕の情熱が冷めるに従って、性格や価値観の極端な相違や意見の食い違い、二人の間に介在する深く大きく埋めようのない溝の存在を互いに感じ始めてきた。


 あれ程までに愛らしく思っていた奔放な発想力を持った彼の少年らしさが、ただの未成熟な大人のワガママに見えた。


 艶めかしく美しいと思っていた、事あるごとに髪の毛先を指で弄ぶ彼女の癖が、忙しのない、神経症的な仕草に見えた。


 些細な理由から諍うことが多くなった。

 決して口にされてはいけない言葉の幾つかが口に出された。

 

 そんな折、彼女の懐妊が発覚する。


 二人は最後に一縷の希望をこの妊娠に託してみることにした。


 この子が、自分達のあの幸福な日々を取り戻す架け橋になってくれるのではないか、傾きかけた家庭のバランスを再び正常な位置へと立て直してくれるのではないかと。


 しかし、やがて元気な産声と共に生まれ出でた可愛らしい男の子にも、それは結局どうすることも出来なかった。


 もはや二人の関係は修復不可能な段階にまで達していた。

 

 激しい水掛け論を繰り広げた挙句、二人の離婚問題は調停にまでもつれ込んだ。

 

 互いに一貫して子の親権を主張して譲らなかったのだが、その理由は子供がどうだというよりも、どちらも半ば意地になっているところがあったのは否めない。


 それでも調停の最後の最後、幾分彼女の側に分があるように見えた。


 今回のようにその親権の在りかを争っている子が乳幼児の場合、判例としてどちらかといえば母親の方に有利に働く傾向があったうえに、一度、彼が深酒の酔いに任せて彼女に手を挙げたことがあったのも、調停委員の判断を左右する重要な要因の一つとして数えられた。

 

 イギリス人の父は負けを確信した。

 

 もう少しだけ粘れないでもなかったのだが、それは所詮、結末をだらだらと長引かせるだけの、望みの持てない延命治療であることは本人が一番よくわかっていた。


 そこで彼は突然、それまで僅かな仄めかしすらしてこなかった奇妙な要求を母親側に提示してきた。

 

 ―― 負けを認めて潔く親権を渡す。養育費や慰謝料も出来るだけの努力をしてみよう。しかしその代り一つだけ条件がある。息子の苗字だけはそのままにしておいてはくれないだろうか?妙な話だとは思う。だが、自分にとってはとてもとても大事なことなのだ ――

 

 母親は当然怪訝な顔をした。


 いや、彼女に限らず、その要求を聞いた数人の調停委員の全員が一様に目を丸くさせ、互いに顔を見合わせた。


 そんな奇怪な要求を聞いたのは初めてだった。

 

 往々にして、離婚調停や裁判は当事者の神経をこの上なく摩耗させる。


 苗字を変えない?理由はよくわからなかったが、そんな事でこの永遠に続いて行くのではないかと思われた離婚問題を、一分でも一秒でも早く終わらせられるのであればと、母親側は大して考えもせずに二つ返事でその要求を飲み、それまでの論争が陳腐な茶番劇だったと調停委員の一人が思わずこぼしたように、調停はあっさりと取り下げられた。


 若い二人の恋物語は、そんな何とも歯切れの悪い余韻を残した末に幕を閉じた。

 

 

 そして、タカシ・レインマンは相変わらずミスター・レインマンであり続けた。

 

     

 彼の底抜けに明るい性格は、幼少期、自分を養うために昼間のパートと夜の水商売とで身を粉にして働き、疲れ果てていた母親を励まそうとしたところから始まった。


 母が「あんたは本当に馬鹿なんだから」と笑ってくれることが、この頃のレインマン少年にとっては何ものにも代えがたい最上の喜びであった。

 

 母親は本当に疲れていた。

 そもそも彼女は、どこにでもいる一介の女子大生だった。


 何か崇高な大志を抱いていたわけでもなく、何か特出した能力があるでもなく、明日よりも今日、今日よりも目の前の享楽を優先してきた普通の現代っ子だったのだ。


 髪を染めたり、派手なネイルをしたり、ピアスの穴を開けたり、名ばかりのサークル活動で酒盛りをしたり、朝帰りを繰り返したりするだけで一人前の大人になった気がしていた。


 寄せ集めの屁理屈を並べ立て、恋をしたり恋を失ったり、連日友達と遊び呆けたりするのが学生の本分であり仕事であるのだと大声で笑っていた。


 そして大学を出た後、身の丈にあった相応な会社の事務職につき、これまた相応な少しだけ年上の男と職場結婚し、相応な時期に子供を相応な数だけ産み、相応に老い、相応な数の孫に囲まれ、そして長くも短くもない相応な頃合いに苦しみも恐怖もない、眠るように穏やかな死が訪れればいいと思っていた。

 

 子供を寝かしつけ、その愛らしい寝顔を眺めていると時々、ここ数年で起こった出来事の全てが、自分が現在置かれているこの状況が、一つの長い夢であるように思えることがあった。


 きっと自分は交通事故か何かに巻き込まれて、今は病院のベットの上で深い深い昏睡状態にいるのだ。傍らには両親や妹や友達など、多くの人が自分の目が覚めるのを今や遅しと待っている。


 そう、目を覚ましさえすれば、また元の楽しい生活が待っている。

 何も考えずとも生きていけたあの毎日が。


 そう、目を覚ましさえすれば……。

 

 ある日、いつの間に起きていたのか、レインマン少年が彼女の伏せた顔を心配そうに覗き込みながら「大丈夫?」と、声を掛けたことがあった。


 母は何も答えず、ただ少年に憚ることなく、さめざめと静かに泣いた。


 その眼は遠い記憶、在りし日の美しい景色の中を彷徨っているようであった。

 

 駆け落ち同然で家を出た彼女を、実家は厳しく勘当していた。


 その上両親は、結果離婚して出戻ってきた不良娘にもはや愛想を尽かし、冷たく突き放した。


 妹は汚物でも見ているかのように姉を見た。

 懐いていたはずの飼い犬は牙をむき出して彼女を威嚇した。


 彼女が頼れるよすがは他のどこにもなかった。

 そしてレインマン少年のよすがは母の他になかった。


 二人は互いに唯一無二の存在だった。


 春の嵐も冬の木枯らしも、二人は文字通りピタリと身を寄せ合い、体を温め合いながらやり過ごした。


 この広い世界の片隅で、母子は小さく丸くなりながらひっそりと暮らした。

 

 しかし、そんな固結びで繋がっていたはずの二人の絆は、研ぎ澄まされた運命の冷たく光る刃によって、躊躇いなくバッサリと切り捨てられることとなる。

 

 母親が、働いていたスナックの客と二人、どこかに逃げてしまったのだ。


 身も心も擦り減り、精神的に極限まで追い詰められていた彼女に、甘い誘い水の芳香はあまりに芳しかった。


 芳し過ぎた。


 息子の陽気な笑顔だけでは補いきれなかった彼女の心の隙間を、その香りはいとも容易く埋めてしまった。


 レインマン少年は一人、六畳一間のアパートに取り残された。


 彼が弱冠、八歳の時だった。


 母が二度と戻って来る意志などないことを知る由もない彼は、いつまでも母の帰りを健気に待った。


 自分で目覚まし時計をセットし、身支度を整え、何食わぬ顔で学校に行った。

 

 余った給食のパンを持ち帰り、それにイチゴジャムやマーマレードを塗って夕食にした。


 洗濯機を回し、干して乾いた衣類をキレイに畳んでタンスに閉まった。


 掃除機もかけた。


 一度新聞の勧誘が来たが、きちんと断わることができた。


 母に負担を掛けまいと、もともと自分でできる範囲のことは自分でやってきたレインマン少年だったので、表面上は何事もなく過ぎているように見えた。


 その陽気さで周囲の空気を楽しく和ませている少年の笑顔の下に、帰らぬ母親に対しての強い慕情の念が隠れていることなど、誰一人として気が付くことはなかった。

 

 レインマン少年はいつまででも待つつもりでいた。


 というより、いつまででも待ち続けることができた。


 母が必ず帰ってくることを頑なに信じ、疑おうとしなかった。


 心に少しでも疑念が過りそうになれば何か大きな声を出してそれを押し潰し、寂しさに涙がこぼれそうになれば急いで台所に行き、冷たい水で顔を洗ってそれを誤魔化した。


 哀しみの感情の何か一つでも表に出して形にしてしまえば、それが現実になってしまいそうな気がして怖かったのだ。


 そしてそれにも増して一人で眠る夜の暗さが毎夜のように少年を揺さぶった。


 六畳一間は彼にとっては少し広すぎた。

 

 湿り気を帯びた重たい闇が彼を意地悪く取り囲み、慈悲もなく勇気を削り取っていった。

 

 そんな心細さを紛らわすためにレインマン少年は布団をかぶり、これまでの人生の楽しかった思い出を何度も何度も心の中で思い返した。


 いつでも母の優しい笑顔を胸に抱きながら眠りに就いた。


 そして母が帰ったアカツキには、一人で何でもできたことを誇らしげに報告し、その笑顔を浮かべた母に頭を撫でて褒めてもらうのだと、少年はそれだけを頼りに幾つも寂しい夜をやり過ごした。


 小さな手を固く握りしめ、いい子でいるから早くお母さんを帰して下さいと、神様のいるであろう天に向かって、あるいは季節外れも気にせずにサンタクロースがいるであろうホッキョクの方角に(実際は西だったのだが)向かって、何度も何度も祈りを捧げた。


 そんな小さくも熾烈な一人ぼっちの戦いに終止符が打たれたのは、開戦から早くも一か月が過ぎようとしていたとある冷たい雨の降る月曜日だった。


 

 三連休明けのこの日、登校してこなかったレインマン少年を心配した担任の教師が放課後にアパートを訪ねた。


 再三の電話にも応答がなく、嫌な予感がしつつもその日に限って雑務に追われ、出向くのが遅れてしまったわけなのだが、その後この若い担任の女教師は、この時の対応の遅れを終生に亘って悔い、自分を責め続けた。


 それ程までに栄養失調のためにうずくまって動けなくなっていたレインマン少年を見つけた時の衝撃があまりにも強烈だったのだ。


 抱き起した少年の身体の軽さとその際に彼が浮かべていた細い微笑み、そして虚ろだが汚れのない青い瞳を彼女は生涯忘れたくても忘れることなど出来なかった。

 

 まるで手負いの天使が雨粒と共に自分の両腕にそっと舞い降りてきたような気分だった。

 

 他の子供達にとっては、家族との遠出のレジャーや朝から晩まで友達と遊び呆けられる解放感からとても楽しい三連休だったのだが、レインマン少年にとっては唯一のまともな食事である給食を不当に奪い去られた、苦渋の時間だった。


 元々、体力があまりある方ではなかったうえに、それまでの一か月間で偏るだけ偏った食生活の反動が、この三日間で一気に少年の細い身体を飲み込んでしまった。


 もはや家には食材は何も残っておらず、非常用として幾ばくかの現金が入っていた貯金箱が押入れの奥に隠されていることなど、幼いレインマン少年が知っているわけもなかった。

 

 この辺りが体力の限界だった。


 もしもその日教師が訪ねて来なければ、雨男という名を持ったこの青い眼の天使は、平気で短く儚い自分の一生を捧げて母を待ち続けていたことだろう。


 決して来ることのない主人を最後まで待ち続けた、健気なあの忠犬のように……。


 レインマン少年の戦いは終わった。


 その後、警察が少年の想いを引き継いで母親を探した。


 もちろん少年のように母を求める温かな愛情から来るものなどではなく、幼子を一人残して男の元へと走った身勝手極まりない女を捕まえ、法の下へと突き出し、断固として裁かなければいけないという純粋な職務としてのものであった。

 

 事件はテレビの全国ニュースでも大々的に取り上げられた。


 レインマン少年のケースとはまた少し異なった形を為してはいたが、その頃、凄惨な児童虐待事件や呆れた動機からの育児放棄など、実の親子間で起こる常軌を逸した事件が相次いでいたこともあり、世間はレインマン少年のニュースに只ならぬ関心を示した。


 街頭インタビューに答えた人々もスタジオに招かれた有識者も、一様に少年の母親を辛辣に責め立てた。


 誰もが彼女を考慮の余地も弁解を挟む隙間もなく厳しく断罪した。


 この事件に端を発し、国会でも保護責任者遺棄罪の刑罰をより重いものへと法改正しようという動きがあり、激しい議論が交わされもした。


 当事者を置き去りにしたまま、母子の問題は現代社会へと警鐘を鳴らす大きな流れを作りだすこととなった。

 

 しかし、幾ら社会的に強い影響力を持とうとも、日本中が彼に同情しようとも、レインマン少年にはまるで関係のない話だった。


 運び込まれてそのまま入院した病院のベッドの上で、彼は相変わらず母を待ち続けた。医者や看護師に屈託のない笑顔を浮かべ、無邪気に母親との思い出を繰り返し話すレインマン少年があまりにも痛々しく、号泣する若いナースが相次いだ。


 担任の教師や母が働いていたスナックのママなども見舞いに訪れたが、やはり皆一様に同じことを心の中で願った。


 どんな事情があれどもその行為は決して許し難く、どれほどそれが卑劣な鬼のような親であったとしても、とにかく一刻も早く少年の前に元気な姿を見せてあげて欲しいと。


 だから、少年のいる街から何百キロも離れた遠くの街の小さなモーテルの一室で、彼の母親が白いバスローブの帯紐で首を吊った姿で発見された旨を警察から聞かされた時、複雑な心境から、ある人は大きなため息を吐き、ある人はやるせなく首を振った。

 

 おまけに彼女と一緒に逃げた相手の若い男が、かたわらで胸に包丁を突きたてられた姿で絶命していた。


 モーテル近くのホームセンターの防犯カメラには、荒い画素数でもハッキリと識別できるほど鮮明に、当日、凶器となった包丁を購入する彼女の姿が写っていたし、柄の部分には指紋もくっきりと残っていた。


 どうやら彼女は一瞬の衝動などではなく、計画的に男を刺し殺した後、明確な意志を持ってして自ら首をくくったようだった。

 

 遺書らしきものは見当たらなかった。


 しかし、現場検証にあたった鑑識が屑籠の中を調べると、なにか短い言葉が薄い字で書かれたモーテル備え付けのメモ用紙が、クシャクシャに丸められて捨ててあった。


 文字のインクがひどく滲んでいて簡単には解読できなかったが、どうやら『ごめんね』と書かれているらしかった。

 

 誰にあてた言葉なのか、インクを滲ませたものはなんだったのか、そしてなぜ遺書として書いたであろうそのメモ用紙を捨ててしまったのか……真相は誰にもわからなかった。


 ただ、誰もがその理由をわかってはいたが。


 

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