第2話

「あなたは人間ですか?」

 それはいつもと変わらない昼下がり。午前の講義を終え、午後の講義がないツカサとシグレは大学のカフェテリアで一緒にお茶をしていた。唐突な議論はいつも、シグレお得意の聴く人が聞けば苛立つような問い掛けから始まる。

「君はどういう答え望んでいるのかい?」

 ツカサの答えにシグレは小さく笑った。「別に答えなんてどうでもいいわ。昔、本で読んだことがあるの。コンビニの店員やバスの運転手、ここのウェイトレスもみんな、わたしたちと姿形はほとんど同じ。だから、私たちは人間と思って接している。でもね、それが人である必要なんてどこにでもないでしょう? コンビニの店員なら客の持ってきた商品のバーコードを読み取って会計を済ませるだけ。バスの運転手も決められた時間に決められた順路を回るだけ。ここのウェイトレスだって、大まかなアルゴリズムなら容易に組むことができるわ」

「つまり、君は人は見た目では判断できない。って、言いたいのかい? そもそも君だって、コンビニに行く度にこの店員は人間なのかな? なんて、考えてはいないだろう?」

「そうね。あなたの言う通りよ、ツカサ。私もコンビニ店員が人間かどうかなんて、正直どうでもいいもの」シグレは答えると、テーブルの脇に置いてあった角砂糖を一つ摘んだ。彼女はそれをコーヒーに入れるでもなく、迷うことなく自らの口へと運んだ。それに続くようにコーヒーを口にした。

 シグレと会話していると、日常の出来事の全てがしょうもないことのように感じる。もっと本質的に考えるべきことがあるのではないか。彼女の問い掛けは、そのような物の一片を垣間見せてくれる。講義で習うような、離散最適化や圏論とは異なる日常に寄り添うが、どこか非日常的な議論。

 はじめの頃はもう少し参加者も多かった。しかし、シグレの持つ独特な雰囲気に気圧されたのか、あるいは飽きてしまったのか。いつしか、この茶会はツカサとシグレの二人きりの場となってしまった。

「いつも思うが、君の話は回りくどい。今日の本題は何かはっきりしたらどうだい?」

「何を根拠にそれを人と判断するのか? って、話よ」

 シグレは続けた。「見た目なんて見せかけの根拠、アテにならないでしょう? 実際に人の姿そっくりに造られたアンドロイドは実在するわ。しかも、そのアンドロイドの行った講演は最初から最後まで、観客の誰もが偽物とは気が付かなかったそうよ」

 それは有名な話であった。とあるロボット工学の研究者が態と予定をダブルブッキングして、他方を自分のそっくりのアンドロイドに行わせたという。

「つまり、君は見た目は単なる記号にすぎない、と言いたいのかな。コンピュータと一口に言っても電卓からスーパーコンピュータまで多種多様に存在するように」

 シグレは頷いた。「だから、私たちは内面にまで目を向ける必要があるわ」

「僕なら計算手法で判断したいところだ。機械は半導体の電位差で行うが、僕らはシナプスの反応で計算を行う」シグレは首を横に振った。「それも電位差に頼っている点では大差ないわ。でも、いい指摘だと思う。問題は人と機械とが同じ計算手法に従うか」

「そもそも人にとっての計算とは何かな? チューリングマシンのように記号の操作として定めるかい?」僕の主張は決して、からかいや皮肉でもない。現にチャーチ・チューリングの提唱として、チューリングマシンの存在性と計算可能性は同一視されている。根本的に、計算可能という概念は数学的に証明できるようなものではない。あらかじめ、公理系の中に計算という概念を組み込まなければ数学が成り立たない。

「世間一般的にはそういう話になっているわね」珍しくシグレが考えるような素振りを見せた。いつもの彼女なら議論のための準備をしっかりと済ませてきている。今回もそうだと思っていたのだが、なんだか違うような気がした。「私なら……」と、言葉を残して、彼女は本日二つ目の角砂糖を口にした。

「私なら、人の計算は記憶の観測として定めたい」

 それは彼女の意見というより、彼女の願望という方が正しいような気がした。「おそらく人は決定的な計算は行っていないわ。僅かな揺らぎを持った非決定的な計算を行っている」

「非決定的な計算も決定的な計算も本質的には同じことだろう。非決定的な計算を決定的な計算機はシミュレーションできる。確かに計算時間は指数爆発を起こすかもしれないが、やがて計算を終えて停止する。非決定的な計算が停止する限りね」

 ツカサの反論をシグレは静かに否定した。「違うわ、ツカサ。あなたは話の本質を逸らそうとしている。この場合、議論すべきなのは私たちがどの分岐にいるか、決定することよ」

「つまり、人は本質的に量子演算を行っている。そういうことかい?」

 一瞬、乱択と言おうとしたがやめた。この物質世界で生きている以上、与えられる乱択テープの中身は無機質なアルファベットの羅列ではなく、量子状態の羅列であるはずだから。

 シグレはコーヒーを飲み、ゆっくりと言葉を紡いだ。「そうね。確かに、量子演算系で考えるべきことだと思うわ。そして、神託として持つはそれぞれの記憶だと考えるわ。時刻tの記憶を返してくれる函数と思えば、別段おかしな話ではないでしょう?」

 ツカサはカフェラテを口にした。「僕らは記憶へ問い掛ける事で計算を行っている。って、言いたいのかい? それではまるであらかじめこの世界が用意されているみたいじゃないか」

「たとえ用意されていたとしても、その全容を私たちは知ることは出来ないでしょう? 私たちが1回の計算で知ることができるのは、時刻tにおける記憶だけ。全てを同時に手に入れられる程、人って便利には作られていないのよ」

 どこか冷たいシグレの言葉にツカサはしばし考えを巡らせた。確かに世界5秒前仮設が存在するくらいだ。あらかじめ、この世界が用意された物であったとしても、誰かが作った物だとしても、きっと自分達はそれを確かめる術を持ち合わせてはいないのだろう。

 ツカサはちょっとした思考実験を思い付いた。もし、今ここで自分が彼女の−−シグレの記憶へ質問を投げることができたとしたら。その場合、自分はシグレなのだろうか。それとも、ツカサのままなのだろうか。

 その疑問を投げかけてみると、シグレは小さく笑った。「たとえツカサが私の神託にアクセスできたとしても同じ結果が得られるとは限らないわ」シグレは三つ目の角砂糖を摘んだ。「私たちの身体はね、記憶を観測するための単なる観測機なの。記憶という量子情報を確定させるために身体は存在するの」

「つまり、記憶と身体の二つをもってしてようやく個人を確定できるっていうのかい?」

「いいえ。本質的に必要なのは記憶だけのはずよ」シグレは答えるとコーヒーを口にした。「それは単なる観測機なら複製が可能って話かい?」

「ええ、その通りよ。肉体なんてただの観測機、いくらでも複製が可能だわ。クローンのようにね」

「その言い方だと、クローンに同じ記憶を与えた場合、同一人物であるという話になるけど、それでいいのかい?」

「構わないわ」意外にもあっさりとシグレは答えてしまった。「逆に聞くけど、ツカサはその二つの個体が異なるモノって判定できる自信はあるのかしら?」

 シグレは首を傾げた。

 姿形すら全く同じ存在が、オリジナルと同じ記憶にアクセスしていたとしたら、二つの個体に違う点は何か。「その二つは本当に同じ記憶を観測するのかな? 君はさっき、記憶は量子情報と口にした。ということは、同じ観測機を用いたとしても同じ結果を検出するとは限らない」

「ええ、さすがツカサね。同じ観測機を用いても同じ結果を検出するとは限らないわ。だから何度も問いかける必要がある同じ時刻の同じ情報に対して。でも、時間を止めた実験が現実的でない以上、判別できるとは私には思えないわ」

 ツカサは残っていたカフェラテを一気に飲み干した。「君の言う通り、人の本質は記憶だとしよう。でも、それは人間と機械とを選り分ける指標になるのかな。例えば、ある人の記憶へアクセス可能な量子演算機が開発されたとしよう。君は、それを人間とみなすかい?」

 シグレもまた残っていたコーヒーを一気に飲み干して答えた。「おそらく、認めるしかないのかもしれないわ。否定する根拠が見当たらないもの」

 きっと倫理的には否定する心が働くのかもしれない。でも、僕らの論理の上ではその存在は人として認識されてしまう。記憶という神託を持つ機械は、機械の垣根を越えて人の世界へ入ってくることができる。となると、最後に残る疑問は−−。

「ある計算機が記憶を持つか、持たないか。判定は可能なのかい?」

「記憶が計算可能かどうかにかかっているんじゃないかしら?」シグレは答えた。「記憶の部分を停止問題に置き換えてみたらどう? ある計算機は停止性問題を神託に持つか?」

 それは問題として成り立っているのだろうか。神託機械を形式的に記述できるのだろうか。ツカサはしばらく考えて、そもそもこの問題は停止性問題を判定することと同じなのではないか、という疑問が彼の脳裏を過ぎった。「もしかして、君ははじめから不可能なことを議論するつもりでいたのかい? ある人の記憶を模倣する機械と本人との区別をつけることはできない、って」彼が言うと、シグレは首を傾げた。「不服?」

「別にそう言うつもりはないけど……」先を続けようとして言葉を止めた。口にしなくても分かっていたこの先に続く言葉は、論理的というよりも、感情的な言葉に近いものであった。

「ツカサ。論理的な話を除いてしまえば、自分を人だと言うことは誰にでもできることだわ。でも、周りが認めなければ、その人は人としては生きていけない。私の最初の問いを覚えているでしょう? ”あなたは人間ですか?” この問いはね、究極的には問われた人には答えられないはずなのよ。問うた人が決めることよ。考えてもみてよ。単にイエスと答えるだけでいいなら、誰にでもプログラムが組めるわ」

「社会の前には数学的な議論は無駄ってことなのかい? それは数理工学を専攻する者としては認めたくないな」

「違うわ、ツカサ。社会の中で数学的議論が意味をなさないわけじゃないわ。社会が数学的議論を省くように出来上がっているだけなの。だから、数学者は異端児のように扱われる」

 悲しいけど、ツカサには的を射ているように思えた。元々、人の定義なんて曖昧なものに数学を持ち込んだのが間違いだったのか? しかし、その考えは哲学を否定することになる。哲学無しに学問を語るのは、あまりにも愚かな行為であるようにツカサには感じられた。それにはシグレもまた同じ意見であった。

「まるで、自らの記憶を完璧に模倣する機械を作ってしまえば、勝ちみたいだ」彼は独り言のように呟いた。「勝ちとは?」席を立とうとしたシグレが首を傾げた。「人類の到達点。永久の命を手に入れられる、って意味さ。多くの人が望んでいることだろう?」

 ツカサの言葉にシグレは確かに笑った。「そうね。確かにツカサの言う通りかもしれないわ。周りに認めさせてしまえば、造り物の体だろうと、それは私であり続ける。そんなことが可能なら、私は喜んで手を出すわ」

「君も永遠の命に興味があるのかい?」尋ねると、彼女は首を横に振った。「違うわ、肉体という枷が捨てられるからよ」

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