すすき野の上の砂時計

仁川路永扇

本文

猫は鳴いた。

何を察知したのか、彼は何かに向かって鳴いているのだ。

その下に埋められたわけでもなく、土として沈んだわけでもないその歴史を、観測してもいないのに、誰もいないすすき野で、猫は鳴いている。そこに存在しているというのが、何よりの証だ。

猫は鳴いた。

ニャーと鳴いた。彼は尻尾を振っている。愛着のあるものを探すかのようだ。

その向きへと前脚を進めていき、ある場所で止まる。そこには何もないし、何かが埋まっているわけでもない。


入れ物の中の水が循環し、火によって熱せられたそれが循環し、全体として水として存在し、それが湯となり空気中へ去るのを、横目で見ていた。

黒いインクがまだ乾かない。息を吹きかけて、蒸発を狙うし、もしくは、パタパタと手で扇いでは、乾燥を狙うが、しかし血は乾かないのだ。ついうっかり右から書いてしまったせいで、それに気が付いたときにはどうしようもなく、ただ、紙上の血を眺めるのみだ。

秘教的に、置かれた猪の牙の頭飾りと、床にはペンタクルの紋章が書かれている。それは水でも落ちないように、アクリル絵具による血で描かれた。この間は仕方がない、と筆記具を鼻の下に置いたなら、床に落としてしまい、その衝撃で黒い血の瓶までも落として大惨事になってしまったのだ。視界も黒く染まっていく。

その中でも、白い紋章は輝いていたのだ。安いもので補おうと思っていたのを、効果が出たのだから、喜びと悲しみが赤と青で記されるなら、ちょうど赤紫の気分だった。


今日も、今日やるべき分の、残りの原稿用紙の白さを見て、煙草が吸いたくなった。酒だって飲みたくなった。もう何でもよくなったが、来るべき時の笑顔に備えて、書き進めなければならないと、自負し続ける毎日だった。血はまだ乾かず、紋章の真中では猫が鳴いている。ついでに左手を彩る腕輪もニャーと鳴いた。

ついでにわたし自身もニャーと鳴いた。もう、部屋中ネコまみれや。

書きたいことは山ほどあるのに、あるのに、しかし書き進めることができないのだ。自分が過去に犯した失態で、未来すら書けないとは、なんたる喜劇スルシュヴァイゲンか、悲劇テルシュヴァイゲンたるや!

こうしている隙にも時間は過ぎていくし、夜が明けていくのだから、時間は長いようで短くて、短いようで長くて、だからこそカンヴァスに自身の思想を残し、遺さなければならないし、そうでもしなければ後世にさえ残れないのだから、するべきなのに、なのに、どうしようもないことで、わたしは志半ばに、吹き込んで開花させようとする蓮も置いて、散って行ってしまうのか。あってはならないから、あってはならないから。

腕輪のゆるく締まる圧が、わたしを思想の海から救い出した。しかし同時に海に叩きつける刺激だった。目の前に提示された真っ白の原稿用紙の束の数を数えて、今日はあとどれだけか、と悩み、先ほどの失態が無かったことになったのを、横目で見て、この隙に烏龍茶でも淹れて、元気を取り戻そうかと画策して、席から立ちあがったのを、猫はスリスリと寄ってくるのだ。


さらさらと踊る筆が、遠い国の巫のするような儀式の動きをしていた。気が付いたら鬱蒼と茂る森の中にいて、わたしは中央でずっと原稿用紙とにらめっこしているのだ。その中でも砂時計はさらさらと流れていくし、時間は残酷な血液だ。森の、木々の葉のざわめきがあまりにもうるさいので、大音量のダブステップをかける。通信機器に負担がかかり、またさらに残量が減っていく。そして知るところではないが、財政にも負担がかかると知れ。重い首をもたげて軽く、顎を下へ下げたなら、普段と全く同じ光景が片目に広がっていた。ただ、その定義はあまりにも不確かなので、目と呼ぶべきだと思うのだ。

猫が飯を要求してくる。わたしもねこまんまを食べる。備蓄はあるが、どれも好みではない。そのうち好みになる日が来るから、取っておいているだけ。選択に感情は許されないのだ。


紫に染められた水晶をそっと撫でて、また机に向かう。きりりと胸に音がするから、何事かと悪寒が走る。ああいつものだと、納得して、一度猫背になっていた背中を直して、また机に向かわなければならない。今、呼吸をしているか。今、わたしは呼吸をできているのか。無意識的な動きだと説明されても、意識的にやらなければ溺れてしまうかのように、浮き沈みする体の具合だから、心の具合でさえ、自分で操れないのだろうかと、いつも自分で疑問に思うのだ。壁は1960年代を思わせるグラフィックスタイル、つまりはリゼルグ酸ジエチルアミドでも摂取したかのような色に変貌していく。目が痛い。手が震える。ああこれは薬が切れたのか、となり、少し立ち上がって異国の香辛料や備蓄の備えてある祭壇へと目をやる。例の薬の瓶があって、その蓋を回して薄茶色の濾す紙に、薬を擦りきり一杯入れて、烏龍茶のあまりの湯を淹れる。最初は少なめに入れ、薬を湿らせる。それからは一気にドバーっと湯を入れる。ああ~漂う匂いが中枢神経が興奮するほど気持ちええんじゃ。その悠久のヤクキメまくり文化を流れる糸と共に閲覧して、自身も同じように幻覚を見る茸の中に生えていた。わたしは自然に生えていたのだ。

目が酔ってくる。ラリパッパな幻覚世界が現実と化したなら、もっと酷いことになってくるだろう。昨日などは、結局夜通し踊ってしまった。偉大なイメージの中、偉人、祖先、大地の精霊、自身の中に宿る影、もしくは天使、生物のデザイナー、ついには世界を創った神にさえ邂逅し、二重らせんを通さない会話さえできたのだから!うねりの中で到来する波が、全て命で、それぞれの輝いた瞬間を記録されていた!

背中を傾けることが許されるなら、今すぐにでもその余韻に浸りたいところだった……思い出すだけで脊椎から下へと流れていく。尾てい骨へととどまったなら、そこからまた上へと急な角度で3度回って、脳の上を超えた更なる上へと人類は飛躍する。葉の裏側へ、向かったならば、それは人類の黒く隠された意識だ。


白濁が頭脳の上から降り落ちた。小一時間、自身の幻想の中に潜り込んでしまっていたようだ。アッパーな妄想で躁状態になり、白いインクの入った瓶を天井に届くかのような勢いで投げていた。幸い大ごとには至らず、ふたが閉まっていたから。

さて、小菜園の様子を見に行こう。ハシボソガラスかスズメか人間に収穫されていなければいいが。今年の秋は冷えに冷えている。だからほうれん草も問題なく育つものだ。鳥よけもないのに鳥は寄らない。これだけ美味しいごはんさんが目の前に生えていてもだ。ほうれん草には生で食べるには似つかわしくない成分が混入されている。それは自然のうちから存在していて、人間は湯に晒すことでその毒から自らを守るのだ。相変わらず物量が多くて、情報量が多くて、めまいで倒れそうです。いくつか引っこ抜いて、簡素な鉢でも作ってやって、土を入れて、そうしたら大きく育ってくれるだろう。栄養量と、空間量が問題とされるだけだ。これだけ多くの個体を育てられるということは、良い土だと言えるのだろう。

若々しい緑が、死んだ色のすすき野を強調させるかと思ったら、逆に生命の方が強調されるのだ。都会に置いたとしても、その緑はかえって強調されるだろう。心無い人に摘まれる可能性を除けば。

猫が鳴いた。今度は野良猫だ。猫は好きだ。わたしも猫だから、同族を理由もなく嫌う理由なんてないし。しかし好きには理由がなくてはならない。何らかの賞があれば、それを根拠に自分を好きと言い張れるのだが、証明できるのだが、それを過去の栄光だと片づけられたらなんという地獄か。

そうこうしている間にも、砂時計は流れ落ちる。巨大な巨大な砂時計。わたしの、決して高いとも言えない身長を軽く越していく、わたしの子供。

わたしがいなければ、観測すらできず、すすき野も、ニャーと鳴く猫も、ニャーと鳴くブレスレットも、ウニーと鳴くわたしの右目も、無かったことにされるのか。

水のこぼれた愛のある、幕の外へ向かわなければならない。

これから秘術を始めよう。そしてこの文書はその過程であって、結果のみを重んじる界隈に雷を落とすのだ。ダダイズムはここに復活せり。


日をまたいでも、月をまたいでも、年をまたいでも、生をまたいでも、意志の通りに実現しなければならないのだ。それでこそ表現活動だから、表記し、書き表わし、描き、表さなければならないのだ。

何も文章だけではない。その対象には勿論、絵画だって入るのだし、勿論、彫刻、音楽、あらゆる芸術が意志の下に存在していて、全ての元素はそこに宿っている。勿論現在知られているような118の要素ではなく、5の要素であるが。枝から作ったものから、描き出されるその真髄を見よ。

人はだれしもがこのような心の空間を持っていて、それを描くために自己実現をしているに過ぎない。誰もが表現者で、誰もがモチーフで、誰もがモデルで、誰もが批評家なのだ。

すべて水平線の上ならば、くだらないものなど何も存在しないと!あえて定義するならば、「作ったつもりになって、何も作っていない、成果の見られない」もののみとぞ!


芸術の秋とはよくいうものだ。誰もがこの、色づいて死を待つ瞬間の木々のざわめきに耳を貸して、目を向けて、すべての感覚を集中させ、時間を味わう…… 自身の中に抱えた者が、カンヴァスを通して顕現せり、と願っているよ。みすみす見逃すにも、惜しくなってきて。

升目の紙も、布の張られた板も、五つの線の入った紙も、過程も結果も映す液晶も、すべてカンヴァスだ。多少の形式の違いは在れど、ただの形式の違いでしかない。ならばわたしは、一番得意なもので表現するのみだから。


突発的に取り掛かることとなったその作業を、月も傾かないほどに終わらせて、その前から、やろうやろうと思って後に後に送り続けていた大いなる業を行わなければならない。どうも準備体操になったのか、ペンの休まることがない。安心して、没頭することができる。自身が文字として描いた結界の中へ、没入し、世界を補完していく。手元には辞書があり、いつでも引き摺り下ろすことができるようにしてある。このまま、沈んでいきたい。沈んで、沈んで、誰からも発見されず、自身の描いた世界にただ一人きり、になりたい。引きずり込むための魔法陣を形成するつもりはなかったのに、周りが引き込まれていくのだから、わたし自身も引力と化すしかなかったのだ。ブラックホールは同族に会えない。抱擁も、接吻も、握手もできない。時々息継ぎの為に、インクを足すために顔を上げる。少しずつ、潜水する時間が長くなっていく気がしている。怖くはない、青に溶け込むのは気持ちが良いことだから。感覚的に知っている、恐ろしいものではないと。

四角で区切られた場所で、形成されていくラポール……これまでの行いが積み重なって、成果となる。人はその結果しか見ることができない。画面の前のあなただってそうだ。しかし、これも積み重ねであり、見ているうちに継ぎ接ぎの布のような違和感を感じたとしたら、堆積した層と言える。

青に溶けて、深海へと辿り着いていた。表現の向こう側へ、人間の顕在意識の向こう側へと辿り着いた。そこではあらゆる表現が形を持つ。あらゆる表現が肉体を持っている……自身の中で。

ゆらゆらと流れに沿って揺れている遺伝子と、流れに沿って動いているクラゲの5匹を見ていても、自身の魔法陣の中が最も大事で、最も重要な領域なのだ。

ここまで来れば、猫すらわたしを止めるには不適格で、ブレスレットも右目ももはや不適格だ。息継ぎをしに顔を上げたとしても、深海からは戻れない。そこに基地が形成されているから。ぷくぷく、泡を吐いて、更に深く沈んでいく。どこか落ち着かない、本当にここまで降りていいものかと思い、傍に置いた紙の束だったものを見た。もうすでに、束ですらなくなり、一枚一枚数えられるほどに少なくなっていた。記憶違いか、幻覚か確かめるために、いつもの死んだ言葉たちの置き場所を見る。

紙の束が置いてあった。これまで形成してきた要素が、一つ残らず書き記してあるのだ。深海に潜っていたらあっという間だった。現実を一度でも見てしまえば、その魔法は解けてしまう。催眠ならば眠らなければ解けない、しかし魔法は解けてしまった。ああ、次の言葉は何を選ぼう……


毎日を過ごすにつれて、思うことを書き連ねていく。書くことと、表現することは好きだ。そうでなければこれを書いたりなどしないから。ゆっくりとした時間の流れがもたらすのは、自身の欠点の暴露だった。反対に考えれば、人格改善の方向性がまた補完されたということだ。人間は完全になどなれないし、なれたとしても近似値にしかなれないのだから、焦らなくていいよ、人生を楽しもうと某人は言うが、反論の余地はあるのだろうか。現代の自動筆記板を手にして、悶々と考えている。

わたしは知っているはずだ。すべて人生には意味が無く、強制的にこの世に排出されて、強制的にあの世に連行されるだけ。その繰り返しに意味などあるのか、という答えを。感情も波で、思い出すら書いても残らないのなら、何のために感情が存在し、思い出を『態々』作る必要があるのかと。無為の極限に来たのだから、しかして何も非ず。究極の否定と言うのは自殺のことで、何もかもを悪いものと認定して自身ごとあの世へ連れていく儀式だ、と囁く者の言葉が胸に響く。

呼び水だった。嫌な記憶を思い出してしまう。記憶と言うのはサツマイモのようで、生えているものを引っ張り出してみれば、ついてくる土も芋も多数に。実っていないというのもおかしな話であるが、それよりも全ての芋が土の中に在りて傷んでいるのも、おかしな話であると。このページは閉じよう。


服も肉体も用途は同じだ。気に入らなければ捨ててしまえばいい。そう思って生きてきた。今この瞬間にもこの服と肉体を捨てて、より深い精神の奥へと介在するために、ヴェールをハサミもしくは鋭い刃物で切り刻んでいく。神性はこうして暴露される。

祈り舞うことによって儀式は成り立つ。地面はカンヴァスと化すから、ここはわたしの領分だと。猫には典型的な魔女のコスプレをさせた。茶トラの雄猫だが。だいたいこういう時は黒猫と決まっているが、黒猫は闇に溶け込んで、車道に飛び出してそれきりだったことが何度かあったので、暗闇での視認性の良い茶トラを飼うことにした。分かるよ、猫はよく脱走するから。

木が中央で燃えている。なんだかよくわからない葉を持ってわたしは踊っている。自身の心さえ、自身で動かせないのだから、自身の体さえ、自身で動かせないのだから、今自分が何をしているのか、自分に言い聞かせないと、そのうち樹海に迷い込んでそれきりになるだろう。勘は当たる。

動くたびに揺れて、近くのとぶつかり合い鋭い音を立てていた。木は匂いからしておそらくイチイの木だ。イチイは嫌いだ、スギやマツとは別の理由で。見ていると苛々として、切り倒すか粉々にするかパルプにしてバイオマス発電にぶち込むか枝が生えてくるなり切り落としていくなどの感情が去来してくる。見ていると必ずだ。また近所の畑にイチイの木が混入していた。だから燃やした。木は悪くないけど、まつわる人物が人物なだけに、無罪のイチイは冤罪で燃やされていくのだ。生命は循環すべきではないのか。あとシラカバの木も同様の理由で嫌いだが、すぐに循環していくので態々燃やしたりなどはしない。

墓場に生えて死神気取りでもしてるのかこのたわけが!


空間に入って早十分。わたしは既に、巫と化していた。存在するものと、これから存在することになるであろうすべてへ、祈りと愛と呪いを捧げ、秘儀はまだ終わらない。猫は鳴いた。誰の為かは知らない。祝詞の真似事でもしているのかもしれない。ならばわたしも捧げよう。


日暮れの花へ、月夜の君へ、朝焼けの稲へ

終わることのある暗黒へ、いつか覚める朝へ捧ぐ

すべて物語が、物語として語られんことを祈る

彼らが彼ら自身で見つけなければならないものを、

見つけられるように、わたしは祈る


夜が明ける前に語れ。太陽が昇れば消えてしまう命だからこそ。

残酷な明かりが、背中を照らさないように、目に触れないように。

直視すれば気にふれるような、永劫に課せられた命の定めだからこそ。

終わりがあるから始まりがあり、始まりがあるから終わりがある。

夜に生まれたその命の灯りが、燃え広がって、意識に浸透せんことを、

いずれ終わるからこそ、一瞬一瞬に目を向けることができることを。

夜が明ける前に語れ。太陽が昇れば消えてしまう命だからこそ。


命のにおいがした。猫から発せられる、生きとし生ける者たちの祈りそのものだった。物語も人の命も本当は同じで、わたしたちはページをめくるように眠っていて、ページをめくるように起きるのだと。生と死の儀式は、例の血が降りてくるだけでなく、当たり前のように行われていることだった。

なに、自身の今まで書いてきた本から、構成し、校正し、更生して、根本には思想を生やして、表面を肉体で飾って、葉を生やし、実を生らせるだけ。作るという行為はそこまで簡単だったのだ。本来ならば。

先駆者の、彼らの苦労もないがしろにして、肉体だけで売れようとする者もいるが、その苦労と言うのは、思想が入っていないから浅ましく思えてならないのは、わたしだけだろうか。

真実の朝日が照らす前に、猫と家に帰ろう。よく燃えてくれたよ。また明日もよろしく、燃えてくれ。


こうしていく間にも、砂時計からは砂が落ちていく。流血と共に失われていく命。肉体すら挿げ替えて、踊り舞った末に、ようやく一つの言葉を召喚することが叶った。

『人の心の詩は、誰にも穢されない紙で描かれている』。

内容そのものには精神の汚濁が混ざりこんで、何でもない、そんな詩になってしまうかもしれない。しかし感じたことが覆せないように、このようにして製造された詩は絶対的に咲き誇る。位置はどこにあろうとも。崖の上でも、すすき野に埋没しても。掘り起こすまでが苦しいだけで。

人の人生は時折物語に例えられる。ドラマチックに人は争い、人は苦しみ、人は愛し、人は死に、そして詩は完成する。どれだけページを膨らませることが叶うのか、それが人生の悦びで、苦しみの具現化だ。

真実と言えない真実に到達し、わたしは原稿用紙を一束にまとめ、茶色の封筒の中に入れる。紫の石が、「よくやったよ」と褒めている、そんな気がした。

誰しも人は孤独では生きていけないが、誰しも人は集団の中では生きていけない。わたしは個人として生きることを決めた。これはその決意書である。

都会を離れ、田舎を離れ、世間と、一般論にまみれた人間界隈をも離れて、このすすき野に辿り着いた。おそらくわたしには、お似合いだったのだ。


猫は鳴いた。

人が紡いだ故に、成り立った悲劇と、成り立った喜劇を感じて。

猫は鳴いた。

自身の中に流れる砂時計の砂が、上から少なくなっているのを感じて。

わたしは泣いた。

自分で望んだ幸福と、不幸の織り成した文章と、表現するだけの命へ。

わたしは鳴いた。

日暮れの花へ、月夜の君へ、朝焼けの稲へ。

わたしと猫は抱き合い、一つになる。

一つになって、それは表現される。二つの命が一つの物語になる。


このすすき野へようこそ。歓迎しよう、過去から来たあなたも、現在から来た君も、未来から来たお嬢さんも。物語が裏切るようなことは、あなたの心の動きだから。わたしたちは、決して裏切ることなどないのです。

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