異世界に行った夫の帰りを猫を殺しながらまつ妻

@ta_nishi

短編小説


 生き死にを好き嫌いで考える。生きるのが好きだ。死ぬのは嫌いだ。



 駅で路線図を見つめる。正円の山手線が美しい。欲言えば山手線が緑ではなく赤だったらどんなにいいだろう。日の丸だ。東京の真ん中には皇居がある。東京は少しづつ日の丸になっていく。境界はなくてはならない。暗転、夜が昼になる。

 特別なことは何も起きない。残された退屈をいかに過ごすべきか考える。特別なことは起こらないが、特別ではない何かは起きているのだろうか。過ごすべきなどと何故、義務のように考えてしまうのだろうか。暗転、昼が夜になる。



 山手線と検索して地図を見る。山手線は丸くない。縦長でごつごつしている。まるで女性器だ。まんこ、あるいは、ヴァギナ。どう言っても差し支えはない。その許可はすでに得ている。夥しい悲鳴がこだまする。それは人間の声ではないのかもしれない。隙間風が悲鳴のように聞こえているだけなのかもしれない。悲しんでいる人がいることをまだ認めるわけにはいかない。

 男と女、それぞれの形をした立体物が運ばれてくる。男の形をした立体物が赤く光る。女の形をした立体物が赤く光る。義務ではない欲求だ。然したる感動もないが、物語のはじまりというのは得てしてこんな程度のものなのかもしれない。

 この先に何が起きるかはすでに全て知っている。この先には何もない。先に進むことに意味はなく無益だが、先に向かって後ろ向きに歩くならば有益なのかもしれない。意味に価値はなく、価値に意味はない。生活が終わって、虚構がはじまる。



 男と女の立体物が赤く光るのを止める。女の形をした立体物に妻という名が与えられる。男の形をした立体物に夫という名が与えられる。妻は夫の帰りを待っている。夫は妻のために行動せねばならない。暗闇に閃光が走る。夫がまだ声にはならない声で語りはじめる。

「悪を滅ぼしに行かねばならない」

 妻と夫の四方に壁面が設置される。壁面の内側に光が照らされる。壁面の外側に煙が漂う。四方の内ひとつの壁面が倒れる。

「悪がここではないどこかにいる。滅ぼさなければ災いが起きる。それを阻止しなければならない」

 妻は夫が善であることを誇りに感じる。夫は妻が善悪の判別ができたことに敬意を払い、愛を持って接し、妻を物ではない存在として認める。暗闇に閃光が走る。夫に足が生えて、彼方へと消える。妻は夫がもう帰ってこないことを知っている。暗闇に閃光が走る。妻に足が生えて、妻が立ち上がる。妻は何かを考えるべきだと気付くことができたが、何を考えるべきなのかを考えることは出来なかったので、その場から一歩も動くことなくしゃがみ込んで、やがて眠った。

 眩いばかりの光が、かつて妻と夫が共にいた一軒の家を照らしだす。光の源泉は赤いが、家に当たっている光は無色の白色光だ。虚構が終わって、創造がはじまる。



 妻が眠りから目覚めたとき、傍には猫がいた。妻は数を数えることが出来なかったが、それが1ではないと理解することが出来た。そのなかに、自分と同じように、妻と夫がいると直感した。妻はそれが2だと理解することが出来た。それ以外が何であるかは、一生懸命に考えたけれども、考えるすべが分からなかった。妻は考えることが出来ないことを悲しいと感じた。妻は悲しみに耐えられなかったので、考えられることだけを考えることにした。妻と夫、あとは正義と悪、それ以外のことは知らない。だから妻と夫は正義で、それ以外は悪だと決めた。妻はそれを3だと認識することにした。妻は自分の頭で考えることが出来たことに生を実感した。自分は物ではない存在だ。正義だ。悲しみが喜びへと変化した。妻ははっきりとした声で叫んだ。

「悪を滅ぼさなければならない」

 妻はそれから赤い光が自分を照らして周囲が見渡せるようになる度に3を捕まえては殺した。首を絞めることもあれば、落ちていた棒で殴ることもあるし、水に沈めることもあった。いずれにせよ動かなくなってしまえば気が済んだ。

 3はたくさんあったので、何度も何度も繰り返してもなくならなかったが、夫も同じように、何度も何度も繰り返しているだと思えば、苦だと思うことはなく、姿を合わせずとも繋がっていることが実感できて気分が良かった。

 3を殺すと夥しい悲鳴がこだまする。それは猫の声ではなく人間の声だった。何故、人間の悲鳴が聞こえるのかは分からないので、隙間風が悲鳴のように聞こえているだけだと思い込むことにした。悪を滅ぼすことを悲しむ人間がいるわけがない。思い込んでいるということはすぐに忘れることができた。



 あるとき、2の腹から3が出てくるのを見た。それから妻は自分のことを妻と認識することを止めた。妻という名を捨て、正義と名乗ることに決めた。自分は夫の帰りを待つ妻ではなく、夫と同じように悪を滅ぼす正義なのだ。正義に区別をつける必要はなく、それ以外に悪があるだけだ。これは自分で考えたことなので、何よりも正しいと信じることが出来た。

 正義になってからは、自分の意思で、自分の足で歩き、自分の手で、より多くの3を殺すために歩き回った。たくさん殺して、動かなくなった3と、まだ動く3の見分けが付けずらくなってきたときには、殺した3を集めて積み重ねるという工夫をした。

 家を中心に円状に積み重ねていったので、3の赤いぐちゃぐちゃした塊は、離れて見ると、いつも自分を照らしてくれる赤い光のように見えた。自分が正義という1になったので、赤い光が2になってくれたのだ。赤い光の2からは3が出てこない。猫の2からは3が出てきて煩わしいので、猫は全て3と認識することに決めた。正義が1、赤い光が2、猫が3。自分で考えたことは何よりも正しい。



 どれくらいの3を殺しただろうか。ついに3を滅ぼすことが出来た。積み重ねた3の塊は、自分を照らす赤い光と同じように丸いかを確認することが出来ないほどの範囲に広がっている。自分の視野では確認できないほどの大きな物をつくり上げたことは、自分が正義以上の存在である証明に違いなく誇らしかった。

 赤い丸を隅々まで駆け巡って中心にある家へと帰ると、かつて夫と呼んだことのある男の立体物が飾られていた。傍には自分ではない女の立体物も飾られている。眺めていると女の立体物の腹から男とも女とも分からない奇妙な立体物が出てきた。それは人間というにはあまりにも小さく夥しい悲鳴をあげる。

 これは何でもない。1でも、2でも、3でもない。妻でも夫でもなく、猫でも赤い丸でもなく、正義でも悪でもない。4だ。摘まみ上げると4は悲鳴を止めて、くしゃくしゃの顔をさらにくしゃくしゃにして嬉しそうに笑った。4は何でもない。正義以上の存在となった自分も4なのではないか。自らを何でもない4と名乗ることに決めた立体物はやがて赤く光りはじめた。創造が終わって、生活が始まる。

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