第37話 投票権の空白は解消できるのか

「最初のテーマから思いの外ヒートアップしてしまいましたが、少し話題を変えてもいいですか。僕たちは、投票の棄権も白票を投じることも有権者の意思表示の方法のひとつと考えますので、先生方とは基本的に考え方が違うわけですが、投票したくてもできないケースもありますよね」

護倫たちは、チーム剣橋の勉強会で住民票を移動し、初めて選挙権を得る有権者の場合、旧住所から新住所に住所変更してから3ヶ月未満に選挙が行われると、投票権がないことの不合理を話し合ってきた。このディベートで、教頭たちにどんな意見を持っているのか試してみようと思った。

「引っ越しで住所変更する場合のことを言っているのでしょうか。新しく有権者になる社会人が転勤したり、大学進学のために地方から東京に上京したりするような」

教師は公務員の中でも頻繁に転勤を伴う人事異動を経験する職種のひとつだ。その経験上か社会人の常識か、さすがに投票権が認められない状況は把握している。

「一般に“投票権の空白”と言われる規定ですね。私たちのように有権者になって何度も選挙を経験している年齢ならば当然、選挙人名簿に登録されている実績がありますので、国政選挙で仮に異なる市区町村に住所を変更して3ヶ月が経過していなくても、引っ越す前の旧住所、旧選挙区で投票することができます。しかし、たまたま投票資格を得る20歳になった直後、3ヶ月以内に住所変更をして選挙を迎える若年有権者の場合は、旧住所で選挙人名簿に登録されていないので、従来の法律では投票権がありません。もちろん新しい住所でも所定の居住実績に足りないから投票できません。総務省の試算によると、今回の18歳選挙権の導入による来年の参院選の場合は約7万人がその対象となると推計されているようです」

「投票したくても、投票できないということですよね」

積極的な棄権の意思がないのに、止むを得ず棄権せざるを得ないのでは、と再確認してみる。

「それについては、国も政府も検討を進めているんじゃないでしょうか。何しろ18歳選挙権は70年ぶりの選挙権・投票権の引き下げであり、しかも年齢的に就職や進学で大量の住所変更が予想されることは事前に分っていることですから。法律の不備で記念すべき投票の権利を侵害するわけにはいかないでしょうからね。新住所では3ヶ月以上の居住実績がないと、既に投票経験のある有権者の場合でも投票権はありません。新しい有権者の場合も主に実家、多くの場合は高校まで住んでいた旧住所の選挙区での投票ということになるとは思いますが」

町田も3年生のクラス担任だ。18歳選挙権を取り巻く課題についても調べていた。

「そうですか。せっかく選挙年齢の引き下げで投票権が得られたのに、最初の行使の機会となる参院選で投票権がないという事態は3年生の先輩たちは回避できるということですね。とりあえず安心しました。」

言葉とは裏腹に、安心などしていない護倫に代わって耕作が言葉を継いだ。

「では、都内に引っ越してきた学生の場合はどうでしょう。茨城や群馬、山梨とかの東京近郊出身者ならまだ救いはありますが、北海道とか、九州、沖縄に実家があるような場合は大変ですよね。わざわざ前の住所の投票所に行くのって。コレですよ、コレ」

「いいぞ“課長”!」

会場がざわつき、失笑が漏れる。耕作が右手の親指と人差し指で輪っかを作って見せたからだ。耕作のニックネームの“課長”もすっかり定着した。なにしろ、中学以来ずっと同じ呼ばれ方をしている。漢字こそ違え、読み方は正真正銘のシマコウサクだからだ。漫画の島耕作はとんとん拍子に出世して現在は会長だが、こちらの志摩耕作は中学校以来“課長”から昇進していない。

「都内の大学だけでなく関西の大学に通う学生の場合も、確かに故郷が遠い人が実際に投票のために帰郷するとなると交通費も大変ですね。片道じゃなく、往復料金が必要になりますから」

先生チームは慌てていない。織り込み済みということか。

「主な選挙の場合、不在者投票や期日前投票という制度もあります。実際の選挙日程がまだ決まっていませんので、公示日も投票日も確定していませんが、そうした制度を利用すれば必ずしも物理的に帰郷しなくても選挙権は行使できますから安心して下さい」

なるほど、その手があったか。でも、まだまだだ。

「期日前投票って、投票日に投票に行くことができない有権者が事前に市役所とか、決めたれた場所で投票するんですよね。ウチの父親も投票日当日に特に用があるわけじゃないのに、最近は仕事の帰りがけに済ませてくることが多いようです。でも、遠隔地の場合はどう手続きをするのか想像がつきません。何しろ普通の投票も経験がない初心者なので。先生たちはご存知ですか」

挑発的な愛香の投げ掛けに、言葉に詰まる教師チーム。互いに答えを求めるように見つめ合う。実際には、選挙人名簿に基づいて発行され、恐らく旧住所(実家)に郵送される投票所への入場券を家族から取り寄せ、現住所の役所の窓口で期日前投票を済ませるのだろう。護倫は一瞬、全国あちこちの期日前投票を受け付けることになる都市部の役所の担当者は郵便局員並みの忙しさだろうかと想像してみた。遠隔地の期日前投票をする真面目な学生が多ければという前提ではあるが。でも、これまで投票経験のない“新米有権者”にとって、遠隔地での期日前投票の手続きは高いハードルだろう。実際の選挙まで半年以上も時間があるのだから、気持ちが折れないような簡単な手続きを考えて欲しい、と思っている3年生は少なくないだろう。護倫は別な疑問もぶつける。

「選挙管理委員会の担当者に丁寧な説明をお願いする前提で、期日前投票するとします。ただし、それだけで“投票権の空白”を埋めたことにはならないと思うんです。というのは、仮に3ヶ月未満とはいえ、選挙戦が始まれば実際に生活している街でも候補者が入れ替わり立ち代わり選挙運動に明け暮れ、看板を取り付けた車で流しながら、うるさいくらいのパフォーマンスを見せますよね、きっと。ウグイス嬢が。あっ、何かウグイス嬢とか○○嬢って呼び方、差別発言っぽい気がするので訂正します。女性の運動員の方が」

会場の一部からパラパラと拍手が起きる。主に女性の観客だ。

「でも、実際に投票出来るのは遠く離れた選挙区です。テレビの政見放送も見ることができません。連日迷惑な大音量で回って来る現住所の候補者なんて、マジうるさいだけ。意味がないわけで。もちろんネット選挙が解禁になっているので、インターネットで情報を集めることはできるでしょう。でも圧倒的な情報不足は否めません。候補者の良し悪しなんて判断のしようがないと思うんです。取ってつけたような中身が伴っていない形式上の制度を整えただけで『さあ関心を持ちなさい。政治的無関心はけしからん』と言って新米有権者を責めるのは酷というものです」

「青春残酷物語!」

会場の後ろから野次が飛ぶと、クスクスと笑いが起きた。

同じ期日前投票でも、一般の有権者と遠隔地から旧住所での投票を強いられる有権者では、状況が全く異なることを主張した護倫に場内から大きな拍手。一票の価値の重さも大きな問題ではあるが、投票の空白の解消の方策も所詮、間に合わせでしかない。提供される情報の格差の点で言えば、全然解決策とは言えないという正直な反応だ。

「まあ、その辺の課題も総務省やそれぞれの市区町村が知恵を絞ってくれるんじゃないでしょうか。選挙までに」

教師チームは、お茶を濁して答えを回避した。

「この問題って、僕たち新しく有権者になる18歳、19歳だけじゃなく、既に選挙権を持っていて住所変更した人も同じなんです。だから、情報不足の影響を受ける人数は約7万人じゃなく、もっともっと多いはずなんです。本当に知恵を絞るつもりなら、旧住所でなく現住所の市区町村、あんまり使い慣れない言葉なんでカミそうになっちゃいますが、新しい住所の投票所で投票できるように工夫するべきじゃないですか」

生徒チームの“課長”志摩耕作が総務省の法改正の問題点にまで言及したのに対し、伊豆野の発言は苦しい言い訳にしか聞こえない。

「確かにそれが理想的ですね。でも、それぞれの自治体が選挙人名簿を作成するタイミングもあって、そう法律でルール化しているわけですし、ひとまず住民票がどこにあるかに係わらず、最初の選挙での投票権は保障されるようになったわけですから」

いつから教頭は役所の選挙管理委員会の人になってしまったのだろう。しかも、なぜか弁解口調になっている。

「まあ教頭先生のおっしゃることも理解できなくはありませんが、それって所詮、役所の都合ですよね。僕たち学生は別として、多くの有権者は税金を納めている納税者なんです。義務はしっかり果たしているのに、権利は不十分というか、100パーセント保障されていない感じがします。選挙人名簿の作り方を工夫すれば3ヶ月なんて時間をかけなくても対応できるんじゃないですか。っていうか、逆に対応しなければいけないですよね、マジな話」

護倫の主張は正論であり、ペースは完全に生徒チームだ。

住所変更後3ヶ月間、現住所で投票できないという制度は、おそらく役所の選挙人名簿の作成が3ヶ月毎と決められているからだろう。しかし、転入・転出の手続きだって現在はコンピュータ管理されているので、情報のリンクが適正ならば選挙人名簿の書き換えだって瞬時に済むはずだ。

実際、2016年夏の参議院選挙では、投票権の空白を解消する法律の改正については報道されたが、実際にどれだけ解消されたのか、されなかったのかについては検証されなかった。2016年から導入されたマイナンバー制度でも名簿は管理できそうだが、総務省のサイトに案内はない。

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