かぴばらゆうびん

tide

やぎさんとかぴばらさん

1

 なんにちかぶりに気持ちよく晴れました。朝は少し冷えましたが、お昼を過ぎた頃にはもうずいぶんと暖かくなりました。弾けばピンと鳴るような、冬の空気はどこか遠くへ行ってしまったようです。谷の向こうからはウグイスやシジュウカラの鳴き声が聞かれます。山を越えて吹きぬける風には、花の香りが交るかと思われます。

 そんな春めく山道に、ギィィコ ギィィコ、カタカタカタとずいぶん賑やかな音が響いてきました。古く、元の色が分からないくらい錆びた――赤だったのかな?――自転車に乗って、やぎさんが山道を上ってきたようです。白く豊かにひげを蓄えたやぎさんは、もうずいぶんな歳でしょう、緩い上りを息を切らせて、ゆっくりゆっくり上ってきます。 

 山道をしばらく上ったところで、やぎさんが自転車を停めました。そのまま道路わきの草むらに入っていきます。やぎさんは、自分をスッポリ覆う背の高い草むらを、ガサガサガサとかき分け進んでいきます。おや、どうやらただの草むらではないようです。地面には平らな石がずっと向こうまで敷かれているのです。ただ少し、その上に土がかぶさって草が生えて、その上にさらにノッポの草が頭を出していただけなのです。

 寂れた、道とも呼べない道をしばらくたどると、フェンスで囲われた一角が見えてきました。中を見ると、一面鮮やかな黄色に彩られています。菜の花です。どこまでも菜の花が咲いています。春の風が菜の花を揺らし、そのたびちらりほらりと茎葉の新緑が覗かれます。

「誰がこんなに植えたんだろうな」

やぎさんは小さく呟いて、じっくり丁寧に菜の花を摘んでいきます。しばらくして、菜の花畑を後にしたやぎさんの手には、ハンカチで包まれた菜の花の束が握られています。やぎさんが小道を戻ってゆくにつれ、菜の花畑はノッポの草に埋もれてゆき、元の山道に着いたころには、もう影も形も見えないのでした。


 太陽が少し西に傾いたころ、やぎさんは陽の差さない薄暗い杉の森を通り抜け、これまた杉で作られた小さな一軒家に辿りつきました。家の脇には広々とした花壇があります。アネモネ、ガーベラ、タンポポ、スミレ、デイジー、マーガレット、ローズマリーにパンジー……。季節をなくした杉の森の中で、この一角だけはちゃんと春を覚えているようです。

 やぎさんはホーゥとひとつ、長く息をついてドアをノックします。

「郵便だよ」

トントントンと軽い足音がして、

「はぁい」

とかぴばらさんが顔を出しました。

「手紙だよ、かぴばらさん」

「あぁら、キシ川村のかぴばらさん。遠いとこらからよく来たわねえ。さ、入って頂戴」

「じゃあお邪魔しようかね」

「今お茶を出すからかけてて頂戴。ついさっきイワラード村のかぴばらさんにおいしいハーブティを頂いたのよ。なんていったかしらねぇ」

「エルダーフラワーだったろう」

やぎさんはカバンを机に置いてフゥと小さく息を吐きます。机の上の小さな花瓶に、菜の花が活けられています。やぎさんは萎れかけているものを数本抜きとり、カバンから取り出した菜の花の束を花瓶に差します。「よくなった」とやぎさんは小さく呟きます。

 やぎさんのカバンの中から色々なものが出てきました。タラの芽、ふきのとう、ゼンマイ、そして立派なイワナ。これらの食材を黙々と低温庫に移し、椅子に座ったやぎさんの前に、何とも言えない芳香を放つハーブティが差し出されます。

「さあ召し上がれ。なんだったかしら、名前は忘れたけど、おいしいハーブティなの」

「エルダーフラワーだよ」

「イワラード村のかぴばらさんに頂いたのよ」

一口ハーブティをすすって、「うまい」とやぎさんは呟きます。

 「まあ、お手紙」

「かぴばらさんからだわ。一体どこのかぴばらさんかしら」

「返事出すかい」

かぴばらさんは老眼鏡をかけて、ゆっくり手紙を読み始めました。やぎさんはゆっくりハーブティを飲んでいきます。やがてかぴばらさんは顔を上げて

「かぴばらさん、お元気そうでなによりだわ。お返事差し上げないといけないけれど、近頃字を書くのが大変でねえ。どうしましょう」

「わしが代わりに書くよ」

そういうやぎさんの前には、便せんとガラスペンとインク壺が、いつの間にか準備されています。

「文面はどうするね」

「あら、代わりに書いてくださるの。でも悪いわねえ」

「なに、構わんさ。手紙を書くのは好きでな。それに」

かぴばらさんは語りかけます。どこかのかぴばらさんに。

やぎさんは手紙を書きます。今ここにいるかぴばらさんに。

「ここまで来るのはいい運動になる」


 かぴばらさんが淹れてくれたハーブティはすっかり空になってしまいました。

「ごちそうさん」

また来るよ、と言いかけたやぎさんはひょっと動きを止めます。やぎさんの視線の先では、かぴばらさんがじっと何かを見つめています。かぴばらさんの視線の先では、小さなケヤキの若木があります。青々とした新緑が、春のやわらかい日差しに輝いて見えます。

「あのケヤキはね、孫が生まれた日に植えたものなの」

息をするのも忘れたようなやぎさんをしり目に、淡々とかぴばらさんは続けます。

「今年で5才になるわ。」

するりと涙がかぴばらさんの頬を伝います。

「かぴばらさん、あんた」

やぎさんの言葉は、かぴばらさんの耳には届かないようです。いつまでもいつまでも、かぴばらさんはケヤキを見つめています。やぎさんは目を閉じ軽く頭を振って呟きます。

「謝罪でも期待しとるのか、わしは」

さきほど書いた手紙をぎこちなくカバンにしまいこむと、足早にやぎさんは出ていきました。かぴばらさんの家には、時が止まったような静けさだけが残されています。



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