第3話

 結局、先輩たちから解放されたのは日の沈みかけた夕方六時。部長に「また明日集合だからね! 今度は太一の家に夕方五時! 必ず来るのよ!」と既にスケジュールを組まれてしまい、それに僕はまたも断ることができずに仕方なく頷いた。

 

 暮れなずむ通学路を、僕はがっくりと肩を落としながら歩く。あまりにも唐突すぎるこの展開に、僕の脳味噌が追い付いていない。解放されたことにひとまず安心した僕だが、だからと言って家に帰りたかったのかと言われればそうではなかった。足を一つ前に踏み出すごとに僕の気持ちは陰鬱になる。


 というか、お姉ちゃんがここまですごい人間だとは知らなかった。確かに普段何を考えているのかわからないところはあるけど、多くの人に慕われ、そして憎まれているということは人々の関心がお姉ちゃんに寄せられているということだ。そんなお姉ちゃんに、僕はどんな顔をしてただいまと言えばいいのだろう。


 溜息は蛇口の壊れた水道のようにとめどなく漏れる。自宅まで、残り数メートル。




「……ただいまー」


 家に着いて、僕は恐る恐る玄関に入った。反応はない。


 とりあえず気丈に振る舞おう。僕は努めて普段どおりにリビングに入る。


「ただいま」


「ああ、おかえり」


 リビングにその姿はあった。


「なんだ、今日一年生は半日だったろう。えらく遅いお帰りだな」


「クラスメイトと親睦を深めるためにファミレスに行っててさ」


「そうか。連絡くらいはするものだ。母さんが心配していたぞ」


「ごめん……」


 お姉ちゃん――光城高校生徒会会長、椿藍は既にパジャマ姿だった。カラフルな水玉模様のパジャマでソファに座るその姿はどこにでもいる女子高生そのもの。黒髪のロングヘアーはお風呂上がりだろうか、艶やかに湿っており、リンスの香りも相まって妙にドキドキとしてしまう。一体どこに人の心を惹きつけるカリスマ性があるというのだろうか。


「もうお風呂入ったんだ」


「特にすることもなかったんでな。時間は無駄にしたくない」


「それじゃ、僕もさっさと入っちゃおうかな」


 すごく嫌な汗をたくさんかいたし。


「もう夕飯だぞ、そのあとにしろ。食事はみんなで食べるものだ」


「あ、はい……」


 姉に逆らうとろくなことはない。全国の弟諸君、今日も僕はお姉ちゃんの言いなりです。


 


 晩御飯を食べたあと、僕はお風呂に入り、リビングでバラエティ番組を眺めながらくつろいでいた。そんなところにお姉ちゃんが話しかけてきた。


「ところで青、部活には入るのか?」


 ぎくりと跳ねようとした肩をなんとか抑え込む。


「い、今のところは決めてないけど……入った方がいいの?」


 御幸さん(ああ、もうすっかり部活の一員になってしまっている)は部活でなければ同好会でもないって言っていたし、嘘はついていない。


「そんなものはお前の勝手だ」


「そう。何かあるかなぁ」


「生徒会に入れ」


 ――――。


 バラエティ番組の嘘くさい笑い声だけがリビングに響く。


「な、なんて?」


「だから、部活に入らないのなら生徒会に入れと言っている」


「そんな勝手な! さっきお姉ちゃん言ったでしょ! そんなものは僕の勝手だって!」


「私の勝手だ」


 なんと勝手な!


「急に生徒会に入れだなんて、そんなことできるの!? だってほら、生徒会って選挙で決めるものだし……」


「私は何も役職に就けとは言っていない」


「え?」


「お前には生徒会長補佐になってもらおうと思っている」


「ほ、補佐?」


「そうだ。会長である私の手助けをする係だ」


「それって、要はお姉ちゃんのパシリってことだよね?」


「あながち間違ってはいない」


 あながちどころじゃないでしょ!


「いや、でもなぁ……」


「帰宅部をするよりもこっちの方がずっと健全だと思うぞ」


 厳密にいうと、僕は帰宅部ではありません。


 ただでさえややこしい部活に入ってしまったというのに、ここで生徒会になんて入ってしまったら余計に話がこじれてしまう。しかしここで僕が頑なな態度を取っていたらお姉ちゃんは不審に思うかもしれない。ああ、胃が痛い。


「私はお前だから頼んでいるんだ。だめか」


「あ……いや……その、だめじゃない……です」


 ここまで言われても断り続けるほど僕の神経は図太くはありませんでした。なんで僕は自分で自分の首を絞めているのだろうか。もしかしたら僕は、重度のマゾヒストなんじゃないだろうか。


「そうか、ならば明日の放課後から早速頼むぞ、我が弟よ」


 お姉ちゃんは少しだけ安心したような顔をするとソファから立ち上がった。


「本当に? 本当にやらなくちゃいけないの?」


「今自分でやるって言っただろう」


「そうだけど、でも……!」


「変な奴だな。私はもう部屋に行くぞ。生徒会長として新入生の顔と名前を一致させなければならないからな」


「ちょ……」


 僕の抵抗むなしく、お姉ちゃんは自分の部屋へと消えてしまった。ところで新入生の顔と名前を一致させるって何ですか。大体三百人くらいはいると思うんですけど。


 ……そんなことはどうでもいい。僕は今、想定されていなかった最悪の状況に陥った。お姉ちゃんを倒そうとする部活と、そのお姉ちゃんの所属する生徒会の掛け持ち。これが頭を抱えずにいられますか。


 僕は耳障りなテレビを切るとソファに寝転がる。先ほどまでお姉ちゃんが座っていたところがまだ温かい。


「……行きたくないなぁ、学校」


 一応確認するけど、今日って入学式だったんだよね? 入学式の日からもうこんなことを言い出す人間もそうそういないでしょ。


 ……もう一度言います。全国の弟諸君、今日も僕はお姉ちゃんの言いなりです。


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