黙って俺について来い

有馬記念も終わり、今年の中央競馬もあと僅かですね。

有馬記念では一番人気が飛んだのもあって、いくら負けたとかいくら突っ込んだとか、外れ馬券の話も少し聞こえて来てました。

中には人生変わりそうなくらいの負けを喫してしまった方もいたようですが、そんな話を聞きながら、わたしは自分の中で大きな大きな負けを思い出していたのでした。


上京していくらか周りにも慣れた頃、休みの日に何をしようかと考えていました。

当時のわたしにはあまりこれといった休日の過ごし方というものがなく、せいぜい昼間までぐっすりと眠り、それからダラダラとしてるくらいしかありませんでした。

これではいかんよなぁと薄らぼんやり考えていた時に新聞を開くと、次の月に東京競馬場というところでダービーが行われると書いてあります。

競馬かぁ……。

田舎にいた頃もテレビで競馬中継は何度か見ていましたし、動物は嫌いではありません。

ですが、競馬場に行こうとはそれまで考えたこともありませんでした。

ふっと、都内に暮らしてる親戚のおじさんを思い出しました。


おじさんは競馬も少しはやるって聞いてたし、いろいろ教えてもらえるかもしれない。

それ以前に、まだ挨拶にも行ってなかったな。

いい機会だし、顔を出しておくのもいいかもしれない。

そう思って、おじさんに連絡を入れることにしました。


「ダービーかぁ。俺その日は仕事なんだよなぁ。でも競馬場行くなら前売りの入場券買ってきてやるよ」

電話の向こうでおじさんはそう言うと、「せっかくだから顔見せに来いよ。前売り券も渡したいからな」と続けます。

もちろんですと返し、電話を切ったのでした。

おじさんに会うのはわたしがまだ小さな子供の頃以来久しぶり。

こっちは顔を覚えているはずですが、はたしておじさんはどうだろう。

少しだけ不安にもなりました。


おじさんに会えたのはダービーまで半月を切った頃。

わたしの住むアパートの近くまで、おじさんは来てくれました。

「よく出て来たなあ。小さい時と全然変わらんからすぐわかったよ」

おじさんはそう言うと、まあ飯でも食いながらだとわたしを商店街の中に連れ出します。

近所の中華料理屋で呆れるほどの料理をオーダーしながら、おじさんはわたしに前売り券だよと言って封筒を手渡してくれました。

「1レースの30分前には間に合うように行くんだぞ。だが朝から馬券を買っちゃいかん。午前中はとにかく馬を見ろ。ダービーの馬券はパドック見てからでも買えばいいさ」

そう言うと、おじさんはわたしに食べろ食べろと料理を勧めます。

言われるがままに食べながら、おじさんは電車の乗り換えやら昼飯の買い方やら、色々と教えてくれました。

ありがたく拝聴していると、おじさんはわたしに封筒を開けてみろと促します。

中身を見ると、ダービーの前売り入場券と、一万円札が1枚。

「せっかく行くんだから気に入った馬の馬券を千円分買えばいいさ。残りは昼飯代さ。俺は行けないから俺の分まで楽しんで来いよ」

そう言って、おじさんはにっこりと微笑んだのでした。

馬券代が千円にしても、昼飯代にしてはずいぶんな金額。

俺の分まで楽しんで来いと言われた意味を考えながら、アパートに戻りました。


ダービー当日。

言いつけどおりに1レースの30分前に競馬場に着くと、もうすでにたくさんの人。

少し圧倒されかけましたが、ふと上に目をやると一面の青空。

上京してから空を見ることもなく過ごしてきたわけでもありませんが、広い空を見るのは久しぶり。

大丈夫、なんとかなるさ。

そう思い、そのままパドックへまっすぐ向かいました。

午前中はとにかく馬を見ろと言われていましたし、早く馬を見たかったので。


「あまりキョロキョロしてると初心者だと思われて変なやつが寄ってくる。金だけ取られておしまいってこともあるから堂々としてろよ」

おじさんはこんなことも言ってました。なので競馬新聞とレーシングプログラムを片手に、いかにもわかってる風を装ってパドックで馬を見ていました。

パドックに現れた馬たちはどれもがピカピカに輝いて見え、色とりどりの覆面やら馬具がより馬体を美しく見せていました。

それに、黙って曳かれて歩く馬ばかりではないということもわかりました。小走りになりそうなのを抑えられてる馬、曳いてる人にじゃれついてる馬、ぐっと気合をいれて一点を見つめてる馬……。

そうして、発走時刻が近づけばゴール前に移動してレースを見ていました。

極彩色の勝負服に身を包んだ騎手が乗り、ゴールを目指して走る馬たち。

それを見ながら、わたしはこう思ったんです。

馬っていいなぁ。綺麗だなぁ……と。


その繰り返しで気がつけば14時近く。昼飯も食べずに夢中になっていたようです。

急いでお昼を買いに走り、ようやくのことで食事にありつくことが出来ました。

大急ぎでお腹に収めると、もうダービーのパドックの時刻です。


パドックはもうたくさんの人だかりで立錐の余地もありません。

それでもなんとか馬を見ることは出来ました。

ダービーに出てくる馬はさすがにそれまでの馬たちとは少し違って見えます。

どれを買えばいいんだろうと見ていると、一頭の栗毛の馬に目が止まりました。


黄色と赤の市松模様をした覆面をかぶったその馬は、5月の日差しを受けてピカピカに輝いていました。

他の馬と比べて少し小柄に見えますが、わたしにとっては一番よく見えたのです。

新聞を見ればその馬はアフターミーと言う名前で、どうやら逃げ馬の様子。

あの馬いいなあ、これにしよう。

そう思った途端、隣りにいた人に声をかけられました。

「あの馬にダービーは長いよ。たぶん持たないね」

そうなんですかと聞くと、こんな答えが返ってきます。

「皐月賞もNHK杯も持たなかった。たぶん4コーナーまでに捕まるよ」

その人は訳知り顔で続けます。

「見たところ20番で間違いないね。買うなら皐月賞も勝った20番だ」

そうなんですか。ありがとうございます。

わたしはそれだけ言うと、馬券を買いに行きました。

もちろん、アフターミーの単勝を千円分だけ。

そうして、ゴール近くの大型ビジョンがよく見える場所に陣取りました。


ゲートが開くと、アフターミーはポンと飛び出しました。

そのまま馬群を引き連れて、いや引き離して先頭を突っ走ります。

その姿は「黙って俺について来い」と言っているようにも見えます。

向こう正面ではだいぶ馬群を引き離してました。

その姿に、スタンドもゴール前もざわつき始めます。

「これ、このまま行っちゃうんじゃないか」

「これだけ離したら勝っちゃうんじゃねぇの?」

そんな声もあちこちから聞こえてきます。

わたしも同じ気持ちでいました。

このまま引き離して勝っちゃったらかっこいいよなぁ。

がんばれ。行けるぞ。


しかし、大ケヤキを過ぎるあたりで後続がわっと押し寄せてきます。

それでも、アフターミーはまだ粘りを見せて先頭を譲ろうとしません。

大型ビジョンに映る彼の姿に、わたしは夢中になって声援を送ってました。

がんばれ。がんばれ。


ところが、直線に入ると後続がさらにスピードを上げたように見えました。

そうして、アフターミーはどんどん他の馬にかわされて行きます。

気がつけば最後方にぽつんと1頭だけ。

勝ったトウカイテイオーからはずいぶんと離された最下位でゴールしてました。

わたしはそんな彼に言いようのない感動を覚えていました。

ずっと先頭でいたんだもの。すごかったぞ。

そう言いたくなる衝動にかられていたのです。

そこはぐっとこらえ、表彰式を見てから家路につきました。


帰宅してから、おじさんに電話を入れました。

「どうだった?当たったか?」

いいえ、当たりませんでした。

「だろうな。行く前に場外で買い方のひとつも教えときゃよかったなあ。次は一緒に行こうな」

はい。今度教えてくださいな。

そう言って電話を切り、初めて生で見たダービーのことを思い返します。


競馬っていいなあ。馬ってかっこいいなあ。

馬券は外れたけどまた見に行こう。

そう思いながら、もうひとつの出来事を思い出します。

勝ったトウカイテイオーのことよりも、逃げに逃げまくったアフターミーのことが頭にこびりついて離れません。

すごかったなぁ、あの馬。

今度出てきたらまた単勝買って応援だな。

そんなことを思いながら、布団に潜り込んだのでした。


しかし、彼をまた応援する機会は訪れることはありませんでした。

アフターミーはダービーの後に脚部不安を発症し、引退していたのです。

それを知ったのは競馬場に通うようになってしばらく経ってから。

もちろん、どこに行ったかを知ることも出来ませんでした。


機会が訪れてないことがもうひとつ。

おじさんと競馬に行くことも、まだ出来ていません。

わたしが東京にいる間はなかなか予定が合わず、そうこうしてる内にわたしが田舎に戻ることになってしまいました。

なので、まだ一緒に競馬には行けずじまい。

なんとか機会を作ってとは思ってるのですが、なかなか難しいようです。


なので、競馬場へ行くのはいつもひとり。

競馬場で会う仲間や友達はいますけど、一緒に連れ立ってというのはあまりありません。

いつも、おじさんの教えを胸に競馬場のゲートをくぐります。

そして、心のどこかでいつも思ってるんです。


黙って俺について来いと走りで見せた、アフターミーのような馬にまた会えるように、と。

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