たとえ息が苦しくとも
競馬場に通うようになった頃。
わたしは競馬場で仲良くなった先輩と、よくパドックで一緒になることがありました。
待ち合わせているわけでもなく、連絡をしたわけでもなく。
行けばいるという感じでしたが、不思議と気の合う人でした。
その人に競馬のことや馬のことを色々と教えてもらい、より深みにはまった感じもしたものでした。
その先輩といつものように一緒に馬を見ていました。
師走の中山競馬場。最終レースのパドックにその馬はいました。
皇帝シンボリルドルフの初年度産駒。
500キロを超える雄大な馬体。
辺りを睥睨する雰囲気。
先輩が言うには血統も超一流。
シンボリカイザーという名前もやけに似合って見えました。
この馬いいですね、勝てますよねと興奮するわたしに対し先輩は一言。
「ああ、いい馬だよ。でもこいつは勝てない」
どうしてと聞くと、思いもかけない返事が返ってきたのです。
「こいつは『喉鳴り』だからね。今日みたいにいい天気の時はまず来ないよ」
先輩の話をまとめると、シンボリカイザーは人間で言えば喘息のような持病があって、天気のいい時に走ると息が苦しくなってしまうのだと。
聞いているうちに悲しくなってしまいました。走るために産まれて育てられているのに、持病で能力が出せないとは……。
「でも」と先輩は続けます。
「今日は来ないが、雨でも降ったら買ってみるといい。きっと走るから」
その日のレース、シンボリカイザーは先輩の言うとおり、掲示板にも載れませんでした。
冬枯れの芝の上で必死に走ってた彼はずっと後方のまま。
思い込みのせいか、レースを終えて戻ってくる表情もなんだか苦しそうに見えたものでした。
年が明けて、彼は長距離のレースに出てきていました。
今度は先頭を切ってレースを進めたものの、最後の直線で力尽きてしまいます。
戻ってきた彼はやっぱり苦しそうで。
「それでも、走らなきゃならないんだよな」と、彼を見ながら考えてしまいました。
ルドルフの初年度産駒、しかも自分のところの生産馬。
オーナーの期待がいかに大きかったかは、見ただけでもわかります。
それが、いつなったかはわからないにしても、喉鳴りになってしまったがために持てる能力のいくらかも発揮出来ない……。
それでも、競走馬でいるうちは走らなければなりません。
たとえ、息が苦しくても。
2月のある金曜日。
東京にも雪が積もりました。
雪国育ちのわたしにとっちゃ懐かしい雪ですが、交通網は大混乱。
果たして明日の府中は競馬が出来るのだろうかと不安を抱えつつ出馬表を見ていたら、シンボリカイザーの名前があることに気がつきまして。
「雨でも降ったら買ってみるといい。きっと走るから」
先輩の言葉が不意に浮かびました。
雨どころか雪。きっと走る。よし、明日は勝負だ。
翌日。
天気はいいけど馬場状態は不良。
芝コースから湿り気の多い空気の香り。これなら喉は苦しくない。
「今日は思いっきり走れるぞ。がんばってこいよ」と、パドックの彼に声をかけた後、馬券を買いに走りました。
道中先団につけた彼は最後の直線で抜け出すと、力強くゴールを目指して一直線。
そのまま先頭でゴール。戻ってきた彼は誰よりも誇らしい顔をしてました。
もちろん、苦しそうな素振りはありません。
大いばりで口取り式に臨む彼を横目に払い戻しに行くと、先輩とばったり。
「あれ取れたのかぁ。すごい勝負に出たねぇ」
先輩が半ば呆れ、半ば驚いたような顔で出迎えてくれました。
いえいえ、先輩の一言のおかげですよと笑顔で返したわたし。
当時馬連の最高配当を当てていたことなど、夢にも思っていませんでした。
しかし、シンボリカイザーの活躍はここまででした。
3月に1回、7月に1回使った後、彼は長い休みに入ってしまいます。
そして、次の年。7月の福島競馬場。
準メインに出た彼は故障発生。そのまま帰ってくることはありませんでした。
持病のせいで能力を発揮出来ない馬はきっとたくさんいたことでしょう。
シンボリカイザーはそのうちの一頭というだけかもしれません。
ですが、あの日の彼はきっと持てる能力を発揮出来たのでしょう。
20年以上経った今でも、そう思ってしまうのです。
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