第一章 不発の炎
一 お前のジュースも熱くしてやろうか
朝五時からの一時間、死神は外出を許されていた。
ただし保護者同伴だ。
夜の闇は箒で掃いたようにほとんど取り払われているが、まだ残っている夜気が細かい埃のように無音で漂っている。
そんな時刻にアムリタは子犬と保護者を連れ教会を出るのだ。
ジャージを着たトモビキと、子犬のコーレスは同時に欠伸をした。
アムリタだけはすっかり目覚めた様子で足取りも軽やかだ。
この外出許可は最近与えられたばかりのものだった。
コーレスを散歩させるのに教会の敷地内だけしか歩けないというのでは、他ならぬコーレスが可哀想だということで、アムリタの外出を許可する運びになったのだ。
外出の時間が決められているのは、住民とのトラブルを避けるためだった。
教会に飼われている死神の噂は町に広まっている。
小学生が犬を殺してほしいと頼みに来る程には知られているのだ。
人が出歩いていない時間が望ましいからと言って、夜間に死神がうろつくというのはイメージがあまりにも悪いので早朝に決まった。
「アムちゃん、おはよう」
教会から徒歩二分ほど離れた家の中年の女性がアムリタたちを待っている。
「キタさん、おはようです」
この時間にいつもチワワの散歩をしている彼女とアムリタは親しくなっていた。
マキタルは体型も年齢も修道女のノクイに近くて、アムリタはずっと前から彼女のことを知っているような気がした。
だからアムリタはマキタルのことがすぐ好きになった。
「はようございます」
「トモ君はまだ朝に慣れないのね」
「うい、眠いっす」
車通りの少ない道をアムリタとマキタルは並んで歩き、トモビキは数歩後ろを付いていく。
「死神のノルマが厳しかったら、うちの旦那殺しちゃっていいからね」
マキタルはいつも同じ冗談を言った。
会う度にこんなことを言うので、初めは苦笑いしかできなかったアムリタも冗談で返せるようになって、
「じゃあその時まで病気とか事故とかないように気を付けてくださいよ」
と言った。
「なんて優しいのかしら。アムちゃんって死神じゃなくて天使よね」
「天使だなんて、そんな」
「天使にしては普段の言動が粗暴ですよ」
とトモビキは口を挟む。
「あら、そうなの」
「トモちゃん、余計こと言わない」
「導師様のこと、おっさんとか言うんです」
学生が教師に告げ口をするように、トモビキは言った。
「トモちゃんだって言ってた」
「どちらかと言えば、トモ君の方が粗暴な感じに見えるわよね」
「見た目だけですよ。見た目だけ」
「どうだか。ねえ?」
とマキタルはアムリタに笑いかける。
アムリタはにこにことしてうなずいた。
拾われて以来、教会の外で知り合いができたのはこれが初めてだったからだ。
死神と呼ばれることへの抵抗感はまだある。
アムリタの気持ちを知っている教会の人たちと違って、外の人たちは配慮をしてくれないと思い知らされもする。
でもそのうち気にならなくなる。
トモビキはそう言っていたし、たぶんそうなんだろうなと予感があった。
マキタルがノクイに似ているように、アールパカやトモビキに似ている人なんかもこの世にはいて、そんな人たちと仲良くなっていく気がする。
コーレスを飼うことにしてよかったとアムリタは思った。
こういうことを期待して飼いたいと言ったわけではなかったから、思わぬ儲けだった。
飼いたいと思ったのは罪悪感があったからだ。
虫ならともかく、犬ほどの大きさの生き物を殺めるなんてアムリタにはほとんど経験のないことで、魔王の欠片という大義名分があってもなんだか後味の悪い感じがしていた。
せめてこの子犬を大切に育てることで、殺したことに責任を持ってあげたかった。
死神と呼ばれた少女は、人はまだ一人しか殺したことがない。
教会に戻ったアムリタはお腹が空いたので食堂に向かった。
食堂に入ろうとすると、彼女の体内にある魔王の欠片が反応した。
この中に魔王の欠片の所持者がいるということだ。
その人物のことはよく知っていた。
魔王の欠片もそれをわきまえて、大人しめに反応を示している。
初めて出会った欠片への反応がむずむずなら、これはわくわくという感じに近い。
好意がわき起こってくる感覚だ。
ガラス戸の自動ドアが開く前から、彼女と目が合う。
だけどすぐにはそっちに行かない。
朝食と夕食はビュッフェ方式だった。
食堂が本格的に機能するのは人の多い昼間だから品数はそう多くない。
アムリタはパンとフルーツとジュースを取って、フラヴィの前の席に座った。
「おはよう」
とフラヴィは言った。
彼女はスプーンを持って、コーヒーをゆっくりかき回していた。
「散歩?」
「そうだよ。フラヴィはどうしたの。早起きだね」
朝食の時間が終わってしまうくらい遅くに起きることも多いので、アムリタは若干の驚きを込めて言った。
「昨日たまたま早く寝ただけ」
「そうなんだ」
アムリタは、彼女がずっとかき回しているスプーンを見つめて、いつ飲むんだろうと気にしながら言った。
「ねえ、食べ終わったら私の部屋に来ない? コーレスと遊んでよ」
「欠片持ってるんだろ? 嫌だよ、互いにうずうずして落ち着かないだろ」
「でもすぐに仲良くなれるよ。欠片持ってる同士でさ」
「仲良くなる前に噛まれるかも、だろ。私はいいよ。お前たちの犬なんだからお前たちが可愛がれよ」
フラヴィが避けているのは子犬ではなかった。
自分たちとあまり一緒にいたくないと彼女が思っていることを、アムリタも知っていた。
だけど互いに嫌いに思っているわけじゃなくて、むしろ一緒にいると楽しいと思っている。
だから避ける必要なんてないのに、とアムリタは思う。
「そういえばお前の彼氏はどうしたよ」
「寝てる。散歩から帰ってすぐ。朝弱いタイプなんだよね」
「へえ。そうなのか」
「フラヴィは平気なの? いつもはもっと遅いでしょ、起きるの」
「私は起きた時が朝だからな」
誇るように笑って言う。
「意味不明だけど、とにかく平気ってわけだね」
「そうとも」
そしてフラヴィはとうとうコーヒーに口を付けた。
「熱っ」
と声を上げた。
「馬鹿じゃん」
アムリタは冷ややかな目を向けた。
こうなることはわかっていた。
フラヴィはコーヒーに息を吹きかけて、冷やそうとする。
その様子を見てますますアムリタは呆れ、
「アホだ」
と言った。
フラヴィはスプーンをアムリタの方に向けて、
「お前のジュースも熱くしてやろうか」
と脅した。
けれどアムリタは動じない。
「その前にスプーン曲げて使い物にならなくするから」
念動の力を持つアムリタには、触れずにスプーンを曲げることなど容易なことだ。
そしてフラヴィにとっても、飲み物を温めることなどは簡単にできることなのだった。
第二体育館の二階はボクシングジムのようになっている。
しかしボクシングに励む者はこの教会にいない。
それでもサンドバッグがいくつか吊されていて、部屋の真ん中にリングがあるのは、戦う練習をするためであることに間違いはない。
朝食を済ませたフラヴィはサンドバッグの前で目をつぶって直立している。
それだけなのに彼女の体からはじわじわと汗が出てくる。
フラヴィも魔王の欠片を体内に持っている。
彼女が使う魔法は、発熱だ。熱を生み出す力。
飲み物や体を温めることができる魔法だ。
発熱の魔法を強れば、発火の魔法に変わる。
その力を用いてフラヴィはウォーミングアップを済ませる。
体が温まり、運動に適した状態になると、フラヴィはサンドバッグを殴った。
最近学び始めた格闘技の動作を確認しつつ、力一杯に腕を振ってサンドバッグを何度も何度も叩く。
サンドバッグではなく自分の腕を壊そうとしているような荒々しさだ。
確かにフラヴィは腕を痛めつけるつもりで力を込めていた。
もっと筋肉が欲しかった。
彼女が求めているのは魔法ではなく肉体的なパワーであった。
それは欠片の所持者同士の戦いを見据えてのことである。
欠片の所有者には魔法が効かない。
魔王の魔法で魔王が傷つくことはない、という言葉でその耐性は語られる。
たとえば自分の使った火の魔法で火傷をしてしまったら、それは笑い話だ。
そんな魔法は役に立たない。
なのでかつて魔法があった時代、自身の魔法で傷つくことがないよう魔法に安全装置を組み込み、制御するのが普通であったと推測される。
その安全装置が現在も働いている。
そして魔王の欠片を持っている者は、みんな不完全ながらも魔王と言えた。
魔王の欠片の所有者同士が戦っても、自分の分身に向けて魔法を使っているようなもので、安全装置が働いてしまって傷つけることができない。
そのため魔法ではなく肉体的な力が勝負を決めることが多かった。
だからこそフラヴィは強い肉体を欲する。
フラヴィは格闘技を学ぶより前に、銃と剣の扱い方を仕込まれていたが、それでもまだ不足に思っているらしい。
魔法の力を手にした者の中には、その幸運を手放したくないと思う者も当然いて、そういった者から欠片を強奪するためにフラヴィが用意されている。
魔法が使えることではなく、魔法が効かないことがフラヴィの価値だった。
その価値を高めるためには優れた肉体を作らなければならない。
「フーラーちゃーん、遊ぼー」
少し軋むドアを開けて、アムリタが入ってきた。
コーレスとトモビキも一緒だった。
「どうせ遊びに来てくれないだろうから、私の方から来たよ」
「遊ぼうぜー」
とトモビキもアムリタのノリに合わせている。
「帰れ」
フラヴィは拒絶する。
苛立ちに任せてサンドバッグを殴ったら、さっきまでよりも力が入らなかった。
この二人にはトレーニングを見られるのは恥ずかしい。
さらにコーレスの魔王の欠片にまだ慣れていなくて、心がざわついてしまう。
一秒も早く出ていけとフラヴィは念じる。
「たまには遊んでくれよ。俺たち、結構寂しがり屋なんだ」
「トモちゃんだけでしょ」
「いや、お前もだろ」
二人で盛り上がっているアムリタとトモビキを帰らせるために、
「私の靴を舐めたら考えてやってもいい」
とフラヴィは言った。
フラヴィはトレーニング用のシューズに履き替えていて、普段履いている靴は入り口のすぐ近くに脱いであった。
彼女はそれを視線で指し示した。
「コーレスがもう舐めてる」
とアムリタが言った。
フラヴィが舐めろと言うや否や、コーレスは靴をべろんべろんと舐め始めていた。
まるで人の言葉を理解しているかのようにぴったりのタイミングだった。
「なんでそうなる」
フラヴィは声を荒げる。
「一応俺も舐めた方がいいか?」
トモビキは四つん這いになって靴に顔を近付け、遠慮がちに言う。
やれと言ったら躊躇なく舐めそうで、フラヴィは観念した。
「わかったよ。今日はお前たちに付き合ってやるよ」
「やったぜえ」
二人は声を合わせて喜んだ。
「それじゃあ、はい」
とアムリタはリードをフラヴィに渡す。
「私が持つのか」
「今日一番大事なのは、フラヴィとコーレスが仲良くなることだから」
フラヴィは、コーレスの好きなように教会内を歩かせようとしたが、コーレスは真っ直ぐアムリタたちの部屋に向かった。
「なんだこいつ、眠いのか?」
「おもちゃで遊びたいんじゃないの」
「腹が減ったんだろ」
「どれだよ」
部屋に入れてリードを外してみると、コーレスは布製のボールに飛びついた。
「ほらね」
とアムリタが言ったが、コーレスの頭ほどの大きさがあるそのボールに顎を乗せて、コーレスは目を閉じた。
「寝たぞ」
「いや、これからあのボール食べるぞ」
「それはないだろ」
「あいつならできる」
コーレスは仕方なさそうに目を開けると、大きく口を開けてからボールを噛んだ。
「ほらな? ほらな?」
とトモビキが興奮する傍で、アムリタが声を殺して笑っていた。
「犬に気をつかわせているんじゃないよ」
フラヴィはトモビキの脚を蹴る。
犬も犬で、すっかりこの二人と息が合ってしまっている。
本当に人の言葉がわかっているみたいだとフラヴィは思った。
「魔王の欠片は頭もよくするのかね」
噛んだ後のネタ振りがなくて、そのままボールを噛んでいるコーレスにフラヴィは歩み寄って、ボールを取り上げた。
取ったボールを落として蹴り飛ばすと、コーレスはそれを追って走った。
「そんなわけないか」
ボールは壁に当たると、その場に落ちた。
それを見ながらフラヴィは言った。
「俺たちみんなアホだもんなあ」
「私を一緒にするなよ」
コーレスは大きなボールを鼻先で押して戻ろうとした。
しかしボールは思うように真っ直ぐ進まない。
苦労しているコーレスを見かねて、フラヴィはコーレスに駆け寄った。
ごく短い距離で、鼻と足でパスを出し合う遊びにフラヴィは変える。
「もうちょっと小さいボールはないのか?」
とフラヴィは聞いた。
あるよ、とアムリタはコーレスが咥えられる大きさのゴムボールを投げる。
そのボールをフラヴィはまた蹴った。
今度はボールを追ったコーレスが難なく戻ってきて、咥えたボールをフラヴィに返す。
「よしよし」
フラヴィはコーレスを褒め、こするように撫でた。
ステンドグラスを通った午前の日差しは彼女たちに薄く緑色を投じていた。
魔王の欠片の反応は落ち着いていた。
フラヴィの胸中で、コーレスへの親しみが生まれていた。
コーレスも同様にフラヴィのことを友人として認めているだろう。
ステンドグラス越しの柔らかい日差しは今日という日の幸せな雰囲気を物語っているようだった。
このまま穏やかに一日が過ぎるような気がしたのだが、本当の今日を象徴するドアを荒く開ける音が部屋に響いた。
開けたのはクリストファーだった。
「おお、二人ともいたか。それにフラヴィまで。丁度いい」
彼がアムリタたちに加えてフラヴィまで探していたということは、面倒なことが起こったのだと三人は察する。
フラヴィの顔が一瞬歪んだ。
「導師様が呼んでいる。来てくれ」
間違いなく、魔王の欠片だ。
それも、所有者が魔法を用いてなんらかの事件を起こしているケースだ。
所有者の生死よりも、速やかに欠片を回収して事態を収めることが求められている。
フラヴィが駆り出されるというのは、そういうことだった。
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