二 じゃあどんな夢を見ればいいんですか
目的の公園にはすぐ着いた。
背の低い常緑樹の垣で作られた道がランニングコースとしてよく使われていて、その中も芝生の広場になっている、広い割には遊具のほとんどない公園だった。
二人が着いた頃にはもう日は完全に沈んでいて公園の屋外灯の明かりがともっていたが、それがなくともまだ充分に明るかった。
「ああ、そういうことね」
と公園に入るなりアムリタはなにかを感じ取った。
「どういうことだよ」
「たぶんこっち」
アムリタはランニングコースを歩く。
トモビキは数歩だけ大股で歩いて、先を行こうとしたアムリタに並ぶ。
ランニングコースの垣根の向こうにはおよそ五メートルおきに高木が植えられている。
五メートル歩いたところで、
「まさか見つけちゃった?」
とトモビキは気が付いた。
アムリタは深く首肯した。
「そういうこと。導師様の予知夢様が当たったわけだ」
「すげえな、おっさん」
「おっさん言わない」
とアムリタは冷ややかに目を細めた。
「目が怖い」
「ってかなんで予知夢とか見ちゃうわけ? あの人、魔法使えないのに」
「風変わりな占いみたいなもんだろ。占いなら魔法を使えなくてもできる」
並木は真っ直ぐ並んでいない。
道がうねうねと僅かに波打っているからだ。
その木の並びが随分と奥行きを感じさせたが、導師の噂話をしているうちにあっさり奥まで着いて、そこを右に曲がると休憩スペースがあった。
曲がった途端、食道から胃に出たみたく道が大きく膨らんでいた。
膨らんだ道の中にはベンチやトイレが設けられてあった。
「たぶんここ」
とトイレの陰となっている低い茂みを覗くと、犬が血まみれになって倒れているのが見つかった。
耳の垂れている、ビーグル犬だった。
犬は腹から出血していて、そこが一番深い傷のようだった。
倒れている犬の傍にもう一匹犬がいて、おそらく倒れている犬の子どもだった。
あまりにも出血の量が多くて、いつ死んでしまってもおかしくない様子だった。
「酷い」
とアムリタは顔をしかめる。
トモビキは倒れている犬よりもむしろ子どもの方を気にかけ、体を観察した。
傷らしい傷は見当たらない。
「子どもの方は無事みたいだな」
「まだ生きてますか?」
と遅れて到着した少年が、二人の後ろから背伸びして犬を見ようとする。
「ああ、生きてる。これは酷いな」
アムリタは少年の方に振り向くと問い詰めるような厳しさで、
「説明」
と言った。
「俺がやったわけじゃないです。でも助けることもできなかった」
聞けばどこかで聞いたことのあるような、しかしいつ聞いても不愉快に感じる類いの話だった。
彼のクラスメイトは犬を蹴り飛ばしていた。
暴力という遊びを思い付いてしまった彼らはそれに夢中になった。
少年は加担することも止めることもせず、傍観していた。
虐待はエスカレートして、サッカーのように思い切り犬を蹴るようになった。
すると犬から血が出て、それで怖くなっていじめていた少年たちは逃げ帰ってしまったのだと彼は説明した。
「それが一昨日のことなんです。こんなに血が出ているのに、まだ生きていて。子どももここから離れようとしないし。だからこの犬を殺してあげてください」
「安楽死か」
とアムリタは呟いた。
トモビキの言ったとおり、この少年は悪者ではなかった。
しかし傍観せずに止めていたらこの犬はもしかしたら。
なんてことを考えそうになるが、アムリタは溜め息をついてその思考にブレーキをかける。
そういうことを考え始めると、なんで自分が死神なんて呼ばれなきゃいけないんだという不満が蘇ってきて、凄く辛い気持ちになるのでよくなかった。
「普通なら安楽死でも引き受けないんだけど、この犬は特別だね」
とアムリタは言った。
「この子は魔王の欠片を持っている」
聞き慣れない言葉に少年が不思議そうな顔をした。
「聞いたことない? 昔この世界には魔法があったっていう話。そういうのを信じている宗教があるって」
「あります。魔王がこの世から魔法を消したってやつですよね」
「そう。でも魔法は完全には消えていなかった。それが魔王の欠片」
アムリタは犬に右手をかざし、念動の力を使う。
本物の右手よりもちょっと遠くまで届く、見えざる右手。
その手を倒れている犬に向かって伸ばす。
念動の手は、壁や肉をすり抜けて内部に触れることができる。
やろうと思えば心臓だって壊せる。
だから死神だなんて呼ばれる羽目になるのだが、アムリタの見えざる手が今目指しているのはまさに心臓だった。
心臓の中に魔王の欠片はあった。
この犬が死ねずにいるのは、魔法のせいだ。
肉体を丈夫にする魔法か、少ない血液でも動ける魔法か。
正体は不明だが、延命に役立つなんらかの魔法が働いてしまっているのだろう。
この世に存在しないはずの、しかし存在してしまっている力。
その源が魔王の欠片だ。
アムリタは、自身が心臓を探っていることを認識していなかった。
見えない手には触覚がない。
だから手触りで今どこを触っているか知ることはできない。
魔王の欠片の在処を彼女に教えているのは、彼女の体内にある魔王の欠片だった。
念動という魔法を扱うアムリタもまた魔王の欠片を体内に抱えている。
その魔王の欠片が、近くにある欠片を欲しがっている。
自分の中で自分じゃない誰かがそわそわしている、とアムリタは感じる。
その誰かが引き寄せられている方向を目指すのである。
「ここかな」
とアムリタは見えない手の親指と人差し指を、物をつまむ形にして引っ張った。
魔王の欠片がつまめていたとしても、それを感じることはできない。
見えない手を引っ張り出してみると、はたして緑色の小さな小石が犬の腹から出てきた。
それは見えない手と同様に、犬の体を傷つけることなくすり抜けて外に出てきた。
本来姿形のないものが、塊のようになって目には見えるようになっている。
見えるが、やはり物体ではないのだ。
「これが魔王の欠片だよ」
見えない右手から本物の右手に緑色の小石を渡し、アムリタは言った。
倒れていた犬の呼吸は急速に鎮まった。
犬が息絶えるのに三十秒もかからなかった。
親の死を理解して、子犬も脱力する。
「もう大丈夫だよ」
アムリタは子犬をそっと抱きかかえた。
子犬は抵抗しなかった。
親から離れずにいて飲まず食わずだったから、たとえ抵抗する気でいたとしても体力が残っていないのだ。
「この子はちゃんと保護するから安心して」
とアムリタは言った。
「ありがとうございます」
少年は深く頭を下げた。
そして顔を上げた少年は、
「魔法って凄いですね。俺も使えるようになりたいです」
と言う。
アムリタは嫌そうな顔をした。
少年から死神と言われた時と同じ表情だった。
「こんなことができても、なんにもならないよ。人から死神って言われたりするだけ」
「でもこの犬を助けました」
その反論にアムリタは即座に言い返せずひるんだので、トモビキが間に入った。
「この世に魔法がなければその犬が苦しみ続けることもなかっただろ?」
そもそも魔法なんてない方が幸せだから、魔王はこの世から魔法を消そうとしたのだ。
だから魔法を使えることは羨ましがるようなことではない。
トモビキはそのように少年を諭す。
「魔法があれば幸せになれるなんて、幻想だ。なんの保証もしてくれない夢だよ」
「じゃあどんな夢を見ればいいんですか」
「だから俺たちは魔王の欠片を片っ端から回収して、魔法のない世界を完成させる。魔王の目指した本当の世界、幸せに満ちた世界。それが俺たちの、そして君の希望だ」
少年は納得できない様子でうつむいていた。
トモビキは、今すぐ納得できなくてもいいと思った。
そしていつか少年の人生の役に立ちそうな言葉を考える。
「君は魔法と関係のないところで楽しく過ごせばいい。魔法のことは俺たちに任せておけばいいさ。俺たちがなんとかする」
トモビキは少年の反応をうかがって数秒待ったが、彼はなんの反応も見せない。
それじゃあな、と軽く別れの挨拶を一方的に投げかけ、トモビキはその場を離れた。
アムリタもなにかを告げたそうに少年を見たが、結局なにも言わずにトモビキの後を追った。
「まさか犬が魔王の欠片を持ってるなんてな」
トモビキは振り向いて、少年が付いてきていないことを確認してから言った。
「昔は人も獣も木も虫も魔法を使ったんでしょ? それなら不思議なことじゃない」
「確かにそうだよなあ。でも犬がなあ」
と頭をかく。
「私、この子飼いたい」
とアムリタは抱いた子犬を軽く上下に揺すって言った。
「無理だろ。たぶんそいつは」
「わかってる」
犬の保護はアムリタたちの教会の仕事ではない。
教会は魔王の欠片を回収するために存在していて、それとは関係のないことには消極的だ。
それをアムリタもわかっていたのだが、
「でも、犬が飼えるようになる魔法があるって知ってる?」
と言った。
トモビキは、わからないという顔をした。
「実はこの魔王の欠片の魔法がそうなんだよ」
まだ理解できないトモビキに見せつけるように、アムリタは魔王の欠片を宙に浮かべた。
そして魔王の欠片を子犬の体に近付ける。
「あっ、お前まさか」
気付いた瞬間、アムリタは魔王の欠片を子犬の中に入れた。
「こうすれば、飼わざるを得ないよね」
「お前、今すぐ出せ。弱ってる今ならまだお前の念動は効くだろ」
「いやあ、この子意外と元気だったみたい。もう魔法の耐性できちゃって、念動が効かないなあ」
とアムリタはとぼけた。
「お前なあ」
アムリタは強硬な態度でいる。
無言でトモビキの目を見て、飼いたいと再び訴えた。
「思い切りぶん殴って弱らせれば耐性も弱まるんだが、それをするのは可哀想だものなあ」
とトモビキは頭をかいた。
「うんうん、可哀想だよね」
「俺以外のやつの説得、がんばりな」
「うん」
帰りのバイクはのろのろと走り、時間をかけて教会に戻った。
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