デスandトモ~死神の手でハッピーエンドを手に入れチャオ☆~

近藤近道

プロローグ 死神の見えざる手

一 とてもスケベ

 死神と呼ばれた少女が、教会のプールを泳いでいる。

 少女はスクール水着を着て、水泳帽の内側に金色の髪を隠している。

 小学校を改装して造られた教会には二十五メートルプールが昔のまま残されていて、夏期は近隣に住む人々に開放されていた。

 近隣住民が利用できるのは午後一時から午後四時までなのだが、その時刻をとうに過ぎて空が赤くなっている中、一人だけになったプールで少女は泳いでいる。

 死神は教会に飼われている。

 教会の外に出ることを制限され、代わりに敷地内では自由を許されていた。

 だから少女は利用時間を過ぎたプールを我が物顔で使っていて、のびのびと泳ぐそのスピードは遅い。

 少女はゆっくりゆっくりと手足を動かし、クロールの動きを確かめるように泳いだ。

 ざぷん、ざぷん。

 蝉の声と、蛇口を大きくしたような吐水口から勢いよくプールに吐き出される水の音。

 絶えず聞こえてくるそれらの音に耳が慣れると、自身の腕が回転して水をかく音がはっきりと聞こえてくる。

 顔を横にして息を吸い込み、取り入れた空気と共に水中に戻る。

 少女が進む先には浮き輪があった。

 数時間前にこのプールで遊んでいた子どもたちの誰かが忘れていってしまった、ピンク色の水玉模様の浮き輪だった。

 持ち主が取りに戻ってくるかもしれないとプールに浮かべたままにしてあったのだが、誰もプールに戻ってこなかった。

 ゆったりとクロールをしていた少女はその忘れ物を掴んだ。

 泳ぐのを一旦やめて、枕のように浮き輪に頭を預ける。

 頭が安定する位置を探して身じろぎし、具合のいい体勢が見つかると少女は水面でくつろいだ。

 成長途上の胸や肩を波打つプールが撫でる。

 少女は水泳帽を取り、小さくバタ足をし始めた。

 そうして夕焼けを見つめる。

 夕焼けは、今日という日がもうすぐ終わることを告げていた。

 赤くなった空を見ると、今日に忘れ物はないか、と問われているようだと少女は感じる。

 今日の忘れ物。

 やる気のないバタ足を続けながら考える。

 そういえばテレビの占いで、今日は思わぬ出会いがあるかもしれないと言っていたけど、その占いはまだ当たっていない。

 気付きはしたが、今更占いどおりの一日を作ろうにも既に人と出会う時間ではない。

 教会に飼われている少女には夜中に出歩く自由はなかったし、そもそも出会いを求めて夜遊びをするには彼女はまだ幼い。

 別になにがなんでも当てたいわけじゃないんだけど。

 と彼女は思った。

 ただ占いが当たるとちょっと嬉しいし、得した気分になるから、当たりそうなら当たるように自分の行動を変えてみることがある。

 それだけのことだった。

 ぼんやりと考えているうちに浮き輪はプールサイドにぶつかった。

 ぶつかった途端、泳いでいるのに疲れてしまった。

 浮き輪をプールサイドに上げ、そして自らもプールから出る。

 少女は脚を半分水に入れたまま浮き輪の隣に横たわった。

 プールサイドが少女と浮き輪の形に濡れ、そして水着や髪が蓄えた水が少女の影を大きく広げた。

 薄く張られた水の上で横になるのは気持ちがいい。

 肌の上にできた大きな水滴に意識を向けていると、それが流れて影の水と一体化した時の水面のごく僅かな動きまで感じ取れるような感覚があった。

 水中にいる時よりもシャワーを浴びている時よりも、繊細に水のことを感じられるこの一時がアムリタは好きだった。

「昔々、この世界には魔法が存在していた。なにもないところから火や氷を生み、他者の心を操り、手を伸ばさずに物に触れることができた。人も獣も魔法を使ったが、中でも魔法の扱いに優れている者は魔王と呼ばれた」

 プールサイドに置かれたデッキチェアにはお目付役の青年がもたれていた。

 声を発したのは彼だ。

 アロハシャツを着た彼は紫色の冊子を読んでいる。

 少女の視界には入っていなかったが、その冊子はプールに来た子どもの保護者からもらった物で、その子どもの通う小学校で作られた生徒たちの詩集だった。

「魔王は人から生まれることもあれば、獣や虫や木から生まれることもあった。魔王は自分の力を仲間に分け与え、他者の領土を奪い、種族を繁栄させた」

 青年は詩集から目を離して少女に視線を向けてもよどみなく話し続ける。

 詩を読み上げているのではなく、彼が語りたいように語っているだけだった。

 彼が開いているページには、もし僕に魔法が使えたら、というタイトルの詩が載っていた。

「しかし、人から生まれた魔王が、この世を魔法の存在しない世界に変えよう、と決断した。その方が人は幸せになれるはず。そう魔王は信じたからだ。そう思うだけの愚かなことを人間はしていたのだろう。そして魔王は世界を作り替え、今の世界が生まれた。魔王が作った、魔法の存在しない世界。この祝福された世界に生まれた人間は幸福である」

 青年の語りには熱がない。

 暗記したものをつらつらと話しているような感じだ。

 そして聞いている少女もほとんど聞き流している様子で、横たわったまま青年の座る椅子の横、小さなテーブルに置かれたペットボトルを凝視している。

 突然、ペットボトルは浮き上がった。

 手を伸ばさずに物に触れ、少女は飲み物を引き寄せた。

 念動だ。

 魔法が存在しないはずの世界に存在している、魔法の力。

 見えない力で動くペットボトルを少女は左手でキャッチすると、今度は蓋が開く。

 そして再び念動の力にペットボトルを渡すと、手足も脱力した仰向けの状態で少女はペットボトルに口をつけ、水を飲む。

 青年はその様子を眺めていた。

 少女の口からペットボトルが離れると、青年は疑問を口にした。

「なあ、俺は気になったんだけど、この魔王って、男なのかな女なのかな」

「そんなのどうでもいいでしょ」

 呆れたように少女は目を瞑った。

 深呼吸をするように鼻で息を吸い込むと、十五歳の胴体が僅かに膨らんだ。

 溜め息代わりに吸った息をゆっくり吐いてから少女は聞いた。

「なんでそんなの気になるのさ」

「わからない。ただどちらかと言えば、女性であってほしいなあって思った」

「スケベ」

「そういうのじゃないって」

「とてもスケベ」

「違うっての」

 少女は沈黙で返す。

 この話のオチは、お前はスケベ。

 それ以外は認めませんよという態度だった。

「そもそも、とてもスケベではなくて、ドスケベと言う方が語感がよくないか? そっちの方が普通だし」

 と青年は言った。

「ドスケベって言われたいの?」

「せめてスケベにしてくれないか」

「わかった。ドスケベ」

 少女は嫌がらせにドの部分を強調して言った。

 それに対して青年は呆れたような口調で反撃する。

「なあ、アム。俺は器用だからお前がこの先二度と、ど、って音だけ発音できなくなるように首を絞めることができるぞ」

「無理でしょ」

 今度は少女が呆れる。

 特定の音だけ言えなくなるように喉を傷つけることなんてできっこない。

 それなのに青年は自信ありげだった。

「話を戻していいか? 魔王が男か女かなんて、確かにどっちでもいいことなんだけど、でも俺は気になるんだよ。アムはならないのか?」

 と青年は言う。

「全然。めちゃくちゃどうでもいい。どっちにしたってその魔王が世界を作り替えたんだし、それなのにこの世界にはまだ魔法が存在しているんだし」

 少女はそう答えると自分の呼吸に意識を再び向ける。

 息を吸って吐く度に、寝そべっているプールサイドと自分と夏の夕方が同化していくような感じがする。

「それはそうだよなあ」

 青年は呟き、詩集に視線を落とした。

 僕が魔法を使えたら、いじめをなくしたい。

 泣いている人が泣かなくていいようにして、顔を上げて笑顔で歩けるようにしたい。

 小学生の詩にはそう書かれている。


「覗いてた?」

 死神と呼ばれた少女、アムリタは更衣室のドアを開けると、その横で待機していた青年に冗談めかして聞いた。

 アムリタは古びた半袖のセーラー服を着ていた。

 学校には通っていない。教会がそれを許さない。

 しかしせっかく元々学校だった所で生活するのだから学生っぽい格好がしたいと駄々をこねたら、修道女の一人からお下がりをもらえた。

 シンプルすぎるデザインと、くたびれた生地が古びていると感じさせるのだが、修道女は渡す前に染み抜きの専門家にケアをしてもらったらしい。

 白い生地は年月を感じさせないくらい見事に清潔な姿をしていて、この白いセーラー服を着るとそれだけで気分がよくなる感じがする。

 青年、トモビキはその白の輝くセーラー服には目をやらずに答えた。

「覗いてない。そもそも窓がないんだから、覗きようがない」

「ドアをそっと開けるとか」

「してない。しない」

「窓あったら覗いてた?」

「お前の着替えが見たかったら覗いたりしないで、見せてほしいってお願いしてる」

「そっちの方が変態な感じする」

 トモビキは首を傾げた。

「そうだろうか」

「そうだろうよ」

 とアムリタはうなずいた。

「それより、これお願い」

 アムリタはさっきプールで拾った浮き輪を渡した。

 水はタオルでよくぬぐったが空気は入ったままだ。

「ああ」

 トモビキは浮き輪を肩にかける。

 そして栓を抜くと、抱き締めるようにして空気を抜き始めた。

 しゅうしゅうという音を聞きながら、元は校舎だった建物の方へ歩いていると、向かいから見慣れない子どもを連れた修道女が歩いてきた。

 この教会に修道服はなく、四十代前半の肥えたその修道女はスーツを着ていた。

「あっ、アムちゃんとトモちゃん、丁度よかった。プールに浮き輪落ちてなかった?」

「浮き輪なら浮かんでたよ」

 とアムリタはトモビキの肩の浮き輪を指した。

「これ?」

 と修道女、ノクイは少年に聞いた。

 少年は、そうです、と言った。

「この子、プールにその浮き輪忘れてきちゃって、家に帰ってから気が付いて、それで取りに来たのよ」

「よかったな、見つかって」

 ノクイの説明を聞いたトモビキは、たすきを渡すように浮き輪を両手で差し出した。

「はい。見つかりました」

 少年は浮き輪を受け取ると、アムリタの目を真っ直ぐに見た。

「俺、死神さんに頼みたいことがあるんです。殺してほしいやつがいるんです」

 ノクイとトモビキの目が驚きで開いた。

 アムリタも驚きはしたが、反対に目が細まった。

 死神扱いをされると、ちょっと不機嫌になる。

「私、人殺しはしないよ」

 アムリタは死神と呼ばれているが、その言葉から連想するような殺人鬼ではない。

 彼女の念動の力、見えない手を恐れた人たちがそんなふうに呼んだだけだ。

「人じゃなくて、犬ですから大丈夫です。人殺しにはなりません」

 少年は事前に用意してきた言葉を言い、得意げな顔をした。

「犬でも駄目。ってかそんなこと頼むために浮き輪を忘れたってわけ?」

「こんなにうまくいくとは思わなかったけれど、はい。こうすれば周りの目のない時間に教会に入れるから、後はシスターにお願いして案内してもらうつもりでした」

「とにかく人でも犬でも私は殺さない。諦めて」

 しかし少年の目は素直に食い下がる様子ではない。

 アムリタは、トモビキに力ずくでも少年を帰させようとした。

 そのトモビキが言った。

「引き受ける保証は全くないけど、それでいいなら話を聞かせてもらうよ」

「いいんですか?」

 少年の声が弾んだ。

「ちょっと、トモちゃん?」

 アムリタが制止しようとするのを無視して、

「実は俺、今日の占いでさ、思わぬ出会いがあるかもって言われてたんだ。それって君のことだったんだな」

 とトモビキは少年に言った。

「それ、トモちゃんのじゃなくて私のだし」

「どっちにしたって同じことさ」

 とトモビキはとぼける。

 彼のは、仕事は絶好調だけどそれ以外のことはいまいちだからあまり調子に乗るな、というものだった。

「それじゃあ」

 興奮で少年の声がうわずった。

 一旦咳払いをしてから少年は仕切り直す。

「じゃあ、一緒に来てもらえますか。実際に見てもらった方が、説明もしやすいんで」

「どこ?」

「公園です」

「近い方の?」

 トモビキが思い付くだけで、この辺りに公園は三つあった。

 少年が答えた公園の名前は、三つの中で一番遠いものだった。

 歩けば二十分くらいかかる。

「あそこか、遠いな」

「車、出してあげようか?」

 とノクイが言った。

「ううん、どうしよう。君は自転車?」

「はい。自転車で来ました」

「じゃあ俺たちバイクで行くから、現地集合な」

 アムリタはノクイに向けて苦笑いして、謝る。

「ノクイさんごめんなさい。トモちゃんは私と二人きりになりたいみたいだから、車はいいみたいです」

「襲われないように気を付けてね」

 とノクイは笑った。

「バイク運転しながらじゃ襲えませんよ」

「それもそうね」

 トモビキとアムリタは少年と別れ、裏門にある駐車場に向かう。

 バイクにまたがるとトモビキは言った。

「たぶん安楽死だな」

「わからないよ。もしかしたらただの悪い子どもかもしれないよ」

「悪い子どもなら自分で殺しちゃうでしょ」

「それもそうか」

 安楽死だとしても、アムリタが犬を殺す理由にはならない。

 どうして少年を追い返さなかったのだろう。

 アムリタがそれを尋ねると、

「導師様が予知夢を見た」

 とトモビキは答えた。

 導師というのはこの教会の中で一番偉い人で、未来を予知するなどといった不思議な力を持っていた。

「おっさんが夢を見た」

 とトモビキの言葉を繰り返すようにアムリタは言った。

「近日俺たちはこの町にある魔王の欠片を見つけて持ち帰るそうだ。だから犬の様子を見終わったら、町をぶらぶら走ってみる」

「わかった」

「それと、おっさん言わない」

「やだ。言う」

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