詩音Ⅰ

 研究室の奥の扉を開けようと、扉に手をかけたその瞬間、中からピアノの音が聞こえてきた。


 と。


 いうのは嘘である。


 完全防音なので、中の音が聞こえることはない、聞こえるはずもない。しかし、この扉の向こうには毎日のようにそこでピアノを演奏する彼女がいるので、ピアノの音が聴こえたかのように錯覚してしまった。


 錯覚して、一瞬躊躇してから再び扉に手をかける。そのまま扉を開けると果たして、錯覚は錯覚でなくなった。


 流れるように繋がる音が、部屋いっぱいに広がる。音で満たされた密閉空間を裂いてしまったことを、どことなく申し訳なく思った。


 しかし彼女は扉が開いたことも、僕が部屋に入ってきたことにも気付かずに、淀みなく演奏を続けた。雑音の一つでも、或いは外れた音の一つでも聴くことができれば、彼女が人であることを感じることができるのだが、なかなかその機会が訪れない。今まで気が付かなかったけど、もしかして彼女は精密なロボットなのでは・・・と、あり得ないことを考え始めたあたりで、ようやく彼女はミスをした。


「ああ、また同じところ・・・」


 と、彼女は呟く。その言葉を聞く限り、どうやらその部分を失敗したのは今回が初めてではないらしい。彼女の苛立ちの様子から察するに、おそらく二度三度の失敗では済まされまい。


 ・・・・・。


 少し、責任を感じた。


「その部分、簡単にしたほうがいいかもな」


 という僕の声に、ようやく彼女の視線を感じることができた。当然、ビックリしたような表情をする。


音無おとなし先輩、いつからそこに?」


「三十秒くらい前?」


「じゃあ失敗したのも聞いてたんですね・・・」


「まあ演奏中でもなきゃ、僕が入ってきたのに気付かないわけないからね」


「ああやだ・・・ごめんなさい」


「なんで謝る」


「だって、せっかく先輩がつくってくれた曲なのに、上手く弾けなくて・・・」


「・・・・・」


 そう、彼女が弾いているのは僕が作曲したものだった。責任を感じるというのはそういう意味だった。


「いや、僕が単に難しくし過ぎただけだろう。むしろこっちがごめん」


 彼女は・・・詩音しおんは、決してピアノが下手というわけではない。むしろ上手い下手で言うなら彼女はよっぽど上手いほうだ。コンクールでも何度も賞を取っている。そんな彼女が何度も間違えるということは、どう考えても僕の曲の方が間違っているだろう。


「いえ、そんなことありません。私が未熟なだけです」


「詩音が未熟なら僕はなんだろうな、もう腐っているのか?」


「あ、いえ、決してそういう意味では・・・」


「冗談だよ。所詮ピアノが弾けないようなやつがつくった曲だ、不備があって当然さ。・・・って自分で言う台詞じゃないな。まあそんなわけだから書き直すよ」


「だ、駄目ですっ!」


「?」


 楽譜を取ろうとした手を遮られる。予想以上の反発に、思わず面食らってしまった。


「私、今のこの曲が好きなんです」


「そうなのか?でも弾けない曲なんて普通好きになれないと思うんだが・・・。弾いていても楽しくないだろ?」


「そんなことないです。すごく楽しいし、好きなんです」


「どうして」


「だって・・・先輩が私のためにつくってくれた曲、だから・・・」


「・・・・・」


 さっきも聞いた言葉だったが、間に「私のために」が追加されていた。ついでに微妙に赤面している。


 ・・・。


 ・・・・・。


 ・・・・・・・・?


 何を言っているんだこの子は?

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