奏
聴き覚えのあるような、ないような。そんなもやもやした感覚だけは確かに覚えながら、その日は講義に臨んでいた。
などと言うと、まるで普段は真面目に講義に臨んでいるように聞こえなくもないが、そう聞こえてしまったのなら、それは間違いだと訂正しておこう。
普段から真面目に講義に臨んじゃいない。もっと言えば、もやもやした感覚を覚えながら講義を受けるのはいつものことだ。だから別に、今日が特別というわけでもない。それをどういうわけか特別に思いたがるのは、やはり彼女の姿が眼に焼き付いているからなんだろう。
彼女の姿が眼に焼き付いて。
彼女の演奏が、耳に焼き付いているから。
と。恥ずかしげもなくそう思ってみるが、耳に焼き付いているわりにはそれが何の曲か思い出せずにいた。今こうしてもやもやしているのは、そのためだった。
聴いたことがあるような気もするし、それが完全に気のせいな気もする。全く聴いたことがないかと言えばそれも正しいような気がするし、間違っている気がしないでもない。
まあ、聴いたことがあってもなくても、不思議ではない。僕は作曲はするけど、かつての偉人達のつくった曲の数々を、ほとんど聴いたことがない。好んで聴くのはシューベルトくらいだ。だからクラシックで、聴いたことのあるようなないような、そんな音楽があっても別段、不思議に思わない。
同じように僕は、自分では全くピアノを弾かない。いや、正確には弾かないのではなく弾けないのだが、僕の周りにピアノを弾く人は沢山いる。芸術大学の音楽科なのだから、当然といえば当然である。だから、キャンパス内のどこかで、誰かが弾いていたのを聴いていた可能性も、充分にある。
つまり、僕があの曲を聴いていたとしても、聴いていなかったとしても、何ら不思議ではないということだ。
しかし、もしどこかであの曲を聴いていたのだとしたら、そのどこかさえ思い出せれば、これほど簡単なことはない。そうすれば、誰が弾いていたのかも思い出せるというものだ。
僕の周りの女性で、ピアノを弾く人といえば・・・。
「おはよ。隣空いてる?空いてるよね」
疑問系にも関わらず、勝手に答えを予想して僕の隣に座る人物が一人。「いや、空いてない」とでも言えば、少しは面白い会話ができただろうか。
講義に遅れてきたにも関わらず、彼女は悪びれた表情をすることなく席に着く。まあ大学生なんて講義に遅れて来るやつが大半だし、途中で抜け出すやつもいるくらいだ。別にそれをどうとも思わないし、全くもって構わないのだが、これで僕より座学の成績がいいのは非常に腹立たしい。これではまるで、毎日ちゃんと講義に出ている僕が馬鹿みたいではないか。
・・・ん?それは別に間違いではないのでは?
しかし、毎度の如く遅れてくるのは如何なものだろう。あまりに不真面目だ。僕よりもずっと。ただぼーっとしているだけの僕ではあるが、そう考えると案外捨てたもんじゃないかもしれない。
「ノート見せて」
来て早々、僕のノートを引っ手繰る。白紙のページが開かれた見るに無意味なノートを。
引っ手繰ってから何も書かれていないことに気付くと、彼女は訝しげにこちらを見る。
「何してたの?いや、何考えてたの、か・・・」
はぁ、と彼女はため息を吐く。その反応は如何なものだろう。確かにノートを取っていない僕は、ため息を吐くに値する人材であるように思えるが、それを言うなら彼女はため息を吐くにも値しない人材ではなかろうか。そんな人材にため息を吐かれる僕は、ある意味貴重である。
「
「えっ!?」
ため息を吐かれた仕返しとばかりにそんなことを言ってみたが、強ち間違いではない。僕の周りの女性でピアノを弾く人といえば当然、彼女が思い浮かんだというだけだ。
黒髪の長髪で、身長は僕より高い。男の面目丸潰れである。最も、その程度で潰れる面目なら、持ち合わせない方が無難だ。性格はご覧の通りで、ご覧の有様である。友達になったことを後悔しているとは思わないが、反省はしている。
「ホントに?ホントに私のこと考えてたの?」
「・・・・・いや、冗談」
よく分からない期待の眼差しに冷めた回答をすると、先ほど以上に怪訝な顔をされた。さて、この場合悪いのは僕だろうか。
「はぁ、じゃあ何考えてたの?」
再びため息を吐かれるが、まあそれは許そう。しかし流石に「見ず知らずの女性のことを考えていた」と、ホントのことを言うわけにはいかない。
「頭の中で新曲でもつくってた?」
「そういうことにしておいて」
「じゃあどんな曲か教えてよ」
「・・・・・スタッカート」
「それ演奏方法」
「アンドゥ」
「話を取り消さないで」
「スケルツォ」
「もう冗談はいいから!」
・・・・・ふむ。
欲しいところに欲しいツッコミをくれる彼女は、なかなかどうして。
友達になったことを反省はしているが、案外、悪くない。
と。
彼女に声にあてられた視線に囲まれつつ、そんなことを思うのだった。
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