熊本くんの本棚
キタハラ
熊本くんとわたし
第1話 熊本くんとわたし①
思い出すのは本棚だ。
大学の同級生だった熊本くんの本棚には、カミュだの三島由紀夫だのナボコフがあり、隅の方にジュネ、ワイルド、テネシー・ウィリアムズや森茉莉が並んでいた。
当時文学部にはいってはいたものの、高校の授業で読まされた『こころ』以来、わたしは小説をまともに読んでこなかった。読書感想文はウィキペディアとアマゾンレビューでなんとかしのいできたような人間である。そんなわたしからすれば、なんて読書家なのでしょう、と最初にその本棚を見たとき、ひいた。
熊本くんは部屋をいつも綺麗にしていた。必要以上にものはなく、すっきりしていた。別の角度からみれば、寂しくも映るかもしれない。モノトーンを基調とした部屋で、本棚だけに色がある。部屋を訪ねるとまっさきにわたしは本棚に向かった。
真っ暗闇のなか、自動販売機だけが光っているみたいに。自分が、まるで虫にでもなったみたいに。
わたしの読書遍歴は、学校の課題以外だと熊本くんのおさがりばかりだった。
大学生の頃、たまに熊本くんの部屋でごはんをごちそうになり、本を借りて帰った。ものが少ないわりに、彼は調味料はたくさん持っていた。みりんや料理酒なんて、わたしは一度も使ったことがない。
「みのりはさ、熊本くんと付き合ってるの?」
教室で見かける同級生がわたしに話しかけてきた。
「え?」
言葉を濁したのは、質問にうまく答えられないからでなく、彼女の名前を思い出せなかったからだ。わたしは同級生の名前を熊本くん以外覚えていない。
「あ、やっぱり?」
しばしの間からなにかを察したらしい彼女は、勝手に納得していた。
「付き合ってないよ。なんでそんなこと聞くの?」
たしか芸能人に同じ名前がいたはずだ。入学当時に参加した飲み会で、「似てもにつかないんだけど」と照れながら彼女が自己紹介をしていたことを思い出した。
「熊本くんとみのり、仲良いから、なんとなくそうなのかなって」
文化祭が終わったばかりのキャンパス。ださい看板が壁に立てかけられていたり、片付けきれていないテントが風に揺れている。なんともいえない終末感アンド学生ノリのだらしなさで薄ら寒い。わりと嫌いではない。
立ち話もなんだから、と芸能人と名前が似ている同級生とそばのベンチに座った。
「誰か、熊本くんのこと興味あったりするの?」
興味があるのが目の前にいる彼女の可能性もある。気をつけて、わたしは訊いた。
「熊本くんとみのりがもし付き合っているんだったら、知ってるのか気になって」
歯切れの悪い物言いだった。けれどべつにいいたくないわけでもなさそうだ。むしろ教えたくてしかたがなさそうに見える。
こういうときする、女の子たちの薄笑いが嫌いだった。中高一貫の女子校だったから、ほんとうによく、見た。
彼女たちは、自分のつかんだ情報を開示して、それを聞いた人間がどんな顔をするのか楽しみなのだ。そして、相手がどう振舞ったところで、彼女たちは笑う気満々である。
驚かれたら、自分もそうなのよと同情を示し、なんのリアクションもなければ、ふん、格好つけて、と見えない舌を出す。
「熊本くん、なにかあったの?」
わたしは訊きたくもないけれど、訊いた。噂話に耳を傾けてみる姿勢も、ときには必要だ。来年には就活も控えているし、多少自分以外に迎合しようという気持ちもあった。
「熊本くんがビデオに出てるらしいの」
最初、なにをいっているのかわからず、わたしは「はあ?」といってしまった。
「そうなんだ。ビデオ」
古臭い表現だなあ、とわたしは思った。
熊本くんは、顔がいい。文学に傾倒しているわりに、体つきもよい(なにせ中高と水泳部だったそうである)。髪の毛もいつも短く刈っていて、清潔感がある。着ている服は、わりとタイトで、なんとなく窮屈そうに感じる。いってしまえば、モテるタイプだ。
熊本くんは多くを語らないが、街で歩いていて、スカウトされたことだってありそうだし、もしや……と思った。
「いいんじゃない、熊本くんかっこいいし」
「え、だって、あんなビデオだよ?」
「あんな?」
わたしの顔に、「つまらないな」と書いてあったのかもしれない。
「アダルトビデオだよ、男同士の」
彼女が勝ち誇った顔をしている。その顔をみて、自分は、きっとひどく衝撃を受けているのだろうな、と冷静に、思った。
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