03:断片的な過去の記憶

美彩と別れた後、私は古びた公営住宅の階段を上がる。

コンクリートに囲まれた味気ない五階建て団地。その団地の三階が私の住んでいる場所である。

三階まで上がり、鍵を開けて中に入る。

一般の家庭より少し小さめの玄関。

高さが腰までの靴箱の上に鍵を置いて、靴を脱ぎぱなしで家の中に足を踏み入れる。

正面の扉を開けて、台所兼食堂、いわゆるダイニングキッチンと呼ばれる部屋に鞄を置いた。

冷蔵庫からお茶を取り出してグラスに注ぎ一気に飲み干す。

そして、鞄を取り自分の部屋に向かった。


 六畳ほどの洋室にベッドと机、そして洋服ダンスを置くとほとんどスペースが無い部屋。

私は制服を脱ぎ、テーシャツとスウェットという楽な格好の部屋着に着替える。

今日は結局『百合の花の家』には行けなかった。

私はベッドに腰を下ろし、軽くため息をついた。

鈴川さんに連絡しなきゃ。

私はスマートフォンを鞄から取り出し、電話を掛けた。

数回の呼び出し音の後に

「はい、『百合の花の家』です」

慣れ親しんだ鈴川さんの声が電話越しに聞こえる。

「もしもし、楓花です」

私は電話越しの鈴川さんに話しかけた。

「あら、楓花ちゃん。今日はもう来ないの?」

今日は行く予定だったが、美彩と途中まで一緒だったし、南部さんとも会ってしまったから、少し行くのが気が引けた。

南部さんに会うと少し昔の自分を思い出す。

笑顔でいることを義務付けられた自分。

笑顔でいないといけない理由なんて正直分からないし、覚えてもいない。

だけど、笑顔でいないといけないとはっきりと私の魂に刻み込まれていた。

そんな呪いとも言える状態を解放してくれたのは父であった。

私に笑顔以外の表情や感情を様々教えてくれた。

『嬉しい気持ちや表情』

『悲しい気持ちや表情』

『悔しい気持ちや表情』

そう多種多様なことを父が教えてくれた。

今の私を構成しているのは間違いなく父の優しさと厳しさだった。

「あ、うん。ごめんなさい。友達と一緒に帰っててね。それで行きそびれちゃったの」

「あら、そうなの?それは残念ね」

鈴川さんが優しい口調で言った。

「ごめんなさい。明日は行くね」

そう言うと

「はい。待ってるわね」

そう言って鈴川さんは電話を切った。


電話が切れたのを確認して、私はスマートフォンを机の上に置いて、ベランダに向かった。

洗濯物を取り込んで、綺麗に畳んでから父と私の分を分別し、それぞれの部屋のタンスにしまった。

春の陽気にあてられたのか、眠気が襲ってきた。

私は自室のベッドに横になる。

そして、ゆっくりと意識が薄れていく。

 

 目の前の景色に少し戸惑っている。

見慣れない天井。蛍光灯の一つがチカチカと点いたり消えたりと忙しい。

ゆっくりと周りを見渡す。

白衣を着た若い女性が私の傍に立っている。

女性はとても心配そうな表情で私を見ている。

その隣には、もう一人白衣を着た男性が立っている。

逆の位置に警察官とおぼしき男性が制服姿で二人立っていた。

「先生、気が付きました」

女性は、白衣の男性に声を掛ける。

男性は私の顔を覗き込み、

「分かりますか?岩城いわしろ楓花ふうかちゃん、分かりますか?」

はて?岩城?それは私のこと?

私の名前は『立花楓花』であって決して『岩城楓花』ではない。

そんな事を考えていると、私の上半身が勝手に起き上がった。

「こ……ここ……どこですか?」

どうやら私が発した声のようだ。

不思議な感覚だった。

自分では声を出していないのに、勝手に話し出した自分が。


体中が痛い。なんだろうこの痛み。

分からない。だけど体中が悲鳴を上げているように感じる。

「ここはね、病院だよ。もう大丈夫だからね」

女性の声が優しさと安堵に満ちていた。

声だけでなく表情も同じだった。

そっと頬に涙が流れるのを感じた。

私は泣いているようだった。

女性は優しく頭を撫でてくれた。

「もう大丈夫だから、大丈夫だから。怖かったね」

そう言いながら、何度も何度も撫でてくれた。

その時、奥の扉が開いた。

私の体がビクっと反応する。これは恐怖という感情なのだろうか……

私はゆっくりと扉に目を向けた。


そこには中年の少し小柄な男性が居た。

私はこの男性を見たことがある気がする。

誰だろう?一瞬考えたが、すぐに答えは出た。

南部さんだ。そう南部義武という刑事。

ただ、私の知っている南部さんよりも少し若い気がする。

私の視線は南部さんに釘付けになっている。

南部さんはゆっくりと私に近づいた。

「先生、よろしいでしょうか?」

南部さんが白衣の男性に話しかけている。

「はい。もう大丈夫でしょう。しかし、精神的に、どのような状態かは分かりません。その点をご理解ください」

白衣の男性は事務的に南部さんに答えた。

「精神的にですか……」

呟くように南部さんがため息交じりで言う。

「はい、私も専門ではないので、確かなことは言えませんが……」

白衣の男性は自信なさげにそう言った。

「お前たち、ここはもういい」

白衣の男性の答えを聞いてから、制服姿の警察官に声を掛けた。

「はい。了解しました」

二人とも礼儀正しく返事をして、部屋から出て行った。

「さて、君が岩城楓花ちゃんだね?」

南部さんは私に話しかける。

私は頷いているようだ。

違う。私は岩城ではない。立花なのに。

なぜ頷いたの?

「大丈夫かい?怖かっただろう?」

さっきの女性と同じような質問をされた。

怖い?何が?

思い出せない。

一体これは何なんだろうか?

すると私は再び頷いている。

そして、南部さんの顔をじっと見つめる。

なんだか悲しそうな目がそこにある。

じっと見つめる私に南部さんは微笑む。とても悲しそうに。

そんな笑みを見た、次の瞬間、周囲が暗くなった。



 暗く静寂な部屋。

雨の音が雑音のように聴こえてくる。

一瞬、周囲が明るくなった。

目の前に人影が見える。

とても大きな人影。

部屋は凄く散らかっていた。

周囲を見渡した次の瞬間、けたたましい音が鳴り響いた。どうやら落雷の音のようだ。

音が鳴りやむと、また静寂な部屋に戻る。依然と雨の音は聴こえてくる。

私は周囲を見渡す。

はっきり見えないが、先ほどの人影はシルエットでなんとなく分かる。

私の足元には誰か倒れている。

誰だろう?分からないけど、どうやら女性の様だった。

私はしゃがみ込み、その女性の手を握る。

動く感覚はない。

「お、お母さん?」

私はまたも勝手に話した。

お母さん?どういう事?この人は私の母なの?

段々と周囲がぼやけてくる。

意識ははっきりしているのに、目の前にもやが掛かっているように。

そして、さきほどのシルエットの人影が近づいてくるのが分かった。

なにやら、その人影が話しているが、聞き取れない。


なんだか分からないけど、これはとてもまずい。逃げなきゃ……

だけど体が言うことを聞いてくれない。

人影の足元が目の前にあった。

とても大きな靴。

私はゆっくりと顔を上げる。

靄が掛かっていて、表情は分からない。

ただ、とても悲しいそうな優しそうな表情だったような気がした。

そして、目の前が闇に包まれた。

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