密室の教習車

     * 


 不思議な光景だ。見慣れた数十台の教習車に混じって、パトカーが数台止まっている。

 あれから一時間以上は軽く経ったろう。でも、自信はない。私は時計の見方もわからなくなってしまったのかもしれない。

 とにかくあの後、すぐに警察もやってきて、教習所内は依然騒然としていた。

 やむを得ず、本日の教習は全て中止となった。こんなことはもちろん、前代未聞だ。

 教習生・村上隆志は至急救急車で病院に運ばれたが、傷は背中から心臓に達しており、まもなく死亡が確認された。

 事件のあった教習車には、彼以外に一人しか同乗者はおらず、その人物による殺人事件と判断し、警察は署に連行した。

 容疑者は、里卯文乃。


「なぎさん」

 意識の少し奥から、篠さんの声が聞こえてくる。……またぼーっとしてたんだ。

 私は、力無く顔を上げた。涙は出そうで、出なかった。

 開ききっていない目で篠さんを見つめる。

 篠さんは、エントランスのベンチに座っている私の横に立って、心配そうに見てくれている。

 決して豊か、とはいえない表情の彼だが、その目元に少しだけ優しさを感じた。

 なんだ。そういう表情できるんじゃん。

「大丈夫か?」

「……篠さん」

 我ながら、なんて情けない声なんだろうと思った。

 私の意識とは、関係なく。言葉は篠さんの前で溢れ出る。

「文ちゃんは、殺人なんて絶対やってない」

 そう言った後、しばらく次の言葉は出なかったが、ようやく、ずっと自分の中で散らばっていたものを集めることができたらしく形になったそれを出す前に一度飲み込んだ。

 それは、油断をすれば詰まってしまいそうで、胸に力を込めつつ搾り出す。


「たす、けて」


 同時に、私の目から涙が溢れ、俯くと制服のパンツの上にそれが溢れた。

 私、泣いてるんだ。でも、本当に泣いているのは、私じゃない。本当に助けてほしいのは、私じゃない。

「……なぎさん。俺は、実は探偵だ」

 篠さんの表情は見ていないのでわからないが、彼の言葉は承知の事実だったので頷いた。

「はい。知ってます」

「そして、男だ」

「……それも知ってる」

 すると篠さんが、私の右肩を優しくぽん、と叩いた。

「依頼料は延長料金一時間分で」

「篠さん……」

 私は涙を止め、篠さんをもう一度見つめた。

「依頼料、取るのかよ」

「あほ。格安だぞ」

 篠さんは、着ていたワイシャツの袖を捲り上げる。そんな彼に、私の口はポカンとだらしなく開いた。この流れで、そんな展開?

「よし、依頼成立だな。仕事だ」

「おいおい」

 なんとなく納得のいかない私を若干無視しつつ、篠さんが歩き始めた。

「ちょっと、篠さん? どこ行くんですか」

 慌てて追いかける。

「ああ。まずは情報が必要だろう」

 篠さんは、まっすぐに一人の刑事の方へと向かった。

「公史」

 篠さんにそう呼ばれた刑事は振り向くと、彼に向かって右手を上げた。

「おう。敬太郎か」

 はい。ズッギューーーン!

 打ち抜かれた。刑事に、拳銃で打ち抜かれてしまった。そう、乙女のハートを。

 柔らかそうな、栗色の髪。黒目の多い、くりっとした瞳。一言でいうと、極甘フェイス、である。

 極めつけは、刑事らしいその服装が、実はスーツフェチである私にとって、あまりに刺激が強すぎる。

 なにこれ! この〈フォアグラの天ぷら、しかも衣はキャビア〉みたいな、ありえない豪華さは!

 ちなみに篠さんも、ネクタイはしていないがスーツ姿である。しかし、そんな隣の彼のことはすっかり忘れて、目の前の刑事に見とれていた。

「おまえがここにいるっていうことは、依頼を受けたのか? でも随分早いな」

 爽やかに笑いながら、探偵らしき男に話しかけているカレ。

「ああ。実は今、俺ここに通ってるんだ」

「あれ、おまえ免許持ってなかったの?」

「まあな。でも、この仕事柄あった方が便利だと思って」

 ……そりゃそうだろ。おせーよ、気づくの。今まで何で移動してたんだよ。チャリとかか?

「そうだよな。車はあったら便利だよな」

 私の心の中での下品なツッコミに対し、カレの言葉はなんて上品で優しいんだろう! もう、私はそんなカレにすっかり夢中になっていた。

「で、この人が今回の依頼人の、なぎさん」

「あ。た、田中和紗です! はじめまして」

 突然篠さんに紹介されて、慌ててお辞儀をする。

「はじめまして。沢下公史さわしたこうじです。敬太郎とは高校時代からの友達です」

 にこっと笑いかけるカレの周りには、キラキラとしたオーラが漂っている。

『ギャーーーッ!!』

 私は、心の中で絶叫した。

「なぎさんは教習指導員で、俺がこの人の教習を受けている時に事件が起こったんだ」

 固まっている私の横で、篠さんが説明を加える。

「里卯文乃さんとも、とても仲が良かったらしい」

 公史さんの表情に、ふいに影が落ちたように見えた。

「そうだったんですか」

 かなり神妙な面持ちだ。

「僕にも、あの方がそんな恐ろしいことをするような人には、とても見えないんです」

「公史。俺は、なぎさんから里卯文乃さんを助けるように頼まれた。彼女は、本当に殺人を犯したかもしれないし、無実かもしれない。後者を信じて依頼を受けたが、どっちにしろ、事件の真相を知る必要がある」

 篠さんの力強い言葉に、公史さんも深く頷いた。

「うん、わかってる。ただ、情報を全部垂れ流すわけにはいかないから、いつもどおりヒントで勘弁してくれよ」

「ああ。充分だよ」

 篠さんが、口の右端を上げる。そして、続けた。

「まず、一番気になるのが……被害者の村上さんが刺されたのは、背中だったよな」

 篠さんのその真剣な顔は、先程までとは違い、仕事をしている顔だ。

「うん、そうだ」

「だけど、おかしくないか。なんでわざわざ、背中から刺したりなんかしたのか」

「あ。そっか。村上くんは座席に座っていたわけだし」

 私はそう言いながらあることに気づき、思わず口に手を当てる。

「それに……しかも、シートベルトしてたじゃん!」

「なぎさん、気づいたな。……公史、ちょっと無理があるんじゃないか?」

「確かにそうだ。そのこともそうなんだけど、実は、いろいろと謎が多いんだ」

 公史さんが、自分の顎に右手を添える。ええ、その仕草もカッコイイです。

「でも、その謎はどうせ教えてくれないんだろ?」

 篠さんは、皮肉っぽく笑ってみせた。私はそれになんかムカついた。

「そういうなよ。大ヒントをやるから」

 公史さんは困ったように、眉をひそめて笑った。

「事件の起こった教習車の中を見せるよ。な、大ヒントだろ?」

「ひゃっほう。太っ腹〜」

 篠さんが子供っぽく喜んだ。適当なメロディ付きで。私はまた、それになんかムカついた。


     *


 公史さんに連れられ、私達は事件の起こった26号車の前に来た。

「敬太郎、触ったりするなよ」

「ああ、わかってるよ」

 運転席のドアは開いていた。まず、嫌でも手前の座席に目がいった。

「……血」

 私は眉をひそめ、目を細めた。

「なぎさん。あんまり無理すんな」

「いや、大丈夫です!」

 本当は少し具合が悪くなりそうだったが、気合いを入れて力強く言った。

 篠さんも、それに気づいてくれているのか、それ以上は言わなかった。

「……やっぱり、結構な血だな」

 篠さんが目を凝らす。シートには、飛び散ったように血がついていた。

「あれ」

 ふと、篠さんが声を漏らす。

「これ、血じゃないのも付いてるな。水か?」

「水?」と、私もちょっとだけ顔を前に出す。

 たしかに、水のような液体によってできた染みがあった。だが、それは血で出来た染みに混じって、あまり目立ってはいない。

「……あ。篠さん、あそこ。穴が開いてるんじゃないですか?」

 私が指差す場所には、まわりのそれよりも濃く浮かび上がっている太い線のような染みがあった。

 長さは大体3センチくらいか。

「少し、中の綿が出てるな。たしかに穴が開いてるみたいだ」

 そう言うと、篠さんは黙り込んだ。何かを考えているらしかった。

「ところで。公史、凶器は?」

「凶器となった刃物については今、詳しく調べている最中だ。だけど、指紋はついてなかったよ。拭いとったようでもないし、たぶん手袋でもしていたんだろうな」

 技能教習中は、指導員は白い手袋をつける決まりになっている。文乃の指紋が凶器についている可能性は、元からなかったのだ。

「他に、何か教えれそうなことがわかったら、おまえにも話すよ」

「悪いな。……とりあえず、こんなもんで充分だ。ありがとう」

 篠さんはそう言って、右手を顔の前に掲げた。

「いや、いいよ。敬太郎もがんばれよ。あと、和紗さんも」

 はぁっ! 公史さんに、ふいに名前を呼ばれ、私は心臓が飛び出そうになった。

「ごめんね。辛い思いさせて」

 公史さんは全く悪くないのだが、本当に申し訳なさそうにそう言った。ぶんぶん、と必死で短い首を振る。

「大丈夫です。私、信じてますから……文ちゃんのこと」

 公史さんのことも……と、付け加えたかったが、やっぱり恥ずかしくて言えなかった。こちらに会釈をした後、向こうへ去って行く公史さんの姿を、しばらくぼんやりと眺めていた。

「なぎさん? 口が開いているぞ」

 そして、篠さんの声で、無理矢理現実に引き戻されてしまった。


     *


「田中」

 公史さんの姿がほとんど見えなくなった頃、ふと自分を呼ぶ声に反応する。

 その声の持ち主を予想しながら、振り返る。

 ゴツイ体格。少々大きめの頭。……ああ。やっぱこの男か。

「藤田さん」

 その人は、私に近づくと大きな溜息をついた。

「……マジで、大変なことになったなあ」

 彼は、太い指でポリポリと頭をかいた。短い髪の毛に、指の先っぽが少しだけ埋まっている。

「藤田さんも、事件があった時、教習してたの?」

 そう尋ねたとたん、彼は大きなリアクションを見せた。

「おおよ! なんてったって、オレは里卯の車の後ろにいたんだぜ」

「へ! まじで」

 私もつられて、リアクションが大きくなる。

「事件が起こるまで、なんか変な様子はなかった?」

 すると、藤田さんは「う〜ん」と意味ありげに唸ってみせた。

「今思えば、ほら村上って結構上手いじゃん? アイツにしては……なんかイマイチな運転ではあったな」

「イマイチって? どういう感じだったの」

 つっこんで聞くと、ますます藤田さんの唸り声は大きくなった。

「う〜ん!……あれ、なんでオレはイマイチって思ったんだっけ?」

「知らねーよ。今、まさに、その口からの答え待ちだよ」

 そして、しばらく唸り続けた後、藤田さんが「あっ」と声を上げた。

「そういえば、やたらブレーキランプがついてたな」

「ブレーキランプはついてても、急ブレーキとかはなかったの?」

 私の質問に、藤田さんは短く「ああ」とだけ答えた。改めて見ると、彼の顔はいつもより青い感じがした。いつもの赤っぽい肌の色が、今日の曇り空の下では、そう見えてしまっているのだろうか。

 ……いや、違うな。この筋肉男も、今感じているものは、私と何ら変わりはないのだろう。

「はぁ、まったく参ったな……。里卯のことが、本当に心配だよ」

 そうだね、と、出た言葉は、思っていたよりもとても小さくて。背の高い藤田さんには聞こえ辛かったろうな、と思った。

「……あれ、田中。この人は?」

 まるで今まで、気づかなかったような言い方だ。いや、彼に限っては本当に今気づいたのかもしれないが。藤田さんの視線は、篠さんにあった。

「この人は篠敬太郎さん。教習生で、探偵だよ」

 私が紹介すると、藤田さんは「ああ!」と声をあげた。

「あなたが噂の探偵さんですか」

 噂だったらしい。

「どうも、はじめまして。篠です」

 篠さんは、藤田さんに会釈をした。

「篠さんは、あの時ちょうど私の教習を受けてたの。文ちゃんを助けてくれるって」

「本当ですか! よろしく頼みます」

 藤田さんが深々と頭を下げると、篠さんは恐縮そうに「いやいやいや……」と腕を振った。

「……じゃあ、オレ課長に呼ばれてるんで行きます。すみません。田中、また後でな」

 藤田さんの顔には、先程よりもほんの少しだけ光が差したようにも思えたが、去って行く後姿には、やはり今までに見たことのないような表情が浮かんでおり、私はしばらく言葉にならなかった。

「……なぎさん。今の、藤田ゴリラさんは?」

藤田大介ふじただいすけね。全然ゴリラ関係ねーから」

 この展開でか。冷静な表情で、そんなことを言う篠さんのせいで、私はものすごく変な気分になった。

「藤田・ゴリラ・大介さんの話していたことなんだが」

「ミドルネームっぽく、そんなモノ挟まないでください。一応、イッコ先輩なんだから、あの人」

「あの話は、なぎさんの専門分野だろ? 何か引っかかったんじゃないのか」

 そう言われ、私は藤田さんの話を思い出す。

「あの話って、ブレーキランプのことですか?」

 篠さんが真剣な顔で頷いたので、私も真剣に考えてみる。

「引っかかったっていうか……篠さんは、どんな時にブレーキを踏みます?」

「俺は……そこに、ブレーキペダルがあるから、だな」

「おお。そんな感性を持つ篠さんが、すごい遠い存在に感じる。……違うでしょ。止まりたい時、それか、減速したい時に踏むんじゃないですか?」

「それも一理あるな」

「その他があるというのですか」

 私は、とりあえず篠さんのことは無視することにした。その上で、もう一度真剣に考えてみる。

 村上くんは、藤田さんの話では車の運転は上手だったらしい。しかし、事件の起こる直前の彼の運転はイマイチだった。それは……一体何を意味するのだろうか。

「篠さん。私思ったんですけど」

 私は、一つの結論に達した。

「まず、村上くんについて詳しく調べるべきだと思います」

 篠さんは目を細めて私を見つめている。感心してるんでしょう。そうでしょう。まさか「それが結論?」とか言いたいわけじゃないですよね。てか、言わせませんから。


     *


 私達が事務所に行くと、弥生ともう一人の事務員と事務の課長しかいなかった。

 私の顔が見えると、弥生はカウンターから飛び出してきてくれた。

「和紗!」

 事件があってすぐ、弥生とは話した。……いや、正確にいうと、彼女は泣きじゃくっていてほとんど会話にはならなかった。とりあえずその時よりは、幾分落ち着いたようだった。相変わらず、その顔は真っ青だが。

「……弥生。警察の人は?」

「さっきまでここにいて、いろいろ聞いたりしてたけど。今はアドバイザー室に行ったんじゃないかな」

 弥生は、そう言い終えた後、視線を私の隣に移した。篠さんに、移した。すると、心なしか、弥生の表情が明るくなったように見えた。だから一瞬、私は篠さんと一緒にいることをからかわれると思った。けど、違った。

「篠さん。文乃のこと、助けてくれるんですね!」

 弥生と篠さんは、おそらく入校受付の時に話したくらいだろう。それにしては、弥生の口調は少し馴れ馴れしいな、とは思ったが。

 この時の、弥生の表情に。この時の、弥生の声に。心底、篠さんのことを頼っているのが。信じているのが。それが、惜しみもなく表れていて。おそらく篠さんにも、それが伝わったのだと思う。

「最善を、尽くしますよ」

 なんだか凛々しい顔の篠さんを見て、私はちょっとだけ背中がかゆくなった。

「弥生。それでさ、お願いがあるんだけど。村上くんのこと、詳しく教えてくれる?」

「なに? あんたは篠さんの助手?」

 私が改めて切り出すと、弥生は意地悪っぽく笑った。ようやく、彼女らしい表情が戻ってきたな、と私は嬉しかったが、あえていつもどおりに振舞った。

「いいから。早く〈教習生情報〉見せてよ」

「あたしにまかせろ。えーと、出た出た。まず何から知りたい?」

 弥生はあっという間に、パソコンの画面に村上くんの情報を表示させた。さすが事務員。さて、何から調べよう。

「じゃ、じゃあ。まずは生年月日と血液型から……」

「なぎさん。占いでもする気か。その辺はあんまり関係ないんじゃないのか」

「誕生日と血液型は王道でしょ」

「なんのだ?」

「……とりあえず聞くぐらいいいじゃないっすか。弥生、見せて」

 弥生から画面をぶんどり、村上くんの誕生日と血液型をとりあえずゲットした。

〈平成元年11月9日〉

〈A型〉

「……じゃあ、俺は、そうだな。村上さんは学生さんだったと思うが……どこの学校に行ってたのかわかりますか?」

 篠さんが尋ねると、弥生はパソコンの画面を見ながら得意気に答えた。

「もっちろん。緑大学ですね。ちなみに住所は矢田外やだがいで、学校の近くです。この辺は学生の一人暮らしが多いんですよねー。というわけで、村上くんも一人暮らし……と思いきや、住所がアパートではないのでおそらく実家暮らしですね。本籍も今と一緒だし」

 やるな、おまえら。

「例えば、同じ大学に通っている生徒とかはわかりますか?」

「すぐ検索して調べられますよ。ハイ、どん!」

 弥生の掛け声とともに、教習生の名前が画面にずらーっと表示された。

「……多くね?」

 私は思わずそう言ってしまった。だって、軽く百人は超えていそうだった。

「あ、ごめんごめん。絞るわ。えーと〈1・在校〉と」

 弥生がキーボードを叩くと、今度は約20人程の名前が出てきた。

「この人達が、現在もこの教習所に通っている緑大生です」

 弥生は篠さんに言ったのだろうが、構わず私は篠さんの前に割り込み、画面を独占した。

「なぎさーん」

 篠さんの小さい声が聞こえてきたが、気にしない。

「この中で……3、4、5……6人の教習したことあります。中でも、相川翔太くんと、桂木沙耶香ちゃんと、与田花子ちゃんはよく教習するかな。そういや、緑大って言ってたっけ」

「村上くんと同い年なのは……相川くんと、与田さんだね。二人に聞いてみれば村上くんのことももっとよくわかるかも」

 なるほど……と、篠さんは私達の話に頷いてくれた。

「よし! なぎさん、この二人と連絡は取れそうか?」

「いや。言われなくても、今、電話かけますって。そう、あせんないでくださいよ」

 私は、ぶっきらぼうにそう言った。篠さんはちょっとだけ、シュン、としていた。

「相川くんと与田さん、二人とも大丈夫だって。さっき篠さんが言ってた場所に来れるって」

 事務所の受話器を置き、私は篠さんにそう告げた。

「そうか。これで何か少しでも気になる話が聞ければいいな」

「……あ、そういえば……弥生。一個気になってることがあるんだけど。いい?」

 私は、今までとは少し違い、慎重に弥生に切り出した。

「なんで、今日の三時間目は文ちゃんが村上くんの担当だったの?」

 ふと、弥生の表情が曇った。

「あれね……。なんか、今日村上くんが『あと一時間だけでいいから、どうしても里卯さんの教習が受けたい』って懇願したらしいよ。本当、私がいればそんなことさせなかったのに……」

 弥生が辛そうに言葉を絞り出す。

「じゃあ、やっぱり他の人が作った配車だったんだね」

「もちろんだよ。まるで私がいない時を狙って来たみたいだった」

 弥生の目つきが鋭くなっている。

 なんだか、私が睨まれているような気分になって、思わず肩を竦める。

「……ありがとう、弥生。他に弥生自身が気になったこととかはない?」

 私が言うと、弥生はすぐさま答えた。

「村上くんと言えば、実は私、今日朝一で会話したんだよね。教習所の冷凍庫貸してくださいって」

「冷凍庫?」

「なんか、来る途中に友達からアイスを貰ったから冷やしたいって。だけど、ちょっとびっくりしちゃったよ」

 村上くんがそんなことを頼んでくるなんて、確かに珍しい、と思った。

 篠さんの方を見ると、彼も少し気になっているようだった。なんとなく、そんな表情を浮かべていた。

 私達は、改めて弥生にお礼を言い、事務所を後にした。

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