ドライヴ〜密室の教習車〜
鮭田やいり
はじめまして、田中です。
*
自分が欠陥人間だということは重々承知ではあるけれど、最低一日に一度それを、再認識することができる。
そう、朝を迎えるたび。
時々。
どうして、私は生まれたんだろう。
どうして、生きなきゃいけないんだろう。
そんな風に、思ってしまうことすらある。
目を開けて。
体を起こして。
顔を洗い、髪を洗い、体を洗い、歯を磨き。
目も欠陥品だから、コンタクトレンズを装着しないといけないし。
髪も無駄に長いから、天然のストレートに若干救われつつも、最低でも半乾き程度までにはもっていかないといけないし。
女だから、社会人だから、化粧もしないといけないし。
大人だから、制服に着替えて、仕事をしに会社に向かわなきゃいけない。
しかも、それをものの一時間でこなさないといけない。
通勤時間は車で25分だから、逆算して……。
無理じゃね?
いや、これが不思議と大丈夫なのだ。
むしろ、どんどん時間で、自分自身を追い込んで。
キビキビ動けばあと5分短縮できる、とか。
Mだっただろうか私は、というぐらいに無茶な指令を自分に出してみたりなんかして。
そして、車の中で運転しながら「もっと早く起きれば良かった〜」と後悔。
これがなんと、ほぼ毎日繰り返されるのだから、自分で自分に脱帽したくなる。
よくぞここまで。
嗚呼、学習しないダメ人間。
*
なんとか、今日も遅刻せずに会社にたどり着くことはできた。
社会のルールの線を越えることだけはできない私。威張れるレベルではないけど。
事務所の脇に行き、自分のタイムカードを探す。
さあ、今日も出勤しましたよ。
カードを機械に差し込むと、ガチャン、と音がする。
うん。いよいよ今日も始まってしまった。
私が小さく溜息をついたその時、事務所のカウンターの中から、雑巾を握り締めた女が出てきた。
「和紗、おはよー!」
茶色の長い巻き髪を揺らし、細身の癖になぜか肉付きの良い腰を揺らし、かかとの高い靴を鳴らしながら私に近づいてくる、この女。
バッチリとキマったメイクで、妙に愛嬌のある笑顔ができる、この女。
彼女は掃除中にもかかわらず、わざわざ私に朝の挨拶をしに来てくれたのか。
いや、よく見るとなんだか変な笑みを浮かべている。
弥生がこの笑顔を浮かべる時は何かを企んでいる時だ。
彼女との今までの付き合いから私はそれが手に取るようにわかった。
案の定、というか。
弥生は、雑巾を持ったままの手で私に耳打ちをしてきた。
「くさっ!」
「和紗、今日の3時間目の教習、楽しみにしててねっ」
「……え? 何。どういうこと」
と、私は弥生の方に顔を向けたが、その瞬間視界を支配した汚い雑巾にたじろぎ、機敏に仰け反った。
私達の勤め先である、ここ〈緑野ドライビングスクール〉は、ある地方の小さな指定自動車教習所である。
私はまだ一年目の新米教習指導員で、弥生は事務員だ。
弥生は配車の仕事もしているので、私が何時間目にどんな教習生を担当するのか……ということも彼女の手中にあるのだ。
それはともかく。
「3時間目って?」
「あのね、昨日入校したおもしろい教習生をあんたに入れといたの」
弥生はなぜか雑巾を手放さない。
それどころか、先程よりもさらに力を込めて握り絞めている。
汚い汁がたれそうで、ヒヤヒヤする。
「おもしろい教習生ってなによ。場合によっちゃ失礼にあたるかもしんない」
私が冷静に言うと、弥生は目を輝かせて声を弾ませた。
「いやいやいや。和紗、絶対ビックリするから。なんとね、探偵だってよ」
「探偵?」
私には、テレビやマンガやゲームの中でしか見ない、その職業がいまいちピンとこなかった。
「……え、でも普通免許でしょ。若いの? その人」
「28歳」
「大人じゃん!」
28歳といえば、22歳の私(と、弥生)より単純に6つ年上だ。
「もしかしたら〈丸免〉じゃない? わかんないけど」
弥生のいう丸免とは、この職場の隠語のようなもので、もともと免許を持っていたが何らかの理由で失ったため、再度免許を取りに来ている人のことだ。
「丸免かあ。楽でいいかもな。まあ、人によるけど」
私は、弥生の企みのレベルの低さに、少しだけホッとしていた。
………。いや。まだだな。
弥生は、先程よりももっと嫌ぁな笑顔をしている。
私は、警戒しながら尋ねてみた。
「一体、何を狙ってる」
「んふふ! 内緒」
不愉快、極まりない。
正直、探偵という珍しい職業に興味が全くないわけではないが、私は今まで教習生に興味を持つことがなかったので……つまり、そういう意味になるわけだ。
まあ、公私混同しないってヤツ?
ただ単に、好みのタイプがいないだけの話なんだけど。そういうもんです、私も所詮オンナ。
「和紗。弥生。朝礼始まっちゃうよ」
ふと、背後から聞き慣れた声がした。
私が振り向くと、そこには。ゆるいボブ、柔らかい笑顔。小柄な体系の女子。
私と弥生より、年齢は1つ上のはずだが、3人でいると逆に彼女だけ年下に見られることも多い。
童顔で幼い雰囲気だが、文乃も私と同じく教習指導員である。
ん。あれ……朝礼?
周りを見ると、もう他の社員はいなく、どうやらみんな朝礼の行われる教室に向かったらしかった。
のんびりとした文乃のその声からは、あまりヤバさは感じ取れないが、実はかなりヤバイ。
私達3人はダッシュで、その教室に向かった。
微妙にアウトだったらしく、校長に少し睨まれてしまった。
*
相変わらず独特の匂いがこもるここは〈アドバイザー室〉。
古い建物の匂い。汗の匂い。煙草の匂い。それらが絶妙の配分で混ざり合っている。
約20人程いる指導員の中で、女性の指導員は私を含めてたったの5人。
つくづく、男の職場だな、と思う。
このアドバイザー室は、教習指導員全員分の机があり、私達が教習以外の仕事をする場所だ。
朝礼後、私は自分の席で、今朝配られた今日の配車表(教習生やその教習段階が記載されている日程表)に目を通していた。
3時間目の教習生の名前に注目する。
彼が、弥生の言っていた28歳の探偵だろう。
「和紗」
私は声が聞こえた方向に、顔を向ける。
隣に立った文乃が、私の持っている配車表を覗き込んだ。
「その篠さんって、すごいかっこいいんでしょ?」
「えっ、そうなの? つーか文ちゃん、何で知ってんの」
「昨日、弥生から聞いたんだ。おもしろそうだから、和紗とくっつけるって言ってたよ」
それか。弥生のあのイヤラシイ笑顔の理由は。なんとなく想定内だっただけに余計いただけない。
「あの女。私で遊びやがって」
私は苛立ちを拳に込め、そしてそれを握り締めた。
「良い人だといいね、篠さん」
文乃の笑顔を見ると、自分の荒立っていた感情が少し穏やかになった気がした。
こういうのを、癒し系、っていうんだろうな。
「でも28歳で普通免許ってのがちょっと怪しくない?」
私が言うと、文乃は笑った。
うーん。女の私から見てもカワイイ。
「……和紗、聞いて」
ふいに、文乃が不安そうな声を出したので、私は少し驚いた。
「どうしたの?」
「あのね。またあの子の教習入ってるの。村上くん」
「マジで」
文乃が不安がっている原因を聞き、私はすぐに納得できた。
「……でも、弥生になるべく入れないようにしてもらってるんじゃなかったっけ」
「そうなんだよね。なんでだろ。別の人が作ったのかな、この配車」
浮かない表情の文乃。私は、少し心配になる。
文乃が、その村上という教習生を嫌がるのにはそれなりの理由があった。
彼のフルネームは、
私は初めて彼を見た時、自分のタイプでは全くないが〈正統派の美男子〉という印象を持った。
色白の肌に、二重のくっきりとした目。長めの黒髪は動くたびサラサラと揺れる。
一方、彼は非常におとなしい性格で、いつも一人で行動していた。だがその風貌のせいもあり、教習所の中でも妙に目立っていた。
そんな村上くんのことだから、初めて彼の教習をした後の文乃の話を聞いた時、私はとても驚いた。
……かなり、しつこく口説かれたらしい。
もともと、天然ボケで幼く見える文乃は、男子学生にからかわれたりすることが多かった。
私がそういう色恋沙汰的なものは皆無だったので、余計にそう見えたのかもしれないが。あ。自虐的。
それにしても、彼のその口説き方は異様だった。
文乃は、男の人とあまり交流を持たずに育ってきたため(私も人のことは言えた立場じゃないけれど)、ただでさえどうしたらいいのかわからないというのに。
村上くんのその異常なアプローチには、文乃は驚きを通り越して恐怖を感じてしまったらしい。
それを聞いた私ももちろん、笑って済ませることなどできなくて「どんだけだよ!」と、思わず叫んでしまったことを思い出していた。
「……文ちゃん、大丈夫? もしあれなら代わろっか?」
私は、気づいたら自然とそう言っていた。
すると文乃は、ずいっと右手を私の方に押し出してきた。
「ううん、いーよ。大丈夫。がんばってみる」
「ほんとう?」
「うん。だってそれに、村上くんが入ってる3時間目は、和紗は篠さんの教習しなきゃいけないもん」
「いや。それは全く義務ではないから」
1時間目の予鈴が鳴る。
私と文乃は、教習車が並んでいるエントランスの方向に向かった。
文乃が無理をしているのは明らかだったが、私が出しゃばることでもない、と思っていた。
だから、笑顔で手を振って教習車に向かう文乃に、私も笑顔で答えたんだ。
*
意識しない、わけがない。
あれだけ、弥生や文乃にあんなことを言われてしまうと、いくら私でも妙に緊張してしまう。
すでに本日の教習は、二時間目まで終了してしまっている。と、いうことは。ですね。
今、教習車に向かえば、例の探偵〈篠敬太郎〉という男がいるわけです。
『すごいかっこいい』?
『すごいかっこいい』??
文乃が先程さらっと言っていた言葉が、今頃になって私の頭の中でリピートされる。
私はなんとか冷静を装い、自分の担当車である22号車に近づく。
車の窓から少しだけ見えた彼は、顔こそよく見えないが、背が高そうな男だった。
無意識に、唾を飲み込む。
そして、勢いよくドアを開け、運転席に乗り込んだ。
「こんにちは。はじめまして、田中です」
私はお決まりの挨拶をしながら、助手席に座っている男を凝視した。
どちらかといえば長めの黒色の髪。奥二重で形の良い整った目。あっさりとしていて、全体的に爽やかな顔立ち、ではある。
カッコイイか、そうじゃないか、と聞かれれば、まあカッコイイ方だろうか。
「どうも。はじめまして」
男が、軽く会釈する。
「篠です。よろしくお願いします」
なんだ。私のタイプではなかった。
でも、これがモロ好みだったりなんかしたら、もはや教習どころではなくなってしまうかもしれない。
私は、ほっとしたような、ちょっとガッカリしたような。複雑な乙女心を抱えていた。
それでも気持ちが少し軽くなった私は、いつもの調子で教習を始める。
「じゃあ、教習原簿を貸してください」
それを篠さんから受け取り、広げる。技能教習は配車表どおり三回目だ。
「前の教習が、実車は初めてだったんですよね。どうでした?」
「うーん。どうって……普通ですね」
はい、でた。
この〈普通〉という言葉が一番アヤシイと、私は思っている。
すごく上手いか。すごく下手か。
大体このどちらかで、本当に普通だったケースはほとんどない。
まあ、たぶん丸免だしな。一人で納得してみたぐらいにして〈導入〉を続ける。
「じゃあ、トレーチャーは?」
トレーチャーとは、MT(マニュアル)免許の技能教習の一時間目にやるシミュレーションのことだ。簡単にいうと、MT車の模擬運転装置である。
「あ、エンストしました」
「そうですか」
私は笑ってみせた。まあ、よくある〈つかみ〉のような会話でもあるのだが。
「はい、30回程」
「多いな」
おそらく、私の顔から笑顔が消えた。
この男、ちょっと読めないな。私は篠さんの表情を確認してみる。淡々とした口調どおりの、クールで尚且つとぼけた表情。
私達指導員には、教習生の性格などを踏まえた上での教習が要求される。
例えば、神経質な人は、小さな失敗を気にしやすく、自信もなくしやすい。そういう人の場合はあえて思い切って速度を出させ、それにどんどん慣らしていく。
自分をかっこよく見せたがる人は、知ったかをしたり、言い訳がましいところもある。早い段階で、道路のルールや減速の必要性を強調することが大切である。
と、いった具合だ。
教習生にはあらかじめ〈運転適性検査〉を受けてもらい、教習原簿にはその結果が記号で書かれている。
それを参考にするのはもちろんだが、やはり実際に話したり行動を見てみないと、それぞれの教習生に合わせた教習を行うことはできない。
だから、私には会話のつかみとなる、持ちネタが数個ある。それで教習生の性格を判断するのだ。
今回は、篠さんが丸免である、と考えた上で持ちネタの引き出しを探る。
「篠さん、マリオカートとか得意ですか?」
「ああ。まあ苦手です」
アレっ。丸免なら、大抵「得意です」とか「いや、あれは実際の運転とは全く違うんでしょ?」といった答えが返ってくるのだが、篠さんの場合は少し違った。
「……大丈夫ですよー。あれは実際の運転とは全く違いますし。むしろ苦手な人の方が、実際の運転の飲み込みは早いと思いますよ」
篠さんから待っていたはずの回答を自ら言うハメになった。
気を取り直して次の作戦に移る。
「お。篠さんって28歳なんですか」
「はあ、年ばっかとっちゃって。田中さんは何歳なんですか? 若そうですね」
「22っすね」
作戦名『ナメさせて落とす』!
私は、運転技術には絶対の自信がある。指導員の資格を取る際に、必死で練習した成果だ。ちなみに、運転技術の科目には一発で合格した。エヘン。
「へー。スゴイですね。そんな若いのに」
おや。あんまナメられてねえや。
結局、篠さんの人物像が全く理解できないまま、教習の導入部分は終わってしまった。
ただ会話はわりとスムーズに運んだので、そこは安心していた。やはり、初対面の教習生には、無条件で緊張するものだ。
私は、篠さんと運転を交代する為に別の場所へと車を走らせた。
*
「それじゃ、篠さん。交代しますね。降りたら車の周りを一周して、発進してもいいか確認してください」
「何を確認するんですか」
「ん。猫とかいないか」
篠さんは、言われたとおりに車の下や周りを丁寧に確認して、運転席に乗り込んだ。忠実だな。
そして、座席の位置やミラーを直す篠さんの様子に、驚愕した。
たっ、たどたどしい!!
おかしい。もしかして……丸免じゃないのか?
私の表情は、自然と曇る。
「そ、それじゃあ。まず前回のおさらいもかねて、ここで発進の練習をしてみますか」
「はい。がんばります」
がんばるんだ……。
『ギュイイイイ〜ン!!』
「篠さん、ニュートラルじゃ発進は無理ですよ。車はがんばれませんよ」
『ガッコン!!』
「足離しちゃダメっすよ」
『ガッ、ガッ、ガッ、ガッ』
「篠さん、落ち着いてください。エンジン止まっちゃったし、クラッチも踏んでないのにギアかえれないですよ」
『ブイイ〜ン! ガッコン!!』
……これは……。丸免じゃねええ!!!!
「……篠さん、免許取るの初めてです……よね?」
「そりゃそうでしょ」
「まあ、そりゃそうなんすけど」
結局、発進と停止の練習で教習の大半の時間が過ぎてしまった。私は思い切って言い放つ。
「篠さん、残念ですけど……延長しますか!」
「ええっ! 俺、仕事の合間をぬって来てるんですけど」
「いや〜。でも、まず発進の練習をもっとたくさんやってからじゃないと、この先キツイと思いますよ」
「そこをなんとか、田中さん」
「いやいやいや」
「和紗さん」
「ファーストネームはよしてください」
「なぎさん」
「省略するなっ」
その時、突然女性の悲鳴が聞こえた。
「……なに?」
周りを見渡す。
「なぎさん! あの車」
篠さんの指差す教習車を見た瞬間、肌が風のない空気に撫でられざわざわとした。私達からはその運転席が見える。
ハンドルに覆いかぶさっている教習生に、何か……おそらくナイフが刺さっている。そして、そこからは血が……。
「26号車……!!」
文乃の、教習車だった。
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