第二十六話『それぞれの戦い』


 白と灰色の狼数十頭が光球の明かりの下、疾走する。目指すは一点。この暗闇の空間には似つかわしくない、水色と白のエプロンドレスをその身に纏う黄金色の髪の少女。

 狙われていることに気付いていないのか、それとも足が竦んで動けないのか、少女は未だその場所から動こうとしない。あまつさえ、手には悠長に日傘なぞ握っている。


 良いカモだ。その綺麗な喉笛、一息で噛み砕いてやる。


 群れを率いる一頭はそのように考える。人を食うときはいつもそうだ。ひ弱な人間など自分の牙を用いれば容易く息の根を止めることができる。向こうだろうとこちらだろうと変わりはしない。人間の殺し方など、どこだろうと同じだ。

 

 そう考えた瞬間、狼と少女の距離は一足飛びに縮まる。狼にとって数十メートル程度の距離。ないも同然だ。

 不意を突かれた人間はさも動揺し、倒れるように後ろへ逃げる。そこをすかさずガブリ、だ。ほれ、もう温かい鮮血が飛び散――


「――――はっ」


 狼はそのかけ声の意味がわからない。自分は少女の首に噛み付いたはずだ。なのに何故――まだ声が出せるのだ。




 アリスはその白亜の足を、円を描くように振り上げる。人間の身体能力では体現できぬ恐るべき速度で振り上げられた右足は、弾丸のごとく飛び込んできた狼の横っ面へと見事に入り、走ってきた以上の距離を転がっていく。

 だがそれで終わりではない。戦闘を切った狼に追随するようにアリスの白い首元に食らいつかんとする狼供が次から次へと迫ってくる。

 アリスはそれらを蹴りや日傘で応戦、時には身を逸らし回避していく。

 だが、その華麗な動きも次第に狼の圧倒的物量に押され始める。


「くっ……、猪口才な」


 言ってアリスはおもむろに日傘を開く。



『   雨雨降りやめ 別の日に降れ

    ジョニーが遊べるように

    雨雨スペインで降れ

    ここでは降るな         』



 アリスが詠唱を終えた途端、傘が何倍もの大きさに変化する。

 飛びかかる狼はまるで突風に飛ばされるくず鉄のように傘へと当たり、キャンキャンと当たりに投げ出されていく。

 そしてすかさず――、



『   ハンプティ・ダンプティ塀の上

    ハンプティ・ダンプティ落っこちた

    みんながどんなに騒いでも

    もう元には戻らない

    二度と元には戻らない        』



 詠唱を終えたアリスはおもむろに、巨大化した日傘を中空へと投げる。

 くるくると回転する巨大な日傘は、その内側から人の大きさほどもある卵をいくつも落とし、散らばった狼たちの頭上に降り注ぐ。

 特撮ヒーローのような爆発が闇夜を照らし、熱帯夜をさらに熱く焦がす。

 だがそれも束の間。


「ッ――――」


 すんでのところで回避したアリスの頬を、何かが掠めていく。

 それは鷲。

 鳶色の弾丸がアリス目掛けて一斉に襲ってくる。


「っ――、次から次へと」


 アリスは後ろに飛び退き回避を試みる。

 だが、鷲の群れはアリスの動きに追従し、どこまでも少女の肉を掠め取ろうと殺到する。


「くっ……」


 アリスも手元に戻った日傘で対抗するが、一匹一匹が重く、さらに狼よりも数が多い。直撃は避けてはいるものの、全てを捌くことは不可能。次第にその許容量を超えていき、アリスの肌は生傷が増えていく。



『   火をおこしてパンを焼こう

    ローストマフィンを作りましょう

    火をおこしてパンを焼こう

    みんなでお茶を飲みましょう     』



 アリスは再び詠唱する。

 それは火の童詩わらべうた。再び広げた日傘から灼熱の炎が吹き荒れる。アリスを穿たんと殺到する鷲たちは炎に飛び込む形となり、さらっと焼き上げるセルフ焼き鳥のできあがり。

 だがやはり、そううまくいくものでもない。

 先頭を飛ぶ一団は丸焼きにできたが、後から飛んでくる鷲は前の鷲たちによって弱まった炎を軽く抜けてくる。


「くっ……」


 アリスはもう一度炎を繰り出すが、やはり先ほどと同じ。効果はあるにはあるのだが、如何せん数が多すぎる。


「……ならば――」


 そう言うとアリスは地面を強く蹴る。

 あたかもそれは、飛翔する白鳥のごとく高く宙へと舞い上がる。

 だがいくらアリスが高く跳ぼうとも、本物の鳥には敵わない。

 鷲はすぐに、進路をアリスが浮かぶ上空へと切り替え、あっという間に殺到する。


「かかったな!」



『   ポリー やけんかけといて

    みんなでお茶を飲みましょう

    スーキー やかん持ってきて

    すっかりお湯が沸きました    』



 次に出すのは白き焔。炎によって熱せられた白亜の蒸気。

 アリスは蒸気の奔流を、地上から迫り来る鷲の大群へと向ける。

 それはさながら、山岳奥地を流れる秘奥の滝。

 蒸気の滝は次々迫り来る鷲の大群を丸ごと呑み込み、蒸気が霧散する頃には跡形もなく蒸発していた。


「焼き鳥はおろか、炭すら残らなかったか。次は燻製で試してみるか」


 傘を広げ、アリスはふわりと地面へ降り立つ。

 その様子を、一人大樹の前に立つ魔女が細めた視線を注がせる。


「ふむ……。さすがは噂に名高き【妖精】『不思議の国のアリス』だ。あの程度の有象無象では千集まろうと相手にならぬか」


「ああ、そういうことだ。理解できたのなら、そのつまらぬ儀式とやらを止めにして、わたしの相手をするがいい。でなければ、うっかりその邪魔な樹を切り倒してしまうかもしれんぞ?」


 ニヤリと、アリスは挑発するように傘をちらつかせる。

 だが魔女に動揺した様子は見られない。


「そう急くでない。物事には順序というものがある。我の相手をしたくば、次はこれを倒してみるがいい」


 言って魔女は、再び天鵞絨の袖を振る。


「ふ。何が来ようと、獣程度では相手にすらなら――」


 アリスは思わず言葉を切る。

 不思議を力とするアリスですら言葉を詰まらせてしまう異形が、その場に影を落とす。


「これは……」


 ズシンと、前足が地面を踏みしめる。

 一歩、また一歩と歩みを進めるごとに、大地は恐怖に身を震わす。

 背面を覆う緑色の鱗に、長く剥き出しの牙。黄玉を裂いたような瞳に、わずかに捻れた角。そしてなんと言ってもその翼。自身の体長を優に超えるほどに広がる、大きく勇ましい双翼。

 その姿を、アリスは知っている。直接目にしたことはないが、その姿はどの国の伝承でも語られる。だがそれは、いずれも空想上のものとして存在する、実在し得ない生物だ。おとぎ話の中ですら空想とされる存在。



 その『竜』という生物は――。



「GOAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA――――」


 思わず耳を覆いたくなるほどの雄叫びが、空間ごと鼓膜を震わす。


「さぁ、第二幕の開演といこうではないか」


 魔女は杖を振るう。するとドラゴンは翼を羽撃かせ、臨戦態勢へと移行する。


「……ほんとうに、この世界は面白い……ッ」



   *******



「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!」


 こちらでも雄叫びが轟く。

 場所は校舎昇降口前。タイルの床によってグラウンドより隔絶されたこの場所で、四つの影が交錯していた。 

 その一つ。山のように盛り上がった筋肉をその身に纏う巨漢が、雷鳴のような雄叫びをあげ、自身の背丈ほどもある鋼鉄の斧を振り下ろす。

 さきほどの雄叫びが雷鳴と言うのなら、今振り下ろした一撃はまさに雷そのものか。タイルの床は爆弾が弾けたかのように砕け散り、その基盤ごと抉り出る。


「っはっはッハ! いいゾ、ソコだ! それデこそボクノ【妖精】だ! それでコそ僕のチカラだ!」


 大男の遙か後方に控える制服姿の男子生徒――杏の後輩がその一撃を見て高らかに叫ぶ。

 だが、その一撃を傍で体験するもう二つの影は、何故かため息を漏らす。


「はぁ……。面倒ね」


 杏と、そのパートナー桃太郎だ。

 杏と桃太郎は大男の一撃をすんでのところで躱し、大男から距離をとる。

 その場面だけを見て取ると、この剣士二人がいかにも絶体絶命の状況のように陥っているように見えてしまうが、実のところそんなことは決してなく、むしろ避けることすら手間と思えてしまうに余裕があるのだ。

 その証拠に、降りかかるつぶての雨をその手に持つ刀で弾きながらの回避だ。直後についたため息からもわかるように、死の淵に立っているにも関わらず非常に余裕といった具合である。


「そう言うな、アン。一応、あの程度の攻撃でも受ければ即死は免れない」


 気を引き締めるよう提案する桃太郎だが、その彼も杏の方へ視線を移しながらの回避である。そのくせ掠りもしなければ礫の雨も彼を襲わず逸れていく。


「そうは言うけどね」


 軽く回避する二人に、大男は続いて二撃目を放つ。今度は真一文字に切り裂く横薙ぎだ。

 風圧だけでその空間を切り裂かんとするほどの衝撃を大男は放つが、二人はそれも難なく躱す。


「ただの大振りの繰り返し。何の技巧も業もない。赤ん坊の方がまだ良い振りをするわ」


 魔女に操られているせいか、大男の一撃には何の技術もない。仮にも【妖精】であるのならば斧に関して何かしら謂われのある者なのだろうが。だが魔女の魔法によって理性を失っている影響か、その技巧はなりを潜めている。


 一向に当たらぬ事に業を煮やしたのか、大男は二人を同時に狙うのを止め、杏へとその狙いを定める。


「だからと言って――」


 刹那、銀色の煌めきが振り上げた大男の腕に滑る。

 次の瞬間、大男の両の腕は吹き飛び、鮮血が辺りを濡らす。


「ひ、ヒィぃいいい!」


 ぼとぼとと腕が地面を跳ね、一つが後ろで騒ぐ後輩の足下へ落ちる。

 大斧も地面へと転がり、その場は鮮血の雨音で静まりかえる。

 だが――、


「G…………、GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!」


 その雄叫びに合わせるように、大男の肩口からはもこもこと肉が膨れ上がり、あっという間に腕ができあがる。


「これではキリがない」


 腕を切り裂いた桃は呆れ気味にそう呟く。


「あの魔女、とんでもない改造を施したようね。【騎士】のクラスには魔法に対して幾分かの耐性があるはずなんだけど、それをものともしないとはね。さすがはおとぎ話を代表する呪いの使い手ね」

「言ってる場合ではないぞ、アン。あれをどうにかしなければ、ケリのつけようがない」


 杏は思案する。首を刎ねればとも考えたが、それは昨日桃が試している。あの時は消滅を確認しているはずだが、それでもこの大男は復活した。二度目があるか現状はわからないが、腕の再生がこれほど早いのだ。おそらく、首を刎ね飛ばしても結果はさほど変わらないだろう。


「なら、考えは一つね」


 言って杏は、遙か後方で尻餅をつき何かを喚いている後輩の方を見る。



「ン?」


 瞬きはしていなかったはずだ。

 だが後輩の瞳からはとある人物が消え失せてしまった。

 自身においても最も重要な、警戒すべき人物。何をもってしてでも倒さねばならない、悪しき女。自身を馬鹿にし、扱き下ろしたあの女にボクは優秀な人間なのだと証明せねばならない。

 幸いなことに、ボクには力がある。今のボクには全てを破壊する力があるんだ。これをもってすれば、何もかもメチャクチャにできるはずだ。そうだ。全部破壊するんだ。ナニモカモ。気にくわないものも、そうでないものも、ゼンブ。

 あれ? どうして、そんなことを? あれ? そうか。そうだ。あの女が悪いんだ。だから壊すんだ。ゼンブを。ボクを。ボクの、力で。

 でも、その女が目の前からいなくなっちゃ、コワセナイじゃないか。

 あの女は、どこに――、


「――――っ」

 気付いた時には、後輩はすでに地面に組み伏せられていた。

 音もなく、気配すらなく、相手の視界の外へと瞬時に移動する。中国に伝わる仙術「縮地法」と剣道における「摺り足」を組み合わせた独特の歩法「忍び足」。

 天正の時代より伝わる『鬼瀬四十七流』の業の一つである。

 そうとも知らず、首に刃をあてがわれ自由を奪われた後輩はようやく事の事態と探していた人物が目の前にいることに気が付く。


「おとなしくしなさい。少しでも動けば、アナタの首が真っ赤に染まることになるわよ」

「あ、あ……」


 後輩は眼球をぐりんぐりん上下に動かし、杏の貌と自身の首を冷やす小太刀を忙しなく交互に見る。


「その本を渡しなさい。それがあの大男との契約を結ぶ『原典オリジン』だってことはわかっているわ。大人しく渡すならよし。渡せないと言うのなら――」


 言って杏は小太刀に力を込める。刃は本の僅かばかり後輩の細い首を傷付け、一筋の血を流させる。

 すかさず後輩の瞳は首筋を流れる血を追いかける。


「これは警告よ。もし聞き入れられなければ、さっきも言ったように、あなたの首に真っ赤なお花が咲くことになるわ。どうするべきか、ちゃんと考えて――」


「あ……、あぁ……」


 杏はそこで、思わず言葉を切る。後輩の口から、汚泥のような声が漏れる。


「あぁ……――、はぁ――――っはハハハッハハハハッハハハハッハハハハッハハハッハハハッハハハハハ」


 後輩は突然けたたましく嗤い出す。眼球は瞼から跳び出さんばかりに剥き出し、ガタガタと歯が不規則に鳴り響く。


「な、なに――!?」


 急に豹変した後輩に、杏は思わず慄いてしまう。なによりも、痙攣したように全身を震わせる後輩に刃が食い込むのを恐れ、僅かにその手を緩めてしまう。

 それが仇となった。

 偶然か狙ったのか、杏が力を緩めたその好きをついて、後輩が刃を握る。


「ちょ――」


 何の躊躇いもなく握られた杏の小太刀はすぐに血が滴り、地面を濡らしていく。

 だが後輩はそんな自身の手を気にする素振りすら見せず。


「会長ぉ~~~~……。ようやく見つけマシタよ~~~~」


 首をぐりぐりと捻りながら近づいていくる後輩の異様な姿に、すっかり気圧されてしまったのだろう。

 書物の上にかざされる後輩の手に、気付くのが遅れてしまう。


「しまっ――」


「『雷よ』」


 鋼の刃を伝い、閃光迸る雷撃が杏を襲う。



「アンっ――――」


 そしてそれは、パートナーにも伝播する。


「っ――――」


 杏を気にしたたった一瞬の隙。

 その隙を突いて、大男が桃へと迫る。

 全てを投げ捨てた渾身の突撃。

 三メートルを超える巨体の全体重が乗った突進に、一瞬の遅れが仇となる。

 桃の細身の身体は校舎の壁へと叩きつけられ、立ち昇る噴煙に消えてしまう。




   *******




「八重」


 黒衣はそう一言呟いて、その扉をくぐる。

 昨日見た【逢魔時】は昼間だったせいか、空から降り注ぐ乳白色の光によって空間全体が黄昏色に染まっていた。だが今は夜。月の存在しない漆黒の空からは波のような瑠璃色の光が降り注ぎ、誰もいないこの空間を浅葱色で満たしていた。

 そんな光注ぐ海底が如し廊下を走り、黒衣はとある教室の前で立ち止まった。


 扉の上方に吊り下げられた表札に、黒衣は見覚えがあった。

 そこは一見するととても似つかない。窓ガラスは割れ、破片は辺りに散乱し、理路整然と並べられていたはずの机はバラバラに散らばっている。極めつきは、黒板の前に広がる真っ暗な奈落。覗けば深い闇へと続く、深淵の落とし穴だ。

 だがそれでも、確かに名残はある。

 たった三ヶ月。たった三ヶ月だが、そこにある物々は確かに見覚えのある物ばかり。机の傷やロッカーの忘れ物。黒板の端に書かれた日直の名前。

 春から三ヶ月。高等部へと進級した黒衣がほぼ毎日通い続けた教室――1ー2の教室。


 そこの窓際に、八重は一人佇んでいた。


「クロ……」


 名前を呼ばれた八重は、窓の方へ向けていた視線を黒衣へと移す。

 青みがかったこの空間の所為か、今の八重はとても落ち着いているように見える。

 だがそれが返って、黒衣の焦りに拍車をかける。


「ここ、……だったんだな」

「……うん」

「よかった。とにかく、ここを出るぞ。さっきも言ったが、ここはお前がいていいような場所じゃない」


 そう話しかける黒衣だが、八重はどこか心ここに在らずといった様子で。八重を狙う狼の襲来を恐れ焦る黒衣に、杏は応えようとしない。


「八重。今はこんなところでのんびりしている場合じゃないんだ。今お前のことを狙って狼が――」


「クロとは、ずっと一緒でしたね」


 説得する黒衣に、八重は何の脈絡もなく、そう問いかける。


「急に、何だ?」

「クラス替え」

「……ああ」


 何を言うのかと思えば、そんなことか。

 確かに黒衣と八重は小学一年生の頃からずっと同じクラスだった。小学校六年間もそうだし、学園に入って最初の三年間――あの夏の日以来話す機会の減ってしまった中等部の頃も、八重とはずっと同じクラスだったはずだ。だが――、


「でも、今年初めて違うクラスになっちゃいました。高等部に上がって色々楽しみにしていたのに、いきなり出鼻を挫かれた思いですよ」


 そう。黒衣と八重は、今年初めて別々のクラスになった。

 理由なんて特にない。学科や成績の差異によってあてがわれるクラスは変動すると聞くが、普通科でなおかつ成績優秀な二人が暮らすを別々になる理由などない。ただ単に、たまたまクラスが違ってしまった。それだけの話だ。


「何というか、ショックだったなぁ……。なんとなく、クロと私はずっと一緒のクラスなんだろうなぁなんて、そんなこと思ってましたから」


 それは、黒衣も同じだ。黒衣も、どこかでそうだろうと思っていた。特に気にしたことがあるわけではないが、学年が上がるごとに目にする八重の笑顔を見て、ずっとこのままなんだろうな、なんてことを考えたことはある。


 でも違っていた。それは単なる思い込みで、そんなことはありはしなかった。

 ショックでなかったと言えば嘘になる。だが、それは口にするほどのことではないと、黒衣は内心で自分に言い聞かせ、大して気にしていない風を装っていた。


「今から思えば、あれから全ておかしくなったのかもしれません」


 八重は自分の手元にある机を、ツ――と撫でる。その隣は黒衣の席であり、窓際後方一番後ろという、望まれるべくしてある最高の席だ。しかし、その隣に席など本来はない。三十一人からなるこのクラスに、三十二番目の席などありはしない。

 だがここは【逢魔時】。誰かの思いが集まり出来た、ありもしないあり得ない空間だ。なればこの席を思い描いたのは――。


「クロは知っていますか?」

「え?」

「私の両親、今とっても仲が悪いんです」

「そう……なのか」

「はい。顔をつき合わせば大して理由がなくてもお互い悪口ばかり。やれどっちが悪いだの、何かをしただの。ホント、馬鹿みたい……」


 八重はその現実から目を背けるみたいに、視線をまた窓の外へ投げる。

 八重の両親はよく知っている。子供の頃、何度も家に遊びに行ったから。どちらも気さくで優しい人だ。おじさんは真面目な会社員で、仕事熱心な家族の長。おばさんは八重に似た美人で、教育熱心だが趣味や遊びにも寛容な善き母親だった。

 黒衣の知っている八重の両親は、とてもにくみ口など叩くような人ではない。だからこそ、黒衣には信じられなかった。

 だが黒衣の知る二人はもう何年も前の姿だ。時を経れば、人はいくらでも変わってしまうのかもしれない。


「それが、理由なのか?」


 黒衣は尋ねる。両親の不仲。それがこの事態を引き起こした引き金なのかと。

 だが八重は――、


「ふふ……。そんなわけないじゃないですか」


 小さく笑って否定する。


「確かに、一因ではあるのかもしれない。でも、それが原因じゃないんです」

「じゃあ……」

「そういえばクロ、今日試合見に来てくれましたよね」


 またも話は変わる。


「あ、ああ……。お前が来いってうるさかったから、仕方なくな」

「そうですか……。それでも、私はとても嬉しかったです。クロが初めて私の試合を見てくれた。良い試合が出来たかはわかりませんが、それだけで私は嬉しかったです」

「そうか。それなら、よかった」


 黒衣はホッと胸を撫で下ろす。なんてないことだ。黒衣が試合を見に来た。そんなもの、本当になんてないことだ。そこまで応援したわけでもなく、何か差し入れを持って行ったわけでもない。本当に、ただ「見た」だけのこと。だが目の前の少女はそれが、それだけで「嬉しい」と言う。その姿はまさに、自分のよく知る幼なじみの姿そのものだ。


「カッコ良かったぞ。バレーはあんまり詳しく知らないけど、それでもお前のスパイクはなんかこう……、感動した」

「…………ふふ。なんですかそれ」


 自分なりに精一杯褒めたつもりなのだが、八重は吹き出したように笑ってしまう。


「でも、本当に嬉しかったんです。嬉しかったんですよ? 最後に、クロに見てもらえて」

「え?」


 聞き違いだろうか。今、八重は最後と、そう口にしたような気がしたが。


「最後って」

「はい。そうです。私のバレーは、たぶん今年の夏が最後です」

「――なんで」


「……。クロは、私の身長が何センチなのか知っていますか?」

「……いや」

「一六二センチ、です。これでも、クラスの平均よりは上なんですよ?」


 小首を傾げて、八重は黒衣に語る。ターコイズブルーに染まる黒髪が、八重の動きに合わせてちらちら飛び跳ねる。


「学園に上がる前にクロの身長を追い越して、よしやった! なんて思ってたのに、またいつの間にか抜かされちゃってて。気が付けばもう、随分と離されちゃいました」

「…………」


 黒衣は覚えていない。学園に上がる前の小学六年生は、妹をなくしてしまった年。その頃の黒衣に、八重との身長差を気にする余裕なんてなかった。身長を抜かされた思い出も、黒衣の中には存在しない。


「バレーを始めた小六のとき、私はまだ百五十センチでしたが、それでもクラスの誰よりも高くて。この身長ならバレーって、お母さんに勧められて始めたんです。でも、今じゃそれも普通以下です。知ってますか? バレーって、身長が高い方が有利なんですよ?」


 それは知っている。そして、八重が何を言わんとしているのかも。


「高等部に上がった時、監督に言われたんです。このままバレーを続けるのか考えろって。そりゃあそうですよね。私のこの身長じゃ、もう相手にならないんですから。地区予選の今だからこそなんとかなっていますが、このまま勝ち進めば、いずれきっと、今の身長じゃ勝てなくなる。だから、もしこのままなら、いずれチームから外すことになるって、監督が」


 八重の声に、嗚咽が混じる。だがその顔に涙はなく、張り付いたような笑顔だけがそこにはあった。


「八重、お前は……」


 黒衣の言葉に、八重は目を瞑り、首を横に振る。


「ううん、違いますよ、クロ。私が欲しかったのは身長でも、バレーで勝つことでも、クロと一緒にいることでもありません」

「……じゃあ」

「私が欲しいのは、あの頃です」

「あの、頃……」


 それがいつなのかは言わずともわかる。


「クロが私の言うことも聞かずにどこかへ行って。それに私が泣きながら着いていって。ユキちゃんが指をくわえてクロの背中に引っ付いてる。そんな何もなかったあの頃を、私は取り戻したいんです」

「八重……」

「テストでいい点なんて取らなくてもいい。スポーツができなくてもかわまない。誰からも褒められなくたって気にしない。ただ私は、私はただ、クロと、ユキちゃんと、三人でまた笑いたい。探検と称してバカなことをやっていた、あの頃に戻りたい。ただ、それだけなんです。そうすればきっと、何もかも、も土通りになるんです」


 八重の顔は未だ変わらず。しかし黒衣にはその顔が、まるで泣いているように見える。笑顔の仮面を被って必死に涙を隠しているように、黒衣には見える。


「だから、ごめんなさいクロ。私はもう、後には退けないんです。クロが何と言おうと、私はクロのために、私自身のために、あの子に――【魔女】に協力します。たとえそれが、許されない行為だとしても」


 八重はキッと、黒衣を睨む。

 それが八重の決意の現れなのだと、黒衣は理解する。


「そうか……。それがお前の答えで、お前の望みか」

「うん」

「なら、もう何も言わない。俺だって、できるならあの頃に戻りたい。もう一度、お前と紗雪と、一緒に笑いたい。でももう無理なんだ。もうあの頃には戻れない。もう、変わったんだよ」

「そんなこと……、そんなことないよ。ユキちゃんが帰ってくれば、またみんな、元に戻れる。また、笑えるんだよ」

「……そうかもしれない。でも、こんなことは間違ってる」

「…………うん。そうだよね。わかってる。それはわかってるんです。でももう止まれない。止まれないんです。止まるわけには、いかないんです」

「ああ。だから、俺が止めてやる。お前が止まれないんなら、俺がお前を止めてやる。それが俺の――幼馴染みとしてできる、唯一のことだから」

「クロ……」


 文字通り、言葉はもういらない。そこにあるのは、互いに譲ることのできない願いのみ。

 静寂の青が二人の間を満たしていき、アクアリウムのような世界でゴポゴポと心音が呼吸する。鼓動が次第に早くなり、相手の耳にすら届いているのではと思えるほど。

 時間にしてたったの三十秒。しかし、二人の空気が飽和するには十分だ。

 互いにそれを察し、まず先に、黒衣が一歩動き出す――、



「まったく、人間てのはなんでこう面倒なのかねぇ……」



 聞き慣れぬ男の声が、空間を浸食する。

 不意を突かれた二人が向いたのは、黒衣が立っているのとは反対の扉。

 そこにいたのは、一匹の狼。

 雪山のような黒と白の混じった、魔女に八重を殺すよう言い渡された灰色狼だ。


「そうは思わないか、え? お嬢ちゃん」


「八重、逃げろ」

「え?」


 銀色の瞳が閃光のように八重の姿を捉えると――、


「コイツの狙いは、お前だ――!」


 音もなく、狼は八重の眼前へと飛びかかる。


「きゃ――!」


 しかし咄嗟に目を瞑った八重は、一向に衝撃が襲わない。

 そして恐る恐る目を開くと、


「クロ……」


 自分よりも大きくなってしまった背中が、そこにはあった。


「小僧……」

「へ……、相手は俺だ。犬っころ野郎」


 噛み付かれた腕を払い、戦闘が始まる――――。




   *******


「は……?」


 後輩は目の前の光景に間の抜けた声を上げる。

 確実に決まったはずだ。

 不意を突いた回避不可の一撃。優位に立ったと思い込んだ会長の刀を掴み、身動きの取れない状態からの無差別雷撃だ。相手が【妖精】ならまだしも、相手はただの人間。場数を踏んだ【読み手】とはいえ、人間である以上効かないわけがない。その上、今の『雷』は魔女に威力を上げさせた強化版だ。

 だが雷光の晴れた眼前に杏の姿はなく、そこにはただただ虚無の空間が広がるばかり。


 ぽと――


 不意に、しっかりと抱きかかえていたはずの本が、地面へとこぼれ落ちる。


「お、おっト、イけないいケナい――」


 自分の不注意に薄笑いを浮かべながら、後輩は本に手を伸ばす。

 だがその手はどこか伸びたりない。

 それもそのはず。さっきまでそこにあったはずの指が――会長の刀を握っていた親指以外の指が、第二関節から綺麗さっぱりなくなっていた。


「あ、ああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――」


 よく見れば、落とした本の周りにはミミズのように指が四つ転がっている。


「ゆ、指ガ、ぼ、ボクの指がビばばば――」


「あーもううっさいわね」


 遅れてやって来た指の痛みにうずくまりながら、後輩は自身の背後からした忌々いまいましき声に視線を投げつける。

 そこにいたのは――、


「お、鬼瀬……、杏っぅ!」


 すでに呼び捨てとなった愚かな後輩を見下ろす、杏の姿だった。


「はいはい。鬼瀬杏ですよー」


 大量の脂汗を額に吹き出し睨み付ける後輩とは裏腹に、涼しい顔で手元の小太刀を遊ばせる杏。


「よくも、ヨグモぼくの指ヲぉぉぉぉ!!!!」

「あーはいはい。言っとくけどね、刀の刃なんて持ったアンタが悪いんだからね。刃ぁ握るとか、映画や漫画じゃないんだから、普通斬れるっての」


 正論を唱える杏だが、当然のようにその言葉は届かない。


「許さない……、許サナィイ……」

「もうわかったわよ。あとでくっつけて上げるから、今は静かにしててくれないかしら」


 うんざりした様子で後輩を宥める杏だが、後輩は一向に静まる気配はなく。

 それどころか、より一層狂気の激しさは増していく。


「ぁあああ……、ボクの方ガ、ぼくの方がユウシュウなんダァアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」


 後輩は叫びながら指のない手で地面に落ちた本を強引に掴み取り、怒りの形相のまま本を開く。


「い、『雷よ』!」


 再度、雷が迸る。さきほどよりも明らかに出力の上がった雷撃に、前方の空間は白に染め上がる。

 だが、


「馬鹿の一つ覚えね」


 やはりその声は、自身の背後から聞こえてくる。

「くっ――」

 咄嗟に振り向く後輩だが、


「こっちよ」


 またもその声は、反対方向から聞こえてくる。


「な、ナゼだ! ま、まさか――」

「瞬間移動? 違うに決まってるじゃない。そんなの、漫画やアニメの中だけよ」


 後輩の安易な考えをあっさり見抜き、否定する。


「答えは簡単。アナタのその魔法、欠点が多すぎるの」

「け、けけけケッテン?? そんなもの、アルはずが――」

「視界を覆うほどの雷撃。確かに威力は強力なんだろうけど、その威力の所為でアナタ自身の視界すらも奪われてる。それじゃあ簡単に敵を見失うわ」

「ぐ……」


 反論できないのか、後輩は口を噤む。


「そしてもう一つ。おそらくその魔法、指向性を持たせることができないんじゃないの?」

「な、ナニヲ言っテ……」

「さっきからアナタ、あたしのいる方向に放つばっかりで、まったく的を絞れていない。おそらく、放ったら自分で操作できないんじゃないかしら。アナタが操れるのは、精々出力の大きさくらい」

「だ、ダカラ何だって言うンダ! そんなモノ、優秀ナぼくにカカれば――」

「それと、もし仮にあたしが避けなかったとしても、その程度の雷撃じゃあたしには効かないわよ」

「は、ハハハハハッタリだ!」

「なら、試してみる?」

「は――」


 高らかに笑う後輩に対して、杏はニヤリと静かに笑む。

 それは後輩がよく知る、杏の余裕の表情。どんな困難を前にしても、一歩も退くことのない先輩の顔。

 だから――、


「だから、そのカオがキニクワナイって言ってるンだよぉオオオオオオオオオオ――、『雷よ』!」


 後輩は眼鏡を振り払い、三度みたび、呪文を唱える。

 一度目、二度目とは比較にならない威力の雷が、杏の眼前へと稲走る。

 だが杏は、その雷を間にしても避ける気配はない。

 どころか、小太刀をそっと構える。


「千鳥って言葉、知ってるかしら?」


 既に聞く耳などない後輩へか、それともただの独り言か。杏はそんなことを呟き始める。


「戦国時代の大名・大友家家臣の一人、立花道雪が愛用していた刀の名前よ。この肩には面白い逸話があってね。なんでも、道雪はこの刀で落ちてきた雷を真っ二つに斬ったとか。それ以降、道雪は雷を斬ったその刀をこう改めたの――『雷切丸』ってね」


 雷はそんな杏の台詞さえも塗りつぶさんと押し迫る。


「言霊とは、己を統べる力也――」


 そして杏は、小太刀を振るう。


「『ち』――」


 右上上段から左へと振り下ろす袈裟斬り。

 小太刀の柄に刻まれた仮名は――『ち』。


「『と』――」


 次に杏は、小太刀を待ち構え、振るう。左から右へと払う、横薙ぎ。

 小太刀に柄に刻まれた仮名は――『と』。


「『り』――」


 またも杏は小太刀を持ち替え、振るう。最後はお手本のように綺麗な、唐竹。

 小太刀の柄に刻まれた仮名は――『り』。


 三つの言霊が刻まれた小太刀は、それが振るわれるごとに雷撃の勢いは削がれていき、最後には完全に消え去ってしまう。


「は……???」


 何が起こったのか、後輩は理解できないでいた。

 さっきと違い、会長は目の前にいる。雷も出た。申し分ないほどの、渾身の一撃だ。

 なのに、なのに何故、あの女はまだ目の前に立っている。

 こんな……、こんなことは――、


「アリエナイィィイイ!!!!」


 またも、後輩は雷撃を放とうと本を構える。が――、


「もう終わりよ」


 いつの間にか近づいてきていた杏はカチャリと小太刀を納める。

 それと同時に、後輩の持っていた本がバラバラと崩れ落ちていく。


「あ、アア……。ボクの、ぼくノ力が……」


 後輩は本だった残骸を拾おうと手を伸ばす。

 だが拾おうと膝を折ったと同時に、後輩の眼球は気の抜けたように白目を剥き、バタリと倒れ込む。


「魔力のキャパオーバー。そりゃそうよね。あれだけの雷撃だもの。魔力の消費も桁違いなはず」


 鼻血を出して倒れる後輩の横に膝をつき、杏はそっとその髪に触れる。


「ごめんなさいね。こんな、不甲斐ない先輩で」


 杏は後輩の胸元へと視線を降ろす。

 そこでは、壊れてもなお大事そうに抱える書物の欠片が塵へと変わり、一筋吹いた風に吹き飛ばされ、跡形もなく消え去っていった。




「桃っ!」


 呼ばれた桃に返事はなく、大きく潰された校舎の壁からはもくもくと噴煙の如く土煙が立ち昇っていた。

 のそり――、

 そんな土煙の中に、影が一筋現れる。


「Grrr……」

 立ち昇る土煙の上から現れたのは、重く歩みを進める巨大なる山脈――大男。

 だが――、


「G――」

 鋭く光る赤い眼光を灯したまま、ごとりと、崩れた大岩のような首が転げ落ちる。


「――まったく。参ったものだ」


 杏が呆気にとられていると、もう一つ細身の影が現れる。


「桃!」


 桃太郎が――土煙で汚れてはいるが――まったくの無傷で現れた。


「ああ、杏。無事だったか」

「ええ、あたしは。アンタも大丈夫そうね」

「無論だ。少々速く動く程度の岩に、私が遅れをとるとでも?」


 思いっきり直撃を食らったように杏には見えたが、本人がそう言うのならそうなのだろう。


「それでだがアン。首尾の方は?」

「無問題。ヤツの『原典』は破壊したわ。これで、巨人の方も――」

「いや」


 その否定と同時に、大男の首は灰へと消え、残された巨体の首がもこもこと蠢きだす。

 そして数秒も経たぬうちに、


「G……、Grrr……」


 首が、再生する。


「うっわ……。もう何なのよコイツ! マジで不死身だって言うの?」


 不死身は原理上あり得ない。不死とは、あり得るはずのない奇跡だ。それはつまるところ、魔法や魔術による産物ということだ。魔法による奇跡を持ってすれば、あり得ぬはずの外法にも手が届くだろう。ましてそれを行使しているのはあの悪名高き【魔女】だ。不可能ということはないのかもしれない。だがそれはあくまでも仮の、擬似的な不死に過ぎない。どのような奇跡だろうと、魔法であるのならばその魔力を絶ってしまえばいい。そしてその魔力源となっていたのは、後輩の持っていたあの書物――魔道書だ。

 だがそれを破壊しても、大男の不死身に近い再生は止まらない。


「もうこれじゃあどこかに縛り付けておくとかしか――」

「いや、待てアン」


 杏が髪をかき乱している中、桃がその変化に気付く。


「こ…………、コロ、セ」

「む……」

「喋った!?」


 突如巨大な口から発せられた掠れた声に、杏と桃は二人して声を上げる。


「ワタシヲ……コロセ……」

「……どういうこと? 何で、突然」

「おそらく、『原典』の破壊によってかけられていた狂化の呪いが弱まり、自我を取り戻したのだろう」


 状況から大男の今の状態を読み取った桃を他所に、大男はさらに口を開く。


「我ガ名ハ、坂田金時。朝家ノ守護タル、源頼光公ニ仕エシ、者ナリ」

「坂田金時。日本を代表する童話の主人公、足柄山の『金太郎』ね」


 金太郎。幼き頃から力自慢であり、後にその力を妖魔退治を生業とする武者・源頼光に見初められ、多くの妖怪を退治してきたとされる人物だ。熊と相撲ととった話はあまりにも有名である。


「今ハ辛ウジテ自我ヲ保ッテイルガ……、ソレモ長クハ持タナイ。ダカラ今ノウチニ……、ワタシノ意識ガマダアルウチニ、ドウカトドメヲ」


 大男――金時は握りしめていたまさかりを地面へ落とし、まるで磐座いわくらのように、ただじっと動かない。。


「狂化が解けているということは、おそらく不死の効果も切れているはず」

「ああ。その通りだ」


 杏の指摘に、金時は静かに答える。


「サア早く。ワタシモ、長クハ持タナイ」


 金時の言うとおり、その黒の瞳に赤い光が明滅しだす。


「桃」

「ああ」


 杏の声に短く答え、桃は金太郎の正面へと歩み行く。


「坂田金時殿。我が名は桃太郎。其方を斬る、名もなき侍の名だ」

「オオ……。貴公ガ、鬼退治ノ桃太郎カ。ナラバ、心配ハイルマイ」

「ああ。そうだな」


 桃太郎は小さくそう答え、キン――と、刀を納める。

 そこで、音は消え去った。

 グラウンドの中央では未だ魔女とアリスが激しい戦闘を行っているというのに、まるで今ので音という概念そのものが断ち斬られてしまったかのように、そこで音はぷつりと途絶えてしまう。

 静寂。常の夜でさえ、これほどまで音のない世界など存在しないと思えるほどの、無音。

 その場にいる誰もが、何も発することがない。動作音どころか、呼吸の一つから心音でさえもその場には存在しない。

 ただただ、何もない無音だけが、そこには存在していた。



「――『千磐破チハヤブリ』」



 その声だけが、世界に響く。


「――感謝する」

「ああ」


 いつの間にか振り抜かれていた刀を再び鞘へ戻すと同時に、世界に音が戻る。

 ドサ――

 何かが落ちる思い音を聞き、杏は見ていたはずのそちらへと意識を向ける。

 そこには、安らかな顔をした壮漢の首があり、首はあっという間に塵へと消えていく。


「……。ご苦労様、桃」

「大したことはしていない」


 桃はさっきまでと何も変わらず、ただ淡々とそう答える。


「ええ、そうでしょうね」


 杏もまた、同様に応えを返す。

 それも、いつものこと。


「さて、それじゃさっさと追いかけましょう」


 杏はそう言って、校舎の方へと視線を移す。


「無事でいなさいよ、黒衣くん」


 口にしたのは、もう一人の不出来な後輩の名。

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