第二十五話『開戦』


 彼が突然消えたと聞いたときは、言葉が出なかった。

 あんなこと二度とあるはずがないと、そう高を括っていた私に対する、これは罰なのだとも思った。

 だからこそ、あっさりと現れた彼を見て、私は思わず涙を流してしまった。

 四年前のあの日から我慢していたはずの、涙を。


 安心していた。

 ああ、今度はどこにも行かなかったと、私は心底安堵していたのだ。

 でも同時に、そこにいる彼は昨日までの彼とは違うということにも気が付いた。

 彼もまた、私を見て安心していた。

 しかしそれは、自分の身の安全を理解したという安堵の感情ではない。まるで、私の方をこそ心配していたと言わんばかりの、私へ向けられた安心感。


 何かがあったのだ。

 私の知らない、何かが。


 その疑問を抱いたまま臨んだ翌日の試合。私はそこで答えを知った。

 バレーなど興味のない彼が、私の試合に来てくれていた。

 だが、彼の隣に立っていたのは、彼が知らないはずの女性。


(鬼瀬……会長……?)


 そういえば、彼女が言っていた。会長は【妖精】を使役して裏で暗躍する、私たちの敵なのだと。

 つまり会長と彼が一緒にいるということは……。


 彼を救わなければいけない。

 それができるのは、今はもう、私だけなのだから。



   *******



「八重……」

「クロ……」


 聞き慣れたその響きが、闇色の虚空に溶けていく。

 わずか数十メートル程度のその距離が、今は途方もないほどの溝に思えてしまう。


「な、なんでそんなとこにいるんだよ……」

「…………」


 黒衣は見開いた眼で視線を向けるが、呼ばれた八重はそれに答えず、視線を背ける。


「……無事だったんだな。俺はてっきり、お前が監禁でもされているものだとばかり……。まぁ何にせよよかった。ほら、さっさと帰ろう。ここは――この場所は、お前がいていい場所じゃない」

「…………」


 八重は答えない。答えに迷うように、ただ背けた瞳を泳がせる。


「なんで……」


 黒衣は呻く。それこそが何よりの答えであったから。

 『答え無き答え』こそが、八重の今の状況を如実に語る、答えだったから。


「なんで、お前なんだよ、八重」

「っ……」

「お前は――お前だけは、こんなとろにいちゃいけないんだ! なのに、なんでよりにもよってお前が……」


 まるで嗚咽でも漏らすかのように、黒衣は心中を吐露する。


「ごめんね」


 その嗚咽に、八重は小さく返す。


「ごめんね、クロ……」

「八重」

「それでもこれは、私が選んだことですから」

「っ……」

「私が、進んで彼女に協力しているんです」


 それは、考えずにいたはずの答え。八重がここに現れた瞬間から、――いや。本当はもっと前から気付いていた、最悪の答え。だからこそ考えないようにしていた。八重はただの被害者なのだという、そんな希望的観測にすがっていた。すがり付いていた。だがその可能性も、今の八重の発言によってかき消えてしまった。


「なんで……」

「クロ」

「なんで、よりにもよってそいつなんだ! そいつは……そいつは【魔女】だ。お前が【妖精】のことをどんだけ知ってるのかはわからない。けど、そいつだけは組んじゃいけない。そいつが何をやったのか知って――」

「……クロこそ!」

「っ!」

「クロこそ、この子の何を知っているって言うんですか! この子のことを何も……私のことすら何も知らないくせに、わかったような口を利かないでください!」

「八重……」

「…………ごめんなさい。取り乱しました……」


 息を整えるように、八重はそっと乱れた髪に触れる。

 そのなんでもない仕草が、八重が平常なのだと伝えてくる。

 いつもと同じ、自分のよく知った友人なのだと。


「……どうしただ、八重」

「……ごめんなさい」


 二度目の謝罪。だが、その謝罪は改心するといったものではないことは、誰にでも理解できた。


「でも、もう止められないんです。あと少し、もうあと少しなんです。だからどうか、私たちの邪魔をしないでください、クロ。それに――会長」

「それはできない相談よ、園咲さん」


 告げられた名に、沈黙を貫いていた杏が口を開く。


「そう……ですよね。それが会長ですよね。私の憧れた、尊敬してやまない鬼瀬会長です」

「あら、褒めたところで、容赦なんてしないわよ」


 こんな場面だというのにウインクして戯けてみせる杏に、八重はゆったりとした笑いで答え、すぐ顔を引き締める。


「でも、たとえ会長が相手でも、私は負けるわけにはいきません。これは、この願いだけは、誰にも、会長にも、クロにさえ、止められるわけにはいかないんです」


 それは宣言だ。

 戦うという。黒衣と杏に対して、徹底抗戦を貫くという、八重の宣戦布告だ。


「娘よ」


 そんな八重に、魔女が一言告げる。


「うん、わかってます。だから、クロ。ごめんなさい」


 そう言って八重は、一歩、後ろへと下がる。


「私はまだ、捕まるわけには、いかないんです」


 そして振り返り、そのまま校舎の方へと駆けていく。


「八重、待――」


 走り去る八重を追いかけようと踏み出すが、その行く手を、天鵞絨ビロードのドレスが揺らめき阻む。


「何のつもりだ、魔女」

「ふぅ。そう簡単に、汝らを行かせるわけはなかろう?」


 当然といえば当然の答えだが、今の黒衣には一分一秒がもどかしい。


「今一度問おう、『迷い児』よ」


 しかし魔女は、褪せる黒衣に対しその白き手を差し出す。


「我と組まぬか? あの娘はとある目的ゆ我の元を離れることができん。だが想い合うつがいが別たれるというのは我も心が痛む。ならば、汝がこちらへ来れば良い」

「なに……?」

「なに、悪いようにはせん。あの娘の望みも、お前の悲願さえも、我の目的が達せられれば全て解決するのだ。全て繋がっておる。なにも、迷う必要などない」


「聞いちゃダメよ、黒衣くん。あんなの、ただ耳触りがいいだけのハッタリなんだから」


 杏はそう言うが、黒衣は何も言わず、ただ口を真一文字に結んだまま八重の過ぎ去った方へと視線を向ける。

「ふむ。『鬼斬』の娘か」


 魔女は聞き慣れぬ呼び名で杏を呼ぶ。


「いやはやいやはや。さすがの我も才能ある若人三人を相手には、少々分が悪いやもしれぬな。だが、場所には気をつけることだな」

「なんですって?」


 言って魔女は、杖を振るう。


「汝らが無闇に暴れて、これを傷付けでもすれば、取り返しのつかぬことになるゆえな」


 すると中空で揺蕩っていた小さな星々がぽつぽつとその光量を増していき、グラウンド中央に聳える大樹の全貌が露わとなる。


「なっ……」

「なん、だ……これ……」


 それは、茨だった。

 幾本もの茨が複雑に絡み合い、あたかも一本の大きな樹を形作る。禍々しい巨大な茨。

 だが問題は、その茨の数でも大きさでもない。十メートルほど上空で枝分かれするように横へと広がる茨の、その先だ。


 そこにあったのは、繭だ。


 蝶の幼虫が自らを包み、成体へと変遷するための白き揺り籠。

 それを何倍も大きくしたものが、まるでたわわに実る果実のように枝の先へと吊されていた。


「あれは……」


 黒衣は驚愕した。その存在に、というよりも、その異様さに、だ。

 その繭は鳴動していた。中空に浮かぶ光の瞬きに呼応するように、ドクン……ドクン……と、一定の間隔を保ちながら脈打っていた。少しだけ縦に長いその見た目はまるで、人の心臓を彷彿とさせる。


 そしてそれは、おそらく当たっている。


 そう。おそらく、これは心臓だ。あの大樹に何かを送り続けるための心臓。樹から養分を送っているのではなく、その逆。大樹を育てるために、この繭が養分を送っているのだ。その証拠に、大樹にはうっすらと人間でいう静脈のような淡く光る筋が見える。それらは繭から大樹へと養分を送り、さらなる成長を促している。

 そしてその養分とは、おそらく『魔力』。この世界の生き物のみが持ち、【妖精】は自ら生成できないという不可視の力。

 であるならば、繭の中で鼓動するたび見え隠れするあの影の正体は――、


「人……、なのか」


「正解だ」


 黒衣の呟きに、魔女が怪しく口角を上げて肯定する。


「体育館にいた生徒全員を、あの繭にしたってわけ?」

「ああ、そうだ。言ったであろう。あれは供物だと」

「供物……やっぱり、そういうこと」

「先輩、あれは……」

「気をつけなさい、黒衣くん。聞いたとおり、あの繭の中身はおそらく――いいえ。十中八九、人間よ。それも、体育館で消えたっていう生徒たち全員。そしてあの樹は、生徒たちの魔力を吸い上げ、大量に溜め込むことができる、言わば魔力の貯蔵庫」


 魔力の貯蔵庫。この世界で手に入る機会の限られる魔力。しかしこの魔女は、人間を養分として莫大な量の魔力を一つどころに集めようとしている。それも百人を超える人間の魔力を、だ。

 それだけの魔力を必要とする事象、願い、事柄、儀式。そんなもの黒衣に心当たりがあるわけない。だが、事前に聞かされていた一つの名前だけは思い当たる。


「……『妖精の物語』」


 その言葉を待っていたかのように、魔女はニヤリと笑みを作る。


「我は以前にもかの存在を創ろうと試みたことがあってな。だが残念なことに、そのときは失敗に終わってしまった。どこぞの片田舎で試したはいいが、予想よりもちっぽけな村ゆえな。集まった魔力の量も質も最悪ときた。徒労に終わるとはまさにこのことと嘆いたものだ」


 やれやれとばかりに、魔女は嘆息する。


「だが、一番の問題は魔力の貯蔵だった。肉体を除いて、魔力を保有し続けることのできる器は限られていてな。せっかく溜めた魔力も、器を零れては意味が無いというもの。だからこそ我は創ったのだ。魔力純度が高く、なおかつ魔力を生産し続ける若い人間の肉体を用いた新たなる魔力の循環機関。それこそがこの茨の大樹『大輪咲き誇る百年の茨クレイドル・ソーン』だ」


 魔女は大手を広げて大樹を仰ぎ見る。大樹もそれに会わせるようにその光量を増し、一層強く鳴動する。


「見よ、この美しき光を。うら若き人の子から取れた高純度の魔力を。我が茨を持ってしても溢れ出る魔力の塊を。嗚呼……、もうすぐだ。もうすぐで、我の悲願が達せられる」


 大樹の光を一身に浴びる魔女の姿は、天鵞絨のドレスに似つかわしくないほど神々しく。まるで神にでも祈るかのように、その言葉には熱を帯びていた。

 それが嘘偽りのない、真実なのだとわかるくらいには。

 なればこそ、決してそれを成就させてはならないと、決意させるほどには。


「アナタの目的はわかったわ。アンタがどれだけのゲス野郎なのかってのもね」

 吐き捨てるように、杏は言う。


「でもそれ以上に、『妖精の物語』なんて眉唾なもの、本当にあると思ってるの? どんな願いでも叶えることができる願望器なんて、そんな都合のいいものあるわけが――」

「ある」


 静かに、しかしはっきりと耳へと届く声で、魔女は断言する。


「いいや、あるぞ。鬼斬の娘よ。『妖精の物語』は確かに存在する。人も、【妖精】も、屍人さえも、あの世この世を問わず全ての願いを叶える無限の物語。それこそが、我が探し求める『妖精の物語』だ。我ら夢の民の、窮極の姿なのだ」


 魔女は宣う。天鵞絨のドレスを振りまいて、声高々。まるで大観衆のど真ん中、注目集める舞台の主役が如く魔女は大手を振って説く。それは口髭をしたためた政治家とも違い、栄光の舞台を飛び跳ねる女歌手とも違う。畏怖と恐怖を持ってその黒き存在へと注目を集める、まさに『魔女』として、茨の魔女はその場にいるたった三人の観衆へと告げる。


「……なにを」

「わからぬだろう。当然のことだ。窮極の理想というものは常に理解の外にあるものだ。だが決して拒むことの出来ぬものでもある。貴様とてそうであろう? なぁ、『女』の剣よ」


「! …………」


 意味深なその言葉に、杏がぴくりと反応を示す。

 だがそれも、すぐに消えて見えなくなる。


「……言いたいことはそれだけかしら」

「……ふむ。これはなかなかに強情な女よな。あの娘が一目置くだけのことはあるということか。まぁよい。其方にも興味は尽きぬが、今我が興味を惹かれているのは汝だ、宇佐美黒衣」


 そうして魔女の視線は、再び黒衣に。


「知っているぞ。ああ我は知っているとも。お前の求めるものを。妹なのであろう? 昔迷い込んだあちらへ置き去りにした汝の妹。汝が探し求めているのはそれであろう」


 杏に比して、未だ平静を装えぬ黒衣は魔女を視る。


「……だったらどうだって言うんだ」

「我が力を貸してやろう」

「……」

「我は『魔女』。【妖精】の世において叡智と理を統べるもの。我ならば、汝の妹とやらも取り戻せるやもしれぬぞ?」

「…………」

「さぁ、『迷い児』よ。我と共に来るがいい。あの娘と共に、その願い叶えてやろう」


 魔女は再び、その白蛇の如き白き手を差し伸べる。

 杏もアリスも、何も言わない。

 杏は怪訝そうに黒衣を尻目で確認しているが、後方にいるアリスの様子は黒衣の位置からはわからない。ただただその口を閉ざし、闇が落ち込むこの空間のように黙し続けている。まるで、黒衣の言葉を待つかのように。



「面倒くさい」



「…………なに?」


 黒衣の呟きに、魔女は口を歪める。


「面倒くさいって言ったんだ。あれから色々考えたが、やっぱ結論なんて出ねぇわ」

「…………妹を、取り戻したくはないのか?」

「取り戻したいさ。だけど、それは俺のやるべきことだ。俺が背負っちまった俺の責任だ。誰かに助けてもらうことばっかだろうし、手伝ってもらいもすると思う。だけどそれは、他人様に迷惑かけてまでやっていいことじゃない。まして、大勢の命を犠牲にしてまでやっていいわけが、ねぇ」


 そう力強く、黒衣は否定する。


「ふ……」


 途端、呼気が漏れる音が聞こえてくる。


「ふはははははは!!」


 そしてそれは、声の主を探す黒衣を嘲笑うように、背後から噴水のように湧き上がってくる。


「よくぞ言った。よくぞ言ったぞ。それでこそわたしの認めた人間だ」

「ああ。また怒られるのも勘弁なんでな」


 アリスは一歩前へ、足を踏み出す。その横顔は心底楽しそうに牙を剥く。

 杏も怪訝な表情を引っ込め、キリリとその貌を引き締める。

 三人の若者が居並び、魔女へと相対する。


「…………ふむ。やはり止まらぬか、『迷い児』よ」

「ああ当然だ。ここまで来て、おめおめ一人だけ寝返ってたら、それこそ妹に顔見せできない」


「……なれば仕方ない」


 にっ、と笑う黒衣に対し、魔女は何かを納得したようにそう呟くと、天鵞絨の袖を振り上げる。


「灰色狼」


 その呼び声と共に、天鵞絨の袖から一匹の狼が現れる。


「お呼びで、ご主人」

「ふむ。我らが同胞にして忠実なる下僕しもべよ。あの娘を――殺せ」


「なっ……!?」


「承知」


 灰狼はそう短く答えると、八重が去っていった校舎の方へと風の速度で駆けていく。


「てっ……めぇ……!!」

「ダメよ、黒衣くん」


 黒衣が飛び出そうとして途端、それを阻むように十数匹の狼が現れる。


「くっ……」

「ほれ、どうした『迷い児』よ。我をふん縛ってくれるのではなかったのか? そのようなところで呆けていては、汝の大切な狼は我が下僕の餌となってしまうぞ?」


 それは誰がどう見てもあからさまな挑発だ。だが黒衣は、杏の制止も聞かずに飛び出そうと躍り出――、


「、…………」


 だが黒衣よりも先に、黄金の髪がその歩みを阻む。


「アリス」


 振り向きもせず前に立つ金色の黄金と水色の背中は、ただ無言で語る。


 ――任せろ、と。


「……頼めるか」

「無論だ」


 それだけで、二人の会話は終わる。


「先輩、このまま魔女の側面を突っ切ります」

「っ、正気!? あの狼の群れが見えないわけじゃないでしょ? そんなことすれば、あたしもアナタもただじゃ済まな――」


 だが、前だけを中止する黒衣を見て、杏は押し黙る。


「……もしあたしが死んだら、責任取りなさいよ」

「え、いきなり愛の告白とかさすがにビビるんですけど」

「いいわね!」

「はい。必ず」


 その返事を皮切りに、黒衣と杏は走り出す。

 それを受け狼たちも二人へと向かい疾駆するが、二人は迷うことなく狼たちの方へと走り抜く。

 そして一匹の狼が群れを飛び出し、黒衣の喉元へとその鋭い牙を穿たんと差し迫った――、その時だ。



「『ステラ』よ」



 狼の鼻先で光が弾け、狼は大きく弾き飛ばされる。

 黒衣はそれを振り向きもせずさらに速度を上げ、狼の群れを切り抜ける。


「――っ、なんとか切り抜け――」


 それは既視感。

 気付いたときには、その黒鉄の刃は杏の眼前へと差し迫っていた。


 ギンッ――――


 だが激しく飛び散る火花と金属音が、それを食い止める。

 杏の視界が晴れた時、そこには紅白のかみしもに大刀を携えた長身の偉丈夫――、


「桃っ!」


 杏のパートナー、桃太郎が、そこに立っていた。


「アン、無事か」

「ええ、なんとか。それよりも――」


 杏は視線を前にやる。そこにそびえ立つのは、昨日その首を落とし絶命させたはずの巨体。木の幹ほどもある隆々の筋肉と鈍色に光る大斧を地面へと振り下ろす異形の怪物――


「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!」


 黒衣を殺した、大男そのものだ。

 そしてその大きな肩に乗るのは――、


「は……、ははハハハ! 会長! 会チョウじゃないですカァ!! こ、ここここんなところで会うなんてき、キグウですネェ!!!」


 大男の契約者、杏の後輩。


「アナタ、まだ……」


 杏は大男の肩ではしゃぐ後輩の様子に冷や汗を浮かべる。

 明らかに、様子がおかしい。


「先輩っ!」


 一人先を行くもう一人の後輩は巨体に阻まれた杏に呼びかける。


「黒衣くん!ここはあたしたちに任せて、先へ急ぎなさい」


「でも――」


「あの子のことが大事なんでしょ?」


「っ……」


「なら、行きなさい。迷う必要なんて、どこにもないんだから」


 それでも立ち止まる黒衣に、杏は呆れ半分で付け加える。


「なぁに。すぐ追い付くわ。この不出来な後輩に、お説教したらね」


「……ありがとうございます、先輩」


 それだけを言って、黒衣は校舎へと走り抜ける。


「は、ハハははハ。ぼ、ボクガ、このボクがフデキ? このぼクが!?!? は、ハハハハハ」


 後輩はまるで壊れた人形のように首やら目玉やらをぐりんぐりん回転させ、嗤いとも泣き声ともつかない声を上げ続けている。


「まったく……。後輩ってのは可愛いものだけど、それでもやっぱり苦労するものよね」

「残念ながらアン。私には三人の供はいたが、後輩や部下の類いは今までいたことがない。ゆえにその意見には同調しかねる」

「はいはい。だったら覚えておいて。先輩ってのはね――」


「ふ、ふふふ不出来ッテ言うのはサ――」


 後輩の声とともに大男は大斧を振り上げ、そして――、


「お前みたイなヤツのことだロうがァアァァァァァァ!!!!」



「――案外、可愛いものなのよ」



「…………ハ?」


 勢いよく振り下ろされた大男の右腕は、気付いた頃にはすでになく。遙か後方へと重く転がっていた。


「さぁ行くわよ桃。バカで愚かな後輩に、先輩の有難さってものを教えてやるわ」

「承知した」




「ふぅむ。まさか貴様一人でどうにかできると思っているのか、『不思議の国のアリス』」


 魔女は嗤う。周りには十数匹の灰狼に、空を覆う黒鷲の群れ。

 その数、千はくだらないだろう。

 だがアリスはそれらを前にしても、孤高の笑いをやめはしない。


「ああ。そのくらいはしてもらわねばわたしも困るというものだ」


 言ってアリスは、愛用の日傘を手に顕す。



「実に、面白い――――」



 夜の帳は時間と共にその深さを増していき、宙に揺蕩う光が彼らの影を照らし出す。


 今、それぞれの戦いの幕が開く。


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