第二十二話『うさぎ』


「まったく」


 会議室を出てからすぐのこと。


「わたしの誘いは断る割に、ほいほいと他の女の話は聞くのだな」

「う」

「なかなかに見上げた根性と褒めるべきか。それともただの軟派男児と蔑むべきか。お前はどちらだと思う、人間」


 チクチクと、背後からの攻撃を背中に受けながら、俺は図書館塔を歩いて行く。

 実のとこ、さっきの杏との会話中もアリスはその場にいた。一言も話すことはなく、可愛らしい顔に似合わないムスッとした表情で、今のように腕を組み、仁王立ちのような威圧感を放ちながら。


「いいや、別にそういうんじゃ……。ただ単に、呼び出されたから来ただけで……」

「女に呼び出されたらすぐに行くのだな」

「いや、だから――」

「そういえば、昨日も他の女と会っていたな」


 他の女?


「って八重のことか。いや、アイツはちょっと違くてだな」

「あのサムライ女は違わないと」

「だーかーらー」


 ああもうまどろっこしい。


「アイツは、八重はそういうんじゃない。アイツは……、姉みたいな存在っていうか、もう一人の妹みたいっていうか。妹と同じように小さい頃からずっと一緒にいた幼なじみで。だれよりも俺のことを心配してくれてるし、友達とかよりもずっとずっと身近な――、そう、家族みたいなものだ」


 だから違うと、男女云々の関係ではないのだ。うん。


「お前……」


 お。どうやらアリスも納得して――、


「それはさすがに非道くないか?」

「え、なんで?」

「なんでって……、はぁ……。どうやら、これはなかなかに面倒な男のようだな」

「俺にとって、アイツは誰よりも大切な人間なんだ。それは散々話したろ」

「あー、まぁそうなのだが。なんだろうか……」


 なんだ? 何をきにしているんだ? そんなおかしなことを言ったのだろうか。それとも【妖精】には家族観念というものはあまりないのだろうか。いや、アリスも姉がどうこう言っていたし、そんなことはないはずなのだが。


「……まぁ、女の方はそうではないようだったが」

「何の話だ」

「お前の話だお前の。まったく、何をどうしたらこうなるのか知りたいものだ」


 何かごちゃごちゃと呟いているが、さっぱりわからん。何も変なことはないと言ったはずなのだが。


「わからんのならいい。だが、一つだけは言っておくぞ」


 少し声を重たくしたアリスは、ズイと俺の鼻先を指して言う。


「もう少ししっかり女を見なければ、いつか痛い目に遭うぞ」

「え」

「お前の境遇も、お前の心境も察せよう。だからといって、不幸な自分に甘えているようでは、いつか本当に大切なものを失うことになる。それも、知らぬ間に、な」

「な、何の話を――」

「わかったな」

「わ、わかった……」


 有無を言わせぬ力強さで、強制的に頷かされてしまう。


「うむ。今はそれでいいだろう」


 女というものは、やはり恐ろしいものだ。




 そんなやりとりを終えたのも束の間。


「え」


 アリスの話を聞いて、歩き出そうとしたその時。既視感のようなものを感じて、俺は一瞬目に入ったものを二度見する。

 左手奥にある高い高い本棚。その本棚の前に立つ、白銀の小さなシルエット。

 一瞬懐かしい思いに囚われるその横顔に、遠くからでも目立つ紅玉の瞳。


 ――あの子だ。


 失われた機能。時間が戻る間の、本来の昨日。俺が図書委員の仕事を手伝う最中に出くわした、銀雪の髪を持つ少女。

 俺が【逢魔時】へと堕ちる前に話した、あの少女だった。

 その少女が、昨日と変わらぬ感情なき眼で本棚の前に立っていた。


「――――」


 気付けば、俺の目の前には少女が立っていた。

 いや、俺が無意識に少女のところへ歩を進めていたのだ。

 図書館塔内であるにも関わらず、駆け足で。


「…………」

 少女はすぐ横にいるにも関わらず、俺の存在にまったく気付いていない様子で、さっきから変わらず本棚の本をじっっっっと見つめている。


「っ……」

 だが俺も、なんと声をかければいいのかわらかず口を閉ざす。

 何を言いたいのか。何を聞きたいのか。

 昨日のこと? あれは偶然だったのか? 【妖精】との関係性? それとも妹のこと?

 頭ん中がこんがらがる。聞きたいことが山ほどある。

 だというのに、喉から言葉が出てこない。

 自分はこんなにも口下手だったのかと、疑うほどに。


「ん……」


 すると少女は唐突に手を振り上げる。

 見れば少女はその小さなかかとをクイと上げ、本棚上方にある本を取らんとフルフルと手を伸ばしていた。

 ハシゴを持ってくればいいだろうに、それもせず、頑なに。


「……この本が取りたいのか?」


 知れずうちに、俺はそう問うていた。


「……」


 少女は尋ねた俺の方を見ることなく、ただ無言でコクリ首を動かす。

 俺は少女が手を伸ばす本を軽く引っ掴む。なにかの辞書かと思うほどに大きな本だたが、それでも俺は難なく本棚から本を引っ張り出し、少女に手渡す。


「ほい」


 少女は俺が差し出す本をじっっっっと見て、今度は俺の方をじっっっっと見る。

 まるで赤ん坊のように、俺の瞳を見つめて離さない。

 それほど近くもなく遠くもない距離。

 だが少女の澄んだ紅の瞳は、そんな距離であっても俺の顔を映し出す。それが少女の見る世界であると言いたげに。

 ぱちくりと、思い出したように行う素早い瞬きに、赤い瞳。まるでそれは野ウサギのようだ。

 数秒もそうしていると、少女はふと本に視線を戻し、


「……ありがと」


 と、小さくそう呟く。


「あ、ああ」


 俺はその仕草に、またも言葉を忘れる。

 逃げいる、と。

 妹は表情の豊かな子だった。俺の一挙手一投足にいちいち反応して、ころころと笑い、わんわん泣き、ぷんすかと怒る。そんな子だった。

 ただ、何かを隠そうとするとき、照れくさそうに言うとき、決まって妹は視線を外し、ポツリと小さく呟くのだ。

 無理矢理かもしれない。無理矢理、似ている部分を探しただけかもしれない。

 それでも俺は、今の仕草が妹に似ていると思ってしまった。


「なあ」


 だからこそ、俺は意を決して口を開く。


「昨日、一度会ったよな?」


 だが出てきた言葉はどこか的外れで。

 これではまるで、ナンパしているみたいではないか。


「?」


 だが問われた少女はそんなこと気にした様子もなく、ただ小首を傾げるだけ。


「わからない、か……」


 やっぱりな。と俺は肩を落とす。

 そりゃそうだ。俺とこの子が出会ったのは、時間が戻る《以前の》昨日だ。俺や杏、【妖精】であるアリスならいざ知らず、ただの人間であるこの子がそれを覚えているわけがない。


「ああ、いや、悪い。忘れてくれ。君があんまり妹に似ているから、なんか変なことを聞いてしまった」


 少し冷静さを欠いていた自分を反省する。

 なにやってんだろ。いくら妹に似ていると言っても、年下の女の子にいきなり、こんな……。


 しかし少女は、



「……………………………………………………………………………………そう」



 大きな間を開けて一言、そう呟いた。


「……」

「……」


 流れる気まずい沈黙。少女の方はどうかわからないが、俺はどうしようのない居辛さを覚えてしまう。


「あー……、名前」

「?」

「名前。君の名前はなんていうんだ?


 そして出てきたのはそんな言葉。なんとも拙い、苦し紛れな質問だ。

 その上出会ったばかりの女の子にいきなり名前を聞くとか、やはりナンパと思われても仕方ない。


 だがそんな俺に、少女の方は、


「うさぎ」

「え?」

「うさぎ」


 一瞬、何を言われているかわからなかったが、すぐにその意味に気付く。


「それが、君の名前?」


 こくん。

 女の子は――うさぎはさきほどと違い手早く頷いて、俺の問いを肯定で示す。

 変わった名前……なのかはわからないが、それよりも俺は感じたことを口にする。


「良い、名前だな」


 それを聞いて、少女はまた俺の瞳を見つめる。

 そしてまた、


「…………そう」


 と、小さく呟く。

 しかしすぐに、くるりと後ろを向いてしまう。


「…………また」

「ん? ……ああ。ああ、また」


 それが別れの挨拶だと気付いて、俺は手を上げる。

 そうすると少女は本を大事そうに胸に抱え、受付の方へと歩いて行く。

 それを見届けて、俺も振り返る。



「――気をつけて」



「え――」


 うさぎの言葉が聞こえて振り返るが、そこには既に少女の姿はなく、長い廊下だけが影を落としていた。

 気のせいか何なのかわからず、俺は疑問符を浮かべつつも本棚を離れ、


 そこで思い出す。


 俺はこの場所に、と共に来ていたことを。


 薄ら寒い笑みを浮かべてこちらを見ている、アリスのことを。


「……」

「何も言うな」

「お前がわたしに手を出さなかった理由がようやくわかった」

「……」

「お前はあれだ。いわゆる、幼児性愛者というやつだ」


 ……だから何も言うなと言ったのに。

 俺は深いため息ののち、ここが図書館塔だということを配慮しながら思いの丈を述べる。



「断じて違う」


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