第十九話『謝罪』


「それが三年前。俺の子供時代、最後の夏だ」


 アリスの少し先を、うーっんと伸びをしながら黒衣は歩く。

 日はすっかり暮れていて、蒸し暑い夏の夜を虫の鳴き声が鳴り響く。


「そっからは大変だった。なにせ、一ヶ月もの間行方不明だった子供がひょっこり現れたんだ。それも、服も持ち物も、何一つ変わらない姿で。そりゃ誰だった驚くさ。当然親やら医者やら警察やら、いろんな大人に話を聞かれた。でも、誰一人として俺の話を信じてはくれなかった。俺が行った、あの世界の話を。そりゃそうだ。気が付いたら変な世界に行ってたなんて話、信じるわけがない。その上記憶は曖昧。誰もが嘘を吐いてるか、もしくは誘拐されて頭がおかしくなったと思ったよ」


 黒衣は軽く、意味もない身振り手振りを交えて話を続ける。

 だが今自分がどんな表情でそれを喋っているのか、自分でもわからない。


「中でも一番参ってたのは俺の両親だ。そりゃあ、突然子供二人が行方不明で、そんで一ヶ月後に突然還ってきたと思ったら頭がイカレてる。誰でもショックさ。そりゃな。特に俺は将来を有望視されてたから、そういうとこもあるんだろうな。おかげで、都内の有名校に進学するはずだった俺はオカシクなったガキ扱いで進学取り消し。地元の学校に放り込まれたってわけだ」


 そこまで話して黒衣は、不意に空を仰ぐ。

 夏の夜空に満点の星はなく、在るのはただただ暗い虚空のみ。住宅街の灯りが強いこの場所では夏の星座は拝めない。


「でも、そんなことはどうでもよかった。良い学校に行くとか、将来がどうとか、俺にはどうでもよかったんだ。……いや、違うな。本当はどうでもよくなかったのかもしれない。良い学校に行って、もっといろんなことを知りたかったのかもしれない」


 でも。


「でも、でももう違う。そうじゃなくなった」


 黒衣の話を、アリスはただ聞いている。

 口を開くことはなく、ただ。


「俺は姿を消して以降、どんなものにも興味を持てなくなった。まったく、おかしな話だ。以前なら楽しみで仕方なかった本は、まったく読む気になんてなれなくて。それまで楽しくてしょうがなかった勉強も、何もかも無駄なことにさえ思えてしまった」

「……」

「わかるか? 俺はあの世界に行って、全ての興味をあそこに置いてきてしまったんだ。楽しいとか、面白いとか、今まで輝いて見えてた世界が急に色褪せて見えて。それに気付いた時は本当に狂ったんだと思ったよ。だって、それまで俺が見ていた景色とは、決定的に変わってしまったんだから」


 ふと見上げたカーブミラーに、自分の顔が映る。その表情は決して悲嘆に暮れているわけでも、まして歓喜に満ちているわけでもない。そこに在るのは黒。ただただ何も無い、黒の瞳だけが自分を見返していた。


「でも、それさえも俺にはもうどうでもよかった。

 俺が気になったのは一つだけ。妹の――紗雪の、行方だけだ」


 紗雪。その名前を口にするのは、一体いつ振りか。

 忘れたことなど一度もない、大切な妹の名前。

 昔は何気なく呼んでいたその名前は、今は少し重たく、少し、言い難い。


「あの夏の日、確かに紗雪は俺の後ろにいた。いつものように、俺の背中を引っ張って。でもこっちに帰ってきたのは俺だけ。俺、一人だけだった」


 手が震える。それを認めるのが怖くて、手が、震える。

 でも、今更それを怖がってもいられない。それはもう、あの時に乗り越えたのだから。



「……置いてきたんだ。俺が、紗雪を――大切な妹を。あそこに、俺が――」



 掌に汗が溜まる。夏の暑さとは違う汗が。

 いや、きっとこの汗は、俺にとって夏とは関係ないものではなくなっているのだろう。俺の夏は既に、四年前のあの日からずっと、こんなジトジトとした暑さなんだ。俺の中の見えないものをジトリと絡みつくような、逃れようのないアツさ。それが今の俺にとっての、夏。


「だから、俺の願いはその時から一つだ。もう一度あの世界に行きたいとか、昔に戻りたいなんてのは思わない。ただせめて、俺は俺が犯してしまった過ちを正したい。


 ……俺は、妹を取り戻したい。あそこに置いてきてしまった妹を――紗雪を、取り戻したい」


 言いながら、後ろを振り返る。

 そこにいる金色の少女は、ただ黙して俺を見る。


「だから、協力してくれ、アリス。今の俺にはもう、それしかないんだ」


 深々と、俺は頭を下がる。

 お門違いなのかもしれない。昨日今日出会ったばかりの女の子にこんなことを頼むのは。それでも、少しでも可能性があるというのなら、自分の過去に【妖精】が関わっているのかもしれないのなら、


 俺は、それに縋りたい。


「…………」


 沈黙が日の暮れた路地を支配する。

 夏の夜。既に人の姿もなく、通りはひたすら静かで。虫の音すらこの時ばかりは一切聞こえない。おそらくはたまたまの偶然か、また俺の五感が勝手に場の雰囲気をそう作り替えてしまっただけだ。

 ただその時ばかりは、世界の全てがそれを待っているように感じた。


 アリスの――【妖精】の言葉を待っているように。


 そんな静寂が数秒ほど続き、アリスはハッと、口を開く。



「……長いわ」



「――――は?」


「長い。話が長い。なんだ人が黙って聞いているからといって長々とつまらん昔話などおっ始めおって。それもてんで面白みのない過去の失敗談ときたものだ。どこで笑えばいいのかイチイチ解説しながら話してほしいものだ!」


 え、えぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー……。


「あー損した! わたしの貴重な時間が大変損したわ! 何が楽しくてそんなうじうじした話を延々と聴かねばならんのだ。言いたいならせめて三行にまとめろ」

「いや、お前が話せって――」

「願いを言えと言っただけだ。それが何故貴様の暗い話を聴かねばならんのだ」

「うっ……」

「だいたい、男がうじうとと自分語りなど……。男なら英雄譚の一つでも嘯いてみせるところだろうが。それが何だ貴様は。過去の自分を長ったらしく罵って。マゾかお前は。特殊性癖の健康優良児か??」


 散々だった。散々な言い様だった。

「…………」

 言い負かされて無言になる俺を見て、アリスはわしゃわしゃと頭を掻きむしる。


「っ~~~~~~~~、……はぁ。まぁわかった。つまるところ、それがお前の起源で、原点なのだな」

「起源に、原点……?」

「お前という人間の起源にして、お前の願いの原点。それこそがその過去ということなのだろう」

「ああ……。たぶん、そうこうことになる」

「人にとって起源というものは大事なものだ。特に、【魔法】を使う【読み手】の身ならばな」

「どういうことだ?」

「【魔法】とはつまり、その人間の願いそのものだ。魔法は人間の願いによって形を変える。だが、同じ願いを持ったからといって、同じ魔法が発言するわけではない。その人間の願いの在り様。その人間の起源によって【魔法】は形を変える」

「なる……ほど?」

「……つまりだ。お前の起源にしてお前の【魔法】の起源はそこにあるということだ」

「?」

「……はぁ。あれほどの力を持ちながら、その自覚が未だないとは。これはとんだハズレくじを引いたものだ」

「もしかしなくても、今俺は馬鹿にされてるよな?」

「ああ。もしかなどしなくても、わたしはお前を馬鹿にしている」


 開き直りやがった。いや、コイツに関しては最初っからか。


「とにかく、だ。お前の願いの内容は理解した。あの漠然とした願いの意味もな。つまり、あの魔女はお前の過去を知った上であの様な誘いをしたということか」


 確かに、そうなるのだろう。


「だが、だからと言ってそれに応じていい理由にはならないと思うのだが?」

「……まぁ、その通りだよな」

「はぁ。まったく貴様は。わたしという可憐で美しい【妖精】と契約しておきながら、それを差し置いてあの様な者と手を結ぼうとするとは」

「すまない……」

「まったくだ。お前も男なら、もっとシャンとしろシャンと!」


 とアリスはバンバンと、背中を叩いてくる。


「いっっっったいっ」

「はっはっは。これで少しは背筋が伸びただろ」


 アリスは警戒に、腰に手を当てて笑い声を上げる。

 金髪碧眼の美少女には似つかわしくないその豪放磊落なさまに、なんだか少しだけ安心感が湧いてくる。


「そういえばお前」


 と、アリスは笑いを止め、口を開く。


「わたしが呼んだとき、応えなかっただろう」

「え?」


 何の話だ? まったく身に覚えが――、


「あ」


 はたと思い出す。

 そういえば先輩と話しているとき、頭の中にアリスの声らしきものが聞こえたときがあった。

 あの時は先輩が大丈夫と言ってたからあまり気にせずにいたが。


「やはり! 聞こえていたのではないか!」

「や、スマン。あの時はよくわかってなくて。気のせいかもって思ってたから……」

「また貴様はそうやって……、はぁ。まぁよい」


 あ、あれ?


「だが、わたしたちは相棒――パートナーなのだからな。お前が窮地にいれば助けるし、危険が迫れば駆けつけよう。だが、わたしは【妖精】なれど神ではない。何でもきでる自負も、自信もあるが、それでも困ることもある。無論助けろとは言わん。人間の身は【妖精】に比べればどうしたって貧弱だ。だがせめて、応えることはしてくれ。まだ出会って一日と経ってはいないが、それでも、お前はわたしが此処で出逢えた最初の人間。パートナーなのだから。その人間がもし死にでもしたら、さすがのわたしも……悲しいぞ」


 今日一日。常に気丈に振る舞っていたアリスの顔が、ここで初めて悲しさに染まった気がした。表情としては変わらない。常と変わらぬ、凜々しくも美しいその相貌。だが今はなんとなく、本当になんとなく、憂いを帯びているように見えていた。


 だからこの娘に、そんな表情をさせてしまったことを後悔して。


「ああ。ごめん」


 知らずうちに、そう、口にしていた。

 ちっとも似ていない。性格も見た目も言動も。何一つとして似てはいないけど。

 それでもその時のアリスを、黒衣はなぜか妹と重ね合わせてしまっていた。


 だからなのだろうか。

 いつの間にか、俺の右手は金色に揺らぐアリスの頭をそっと撫でていた。


「……おい。これは、なんのつもりだ?」

「あ。えっとこれは……、すまない」


 自分の迂闊すぎる行動に気が付いても、動かした右手はなぜか退けようとしない。


「謝る前に、手を退けないか」

「ああ。ごめん」


 アリスの額の怒りマークが増えていく中、俺は未だ手を退ける気になれず。


「今度は、俺も助けるから」


 そう呟いて俺は、飛んできた拳によって吹き飛ばされた。

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