第十八話『夏の夢』


 それは小学六年生の、夏。

 そうちょうど、今のような暑い、暑い夏の日だった。


 その頃の世界は輝いていた。

 ありとあらゆるものが光に満ちていて。手を伸ばせば、そこは不思議と日常が共存する未知の世界で。

 目にするもの、耳にするもの、触れるもの。その全てが目新しく、毎日が発見の連続だった。

 世界は面白いことだらけで、世界はどうしようもなく美しかった。


 その頃の俺は、いわゆる天才と呼ばれていた。

 触れるもの全てに興味を示し、その全てで目を見張る成績を残していた。勉学だろうとスポーツだろうと、幼い俺にとってそれらは見たこともない未知の存在で。不思議と未知に満ち満ちてたそれらは、どんなものであろうと最高の冒険だった。

 一日一日が色濃く溢れ、どれほどの時間が経とうと褪せることはない。自分の知らない世界がこれほどまでに広がっている。その事実が、どうしようもなく愛おしかった。




 そんな夏休みのある日。


 その日はたまたま、本当にたまたま塾も習い事も何もない日だった。

 疲れも飽きも知らず、常に何かに没頭していた当時の俺にとって、そんな何もない日というのは本当に珍しく、どんな一日を過ごそうかと悩んでいたものだ。

 考え抜いた俺は以前より興味のあった、学校近くの山へ虫取りをすることに決めた。

 夏休みも入ったばかりだったが、すでに宿題も何も終わらせていた俺は「また自由研究が増えてしまうな』なんてことを軽く考えていた。



「まって、お兄ちゃん」



 ああ、そうだ。その時のことは、今も鮮明に覚えている。


 俺の脳裏によみがえるのは、小さくか細い声で俺の名を呼ぶ、小さな女の子。


 おかっぱにした黒髪がよく似合うその女の子の名前は、宇佐美うさみ紗雪さゆき

 俺の二つ下の、妹だ。


「お兄ちゃん、どこいくの?」


 天才、神童などともて囃されていた俺とは違い、勉学の成績はどれも普通。運動はあまり得意ではなく好きなものは日曜朝のアニメ。人より優れているところも劣っているところも特にない、どこにでもいる普通の可愛い女の子だった。


 紗雪はとにかく俺の後ろをついてくる子だった。俺がどこかに遊びに行くときも、俺が新しい習い事を始めるときも、同じようについてきて、同じように始めていた。いつも俺の背中を引っ張って着いてくる姿を見て、よくカルガモの親子のようだと言われたものだ。



 その時も、そうだ。俺が虫取りへ行くと言うと、


「わたしもいく」


 と言って着いてきた。


 それはいつものこと。いつもの風景。

 俺も笑顔で了承し、俺と妹は家を出た。



 そして日暮れ。

 

 長く伸びた自分の影を踏みながら、俺は妹の手を繋ぎ帰路に着いていた。

 結果は上々。山の全ての昆虫を獲ったと豪語できるほどの大収穫で、俺は満足して家へと向かっていた。


 妹はというと、これもいつものことで、自分は何もしていないというのに、虫を穫る俺を見てころころと楽しそうに笑っていた。今もそうだ。「お兄ちゃんすごい!」なんて嬉しそうに笑っていて、まるで自分のことのようにはしゃいでいる。

 この笑顔を見ると、達成感は倍くらいに膨れ上がる。


 そんな、ときだった。



「――――――――」



 何かが通った。

 

 目の前を、何かが。


 妹は気付かなかったのか、急に立ち止まった俺を見てキョトンとしてしまう。


「お兄ちゃん?」


 妹が小さく服を引っ張ったことで俺は我に返る。

 だが、それでもさっき目の前を通ったものが何なのか、気になって仕方がない。


 目の前を通った何かは、すぐそこの路地へと消えていった。


 すぐそこの。ほんのちょっと行くだけの場所。


「お兄ちゃん?」


 妹が再度、俺を呼ぶ。

 俺はそれに答えず、歩き出す。

 向かうのはもちろん、道外れの路地。


「お兄ちゃん……?」


 急に道を外れた俺を疑問に思ったのか、それとも俺の態度を変に思ったのか、それはわからない。

 ただその時の声が、どうしても頭から離れない。

 その声が僅かに不安の色を帯びていたことも、俺を見つめていた視線も、全部、今も思い出せる。


 そしてその声を、俺が無視したことも。



 路地の先には、それがいた。

 まだ遠くて何かはわからなかったが、白い色をした何か。

 俺はそれが何なのかもっと見たくて、さらに路地を奥へと進んでいった。

 知らずうちに足取りが早くなっていたのか、俺のズボンの裾を掴む妹の手はまるでしがみついているようで。 それでも俺は、進むことをやめない。


 やめられ、なかった。


 持ち前の好奇心もあったのだろう。

 子供ながらの無邪気さもあったのだろう。

 だがそれ以上に、そこにいる何かに俺は無性に惹かれていた。

 そこにいる何かは、俺が今まで経験した何よりも、不思議に満ちているような気がしたから――。



 ふと気が付くと、そこは何処かだった。


 知らない何処か。

 見たこともない何処か。

 ただわかった。

 ここは今までいた場所から遠い何処かなのだろうと。


 俺は右を見る。

 見たこともない建物が並び、そこには見たことのない生物が話をしている。

 俺は左を見る。

 小さな生き物や大きな生き物が大きな穴へと潜っていく。

 俺は上を見る。

 島だ。島が空を浮いている。雲を白波のように引いて大空を流れている。


 そうだ。ここは知らない世界だ。

 自分の知らない不思議の世界。

 今まで本で見たような、今までテレビで見たような、そんな不思議と未知に満ち満ちた世界。


 御伽噺のような不思議が当然としてそこに在る、そんな世界に自分は来たのだ。


「お兄ちゃん」


 そこでようやく、俺は妹へと振り返る。

 震えていた。

 突然こんなところに迷い込んで、妹は恐怖に震えていた。

 当然の反応、なのかもしれない。

 見える全ては自分の知らない、理解の及ばないものだ。

 だが俺は、そんなことを気にしている余裕などなかった。


「――――」


 そのとき俺が何を口にしたのかは覚えていない。

 おそらく自分のことばかりを考えた、身勝手な内容だったのだろう。

 妹の心配などこれっぽっちもしない、自分勝手な。



 そこからの記憶は曖昧だ。

 何処かで何をして、どうしたのか。

 その一切が思い出せない。


 ただ、気が付いた俺はあの路地の中倒れていた。


 俺と妹が世界から消えてた日から、一ヶ月もあとに。


 妹だけを、何処かにおいて。

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