第十話『本の鬼』


「んん~~~~~~~~っ」


 透き通る金糸の髪を揺らして、碧眼の少女は高く澄み渡る青天へ深く伸びをする。

 たったそれだけのことなのに、その様はあたかも一枚の絵画のように美しく。激しく揺れ動く少女の姿はまさに絵本の中から飛び出してきたお姫様だ。

 いいや。見惚れていて忘れてしまうが、この少女は正真正銘、絵本から飛び出した登場人物(お姫さま)――らしい。今はまだ、自称ではあるのだが。


「うむ! 天高く広がる空! 差し穿つほどに降り注ぐ陽の光! 目まぐるしく響き渡る雑音の数々! うむ! うむうむうむ! やはり外は素晴らしいものだ! ちと空気が不味いのが玉に瑕だが……、まあそれはそれで味があって良いというもの。な、お前もそうは思わぬか、人間?」


 小気味良く、実に小気味良くそう発するアリスに対し、黒衣は――


「思わねぇ」


 と、不機嫌極まりない低音ボイスでそんなことを言う。


「ふむ。ノリの悪いヤツだ」


 そんな黒衣の対応にアリスは機嫌を悪くした様子もなく、ただそれだけを言って再び空を仰ぐ。


 二人が訪れていたのは、教室棟屋上。普段ここは生徒たちの憩いの場の一つであり、昼休みにもなると多くの生徒がここで昼食を取ろうと訪れる。調理部が経営する屋台や、演劇部による即興劇など、多くの催し物で賑わう、中庭と並ぶ人気スポットだ。だが、今の屋上には生徒は疎か、人っ子一人存在しない。それもそのはず。現在はまだ休み時間になっておらず、今もなお授業は継続中。体調不良を良いわけに教室から抜け出してきた黒衣と、どうにも他の人間には見えていないらしいアリスの二人だけが、この人気のない屋上へと訪れることができているのである。

 端から見ると、授業を抜け出し女の子と二人っきりでサボタージュデート。的な感じなのだが、黒衣からはそんな雰囲気は全くもって感じられず、むしろ機嫌は最悪といった感じである。


「そんなことより、一体どういうことなのか説明してくれ。こっちは今朝から聞きたいことだらけで、頭がどうにかなりそうなんだよ」


 がしがしとと頭を掻く黒衣に、アリスは眉をひそませる。


「ふむ。せっかちなヤツだ。せっかちはモテぬぞ?」

「お前なぁ……」


 ああ、確かに。この妙に揚げ足をとってくる感じ、昨日聞いた気がする。


「……ふむ。仕方ない、話してやるか」


 ありすはそう言うと、プラチナブロンドの髪をふぁさりとかき揚げ、黒衣に向き直る。

 陽の光を乱反射させる黄金の髪がまた、黒衣を見惚れさせる。


「さて、何から話すべきか……」

「まず……これだけは先に聞かせてくれ。昨日の――昨日だと思っていたあの夜は……、現実なのか?」


 ごくりと。渇いた喉が音を鳴らす。

 昨日とはまた違う緊張感が夏で茹だった黒衣の体温を下げさせ。

 碧い瞳が、黒衣の双眸を射貫いて光る。


「ああ。現実だ」


 その声が鼓膜を打った途端、黒衣はドッと背後にあった花壇の淵に腰を下ろす。

 汗が――暑さとは関係のない汗が額から湧き出るのを感じる。


「やっぱ、そうなのか……」


 安堵しているのか不安なのか、今の自分がどちらの感情にいるのかわからない。頭と心がぐちゃぐちゃだ。

 あれが、あんなものが現実だったのかと、今更ながら困惑する。だがそれと同時に、別の疑問も沸いてくる。

「じ、じゃあ何で俺は死んでない? 俺は、確かにあの時……あの大男に――」


 言いかけて、言葉が途切れる。

 脳裏に浮かぶのは、昨夜の出来事。視界全てが紅に染まり、暑さとは違う熱さが全身を焦がす。

 そんな地獄に等しい記憶を思い出しながら、黒衣は苦虫を加味し潰した思いで口を開く。


「――殺された、はずだ」


 心臓を握りつぶすように、自分の左胸を強く握る。

 鼓動を感じる。意識を向ければ、自分の体が脈打っていることは感じられる。

 だが覚えている。あの時はほとんど意識もなく、体は冷たく、手足の感覚もなくなっていた。だがそれでも、自分が死んだ感覚は、確かに覚えているんだ。自分が次第になくなっていく感覚を、確かに、覚えている……。

「ああ、そうだな。殺された。それも見るも無惨に、見事なまでにぱっくりと、真っ二つに割られてな」

「うぐ……」


 そんな黒衣を気遣う様子もなく、アリスははっきりと断言する。


 わかっていたが、やはり自分の死に様をまざまざと語られるのはそれなりにクるものがある。いや、いっそのこと清々しいかもしれない。気持ちが楽になるような、やっぱり気持ち悪いような。


「まったく。男なら自分の死に様くらいで動じてどうする。己の死の一つや二つ、笑って誤魔化すくらいしてみせろ」

「んな無茶な」

「言い訳はよい。それよりも、聞きたいのはそれだけじゃないのだろう」

「あ、ああ……」


 非道く自尊心を傷つけられた気がしないでもないが、今は情報が優先だ。


「俺が生きている理由。それを教えてくれ。何で俺は死んでない。そんな生きているのが不思議なくらいの死に方をしたのに、何で俺は生きて、その日の朝に戻ってるんだ」


 それが、当面の一番の謎。死んだ俺が時間を巻き戻って生きている理由。


「ふむ。それについては少々複雑なのだが、簡単に説明するならば――



 魔法だ」



「…………は?」


 やたら決め顔で、そんなことを言ってみせる。


「む? 何だ、聞こえなかったのか? お前が生きているのは魔法の力だと言ったのだ」

「い、いや、別に聞こえなかったわけじゃない。けど、そんな魔法なんてファンタジーな話……」

「なんだ、今更それを言うのか?」

「っ……」


 信じられない。そう言う前に、思い出させられる。

 そうだ。俺は昨晩どこにいた? 悪夢や妄想だけじゃ説明のつかない場所に、現象に、事態に、巻き込まれていたんじゃないのか。それを今更、魔法という最もわかりやすいファンタジー存在を否定するというのか?


「……オーケーわかった。とりあえず、仮に魔法があったとして――」

「ふむ。強情なヤツだ」

「――あったとして、だ。その魔法とやらを使ったのは誰だ? お前か? 『本の妖精』」


 黒衣は問う。昨晩、願いを叶えると嘯いていた『本の妖精』に。この事態を引き起こしたと考えられる、最もわかりやすい容疑者に。


「……違う。わたしではない」


 だが、予想に反して『本の妖精』は否定する。

 しかし黒衣は、その否定をどこか勿体ぶって言ったように聞こえていた。まるで、イタズラ好きの子供のように、今か今かとそわそわとしているかのような。

 その証拠に、鮮やかな朱が差す唇がうっすらと笑っているように見える。


「じゃあ誰が」


 待ちきれず、黒衣は尋ねる。

 するとアリスは、すっ――と静かに、ガラス細工のような指先を持ち上げて、



「お前だ、人間」



 と、静かに告げる。


「俺……? 俺ってどういう――」


 理解にかける答えに黒衣は再び目の前の少女に問うが、当の少女は黒衣から視線を外し、貯水タンクの方になど視線を向けている。


「? おい、どうし――」

「いつまでそこでこそこそしているつもりだ。さっさと出てきたらどうだ、道化ども」


 言葉の意味が理解できず、黒衣もそちらへ視線を向けた――その時だった。


「っ」

 一陣の風が舞う。そして、


「……ふむ。これはまた、なかなかにご挨拶だな」


 カチャリ。聞き慣れない金属音を鳴らし、それは唐突に現れた。 

 陶芸品のように優美なアリスの首筋に向かって、それは長く緩やかな弧を描いて伸びている。テレビや漫画などで目にしたことはあれど、実際にお目にかかる機会は滅多にない代物。包丁やナイフと違い、それは日本古来より人を殺めるために鍛えられた人殺しの道具。


 一本の刀が、その切っ先をアリスへと向けていた。

 一人の、男の手によって。


「なっ……、おい、アリス――」

「動かないで」


 黒衣が声を上げた途端、別の声によって制される。

 女性の声だ。凜とした印象のある、よく通る鈴の音のような声。

 だがその声の主を探すよりも先に、黒衣ははたと気付く。首筋に突き立った、冷たい感触に。


 自然と視線はそちらへ流れていく。そこにあったのは、長さ十五センチほどの刃物。ナイフというには芸術的で、太刀というには短い。それはいわゆる小太刀。その小太刀が首筋へと軽く、しかし確かな殺意を纏わせてあてがわれていた。


「あら。逃げないなんて結構かしこいのね、貴方」


 再び耳元で声が鳴る。この声、聞き覚えがある。確か、何度か学生集会のときに壇上に立っていた、眼鏡の女の子。満月も一目置く、図書委員会の若き長。名前は、確か……、


「鬼瀬……、杏っ……!」



 図書委員会会長、『本の鬼』の異名を持つ秀才・鬼瀬杏の顔が、そこにあった。



「あら、あたしのこと知っているのね。他人に興味ないと思ってたんだけど、意外ね。宇佐美黒衣くん」

「っ……」


 俺を知っている……っ。


「あら? 何で知ってるのか、って顔ね。別に、大した理由じゃないわ。一応、全校生徒の顔と名前は暗記してるってだけなんだけど。気分を害しちゃったならごめんなさいね」

「っ…………。いや、謝るんなら、まずはこの状況どうにかしてくださいよ」


 黒衣はどうにか声を絞り出し凄んで見るが、


「それは無理♪」


 キ――、と音のない音が黒衣の脳裏に響く。

 途端、首筋をぬるりとした感触が襲う。

 確認するまでもない。血だ。

 黒衣は首筋を流れる不快感を噛み殺し、口を開く。


「……な、なんでこんなことするんですか、先輩?」

「あら? それはアナタが一番よく理解していると思ったのだけど?」

「な、何のこ――」

「とぼけないで」


 ぐり、と首筋に当てられた小太刀に力が込められる。当てられた箇所には段々と痛みが増していき、白のワイシャツに赤が滲んでいく。


「わからないかしら。わたし、これでも結構怒っているのよ? いいえ、呆れているのかもしれないわね。何にって、それはわたしの愚かさによ。あのときわたしが気付いてさえいれば。いいえ、手っ取り早くアナタを殺していれば、こんなわけのわかんない事態にはならなかったかもしれないのに、ってね」


 な、何を言っているんだ……、この女は。


「ね、そうは思わない?」

「ぐ……」


 ぐぐぐ……。ゆっくりと、小太刀が黒衣の首筋を抉っていく。筋繊維をぷつぷつと一本ずつ切っていくかのようにゆっくりと、舐めるような速度で。


「だ、だから……っ、何のことを言って――」

「昨日のこと、覚えてるわよね?」

「っ……」

「ほら。やっぱり覚えてるじゃない」

「じ、じゃあ、アンタも覚えて――、ぃっ!」


 ぐ――、とさらに力は込められる。


「先輩、もしくは会長よ。仮にも年上なんだから。そういうの、結構大切なことよ」

「……せ、先輩も、昨日のこと覚えてるん、ですよね?」

「ええ、覚えているわ。昨日――正確には、本来の土曜日、と言うべきかしら」


 やっぱり。アリスの他にも、昨日のことを知っている人間がいるとは。


「な、何で……」

「さあ? それをアナタに聞きたかったのだけれど。そのようすじゃアナタ自身もちゃんとわかっていないのかしら。それじゃあ――」


 スゥ、と杏の視線は横に流れ、正面に立つ黄金の少女へと向けられる。


「そこの可愛らしい【お姫様】に聞いた方が、早いのかしら」

「ふん」


 刃物を首筋に突き立てられてもなお堂々とした佇まいで、アリスも杏を睨み返す。


「ご機嫌麗しゅう、淑女レディ。いいえ、ここはただしく名前で呼ぶべきかしら? かの名高き童話の主人公にして、ありとあらゆる『妖精』の頂点に君臨する【姫】。


 『不思議の国のアリス』の主人公、アリス」


「は?」

「ふむ……。そこの若造と違って、お前の方はそれなりに理解しているようだな」

「ええ。場数なら、それなりに踏んでいるつもりですから」

「ふむふむ。だが惜しいな。それならば、わたし相手にこのような無粋な真似は通用しないと予想して然るべきだったな」


 そう言って、アリスは自分の首元に刃を突き立てる男を指差す。


「それは保険です。大切でしょ? そういうのって」

 にっこりと、全くもって笑っているように見えない笑顔で杏は答える。


「ふむ。計算高いのも良いが、女ならばもう少し大胆さがほしいというものだな」

 つまらん、とでも言いたげにアリスは息を吐く。

 今まさに殺され賭けているというのに、実に呑気なものだ。見ているこっちの心臓が痛くなる。


「おい」

 と、さきほどから沈黙を決め込んでいた日本刀の男が声を漏らす。


「私も、こういうことはあまり好む方ではないのだが、あまり動かないでくれると助かる。思わず、手元が狂ってしまうのでな」


 男は抑揚のない声でそう言う。

 男の服装は時代劇などで見たことのある特徴的な紅白の衣装だ。かみしもと呼ばれる、現代では時代劇などでよく見かける衣装だが、それを黒衣は知らない。髪型もポニーテールのように後ろでまとめた髷をしている。


「ふむ。極東の騎士ナイトか。確か、サムライというのであったか。なるほど。確かになかなかの業物だ。我が祖国のそれとは違い、殺しの道具として特化されてなおこの美しさ。故郷への土産に一つ欲しいくらいだな」


 つつつ――、とアリスは不用意に首筋の日本刀へ触れる。その顔はどこか楽しげで。まるでイタズラを思いついた子供のように意地の悪い笑顔をしている。


「だが、それを持つ者の腕はどうだろうな」

 そしてその予感は当たっていた。

「やめておけ。私に、そんな安い挑発は意味がない」

「なに、挑発ではないさ。わたしはこう言っているのだ。こんな遠回しなやり方ではなく、さっさと死合おうと」

「…………」

「わたしもあまり気の長いほうではないのでな。あまりまどろっこしい真似は、好きではないので……、なっ!」

「っ――――!」


 ガキン――っ

 金属がぶつかり合う激しい音が鳴り響き、紅白のサムライと黄金の少女との間に火花が散る。

 何が起こったのか黒衣の目には見えなかったが、それが互いの得物同士がぶつかり合った音だということは理解できた。

 なぜなら、挑発的に笑うアリスの手にはいつの間にか、さきほどまでは持っていなかったはずのもの、


「……日傘?」


 日傘パラソルが、握られていたからだ。


「ほう。これはまた奇妙なものを振り回すじゃないか。小娘の遊びにしては、ちょうどよいのではないか?」

「ふむ。道楽かどうか、試してみてからでも遅くはないのではないか?」

「なるほど。それも一興――かっ!」


 瞬間、それは起こった。


 サムライとアリスとの間にあった距離はわずか三メートルほど。その空間が、次の瞬間には殺陣の嵐と化していた。

 黒衣の目にも、おそらく杏の目にもそれは見えてはいなかっただろう。ただわかるのは、その場の空気が目まぐるしく揺れ動き、辺りに奇妙な風を逆巻かせているという事実のみ。

 だが、黒衣は理解する。その奇妙な現象こそ、今まさに行われている二人の剣戟なのだと。

 二メートルを超える長さの日本刀と、僅か一メートルほどしかない日傘との打ち合い。

 互いの業を削り合わせるかのような、まるで一つの舞を踊っているかのような、それは陣地を超えた必殺の応酬。他人が入る余地など一切ありはしない、殺し合いだ。


「ったく、何勝手に始めてんのよあのバカ。ちょっと桃! 殺したら意味ないんだからね!」

「無論、承知しているっ!」

「それは聞き捨てならないな。誰が誰を殺してしまうと?」

「ほう、これは意外だな。話では聡明な淑女と聞いていたのだが、あまり察しの良い方ではないと見える」

「ああ確かに、少し耄碌していたのかもしれないな。なにせ、殺される方が殺すと言っているようにきこえたものでな」

「抜かせっ……」


 剣戟はさらに激しさを増していく。


「ち、ちょっと! 何余計熱くなってんのよ、もう!」


 全く耳を貸そうとしない二人に苛立ちを露わにする杏。というか、それが素のキャラなのか?

 楽しそうに剣戟を交わすアリスに、それに応対するサムライ。そんな二人に手をこまねく杏。いつの間にか、場は硬直状態と化す。

 だが、これは好機だ。サムライもアリスにかかりっきり、杏はどうやら冷静さを欠いているらしい。この隙に、なんとか抜け出す方法を――、


「動かないでって、言ってるでしょ」

 その声と共に、さらに小太刀が食い込んでくる。


「ぐ……」

「厄介な問題児が二人もいるの。アナタくらいはわたしの言うことを聞いてくれてもいいと思うのだけど?」


 駄目だ、逃げ出せない。黒衣が動かしたのは体の重心のみ。その僅かな挙動一つで、杏は黒衣に逃亡の意思があると見抜いてしまったらしい。

 逃げ出すことはおろか、逃げだそうと画策することすらもできない。八方塞がりだ。

 だがどうにかこの状況を打開しなければ、このままいいようにされて――、



≪大丈夫……≫



 チ、チ、チ、チ、


 その時だ。


 ……カチリ


 それは、一瞬だった。

 ほんの僅か。

 須臾にすら満たない時間。


 ――――。



 世界が、停止したかのように見えた。



「え――」

 音は消え、風も消え、あたかも世界が消失したかのような虚無感が黒衣に飛来する。


「とと……」

 僅かに抵抗していた力のまま、黒衣はするりと杏の刃から抜け出してしまう。

 何が起こったのか、黒衣が杏の方を振り返ろうとして――、


 唐突に、世界は動き出す。


「ちょっと桃! いい加減にしなさいって何度言ったら――」


 黄金色と紅白による剣戟の音も、焦りの色濃い杏の叫びも、何事もなかったかのように再開する。

 まるでおかしいのは黒衣の方だとでも主張するかのように、世界は再び進み出す。


「――って、アナタ! いつの間にそこに――」

「え、あー……」

 ようやく異変に気付いたらしい杏が、叫びを上げる。


「いやー……、俺にも何が何だか……」


 事実である。黒衣自身にも何が起こったのか理解なぞ出来ていない。

 だがそんな言い訳が杏に通じるわけもなく。


「どうやったかわからないけど、いい度胸ね。あたしから逃げ出すなんて。いいえ。逃げられるなんて、少しでも思ってしまうだなんて」

「あ、ちょっと待――」

「『ほ』『へ』『と』『ち』『り』『ぬ』」、来なさい!」


 何かを呟いた途端、杏が手に持つ小太刀と同様のものが六本、黒衣を取り囲むように出現する。


「いっ――」


 杏が腕を一振りすると、それらの小太刀が一斉に黒衣へと迫る。具体的に言うと、黒衣の首元へ。


「や、やめっ――」

 そして――、


 チ、チ、チ、チ……、カチリ。


 再び、世界が止まる。


「――――っ!」

 再び訪れた音のない世界で、今度は黒衣自らの意思で転げるようにして小太刀の輪から抜け出し、


 そこで、世界はまた動き出す。


 キンッ

 そんな無機質な音が背後で鳴る。

 振り向けば、カランカランと目標を失った小太刀が地面へと落ちていた。


「なっ……!」

 杏は驚きに言葉を失う。


「――高速移動っ!? 身体強化の魔術? いいえ、魔法っ!」


 余裕を見せていたさっきまでと打って変わり、杏は黒衣に対し身構える。目の前に相対した異質な存在に、ようやく警戒心を覚えて。


「驚いたわ。油断していたとは言え、まさかわたしの剣から逃れるなんて」

 その手にはいつの間にか、一本だったはずの小太刀が日本に増えており。

「いいわ。ええいいでしょう。わかったわ、わかりました。アナタがその気だと言うのなら、受けて立ちましょう。戦争を」


 その鋭い切っ先を黒衣に向けて、消える――。


「ぐ――っ」

 次の瞬間には、杏は黒衣の目の前へと現れ、両手を交差させて押し倒す。その手に握られた小太刀で黒衣の首を挟み込むようにして。


「捕っ――」

 た。

 後に続く言葉は容易に想像できる。

 だが、その台詞が言い終わるよりも前に、勝負はすでに決していた。


「…………」

 杏は確かに手応えを感じていた。両の刃は確実に黒衣の首を捉え、勢いをそのままに地面へと組み伏せた。長年の鍛錬を培った腕も、自信のある洞察眼も、なによりも自分自身がそうだと確信を持っていた。

 だが――、



 黒衣は、何事もなかったかのように、目の前に立っていた。


 いつの間にか、なんてことがあるはずがない。戦闘態勢に入った自分が標的を見逃すはずがない。瞬きすらしていないのだ。逃れる術など、あるはずがない。

 だが、


「あ、アナタ……、いったい……」


 確かに黒衣は抜け出していた。

 唖然。自分の理解を超えた現象に、杏は放心するしかなかった。

 そしてそれは、この現象を引き起こした本人も同様だった。


 どうやったかなどわからない。自分がやったことなのかもわからない。

 ただ、何が起こったのかだけは理解できていた。

 黒衣は自身の胸を掴む。

 そこにあるモノの僅かな振動を感じて、これがこの現象を引き起こしたという自分でもよくわからない確証を持って黒衣は思う。

 これは、これが――、


「『魔法』だな」


 そしてその心の声は、知らずうちに目の前に立っていた代弁者によって言葉にされる。


「ほ、……アリス」


 いつの間にか、激戦の様相を呈していたアリスとサムライの戦いは終了してたらしく、先ほどまで戦闘に使用していた日傘も今はなく、アリスは散歩でもしているかのように軽い雰囲気で立っていた。


「随分と楽しそうにしているじゃないか、人間」

「お前……、どの口がそれを言うんだよ」


 楽しそうに笑うアリスを尻目に、黒衣は杏の方へと視線を移す。

 見ればサムライも、黒衣に逃げられ唖然とする杏の元へと歩き寄っていた。


「ふ……。まんまと出し抜かれたようだな、あん。君にしては珍しい」

「う、うるさいわよ桃。それにその名前で呼ぶなって何度言ったら――」

「それはお互い様というやつだ。私の方も、桃などという略称ではなく、ちゃんとした名で呼んでくれと言っているはずだが」

「アンタの名前はどっちも長いのよ」

「まったく……、我が侭な主だ」


 そんな会話を一通り繰り広げた後、杏は桃と呼ばれたサムライに手を引かれて立ち上がり、再び黒衣とアリスへと向き直る。


「いいわ。認めて上げるわ宇佐美黒衣くん。今回はあたしの負けよ。素人だと思ってたアナタに出し抜かれたんですもの。素直に降参するわ」


 そう言って杏はひらひらと両手を挙げる。よくよく見れば両手に持っていた小太刀もいつの間にか消えている。


「……えらく素直なんだな」

「あら? あたしはずっと素直なつもりよ? 知らなかったかしら?」

「知らん」

「うん。まあいいわ。それよりも、一つ聞いてほしいこと――というより、頼みたいことがあるのだけど」

「頼みたいこと?」


 何だ? 突然。


「大丈夫よ、そんなに警戒しなくても」

「突然襲ってきておいて信用できるとでも」

「まあそうね。それに、大丈夫ではないかもだし」

 どっちだよ。


「いいわ。とりあえず話を進めましょう。代わりに――というのもなんだけど、アナタたちの質問に何でも答えてあげるわ」

「なんでも……」

「わかってるとは思うけど、なんでもはダメだからね」

「あ、はい」

 何故だか怒られた気分になる。


「頼みたいって言っても、そんな難しいことじゃないわ」

「そう、なのか?」

「ええ。単純なことよ」

 そう言って杏は一拍溜めると、



「あの大男を退治してほしいの」



 と、そう笑顔で口にする。

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