第九話『朝、』


 ピ……、ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ


 ……うるさい。

 どこか遠くで音がする。

 そんなことはわかっているが、どうにも今日は気分がよろしくない。

 だから今日は、もう少し寝ていたい。

 幸いにも本日は日曜日。

 誰がいつまで寝てたって、文句は言われないだろう。

 それになりより、とてもとても面倒くさ――、


「うるっさぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああい!!」


 突如現れた訪問者に、微睡みの中に揺蕩っていた意識は半強制的に浮上させられ、黒衣はベッドから転げ落ちた状態で声を上げる。


「ね、姉さん……?」


 この人の名前は流郷綺亜羅るごう きあら。黒衣が通う音戯学園の現役教師であり、家を空けがちな両親に代わり、黒衣の身の回りの世話をしてくれている(しているとは言っていない)黒衣の従姉弟である。担当教科は体育。昔から運動が得意で、柔道空手合気道、その他多くの格闘技を修めており、中でも空手の腕は世界有数と言われるほどで、世界五輪強化選手にも選ばれたこともある実力者だ。現在では選手としての活動はしていないものの、空手部・柔道部の顧問としてその力を思う存分に発揮している。ちなみに、柔道部の方はバレー部と共に全国大会出場経験のある強豪である。


「くろ! お前は一体いつまで寝ているんだ。さっきから目覚ましずっっっっと鳴っているんだが? いい加減起きろ!」


 綺亜羅にそう言われ、黒衣はベッドにある目覚まし時計に手を伸ばす。目覚ましは相変わらずけたたましい音を部屋中に響かせ、定刻を回っていることを黒衣に知らせている。


 ――現在時刻、午前七時三十分。


 確かに、いつもの起床時刻を過ぎている。だが「いつまで寝ている」とまで言われるほどではないはずだ。

 しかしそんなこと気にした様子もなく、姉はその豊満な胸の下で腕を組み、まるで女性であることを窺わせない威圧感で黒衣を睨んでいる。


 まぁ確かに、いつもよりは遅い起床なのは納得だ。寝過ごすということがあまりない黒衣にとっては珍しいことだろう。そして、毎朝朝食を作っているのは黒衣だ。そんな黒衣が定刻に起きなければもちろん、朝食が遅れてしまうこと請け合いだ。腹を空かせた肉食獣(二九)にとっては死活問題なのだろう。


 だがしかし、と黒衣は思う。だがしかし、待ってほしい、と。

 確かに俺は毎朝朝食を作っている。どころか、夕食の支度から姉さんの昼食用の弁当すら俺が作っている。例外など存在しない。毎日だ。

 そんな俺がたまたま寝過ごしてしまった休日の朝くらいゆっくりしたいと思うのも当然のことではなかろうか。学生なんて楽なんだから、と思う人もいるかもしれないが、学生にとってもやはり休日は貴重なものだ。たまにの一日くらいサボったっていいじゃないか。

 と、黒衣はしみじみと心の中で思いつつ、口を開く。


「そんなわけで、姉さん。日曜の今日くらい姉さんが飯を作ってくれたっていいと思うんだ、俺は」

「何がそんなわけかはわからんが、くろ。お前一つ勘違いをしているぞ」

「ん?」


 綺亜羅は何やら背後を指し示す。

 そこにあるのは廊下に取り付けられた一枚のカレンダー。日付がでかでかと書かれた、どこにでもあるごくごく一般的な日めくりカレンダーだ。

 だが、黒衣はその日めくりカレンダーに違和感を覚える。

 そこにかかれてある今日の日付。その日付がなぜか、赤ではなく黒だった。

 休日を示す赤ではなく、平日を示す黒の文字。

 何か決定的な違和感を胸中に抱く中、綺亜羅は何気ない口調で黒衣に告げる。


「今日はまだ日曜日じゃない。土曜日だ」


「え……?」


   *


 スマホのカレンダー、七月〇日(土)。

 今朝のニュース。

『おはようございます。午前八時となりました。本日土曜日の新着ニュースは、最近巷で騒がれている集団失踪事件について――」

 教室黒板の日付、七月〇日土曜日 日直――。


「おかしい」


 宇佐美黒衣は教室の机の上で頭を抱えていた。

 あの後、綺亜羅に急かされるように朝食の支度をし、半信半疑のまま家を出た黒衣は、学校へ着いて愕然とした。

 到着した学校は黒衣の予想に反していつも通りの風景で。足早に登校する生徒や部活の朝練を終えた生徒、悪ふざけをしながら歩く男子生徒や、それを注意する委員会の生徒など。そこには様々な生徒で溢れていた。

 とても今日が日曜日だなんて思えない。それはいつもの、そして当たり前の朝の学校風景。

 異常などどこにもあるはずもなく。誰もがいつも通りで、誰もが普通。それはありふれた平日の、ありふれた土曜日の光景だった。


 そしてそれは変わることなく時は進み、今は三限目を終えた後の休み時間。

 相変わらず日付は土曜のままで、そのことに違和感を覚えているクラスメイトは一人もいない。ただ一人、黒衣を除いては。


 はぁ……、と黒衣は年不相応のため息を漏らしていると、


「どうした黒の字。ご機嫌麗しゅう、ってわけにはいかないらしいな」

「満月か」


 悪友の満月が、いつもと変わりない様子で話しかけてくる。


「なぁ満月。一つ聞くけど、今日は何曜日だ?」

「またその質問か。今朝も言ったが、今日は土曜日だ」

「昨日図書委員の仕事手伝ったよな?」

「何で俺らが優等生さまのお手伝いなんてするんだよ」

「図書館塔には?」

「行ってない」

「今日は?」

「土曜日だ」

「間違いないか?」

「スマホ見てみろ。ちゃんとそこに土曜って書いてある」

「ずれてるのかもしれん」

「俺のもそう書いてあるし、黒板にも書いてあるだろ」

「世界中の時計が狂ってるのかもしれないだろ」

「もしもそうなら、それはむしろ狂ってない方が狂ってるんだろ」

「……確かに」


 そう言って黒衣は、再び深々とため息を吐く。


 なんか満月に言いくるめられたような気がして、無性に納得がいかない。

 俺が間違っているのだろうか。確かに、どの時計日付を見ても今日が土曜日だと言っている。客観的に見て、今日が土曜日なのは間違いない事実なのだろう。



 じゃあ、昨日自分が過ごした土曜日は?



 なんだったのか。

 昨日は確かに土曜日だった。授業は午前中で終わり、午前は図書委員の仕事を手伝っていた、そんな土曜日だ。

 そう覚えている。はっきりと、覚えている。

 図書委員の仕事を手伝い、部活へ行く八重をいろいろあって送り出した。

 忘れるはずも、覚え違うはずもない。そんな土曜日。



 ――では、その後は?



 ドクン。と、胸がなる。

 そう、その後だ。その後が、問題なのだ。

 図書委員の仕事を手伝っていた俺は、その後どうした? 片付けを終えて満月と共に帰ったか? 何事もなく家で晩飯を食べ、そのまま布団で眠りに就いたのか?

 いいや、違う。寝て何ていないし、家に帰ってすらいない。

 俺は昨日家に帰ることはなく、図書館塔の中からどこかよくわからない謎の空間へと迷い込んだのだ。そこでいくつもの不思議な生物に襲われた。そして――、


「っ――――」


 そこでようやく、黒衣は事の顛末を思い出す。

 見上げるほどの巨体。紅色に歪む視界。降り注ぐ黄金色の空。振り下ろされた大斧。体を通る鉛色の感触はいやに冷たく、そして熱く。まるで体の内側から灼熱の炎で炙られているかと錯覚するほどの熱が体から流れ、しかし痛みなどはもはやなく、意識は瞬く間に沈んでいった。

 そんな――そんな地獄のような記憶を、黒衣は思い出す。


 あれが……、あれが全部偽りだったとでも言うのか?

 確かに、その場所での出来事はまさに夢でもみているかのようなことばかりだ。誰に説明しても、「夢でも見てんのか」と一蹴されてしまいそうな荒唐無稽甚だしい呆れた内容だ。


 でもそうでないと、黒衣は知っている。

 そこで感じた痛みが、熱さが、全て偽りだったなんて、とてもじゃないが思えない。

 思えるはずがない。


 じゃあなんだったのか。

 それは……わからない。

 答えなんて出ない。出るはずがない。

 自分の方が教えてほしいくらいだ。

 誰かに、教えてほしいくらいだ。


「…………」


 気が付けば、いつの間にか四限目の授業が始まっていた。教壇には気難しい顔をした現国の教師が、教科書の内容をモゴモゴとした口調で読み上げている。

 窓の外からは灼熱に燃える太陽の光と、しつこく鳴き続けるミンミンゼミの声が、夏を主張するかのように降り注いでいる。

 期末テスト後ということもあり、教室内からはすっかり緊張感やら集中力やらが抜け落ちている。いつもなら口喧しく叱咤する現国教師だが、自身もこの暑さの所為でやる気がイマイチないらしく、時間消化のためだけに教科書を読んでいるっことがありありと見て取れる。


 そんな光景を見て、黒衣は思う。

 ああ。これはいつもの日常だと。

 何の面白みのない、大した刺激もない、ありふれた日常なのだと。

 だが、とも思う。

 やはりこれが、自分の日常なのだと。

 昨日だと思っているあれは、やはり何かの間違いなのだと。

 そんなはずはない。あんなものが現実なものか、と。

 丸一日分の夢。

 きっとそうなのだとうと、黒衣は考える。

 あんなものはやはり偽りで、この退屈で平凡な日常が、どうしようもなく自分の日常なのだと。黒衣はそう割り切り、そう諦め、そして考えを終える。


 …………。…………。…………。


「おい」


 パッ、と黒衣は閉じかけていた瞼を開く。

 今、誰かに呼ばれたような気がした。

 だが、教師は未だ眠気を誘う朗読を続けている。周りのクラスメイトの方に目を向けても、誰もそんな気配はない。

 気のせい……、か?


「おい」


 またも声がし、黒衣は辺りを見回そうと首を振る。


 ――が、その必要はなかった。


 声がかけられた瞬間、それが目に入る。

 まるで今の今までそっこにあったものが、さっきの呼び声を皮切りに認識できるようになったかのような。通学路の途中に新しい店が建ったことで、ようやく前あった店が潰れたことを知ったときのような。

 そんな唐突の認識で、黒衣はそれに目を向ける。


 目の前に立つ、一人の少女に。


「…………」

 突然の事態に、黒衣は口を開けたまま少女を見つめる。

 それはそうだ。なんせ授業の真っ最中に突然女の子が自分の目の前に現れたのだ。驚かないわけがない。その上この少女、この学校の生徒ではないのか、うちの制服を着用していない。どころか、その姿は制服ですらなく、フリルを多く設えた豪奢なエプロンドレスだ。とてもこの学校の生徒とは思えない。

 というかそもそも、日本人ですらない。髪の色は透き通るようなプラチナブロンドで。目の色は翠玉のごとく輝く翠。まるで西洋人形のような――いや、そんな陳腐な比喩すらも許されないほど、この少女の造形美は完成されている。この少女の美しさは舞台を彩るための置物なんかではなく……そう、まるで物語の登場人物のような。一つの舞台で舞い踊る主人公のような、そんな躍動感を見るものに抱かせる少女。


 そんな少女が、唐突に、黒衣の前に現れたのだ。

 驚かないはずがない。


「うむ。ようやく気付いたか、人間」


 少女はやれやれとでも言いたげに、肩を竦める。

 その声を黒衣はどこかで聞いたような気がするが、イマイチ思い出せない。

 なので、


「えーと……、どちら様でしょうか?」


 率直な疑問を、投げかけてみた。

 ら、


「、…………」


 今度は少女の方が固まってしまう。

 え、突然どうしたのだろう。俺、そんなに変なことを聞いただろうか。でも、外人さんの知り合いなんて心当たりがまったくないのだけど。

 

 そんな風に考えている、少女はわなわなと震え出す。まるで、怒りを押し殺しているかのように。


「き、貴様……。よもや、わたしを……、このわたしを忘れたというのか? 昨晩、あれだけ……、あれほど激しくしたというのに……」


 っブゥーーーー!!

 思わず吹き出してしまう。

 は? 昨晩? 激しくした? な、ナニを? いやいや、何を言っているんだ? 俺はそんなことした覚えはまったくないぞ。


「な……、お、お前……、何言って――」

「おい宇佐美ぃ。なぁにを騒いどるかぁ」


 あからさまにテンパる黒衣を見かね、たらたらと教科書を読んでいた教師が黒衣を咎める。


「い、いや……、コイツが、この子が突然……」

 そう言って目の前の少女を指さすが、教師は不審そうに眉をひそめ、

「ん? 誰のことを言っとるんだ」

 そう口にする。


「へ?」

 言われて少女を見るが、未だ少女はそこに立っており、どこかへ行ってしまたということはない。

 周りを見ても、クラスメイトたちも突然騒ぎ出した黒衣を不審な目で見てはいるが、突如現れたこの派手な少女に視線を合わせることはない。


 それはあたかも、目の前の少女など、見えていないかのように。


「見えて……、ないのか?」


 そんなことを、ポツリと呟いてしまう。

 ありえるはずがない。誰にも見えない人間なんて、そんなものいるわけがないのに。

 それでも黒衣は、そうだと考えてしまう。

 常識の外にある何かだと、考えてしまう。

 昨日見た何かと、同じなのだと。


「ふふん」

 少女は何が楽しいのか、そんな黒衣の様子を見て鼻で笑う。


「いい気味だ。わたしの存在を忘れたのだ。突然の報いだな」

 くっそむかつく。にまにまと笑うドヤ顔くそむかつく。しかもちょっと可愛いのが余計にむかつく。

 だがやはり、その顔に見覚えなどない。


「ふむ。やはり思い出せぬか。まぁそれも無理からぬことか。なにせ、昨晩よりも少々粧いを改めたのでな」

「昨晩?」


 そのワードに、黒衣は引っかかりを覚える。


「昨晩ってもしかして……」

「ふむ。まだ思い出せぬか、痴れ者が」

「――っ」


 何故だろうか。その言い様には覚えがある気がする。

 いいや、覚えている。

 昨日。そう、黒衣が昨日だと思っている、今日ではない土曜日の夕暮れに体験した、あの空間。そこで出逢った本が、確か……。


「では一つ、助けをやろう。ヒント、というやつだな」


 そこであった本が、そんな物言いをしていた気がする。

 自称――、


「『妖精』」


 『本の妖精』。


「わたしは『妖精』だ」


 ふふんと、誇らしげに腕を組む、横柄な態度。しかしどこか気品に満ち溢れ、同時に神秘さを感じさせる不思議な存在。

 そんあヤツに俺は、昨日会っている。


「お前、あの時の……、『本の妖精』か」


 目を見開いて驚く黒衣に、自称『本の妖精』は、


「ふむ。正解だ」

 と、そう答える。


「だが、不正解でもある」

「え?」

「本から出た今のわたしは、もう『本の妖精』ではない。ちゃんと、正しい名が既にある」


 目の前の少女はどこか楽しそうにたっぷりと勿体ぶると、ゆっくりと口を開く。

「アリス」

 その朱色の唇から零れた名前は、



「わたしの名は、アリスだ」



 お伽の国のお姫様のような、そんな不思議な名前だった。

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