第十一話『奇妙な茶会』


 ”妖精“と呼ばれるものが、この世界には存在するらしい。

 

 御伽噺や伝承、夢物語に都市伝説。様々な土地、形で語られるそれらは、その姿もまた一つとは限らない。一般的にイメージされる妖精の姿といえば、羽根の生えた小人がそうだろう。だが、ヨーロッパの民間伝承によれば、幼子ほどの背丈に醜い容姿をした醜悪なる存在こそが妖精なのだという。いわゆるゴブリンのそれだ。また、古くは日本の北方アイヌでは「露の葉の下の人」という名の妖精『コロポックル』が有名である。


 そんな不可思議な存在が本当に実在するのかはわからないが、【妖精】と呼ばれる存在がいることは確かだ。 だがここで言う【妖精】とは、小人でもなければ羽根が生えているというわけでもない。さらに言えば、一定の存在ですらない。


 【妖精フェアリー】。それは、「隣の世界より来る来訪者」のことだ。


 【妖精の園ティル・ナ・ノグ】。それがその世界の名だ。

 昔も昔、大昔。

 とある旅人がその世界に迷い込んだという。

 その世界は普通では考えられない不思議がまかり通っている夢のような世界だった。そしてその世界を旅人は、うつつの世でも目にしたことがあると言った。


 そう、その世界はまるで、御伽噺の世界だったと。


 そしてそんな夢の世界で暮らすのが、



「【妖精】ってわけか」

「ええ、そうよ」


 コトリ。

 話し終え、黒衣の答えを聞いた杏は満足気にカップを置く。

 時間は既に正午過ぎ。授業の終わりを告げる鐘の音はとうに鳴り止み、土曜日である今日は午後からの授業もなく、今のこの時間は昼休みではなく放課後となっていた。

 ただ放課後と言っても、半数以上の生徒は未だ校内に居残っている状態で、その理由も様々だ。教室で居残り友人たちと無駄話に興じる者もいれば、このクソ暑い中せっせと部活動に勤しむ者、冷房の効いた自習室で勉学に励む者。十人十色様々だ。

 

 そんな他愛のない夏の学校生活を多くの生徒が過ごす中、屋上の一テーブルで何やら奇妙な会話を繰り広げる輩がいた。


 片や豪奢な青のエプロンドレスに身を包んだ金髪碧眼の美少女と、少々悪い目付きを除けば平々凡々な容姿の少年。

 片や知性の光る眼鏡がよく似合う優等生然とした見た目の黒髪の少女と、時代錯誤もここに極まれりとばかりに着飾った紅白の裃と日本刀が目立つ長髪の偉丈夫。

 無論言うまでもなく、黒衣と杏の一行である。


「どう、少しは理解できたかしら?」


 杏はそう優しく黒衣に微笑んだ。

 その微笑みは、もしこんな年上の女性に勉学を教わったのならばと、男子校生特有の劣情溢れる妄想を抱かずにはいられない魔性の笑み。黒衣とて男。その笑みを真正面から受けた黒衣は、男子代表としてこう答えるのだ。



「すまん。さっぱりわからん」

「……は?」



 いや、違う。そこはそうじゃない。そうじゃないはずだ。そこは「どこがわからないの?」と優しく問わねばならない場面のはずだ。そんな眉間に青筋立ててたった一文字「は?」などと答えてはいけないのだ。


「よく聞こえなかったのだけど、黒衣くん。あたしの説明した話、理解できたわよね?」

 今度はさっきよりも語気を強めて、聞き返してくる。


「い、いや、だけどな。いきなり【妖精】だの異世界がどーだの言われても何がなにやらで――」

「黒衣くん」

「あ……」


 笑顔だ。今の杏は、限りなく笑顔だ。それは誰の目から見ても明らかだろう。

 だが黒衣の目には、なぜかその笑顔が般若のそれに見えている。一睨みで蛙も蛇も黙らせる、般若の顔に。

 黒衣はまるで池から顔を出す鯉のように口をぱくぱくとさせ、内心で覚悟を決める。死の覚悟を。

 昨晩本物の死を体験したというのに、なぜかその時以上に縮み上がっている。情けないことこの上ない。


「あ、あの、先輩……、これは違くて、ですね……。別に冗談を言ってるわけでは――」


「おいっ! おい、人間!」


 言い訳を繰り広げようと勇気を出して口を開いた黒衣を、隣に座るアリスが空気を読まずにビシバシと肩を叩いてくる。


「おいっ、人間! 聞いているのか?」

「痛い痛い、なんだよいきなり。今ちょっと大事な話をして――」

「あれだ、あれ。あれは何だ?」

「あれ?」

 バシバシ肩を叩くアリスは、少し離れたベンチに座る数人の女生徒をせわしなく指を差す。


 さきほども言ったとおり、この学園は放課後も校内で過ごす生徒が多い。ここ高等部教室棟屋上も、そんな放課後を校内で過ごす生徒たちのたまり場の一つとなっている。

 理由はいくつか存在するが、その大きな要因として『出店でみせ』が挙げられる。

 生徒の主体性に重きを置くここ音戯学園では、その部活動においてもある程度の自由が認められている。その一つがここ屋上に数多く出されている『出店』である。出店は生徒会の認可さえ降りれば、各団体につき一つだけ店の出店が許可されている。そのため、予算の少ない文化系の部が中心に多くの部活動が出店を出しているのである。

 中でも人気なのが料理部の出店であり、昼飯時になると全校生徒の四分の一もの生徒がこの屋上へと駆けつけ、店の料理を買いにやってくるのだ。


 そしてアリスが指差した女生徒も、その料理部の出店が販売している商品を手に持っているのである。


「ああ、あれか。あれはハンバーガーだな」

「はんばーがー?」

「ああ。ほら、あそこの店が出してるやつだ」

「美味いのか?」

「ん? あーそうだな……」


 実際黒衣は口にしたことはないが、学校の話題などに疎い黒衣でも知っているほど人気なメニューの一つだ。味の保証には問題ないだろう。


「うん。美味いと思うぞ」

「おお……、おお……!」


 なんだろうか。アリスの後ろにぴょこぴょこと動く尻尾が見える。もちろん幻視なのだが、なぜかこのお姫さまが美味い物欲しさに尻尾を振るワンコに見えてしまう。


「……はぁ」

「む。何処へ行くのだ?」

「ちょっと」


 黒衣は言って席を立つと、少し疎らになった行列へと並び、五分ほどして帰ってくる。


「ほら」

 帰って来るなり差し出したのは、さきほど女生徒が口にしていたものと同様のもの。ハンバーガーだ。


「おお……、おおおおお前っ!」

 アリスは丸くした目を黒衣に向ける。ほんと、ゴールデンな大型犬みたいだ。


「ほら、冷めないうちに食えよ」

「よ、よいのか……?」

「良くないなら買っては来ない」

「う、うむ……。ならば遠慮なく……」


 アリスは大きくうなずくと、包んであった包装紙を手当たり次第に破き、そして……かぶりつく。


「お、おい。そんなにしたら服が汚れ――」

「ん……、ん~~~~~~~~~~~~~~~~!!」


 ハンバーガーからはみ出しそうなソースやら具材やらを黒衣が気にしていると、かぶりついたアリスが急にうなり出す。


「っ……んん……、んんん……!!」

「お、おい大丈夫か? 喉詰まらせたんなら、今水を――」

「――――ぅんっっっっ……まいぞ!!」


 爛々と、唐突に、明るい瞳を輝かせてそんなことを言ってくる。


「お、おう……、そうか。そりゃよかっ――」

「ああ! このようなものは食べたことがない! パンとパンの間に肉とレタスを挟むという発想は我が国にもあるサンドイッチにも似た手法だが、さらにチーズやトマトをこれでもかと言うほど一緒くたに挟み込むとは。しかもそれを一口で食べさせようと来た! この食い手を配慮しない豪快かつ強引なセンスはなかなか……。何より、大味ながら病みつきにならざるを得ないこの刺激的な味。わたしも今まで様々な料理を口にしてきたつもりだが、このようなものは初めてだ!」


 …………。えっと、なんだって?

 なんか予想以上の反応で驚いてしまったが、まぁ喜んでいるのならいいだろう。

 しかしほんと、こう見ているとただの年の近い少女のようだ。

 こんな頬にソースつけて喜んでいるのが、まさかあの『アリス』だなんてとても思えない。


「っごほん」


 とそこで黒衣は、ハッと思い出す。

 そういえば、今自分は話の途中だったのだと。

 それもとてもおっかない人との。

 突然石のように固くなった首をギギギと正面へ向ける。


 ――にっ。


 そこには、女神がいた。

 厳しくも慈愛に満ち溢れた瞳を持って人間たちを迎えてくれる女神の姿が、そっこにはあった。


「黒衣くん」


 あ、違った。配分が違った。慈愛7:厳しさ3くらいだと思っていたけど、これはあれだ。厳しさ9くらいは余裕である。いっそ厳しさ10でも足りないかもしれない。というか、厳しさなんて生易しい表現じゃすまない。怒りだ。憤怒だ。もしくは憎悪。憎悪が女神の仮面を付けて微笑んでいるのだ。そうでなければただ一言名前を口にしただけでここまで恐怖するはずがない。


の話、まだ途中なんだけど?」


 ……怖い。謝ろう。素直に。


「あ、あの、えっと……、すみません。アリスがどうしてもって我が侭を言うもんで」

「黒衣くん?」

「……は、はい」

「わたしはアナタに言っているの」

「……はい」

「違うでしょ?」

「ご、ごめんなさい……」


 動悸が収まらない。ここまでの恐怖を覚えたのはいつ以来だろうか。いや、最近だ。昨晩あの大男との追いかけっこしているとき。今はあの時と同じだ。それはつまり、死に瀕しているということ。そう、まさに今、黒衣は死と隣り合わせにいるのだ。


「……はぁ」


 杏は深いため息を吐く。

 あ、死んだ。これ。


「……もういいわ。さっさと話を進めましょう」

「え?」

「え? って何よ。なんか文句でもあるのかしら?」

「い、いや。滅相もございません」

「なによその喋り方。気持ち悪いわね」

「い、いや、だって。さっき人の首に刃物突きつけてきた人が何もしないわけ……」

「黒衣くんがあたしをどう思っているのかよ~~~~くわかったわ」


 気をつけようと思った矢先に口を滑らせていく。

 俺はいつもそうだ。誰も俺を愛さない。


「ま、そんなことよりも黒衣くん」

「は、はい!」

「さっきの話の続き」


 呼ばれズビッと姿勢を正す黒衣に、杏は脱線した話を元に戻す。

 だが言われても、黒衣の答えはさきほどと変わりはしない。


「……さっきも言いましたけど、御伽噺の世界に【妖精】……。信じるとか信じないとか以前に、そんなこと急に言われてもよく……」

 わからない。それがとどのつまり、黒衣の答えだ。


「まぁ、にわかには信じられないでしょうね。異世界なんて」


 出来の悪いファンタジー小説じゃあるまいに、突然異世界だの妖精だの言われても頭がこんがらがるだけだ。

「でも、アナタは既に知っているはずよ。あたしが話なんかじゃない。自分の目と、耳で、確かに感じたはず。あの世界で」

「あの世界……」


 そうだ。確かに、黒衣は見た。あの、図書館塔にも似た、だが決定的に異なるあの空間を。


「あれがそうだって言うんですか?」

「いいえ。あれは違うわ。あれは【逢魔時おうまがとき】」

「お、おうまがとき?」

「別名『トワイライト』とも呼ばれる、夕闇のような光に包まれた異空間のこと。アナタが迷い込んだ、あの空間のことよ」


 トワイライト。それは確か、黄昏時を意味する言葉のはず。


「あそっこは言わば【妖精】たちの通り道。人の想像や想いが入り交じってできた亜空間。現実と似て非なる場所よ。【妖精】たちはあそこを通って向こうの世界からこちらの世界へとやってくるの」


 通り道。そう杏は言う。あんなわけのわらかないトンデモ空間でさえ、ただの通り道でしかないと。それはつまり、【妖精】たちがたむろするというその異世界とやらは、あの空間以上の魔界であることを暗にほのめかしているのではなかろうか。


「一つ、気になることが」

「なにかしら?」

「あいつら……【妖精】の目的ってなんです? あいつらはなんでこっちの世界にこようとするんですか? あれですか? 地球侵略ってやつ」

 そう言うと杏は、ふふっと笑う。


「おもしろいわね黒衣くん。もしかして、SFとか好きな部類?」

 おかしなことを聞いたとばかりに言ってくれるが、生憎こっちは真剣に聞いたんだ。


「ごめんなさい、冗談よ。まぁそうね。そんなご大層な目的はないと思うから安心して」


 と、言われても。


「彼らの目的は様々。それこそ、ただ暴れたいだけなんて野蛮なヤツもいれば、美味しいものが食べたい、なんて脳天気なヤツまでいるわ」

 と、杏は黒衣の隣に座る脳天気なヤツを見て言う。

 ちなみに、アリスは二つ目のバーガーを食べているところだ。


「要は、気の向くまま自由気ままってこと。だけど異世界に来るっていうのは、言葉言うほど簡単じゃないの」

「と言うと?」

「単純な話よ。住む世界が違えば、当然環境も変わってくる」

 そう言うと杏は真剣な表情で口を開く。


「彼らにはその存在を維持するために【魔素マナ】と呼ばれる物質が不可欠なんだけど、この世界にはそれが欠如しているの」

「マナ? ……っていうとあれか? ゲームとかによく出てくる魔力的な?」

「まぁ、そうね。今はその認識でかまわないわ」


 マナについて説明すると長くなるし。と前置きして、杏はゆっくりとカップを口へ運ぶ。


「彼らはその存在の維持に【魔素】が必要不可欠。向こうには大気中にも多くの【魔素】が存在するらしいけど、こっちではそうもいかない。こちらの【魔素】がほとんど存在しないの」

「え」


 その言葉に、黒衣は隣へと視線を向ける。そこには自分たちと何ら変わらない姿で、何食わぬ様子でハンバーガーを平らげる、自称【妖精】の姿。


「そう。それが他の【妖精】と、”彼ら“との違い」

 確信をつくように、杏は瞳を開く。


「【妖精】たちはこちらの世界へ様々な目的を持ってやってくるけど、そのほとんどが【逢魔時】で足止めを食らってしまうの。通常、【妖精】はあの空間を出ることができない。あそこまでは【魔素】が満ちているけど、こちらの世界にはそれがほとんど存在しない。厳密には微量程度はあるらしいけど、それもたかが知れている」

 大気中のそれらを払うように、杏は手をひらひらとかき回す。


「だからこそ、彼らはあたしたちを利用する」


「そのあたしたちってのは、つまり……」

「ええ。人間よ」

 神妙に聞く黒衣に対し、杏はあっさりと答えを返す。


「【妖精】たちは自身の目的のため、あたしたち人間に契約を持ちかける。『お前の願いを叶えてやる。代わりに自分の願いを叶えろ』ってね」


 それには覚えがある。確かに、本の身の上だったアリスも、あの時そんなことを言っていた気がする。


「契約を結ばれた人間と【妖精】との間にはつながりができる。そのつながりを介して【妖精】は【魔素】を補充するの」

 なるほど。


「ってちょっと待ってくれ。それってつまり、俺の中のマナってのをコイツが勝手に捕ってるってことじゃないか!」

「ええ。そうなるわね」

「だ、大丈夫なのか、それ……。そのマナってのはこの世界にないもんなんだろ? そんな簡単にやってしまって――」

「【魔素】は生命の源よ。逆に言えば、生きてさえいれば誰しも【魔素】を持っている。個々の違いはあれど、人間だろうが動物だろうが、全ての生物は【魔素】をその身に宿しているの。例外は存在しない」

 それでも不安を拭えない黒衣に、杏は。

「それに【魔素】は体力と同じで、食事や休息を摂ることで回復するわ。だから一方的に摂取されても、ある程度は問題にならないの」

 

 紅茶を啜りつつ、杏は淡々と答える。

 そうか。それなら大丈夫……なのか?


「ここまではいいかしら?」

「ああ」

「そ。ならいいわ。それじゃ、ここからが本題よ」


 杏はカップをソーサラーへと戻し、瞳を細める。

 そんな杏に呼応するように、少しだけ空気もその重量を増したような気がした。


「さっきも言ったけど、アナタに頼みたいのは、あの巨漢の退治」

 それを聞いてピクリと反応した黒衣を、杏は見逃さない。


「あら。何か言いたいことでも?」

 淡々と聞いてくる杏の態度が少し癪に障る。


「ああ。一つ疑問がある」

「あら、何かしら」

「なんで俺なんだ?」


 それは率直な疑問だ。

 なぜなら、言ってしまえば黒衣はただの被害者で、あの大男は黒衣を殺した張本人だ。殺された相手を殺した相手にけしかけるというのは、さすがに合理的とは思えない。


「あら、そんな簡単よ。それはアナタが、あの大男に殺されたからよ」

「は?」


 なんだって? 殺されたから? それが理由?


「いや、いやいやいや。それはおかしいだろ。俺が殺したって言うんならまだわかる。だが、殺されたなら普通ダメだろ」


 当然の話だ。黒衣はあの大男に殺された。それはつまり、黒衣があの大男よりも弱かったといいうことだ。そんな黒衣が何の役に立つというのか。


「……ん、パスか」

「ええ。そうよ」


 それまでハンバーガー(三個目)を食べていたアリスが、横から口を挟む。というかまだ食べている途中だ。

「『因果の楔パス』。強い関係のある人や物には目に見えない糸のようなもので結ばれているの。婚姻を結んだり、主従の契約を交わしたりね」

「それが俺と何の関係が――」

「それはこと殺し合いにも当てはまるの」

「っ!」

「まぁ、普通なら殺し合った程度では結ばれないわ。片方が殺した時点で切れちゃうもの」


 俺は一方的に殺されただけだ。それでも殺し合いには当てはまる。しかし俺が殺された時点でそのつながりは断ち切れたはず。だが――、


「そう。でも、アナタは生き残った。いいえ、生き残って。時間を一日戻すという形で」


 だから黒衣とあの大男はパスでつながっている。殺し合いという糸で。


「そして一度結ばれたパスはそう簡単に断ち切れることはない。それこそ、どちらかが死ぬまでね」

「……き、切れないとどうなるんだ?」

「別に。どうってことはないわ。どちらかが死ぬまで殺し合い続けるだけ」


 それのどこがどうってことないのか……。


「あの大男は理性が消失しているか、なんらかの理由で封じられているか。普通なら殺しの衝動なんてある程度押さえられるものだけど、アイツにはそれがない。だから平気でアナタを殺しに来るわよ」

「な、なんとかできないのか……?」

「できるわよ」

「ほ、ホントか!」

「ええ。アイツを殺すの」


 …………。

「はい?」

 なんだって?


「殺される前に殺してやればいいのよ。そうすれば、殺されるなんて心配しなくて済むわ」


 何を言っているのだろう、この人は。


「いや、簡単に言うが。それができないからこうなったんだろ? 話が矛盾してる」

「そこはほら。今度はあたしたちも協力するし」

 大丈夫よ、と軽く答えてくれる。


「そう言われてもなぁ……」

「さっき契約について話したけど、【妖精】の中には契約以外の手段を用いてこちら側へ来ようとする輩もいるらしいの」

「契約以外の方法?」


 なんだ。他の方法もあるのか。

「へぇ。それって、例えばどんな?」



「食べるのよ」



「……は?」

「あら、聞こえなかったかしら? 食べるのよ、人間をね」

「なっ……」

「さっき言ったとおり、【妖精】が自分の存在を維持するためには【魔素】が必要不可欠。そのために【妖精】はあたしたち人間と契約を結ぶのだけど、それはただ単に一番安全な方法に過ぎないの」

「どういうことだ?」

「彼らからしてみれば、人間はただその身に【魔素】を持つというだけの存在。【魔素】を持っているというのに【魔法】もろくに使えない貧弱な、ね。そんな人間とわざわざ対等な立場になって、あまつさえ願いを叶えてやるなんて。あたしがもし【妖精】ならもっと別の手段を取るわね」

「で、その手段ってのが――」

「ええ。人喰いよ」

 杏は静かに肯定する。


「生物は生きている限り【魔素】を生成し続ける。それはつまり、生命は純度の高い【魔素】の塊ってわけ。中でも人間は、とりわけ【魔素】の純度が高い。ほら、人間にだっているでしょ? 栄養やなんかを手っ取り早く摂りたいとき、野菜や果物をたくさん食べるんじゃなくて、ビタミン剤やなんかで済ませちゃう人。それと同じよ」

「お、同じなわけ……っ」

「ええそうね。それが当たり前の反応で、当たり前の感情よ」

「……」

「でもね。そう思わない輩が、現実にいるのよ」

「……は。こんなファンタジーな話なのに、現実ときたもんだ」

「事実よ」


 事実。そうなのだろう。実際、それで黒衣自身も襲われたのだ。

 現実だってそうだ。死の危険なんていつだってそこにある。あんな大男じゃなくても、人里に降りた熊や猪、もしかしたら近所の野良犬に噛み殺されることだってあるかもしれない。そうでなくとも、自分たち人間が人間を襲うことだってある。よくニュースでも耳にする、何気ないよくある話だ。


 だけどそうじゃない。それが現実に起きていることだって知ることと、それを現実として目の前で受け止めることは大きく異なる。相手が大男か獣かの違いなんて、誤差でしかない。


 あの夕闇の世界が現実だったのか、半日経った今となっては既に曖昧だ。だが、これだけは未だにはっきりと覚えている。

 あの血塗られた視界を。真夏の夜でも冷たく光る鈍色の刃を。それが自分の体を通り抜けていく感覚を。自分の内側から炎が漏れ出るようなあの赤い感触を。半日経った今でもはっきりと覚えている。

 ふと気を緩めると、まだあの死が今も続いているのではないかと錯覚する。

 あの夜のあの瞬間。黒衣を睥睨する赤い眼孔は、黒衣にとって確かに現実となったのだ。


 静かに、黒衣は首筋に触れる。

 そこには何もない。ただただいつもと変わらず、そこには自分の肌があるだけ。

 だが違う。変わらないはずの首筋には、確かにあの刃が通り過ぎる熱を感じる。それを思い出すだけで、手のひらには真夏の暑さとは関係のない汗が噴き出してくる。


「……でもね、黒衣くん」


 杏は静かに、カップを傾けながら声を出す。


「全部がそうってわけじゃないのよ」

「……何の話だ」

「【妖精】よ」


 わからないと問うた黒衣に返ってきたのは、意外にもシンプルな答え。


「そうだ、人間」


 そしてそれに、答えとしての【妖精】が呼応する。


「お前を殺したあの大男とわたしたちは同じ【妖精】だ。そこに違いなどはない」


 ああそうだ。あの世界にいたものは、自分以外漏れなく【妖精】だったのだろう。

 無論、このアリスも例外ではない。


「方法は違うが、やろうと思えばいつでもわたしたちはお前を殺せる」


 ああ、そうなのだろう。さっきのアリスの動き、立ち回り。どれをとっても人間のそれではない。その気になれば、あの大男よりも鮮やかに俺を殺してみせるに違いない。


「だがな、一つ大きく違う部分がある」


 ああ、そうだろう。見た目も性格も、コイツとあの大男は何もかも違う。

 それでも【妖精】だという事実には違いないはずだ。


「無論、それは見た目などではない。だがそれでも、確実に違うものがわたしにはある」


 そんなもの――、



「わたしは、お前の味方だ」



 ――――。


「それだけは確実に、明確に違うはずだ。あのデカブツはお前の敵だったかもしれん。だがわたしは違うぞ。まだ出逢って一日――この姿では一刻も経ってはいないかもしれない。だが、それでも断言する。

 わたしは、お前の味方だ」


 ああ、そうだった。あの空間でも、ここにいるコイツだけは味方だった。あのウサギたちも、大男も俺を害しようと襲ってきたが。あの空間の中で唯一、コイツだけは俺の味方でいてくれた。


「だから安心しろ。今のわたしなら、前回のようなことにはなりはしない。なにせ、既にわたしはお前の【妖精パートナー】なのだからな」


 意図があってなのか、それとも天然なのか。おそらくは後者なのだろう。だが、その屈託のないアリスの笑顔に、俺はいつの間にか、体にあった熱さを忘れていた。


「……ソース、ついてるぞ」

「んっ、……どこだ?」

「ほら」


 自分のドレスで拭おうとするアリスを黒衣は止めて、代わりに取り出したティッシュで拭ってやる。

 カッコいいことを言う割に、格好つかないやつだ。


「それで、作戦についてなんだけど」


 黒衣が拭い終わるのを待ってから、杏はゆっくりとした口調で話を続ける。


「さっきも言ったけど、アナタはあの大男とパスでつながってる。それを利用させてもらうわ」

「……詳しく頼む」

「別に難しい話じゃないわ。アナタにまた【逢魔時】に入ってもらうの。そうすればパスに吊られてアイツが出てくるはず」


 ね、簡単でしょ? とでも言いたげに杏は片目を閉じる。


「要は、囮ってわけか」

「あら、人聞きが悪いわね。最も効率的かつ有効的な作戦よ」


 イタズラを思いついた悪ガキみたいにイキイキと杏は答える。

 正直、この作戦がどこまで有効なのか黒衣にはわからない。杏の言うパスも、どれほどまで効果があるのかなんて黒衣は知らないのだ。

 だが、


「仕方ないな」

 黒衣は大きく息を吐き捨てる。


「その作戦、乗らせてもらう」

 真っ直ぐに、はっきりと。


「あら。案外素直なのね。もっとゴネるかと思っていたのだけど」

「もちろん、囮なんてまっぴら御免だし、死ぬのはもっとイヤだ。でも、それ以上に、もう何かから逃げ出すのはもう……、嫌なんだ」

「そう? 逃げるのは悪いことじゃないと思うけど?」

「そりゃあ俺は面倒事が嫌いだ。大っ嫌いだ。できることなら面倒事は避けていきたい。でも、今回はそれじゃあダメなんだ。ダメだと、思うんだ」

「ふ~ん……」

「それに、逃げたところであの大男は俺を追ってくるんだろ? なら、さっさとケリつけた方がずっと楽だ」


 それを聞いた杏は目を細め、黒衣を視てくる。まるで黒衣の内心を読み取ろうとでもするかのように。

 だがそれもすぐにやめ、唐突に立ち上がる。


「うん、いいわ。それじゃ契約成立ってことで。黒衣くんはアイツをおびき出す。あたしはアイツを仕留める。お互いWin-Winの関係ね」


 Win-Winねぇ……。


「……どこ行くんだ?」

「決行は夜。校内に人がいなくなってからよ。向こうで行うとは言え、こっちにもなんらかの影響があるかもしれないでしょ?」


 そう言われて思い出す。図書委員会には既に怪我をした生徒がいたことを。


「それまではお互い待機。あたしは準備もあることだしね」


 そう言うと杏はそのまま出口へと歩いて行く。


「それじゃ黒衣くん、また後でね」


 夏の風に髪をたなびかせながら手を振る杏を、黒衣はやはり綺麗な人だと思った。


「逃げないでよね☆」


 だが最後の一言で、黒衣はやはり選択を誤ったのではないかと半分後悔の念に駆られたのだった。



   *



「なぁ」


 屋上からの帰り際。生徒の少なくなった廊下を歩きながら、黒衣はふと思いついた質問を投げかけた。


「じゃあさ、お前の目的ってなんなんだ?」

「なんだ、藪から棒に」


 キョトンと答えるアリス。それも当然だ。何の脈絡もなく聞いたのだから。


「いや。ほら、さっき先輩が【妖精】は何らかの目的があってこっちの世界にやってくるって言ってただろ。だったらさ、お前にも何かそういうのがあるのかなって」

「ふむ……」


 それはただ気になっただけの、何気ない質問。何か意図があったわけでもなく、ただただ好奇心に任せて聞いた程度のものだった。


「あー……、もしかして聞いちゃまずいことだったか?」

「いや、別にそういうわけではないが」


 訝しげに、アリスは黒衣に視線を向ける。何か気に触ることでも言ってしまっただろうか。


「はぁ……。まぁ良い」


 だがすぐに諦めたようにため息を吐くと、口を開く。


「退屈だったからだ」

「はい?」

「わたしがこちらへやって来た理由だ。お前が聞いたのだろう」


 それはなんとも……、意外な答えだった。

 退屈だったから? そんな理由で異世界に?


「今お前、そんな理由でと思ったろう」

「うっ」

「まぁそう思うのも無理からぬことか」


 わかっていたとばかりにそう言って、話を続ける。


「【妖精の園】について、お前はどう思う?」

「妖精の園?」


 と言えば、杏の話にも出ていた【妖精】たちが住む世界のことか。


「どうって言われてもなぁ……」

「どんな場所だと感じた?」

「ん~~……。やっぱりあれじゃないか? 夢の国なんて言うくらいなんだから、何不自由のない幸せな国、みたいな?」


 だからこそ、気になっていることだ。そのいわゆる妖精たちの国が御伽噺の世界だと言うのなら、そこは伝説などで語られる楽園そのものなのではないかと。だとするならば、何故【妖精】たちはこちらの世界へ来ようとするのか。

 だがアリスは、そんな黒衣の答えを聞いて小さく笑みを零す。


「そうだな。確かに、お前の言うようにあそこは夢の国なのかもしれない。食うものにも着るものにも一切困らない。必要なもんはあらかじめ全て用意されている、不自由など何一つない世界だ」


 だったら、


「だが、あそこには不自由もない代わりに、自由も同時にないのだ」


 自由が、ない?


「あそこの住人は皆何かしらの役割を持っている。例えば、王子ならば姫を救い出すという役目を。姫ならば王子から救われるという役目を。王ならば王の。魔女ならば魔女の。ドラゴンならドラゴンの役目を。『アリス』なら『アリス』という役目を与えられている」


 役目。それはつまり、【妖精の園】の住人としての――御伽噺の登場人物としての役割。


「そこに例外などない。その大きさや重要性に差はあれど、皆同じように役割を与えられ、その役を全うしている。それがあの世界だ」


 そう語るアリスの瞳はどこか寂しく見えて。深い碧の瞳はまるで濁ったアクアリウムのように底が見えない。 不自由も自由もない世界。それはつまり、自分の役割をあらかじめ決められた世界。


「誰しもが毎日同じように始まり、誰しもが同じように動き、誰しもが同じような結末を迎える。終わりの決まった、終わりのない世界だ」


 だがそれは、当然のことなのかもしれない。御伽噺の世界だ。毎回あらすじが同じなのも、結末が同じなのも当然のことだ。もし違っているのなら、それは既に別の作品――別のお話なのだろう。


 だがそれを役割と押しつけられている身としてはどうだろうか。やってくる毎日が同じ世界。例外などなく、むしろ例外は率先して排除されなければならない。

 淡々と同じ一日を過ごし、知っているはずの出来事に一喜一憂する。そんな毎日。

 食べ物に困ることも、住むところに困ることも、衣服に困ることもない。人間世界ならばそれは最低限の幸せなのかもしれない。

 だがそれを約束された妖精の国ならばどうだろうか。衣食住に困らない代わりに、他の自由は一切ない。それはある種の、牢獄なのではなかろうか。


「わたしはアリスだ。不幸な目に遭う主人公でも、ましてや死の運命にある者でもない。だがな、わたしはあの日常と化した不思議の世界を目にすることに、飽いてしまったのだ」


 不思議の国のアリス。その話は黒衣ももちろん知っている。

 ある昼下がり、人の服を着たウサギを追いかけてウサギの穴へ落ち、不思議な世界へと舞い込んでしまうという御伽噺だ。

 夢を見ているようなその世界観は世界中の多くの人を魅了し、こう思わせた。

 『ああ。私もいつか、こんな夢の世界へと行ってみたい』と。


 だがアリスは言う。あの不思議の世界が、アリスにとっては日常であると。

 確かに、それはその通りなのだろう。どんなに常識から外れた場所も出来事も、それが毎日毎度永遠と続けば慣れてしまう。非常識のはずの世界は常識と化し、代わり映えのない世界なら飽きも来る。もしそんな世界に閉じ込められたのなら、それはどれほどの地獄なのだろうか。


「だからな、わたしはここへ来たんだ!」


 言うや否や、アリスは閉ざされていた窓を開け、空を望む。


「お、おいっ」


 周りにいた数名の生徒が突然入ってきた風に驚きの声を上げるが、アリスは気にしない。


「見ろ、この空を! 遠くに見える街々、高く聳える巨塔の数々! ここは! この場所は! わたしの知らない世界だ!」


 燦々と降り注ぐ太陽に捕まえるかのように、アリスは天高く手を伸ばす。


「我が祖国でも、ましてやあの退屈な不思議の世界でもない! ここはわたいの知らない不思議をくれる新たな世界。わたしの求めていた世界だ!」


 まるで少女のように爛々とした笑顔で、アリスは何気ない景色を仰ぎ見る。

 いや、確かに少女なのかもしれない。【妖精】の年齢感がどのようなものかはわからないが、今目の前にいる少女は見知らぬ世界に心躍らせる一人の少女なのだろう。


「だからこそ、わたしはお前に感謝しているのだぞ」

「俺に?」


 急に言われて、黒衣は思わず驚いてしまう。


「ああ。なにせ、お前がわたしを見つけてくれなければ、わたしはこの景色をみることもなかったのだ」

「それは……、俺じゃなくても同じだったんじゃないのか?」


 アリスならば、俺じゃなくてもいずれ契約者を見つけ出していただろう。なんとなく、そんな気がしてしまう。


「確かにそうかもしれない。あの時お前が契約しなかったとしても、わたしはここへ来ることを諦めはしなかっただろう」

「ほら、やっぱり――」

「だがな、そんなことは関係ない。今わたしの隣にいるのはお前で、わたしのパートナーとなったのはお前なのだ! あの黄昏色の空間からわたしを引っ張り出してくれたのは紛れもない、お前だ」


 その言葉には、何故か胸を打たれたような気がした。


「だからこそ、わたしはお前を守ってやる」

「!」

「どんな化け物だろうと、どんな怪物だろうと、相手があのデカブツだろうと、だ。このわたしがいればお前の一人や二人、守りきってやる」

「……はは。まさか、女の子に守ってやるなんて言われるなんてな」

「それがお前との契約だからな。あの時言ったお前の願いを叶えるまで、わたしはどこまでもお前を守ってやる」


 フンスと、そんな鼻息を鳴らしてアリスは胸を張る。

 全くもって、頼もしいことこの上ない。


「ああ。だったら頼むぜ、お姫さま。お前に退屈しない日々をくれてやる。だから俺の願いが叶うその日まで、俺をしっかり守ってくれ」

「ああ、心得た!」


 がし。腕を交差し、互いに誓う。

 まるで男同士のようなやりとりに、思わず笑みがこぼれる。

 こんな気持ちになったのは一体いつ以来だろうか。おそらく、中学時代に満月と殴り合って以来だろう。

 それをつい昨晩会ったばかりの、しかも女に感じてしまうなんて。


 そういえば満月はまだ教室に残っているのだろうか。教室を抜け出してから結構時間が経っているが。

 と、そんなことを考えているうちに教室が見えてきた。


「よし、着いたぞ。まだ他の生徒もいると思うから、お前は少しの間おとなしく――」



「だから――」



 だから、気を抜いていたのだろうか。

 気が付いた時には、既にそれは準備を終えていて。

 今まさに必殺の一撃を振り下ろさんとしていた。

 振り向くことすらもできない。

 そんな時間も、余裕もない。

 終わったと。

 そんなことを思う時間すらもない。

 だから、


 ガキン――



 目の前に立つ少女の背中が、とても頼もしく見えた。



「だから、ここはまかり通してもらうぞ、デカブツ!!」



「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!」

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