本当のわたしを生きる?
仲條杜環
人生をコーディネートする力 簡易版
簡易版 第1話 わたしたちはすべての一部を体験している
すべてとは、あらゆる可能性であり、
すでに「ここ」にある。
わたしたちは、そのすべてから個人として分離し、
エゴと呼ばれる個性を持つ一部となった。
今窓があるなら外を見てみてほしい。
外の景色には今わたしがいるビルとは違うビルが立ち並び、
走り抜ける車や、バイクがいる。
そして、そこからは決して見えない世界がある。
それは実際にあると言われているニューヨークの摩天楼であろうと、
今はわたしの脳の中にある空想でしかない。
今ここには、無い。
今ここで見える世界だけ、それがすべて。
そしてそのすべての中で、
走り抜ける車に乗ることも、バイクにまたがることも、
別のビルから窓の外を見ることも無く、
この建物の窓から外の景色を見ているのが「わたし」だ。
わたしは、この「わたし」として、
ここで見える世界、=すべてから分離し一部としてここにいる。
それはある意味、ここで見える世界を認識するための、一部といえる。
一部にならなければ、そこからすべては見渡せないのだから。
別のビルの窓からのぞく「誰か」や
車で走り抜ける「誰か」に
なった「わたし」もいる。
そこから眺める景色は、わたしが見る景色とはまた異なるものだろう。
一部とならなければ見られないすべてを、
「わたし」は「誰か」と分けあって経験するためにここに居る。
さて、そんな一部となったわたしは、
一部としての独自性=個性を持ち
個性としての様々な「癖」を持っている。
何を好むかとか、何に興味を持つかとか、
どういう志向性があるかなど。
わたしは、一部となって、
個性を味わいながら、ここに生きている。
ところが、わたしは、
一部として生きることの「苦」に、疑問を感じ始めた。
すべてを知ることができない「苦」だ。
何も気にしない「楽」は気に入っているけれどね。
「苦」は、
わたしが一部となったときに持ってきた
個性の「癖」が持つ制限だ。
どんな制限をもつかは、個性だ。
個性の「癖」=思考の「癖」。
それ「しか」「ない」と思い込む、制限である。
そうする「しか」「ない」と信じる、制限である。
一部になってしまったから、
一部でしか在り得ないという思い込みだ。
一部になって、
ただ一部を楽しんでいるのだとういうことを
忘れてしまった……ということだ。
わたしは、その制限を外したいと思い始めた。
わたしは、ほんとうのわたしを生きたいと
願い始めたのだ。
制限を外すのは簡単だ。
持っている「癖」=思い込みに、ただ気付くこと。
ここで、まず、
とても簡単にしてしまうことへのお詫びを兼ねて、
お願いしたい。
思考に関する様々な要素、
想念とか概念とか観念とかエネルギーや周波数など、
細かく詳しい専門的なことに、
ここでは一切触れない。
知りたい方は個々に探求して頂ければありがたいので、
お願いいたします。
つづく
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