石川さんは、村山の高校時代の同級生だった。彼女のことはよく憶えていた。普段はあまり目立たない子だったけど、女の子だけでバンドを組み、ギターを弾いているときは見違えるほど生き生きしていた。

 その頃、八十年代なかばに彼らを夢中にさせた音楽は、いわゆるニューウエーブと呼ばれたイギリスを中心としたミュージシャンたちだった。彼女のバンドもそういった音楽のカバーを演奏していた。

 もちろん、素人の高校生バンドだったからどう控えめにいってもうまくはなかった。でも、村山はギターとキーボードの演奏にセンスの良さを感じていた。

 彼女たちの練習の場は土曜日の放課後の視聴覚室で、発表の場は年に一度の学園祭だった。

 そして、そのバンドの演奏を最も多く聴いていたのは間違いなく村山だった。彼自身もバンドをやっていたということもあったけど、その頃彼は石川さんのバンドでキーボードを担当していた慶子という女の子とつき合っていたのだ。

「実はね、今日、慶子とここで待ち合わせしてたの。だから、あなたがあの子の代わりに来たのかと思っちゃった。ごめんね、そんなはずないのにね。あの子とはもう全然会ってないのよね」

 石川さんは一息にそういった。手の中でサングラスが落ち着きなくクルクルと回っている。

 村山は笑ってうなずくしかなかった。慶子とは高校卒業間近に別れていたし、石川さんもそれは知っていたはずだ。彼女たちのバンドも卒業パーティーでのささやかな演奏会を最後に解散し、それから十年近く、彼は慶子とも石川さんとも会っていない。

 村山の笑顔を見て、石川さんも笑った。笑うと、ようやく村山の知っている昔の彼女の顔になった。こっけいなほど濃く引かれたアイラインを除けば、だけど。

「ちょっと待ってね」彼女は少しはなれた自分の席からグラスを持って戻ってきた。グラスの中にはほとんど解けてしまった氷とライム、そして透明の液体が半分くらい残っていた。グラスをテーブルに置き、さて、というふうに村山を見ていった。

「今、なにしているの?」

 村山は、レコード会社で働いていること、二年前に結婚したこと、子どもはまだいないこと、仕事の関係で長期の海外出張に出かけた妻を見送りに来たことを話した。

 その、たいして面白くもない話を石川さんはときどき頷きながら熱心に聞いていた。そういうところは昔と変わらなかった。彼女は身近な人間には自分からよく喋り、しかも他人の話もちゃんと聞くことができるという貴重な才能を持っていた。村山が話しているあいだ、彼女はグラスに付いた水滴をひとつひとつ指でなぞっていた。

「結婚してよかった?」村山がひとしきり話し終えると、石川さんは尋ねた。

 あまりにもストレートな質問に村山は少したじろいだけど、なんとか答えることができた。「まあ、いろいろあるけど、今のところはよかったといえるんじゃないかな。石川さん、結婚するの?」

「わたし? しないわ。たぶん。とうぶん。ねえ、たばこ持ってる?」

 村山は彼女にたばこの箱を差し出した。彼女はそこから一本抜き取り、テーブルに置かれている店のマッチで火をつけて深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。

「わたしのほうはね、卒業してから、まあ、いろいろとね」そういって、たばこの火を消し、ちょっと咳払いをした。

「今日、実家に帰るの。わたし」

「実家って、こっちじゃなかったっけ」

「愛媛。高校のときはね、叔父の家にやっかいになってた。卒業してからはずっと一人暮らしだったけど、最近ちょっと身の周りがごたごたしちゃって、しばらく田舎でのんびりしようかなって思っているの」

「そう」

「そんなわけで、慶子にはいろいろと迷惑かけたし、返したいものもあったから、今日会いたかったんだけど……。たぶんもう来ないわね。まあいいか」

 ふたりはしばらく黙り込んだ。アイスコーヒーが入っていた村山のグラスの中の氷がカランと音を立て、同時に彼女の体がまたびくっと震えた。まるで不意に鋭い針で体をつつかれたみたいだった。

 石川さんはテーブルの上に組まれた自分の手をじっと見つめていたけれど、急に、「そうだ」といって、Gジャンのポケットからカセットテープを取り出した。

「あの、お願いがあるんだけど。たいしたことじゃないから、嫌なら正直にそういって」

「わかった。なに?」

「このテープ、慶子に渡そうと思ったんだけど、これ、あなたから彼女に渡してくれないかな」

 村山は返答に困った。慶子は自分のことを覚えているだろうか。

「やっぱり、だめかな」

「いや、別にいいけど、俺、慶子の連絡先知らないよ」

「あ、そうか。ちょっと待って。なにか書くもの持ってる?」

 村山は彼女にボールペンを渡した。彼女は紙ナプキンに電話番号を書き、その下に若宮と書いた。「結婚して苗字が変わったの」そういって、紙ナプキンとカセットテープを村山に手渡した。

「身の周りのものはほとんど処分しちゃったから、私の音楽はもうそのテープしか残ってないんだけど、誰かに持っていてほしかったの。ごめんね、無理いって」

「いいよ。そうだ、ついでに……」きみの連絡先も、と村山がいいかけたとき、石川さんはなにかに気付き不意に立ち上がった。

「ごめん、わたしもう行かなくちゃ。ありがとう。会えてほんとうによかった」

 それだけいうと、サングラスをかけ、店の入り口に向って歩いていった。初老の男が彼女を待っていた。男がレジで勘定を払い、二人は出ていった。最後に石川さんは村山のほうをちらっと振り返ったけど、すぐに見えなくなってしまった。

 村山は、しばらくテーブルに残された二つのグラスを見つめていた。別の次元に迷い込み、また現実に戻ってきた、そんな感じだった。あれは本当に石川さんだったのだろうか。彼は石川さんのグラスに手を伸ばし、そっと動かしてみた。ライムが自信なさげにゆらゆらと揺れた。

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