幸運なことに、電話に出たのは慶子だった。さらに幸運なことに、慶子は村山のことを憶えていてくれた。

 ぎこちない挨拶と世間話がしばらく続いた。携帯電話もなく、個人情報に対しても今ほど神経質ではなかった頃だ。

 慶子は四年前に結婚していて子どもが一人いた。喋り方が昔と違っているような気がして、村山がそういうと「だってもう一児の母だからね」と笑った。「でも、あなたはぜんぜん変わってないみたい」

「ほめてるの?」

「もちろん」

 昔付き合っていたもの同士というよりも、単なるクラスメイトが久しぶりに話しをしている、そんな会話だった。

「実は今日、石川さんに会ったよ」村山がそういうと、慶子はちょっと黙り込んだ。そのあとの彼女の声は少し遠くなったように村山は感じた。

「どうして?」

「どうしてって……。偶然、空港で。そのとき、君に渡してくれって頼まれたものがあるんだ。それで電話した」

 慶子は溜息をついた。

「わたし、それはもう返してもらわなくていいと思ってたの。だから、石川と一応約束はしてたけど今日空港に行かなかった。わたし以外にもクラスメイトからお金借りてたみたいだったから、あんまり期待してなかったし。あなたのところには行かなかったみたいだけど。でも、どういうつもりかしら、そんなものあなたに預けるなんて」

「ちょっと待って。俺が預かってるのはお金じゃないよ」

「違うの?」

「違う。カセットテープを渡してくれって」

「なにそれ?」

「いや、詳しくは聞いてないけど、とにかくカセットテープを預かってるんだよ。心当たりない?」

 慶子はしばらく考えているようだった。

「わからないわ。昔のわたしたちの演奏のテープかしら」

 そのとき、電話の向こうで、がたんと大きな音がした。「たっくん、いたいいたいでしょっ」という慶子の声が聞えた。「ごめんなさい」

「だいじょうぶ?」

「うん。子どもが椅子を倒したの。だいじょうぶよ。テープのことはわからないわ。それにわたし、そのテープ、もらうつもりはない。もう石川とはあまり関わり合いたくないの。申し訳ないけど」

「そうか」

「ねえ。あの子、変わったわ」

「確かに外見は変わった。でも、中身はあんまり変わったようには思わなかった」

 村山は、慶子が話を続けるのを待った。でも、彼女がなかなか切り出さないので、尋ねてみた。

「君、確か石川さんと同じ短大だったよね」

「うん。でも、あの子はすぐに辞めたわ。それからずっとバンドをやってた。いろんなバンドを転々として、小さなライブハウスを回って。といっても、わたしも結婚してからはめったに会わなくなって、最近のことは詳しくは知らないんだけど。たぶん同じことの繰り返しよね。ねぇ、わたしたちもう三十なのよ」

「わかってる」

 沈黙が降りた。受話器の向こうで、子どもの笑い声が聞える。

「ひとつわからないことがあるんだけど。どうしてそのテープ、直接わたしあてに送らないであなたに預けたのかしら。あなたとは今日偶然会っただけなのに」

 それについては、村山もはっきりとは説明できなかった。でも、なんとなくわかるような気がした。うまく説明はできないのだけれど、石川さんはなにかをつなぎとめておきたかったのだ。そしてたまたまその役目を自分が担うことになった。確かにそれは単なる偶然に過ぎないのかもしれない。ただ、村山には誰かがちゃんと考えたキャスティングのような気がしていた。

 でも、慶子には、自分にもよくわからないと答えておいた。

 そして二人は電話を切った。

 結局、行き場のなくなったカセットテープは村山が預かることになった。テープにはなにもラベリングされていなかったから、なにが録音されているかは実際に聞いてみなければわからなかった。

 中に入っていたのは、彼女たちのバンドの演奏ではなかった。そこには、彼女たちが好きだった、そして村山も好きだった音楽が録音されていた。村山が石川さんに貸したレコードに入っていた曲や、彼女たちが必ず演奏した曲、たまに村山も一緒になってセッションした曲。それを聴けば必ず彼らの記憶の扉のどれかが開く、そんな曲ばかりがたくさん録音されていた。

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