二重帳簿

 伊刈率いるパトロールチームは初めて東洋エナジアに立ち入った。小さなバラックのような工場から叩き上げて事業を拡大してきた産廃業者の多くは敷地も建屋も継ぎ足しで、狭く汚い通路が迷路のように入り組んでいるのが普通だった。しかし東洋エナジアは国の補助金を得て数十億円の投資で新設した最新鋭の施設だった。そのため正面玄関からまっすくに場内通路が伸び、左手にはこぎれいな事務棟、右手にはスレート噴きの工場建屋が整然と並んでいて気持ちがよかった。主力の乾留炉は建屋に覆われていて煙突しか見えなかった。内情を知らずに玄関に立ったら今でも優良業者だと思うに違いなかった。だが表裏にわたる経験と人脈がものを言うこの業界では施設が立派だから成功するとはかぎらなかった。事務棟の前では社長の水沢が自らチームを出迎えに立っていた。大柄な図体にチンピラが着るような悪趣味なトラ柄の上着を羽織った様子はいかにもガラが悪く、役所からは確かに嫌われるタイプだった。だがそれを自分で気にしているのだとすれば、見かけによらず案外ナイーブなのかもしれなかった。

 「ご苦労様でございます。あの伊刈さんでしょうか」タバコで潰した太いしわがれ声で精一杯の敬語を使うのが妙におかしかった。

 「ええそうです。水沢社長さんですね」

 「なんか専務に聞いてたイメージと違うね。もっと怖い人かと思ったよ」水沢は早くも敬語を忘れていた。そのほうがストレートな性格にふさわしかった。

 「この方は見かけよりも怖いですよ」隣から銀司が口出しをした。

 「水沢さん誰かに似てますね」

 「誰すか? 高倉健すか?」水沢はまんざらでもなさそうな冗談を言った。

 「いや私の身内、京城電鉄に勤めていた叔父によく似てる。雰囲気も声もそっくりですよ」

 「そうすか。役所のお偉いさんのおじさんにねえ。でもまさか頭の悪いところは似てねえんでしょうね、はっはっはっ」水沢は大声で自嘲した。

 「いやそこも似てるかな。お酒が大好きな叔父でね。しらふのところを見たことがなかった」

 「や、そうすか。のんべなとこまで似てますか。こりゃまいったな。事務所でお茶でもどうすか」水沢は乗せられやすい質なのかすっかりもうタメ口だった。

 「先に工場を見ましょう。事務所には後で寄ります」

 「じゃ専務に案内してもらってください」

 「社長は」

 「俺は工場のことはわからないんでね」

 「そうですか」

 「それじゃ後で。俺は事務所で待ってっから」社長はあっさりと引き上げ、後には銀司が一人で残った。

 「あんな社長でお恥ずかしいかぎりです」

 「いえ正直そうな社長ですよ」

 「正直?」

 「見たまんまの人なんでしょう。海で育ったらみんなああいう感じなんじゃないですか」

 「そうですか。私は他県出身なんでこちらの方のガラの悪さにちょっと驚きましたよ」

 「そのへんどうなの?」伊刈が喜多を見た。

 「確かに余所から来られた人は犬咬市の人はなんてガラが悪いんだってみなさん言いますね。とくに犬咬はひどいですからね。バカヤローコノヤローはおまえかわいいやつだなみたいな意味ですからね」

 「そうなんですか」銀司がまじめに受け取ったように答えた。

 「ま、それは極端ですけどね」

 「ガラなんてどうだっていいですよ。思ってることと言ってることが同じ人は安心ですよ」伊刈の口振りはまるで小ざかしい銀司の方が信用ならないと皮肉を言っているようにも聞こえた。

 「どこからご案内すればよろしいでしょうか」社長に比べたら自分の方が百倍も紳士のつもりの銀司は少し憮然としながら言った。

 「前処理の破砕機から拝見します」

 「ああそれならあそこです」銀司は工場の建屋と塀に挟まれた細い通路を歩き出した。

 「ずいぶん使いにくそうなところにありますね」

 「狭い工場ですからしょうがないです。設計者というのはなんでもぎりぎりの大きさに作りたがるもので、後で融通がきかなくて困りますね」

 「破砕した廃プラはどうするんですか」

 「自動投入装置で乾留炉に入れます」

 「あの小さなトロッコみたいなのですか」伊刈はジェットコースターをスタート地点まで引き上げるウインチのような鋼鉄製のレールを見上げた。レールの一番下に小さな鋼鉄の箱が傾いてぶら下がっていた。

 「ええあれに産廃を積むんですね。ワンバッチ百キロくらいですか」遠鐘が聞いた。技術的なことはチームで一番詳しかった。

 「よくご存知ですね。設計はそうでしたが実際はそこまで行きませんね。廃プラは比重が小さいのでその半分くらいです」

 「炉は動いてますか」遠鐘は一歩進み出て建屋に覆われた炉の稼働音を聞こうとした。

 「ええ片方だけ。もう片方はメンテナンス中です」

 「いつから止まってるんですか」

 「最近ですよ」

 「それにしてはトロッコのワイヤーが切れてるし、レールも錆付いてませんか」

 「一週間もするとあんな感じですよ。磨けば動きます」

 「トロッコ式自動投入装置っていうのはメンテナンスが難しいんじゃないですか」

 「おっしゃるとおり故障が多いですね」

 「ボイラーと乾留炉と別々にあるんですか」

 「連続しておりまして外見上は区別できません。複雑な炉でして全体は見えませんが裏側からのほうが構造は見やすいです」

 「それなら反対側にいきましょう」

炉体をぐるりと回りこんでみたが建屋に隙間なく複雑な配管の炉が詰め込まれているので素人の伊刈には構造の全容がつかめなかった。

 「遠鐘さん、この炉の構造を説明できる」伊刈はチームを見た。

 「片方が動いてないことだけは確かですね」遠鐘がぼそりと答えた。

 「汚泥の乾燥はどこでやっていますか」伊刈は銀司に向き直った。

「乾留炉で発生した可燃性ガスでボイラーを炊いているんでしたよね」遠鐘が補足した。

 「今ボイラーの調子がよくないので乾燥は中止しています」

 「すると単なるガス化炉として運転してるわけですね」

 「そうです。なかなかお察しがいいじゃないですか」銀司が皮肉っぽく言った。

 「乾燥ができないとなると受け入れた食品系汚泥はどこで処理してるんですか」伊刈が聞いた。

 「発酵しています。施設の許可はございませんが業の許可はございますので」

 「どういうこと」伊刈は遠鐘を見た。

 「発酵施設は設置許可が要らないんです」

 「どうして」

 「わかりません。それが法律ですから」

 「そっか。で、どこで発酵やってるんですか?」

 「こちらへどうぞ」銀司は処分場の裏手の発酵槽に案内した。

屋根があるだけのプラットホームのような場所に汚泥が薄く敷き伸ばされ酸っぱい臭いを放っていた。悪臭だが腐敗臭ではなかった。

 「これですか。なんだか豚小屋みたいなところですね」

 「失礼な発言ですね」

 「むしろ豚小屋に失礼でしたか。ただ汚泥を敷きのばしてるだけじゃないですか。これで発酵しますか」

 「もちろんちゃんと発酵します。温度が上がって湯気が立ち上って麹みたいになるんです」

 「でも温度が高いようには見えませんね」

 「まだ入れたばかりですから」

 「いつ入れたんですか」

 「三日前だと思います」

 「どの処理もあまりうまくいってないみたいですね」

 「伊刈さんちょっとよろしいですか」銀司はわざと伊刈だけを物陰にさそった。

 「なんですか」

 「社長には内緒にしてもらいたいんですが今新しい処理を研究中です。乾留炉で今までよりも温度を上げて蒸し焼きにしますと食品系の汚泥が活性炭になるんです。とてもいいもので脱臭剤に使えます」

 「それまで待てないでしょう。場内のあちこちに積んである廃プラのベールは問題ですね」

 「置き場所が狭いものですから」

 「場内はわかりました。事務所に戻って書類を拝見します」

 「さっきの話はくれぐれも社長には内密に。まだあくまで研究中でして」

 伊刈は返事をせずに社長が待っている事務棟に向かった。

 軽量鉄骨の事務棟は国庫補助を得ただけあってなかなか立派なもので内部もこぎれいだった。小さいながら立派な社長室に水沢が後から付け足した白木の神棚が妙に浮いていた。伊刈と長嶋が神棚に向かって軽く手を合わせるのを遠鐘と喜多が複雑な表情で見守っていた。長嶋はともかく伊刈が神仏を信心しているとは思えなかった。

 「まあコーヒーでも飲んでくださいよ」水沢が鷹揚に語りかけた。検査チームが応接セットに座るのを待って女子事務員がコーヒーを給仕した。エキゾチックな感じの目の大きな三十歳前後の美人だった。水沢はソファの中央にどっかと座ると股を百八十度に広げた。伊刈と長嶋が一人掛けのソファで対座し、遠鐘と喜多は後ろの補助椅子に控えた。

 「工場はどうでした。俺はほんとになんにもわかんなくてね」

 「理想のリサイクル施設としてスタートしたことは感じられましたよ」

 「そうですか。やっぱり見る人が見るとわかるんだね」水沢は伊刈にお世辞を言われてまんざらでもなさそうだった。

 「施設の配置も整然としてますし、設計のよさが伺われますよ。とくに産廃の自動投入装置がよかったですね」

 「ああ、あの壊れてばっかのやつですか。取っちゃおうと思ってましたがいいものなんですか」水沢は伊刈の皮肉をまともに受け取った。

 「片方のトロッコはワイヤーが切れてましたね」

 「あれはね、俺がここ買ったときからずっと動かないんだ」

 「社長っ」後ろに控えていた銀司が小声で叱咤した。

 「なんだよだってほんとじゃねえか」水沢が銀司を振り返りざまに毒ついた。

 「炉はずっと一つしか動いてないんですか」

 「片方はだめだね。もう片方も動いたり動かなかったりみたいだな」

 「設計はいいのにもったいないですね」

 「お金をかければ直りますよ」渋い顔をしながら銀司が発言した。

 「いくらかかるんだよ。十億か二十億か。そんな金があれば新しいの買った方が安くてでっかいだろう」

 「新しい炉では許可になりませんよ。どんなに苦労して許可を貰ったと思ってるんですか」

 「そんなの俺は知らないよ」水沢は他人事のように言った。

 「帳簿を拝見したいんですが会議室はありますか」

 「あるよ。贅沢な事務所でね、部屋はいっぱい空いてるよ」

 「それじゃそこに書類を持ってきてもらえますか」

 「事務の者に言ってくれるか。俺は数字には弱いからね」

 「でも検査が終わるまではいてくださいよ」

 「ああ待ってるよ」

 「こちらへどうぞ」チームの四人は銀司の案内で会議室に移動した。

「どんな書類をお持ちしますか」銀司が恐る恐る尋ねた。

 「契約書とマニフェストを去年と今年の分全部、決算書を直近三期分、それから去年と今年の総勘定元帳、あと補助簿も全部お願いします」伊刈はまるで当然のようにすらすらと言った。

 「それすごい量ですが」銀司が眉をひそめた。

 「待ってますから全部並べてください」

 「わかりました」

 しばらく会議室で待っていると社長室にコーヒーを運んできたエキゾチックな美人とは別人の丸顔がチャーミングな二十代前半の女子事務員がおどおどした様子で伊刈に指示された帳簿を運ぶために事務室と会議室を何往復もした。書類は大きな会議テーブルが埋めつくされるほどの量になった。さすがに古狸の銀司も伊刈がどんな検査をやろうとしているのか見当もつかない様子で書類の山を眺めた。

 「これで全部ですか」

 「はい。不足はないかと思います。これを全部検査されるおつもりですか」

 「帳簿組織の全容を見たいんです。全部見るわけじゃありません」

 「なるほど」

 「受注量と処理能力を比較してみようと思っています。そうすればこの施設で処理できる範囲の受注量かどうかわかりますから。それからマニフェストがすべて作成されているかどうかを会計帳簿と比較して点検しますよ」伊刈はわざと手の内を銀司に伝えた。

 「ははあ」銀司は少し狼狽しながら答えた。

 伊刈と喜多が中心になって帳簿の照合を始めた。長嶋と遠鐘主任は会計帳簿の見方がわからないので補助に回った。

 「喜多さんどう思う」

 「なんか変ですね。なんか足らない」

 「さすがだね。僕もそう思う。なんかが足らないよな」

 「なんでしょうか」

 「書類が整いすぎてるってことじゃないか。場内の乱雑な様子と帳簿の綺麗さが不釣合いな気がする」

 「そうそれなんです。でもどうしてなんでしょう」

 「だいだい予想はつくよ」

 伊刈は心配そうな顔で検査の様子を見守っていた銀司に向き直った。「専務さん」

 「は、なんでしょうか」何を聞かれるものかと銀司は戦々恐々とした顔で応じた。

 「さきほどの経理担当の方のお名前は?」

 「三嶋ですがどうかしましたか」銀司は思いがけないことを聞かれて不安そうだった。

 「直接お聞きしたいことがあるんですが、ちょっと呼んでいただけますか。それから専務さんは外していただけますか」

 「私が居てはまずいですか」

 「彼女のお立場を考えてのことです。簡単な質問をするだけですよ。十分だけお外しください」

 「わかりました」専務は三嶋を呼び出すと入れ替わりに渋々退室した。

 一人で会議室に居残った三嶋はおびえた様子で入口の近くに立ちつくしていた。事務服の下の無垢の素足が気のせいか震えているように見えた。

 「座ってください。質問は簡単ですから」伊刈が慰めるように言った。

 「はい」三嶋はおとなしい性格なのか細い声で返答した。

 「帳簿はよくできていましたよ」

 「ありがとうございます」

 「もしかして商業を出られたんですか」

 「え、あはい、犬咬商業です」

 「だと思いました。簿記ができるんですね」

 「そんなに得意じゃですけど」

 「手短に済ませたいので単刀直入にお聞きしますよ。いろいろ帳簿を調べさせていただいたんですが数字が過小なんですよ」伊刈はいきなりストレートを打った。

 「は?」三嶋は意外そうな顔で聞き返した。

 「たとえば売上高の方がマニフェストより多かったらですね、マニ伝なしの持ち込みの受注があるってことで説明がつくと思うんですよね。だけど帳簿を点検させていただいたかぎりではマニ伝のほうが多いんですよ」

 「どういうことでしょうか」三嶋は顔面を高潮させた。

 「はっきり言いますが、もう一冊別の売上帳があるんじゃないでしょうか」

 「そんなのありません」三嶋は大きく首を振った。

 「帳簿が二冊あるとしたら脱税になるんですよ」伊刈は脱税とはっきり言って動揺を誘った。

 「私、脱税なんかしてません」三嶋は今にも泣き出しそうに地味なスカートの上に揃えた両手を握り締めた。

 「あなたが知らない帳簿を専務が別に作っていませんか」

 「いいえありません」

 「それじゃ専務とは別に社長が作ってる帳簿があるでしょう。あなたの責任外の帳簿ですよ」

 「それは麗子さんが…」誘導尋問にひっかかって三嶋は口を滑らせた。

 「麗子さんてさっき社長室でコーヒーを煎れてくれた目の大きな女性かな?」

 「それは…」三嶋は固まった。目がはげしく泳いでいた。うっかり自分が口を滑らせたことで会社が窮地に立つかもしれないと彼女なりに察したのだ。

 「麗子さんが社長の帳簿をつけてるんですね」伊刈の誘導尋問は続いた。

 「いえそれは…」三嶋は涙ぐんだ。

 「社長の帳簿が別にあるならすっかり説明がつきますよ」

 「私は専務に渡された伝票をつけてるだけです。社長の仕事はわかりません。別の帳簿があるかどうかも知りません」

 「あなたが専務の伝票を帳簿につけ、麗子さんは社長の伝票を帳簿につけている。そういうことですよね」伊刈は執拗に繰り返した。

 「そうかもしれませんがほんとにわかりません」

 「いいですよ。それだけ教えてもらえれば。もう終わりました。専務を呼んできてください」

 三嶋は大きく肩で深呼吸したが、なぜかすぐには退室しなかった。

「あの?」蚊の鳴くような声とはこのことだった。

 「なんですか」伊刈は意外そうな顔で応じた。

 「うちの会社何をやったんですか」

 「それは今調べてますが、あなたの罪にはなりませんよ。専務と代わってください」

 「すいません、ほんとにすいません」三嶋は何度も頭を下げて退室した。脱税で逮捕されると本気で心配しているようだった。

 「専務さん、社長を呼んでもらえますか。社長一人だけでお願いします」検査場に戻ったばかりの銀司に伊刈が言った。

 「わかりました」自分が外されていると感じた専務は渋い顔で水沢を呼びに行った。銀司と入れ替わりに水沢が入室した。

 「どう、待ちくたびれたけど何かわかったかい」水沢は能天気なものだった。

 「社長、麗子さんてどなたですか」

 「さっき俺の部屋に居た秘書だけどそれがどうした」

 「彼女ですか秘書ですか」

 「まあそう硬いこと言うなよ。赤字会社の社長だって愛人くらいこさえるだろう。女が何かしたのか」

 「彼女がつけてる帳簿を見せてもらえますか」

 「あ?」

 「帳簿があるでしょう」

 「そんなものないよ」

 「それじゃ彼女を呼んでもらえますか」

 「なんで」さすがの水沢も声を荒げた。

 「専務の帳簿と社長の帳簿で売り上げを別々につけているでしょう」

 「なんでそんなこと断言できる?」

 「数字が合わないんですよ」

 「なんの?」

 「入荷している産廃と専務のつけてる帳簿の数量がです」

 「それは専務がごまかしてるからだろう」

 「いえそうじゃないと思います。社長と専務は別々に売上を管理されてませんか」

 「何言ってんだよ」

 「つまり会社が二つあるってことです。社長の会社と専務の会社です」

 「意味がわかんねえな」

 「麗子さんの苗字はなんとおっしゃいますか」

 「池沼だよ」

 「じゃ池沼さんを呼んでいただけますか。そうすればはっきりしますよ」

 「呼ばなかったらどうする?」

 「彼女も不法投棄の共犯になりますよ。それからたぶん脱税のね」

 「こんな赤字の会社で脱税できるのか」

 「赤字かどうかは税務署が判断しますよ。二重帳簿じゃ話になりませんよ」

 「どうする気なんだ。税務署にちくるのか」

 「とにかく池沼さんがつけている帳簿を拝見したいんですが」断固たる口調だった。

 「わかったよ。そんなもの見せるのあんたが最初で最後だぞ。専務にだって見せたことはないんだからな」

 水沢は池沼を呼び出した。

 「麗子あれ見せてやれ。おまえにつけさせてるノートだ」

 「わかりました」池沼は社長に言われて手書きの帳簿を持ってきた。伊刈の読みどおり彼女は社長のために二冊目の帳簿をつけていた。池沼には簿記の知識がないらしく、取引先名、日付、金額だけの現金出納帳程度の記録だった。

 「喜多さん、専務の帳簿と社長の帳簿を突き合せてみようか」

 「ええわかってます。マニフェストは全部ありますから簡単ですよ」

 「つまりどういうことだと思う」

 「マニフェストは全部専務が管理してますが収益のほうは専務分と社長分が分けて経理されてるみたいです。売上げの二重帳簿ですからつまり…」

 「脱税だな」伊刈は水沢と池沼に聞こるか聞こえないかの微妙な声で言った。

 「たぶんそういうことになります。売り上げは二重帳簿、費用は全部専務の帳簿に載ってますから赤字に決まってますよね」

 「やるじゃないか。有能な税理士になれるよ」

 「こんなことやらせてる税理士が居るとしたら免許剥奪ですよ。あ、数字出ました」

 「合計はどうだ」

 「ぴったりです。二人とも優秀ですね」

 「二人って専務と社長の秘書のことか」

 「はい」

 「じゃ細かい数字合わせは任せた」

伊刈は帳簿の集計を喜多に委ねて気短な水沢に向き直った。「社長の分の売上げは会社の決算書に載っていないみたいですね」

 「そうなのか。それは知らなかったな」水沢は空とぼけた。

 「池沼さんがつけている帳簿は税理士も知らないんでしょう」

 「まあな」

 「それじゃ決算書に載るはずがないですね。これは脱税になりますよ。しかも社長の受注分は工場で処理してすらいないんじゃないですか。つまり不法投棄現場に直行ってことですよね」

 「帳簿見ただけでよくそこまでわかるな。だけど伊刈さんよ、誓って言うけどこれは脱税なんかじゃねえんだ。社員を食わすためには仕方がねえだろう。産廃ってのは注文さえあれば工場はだめでもなんとかなんだよ」

 「工場がだめでも不法投棄すればってことでしょう。こうなった原因はなんですか」

 「俺は騙されたんだよ。絶対に儲かる、借金なんかすぐに返せるって言われて工場を買ったんだがよ、とんでもねえガセだった。炉を作ったやつがポックリ逝ったとかで、おまけに設計屋も潰れて修理ができねえんだ。ほかのメーカーに頼んでみたが構造が複雑なんで最初の設計屋じゃねえと直せねえと言われた。だがそんなことなら金でなんとかなる。問題は専務だよ」

 「どういうことです」

 「あいつは会社を潰して乗っ取るつもりだったんだろうな。それを俺が買っちまったからおもしろくねえんだ。俺の言うことなんかバカにして聞きやしねえ。いっそ潰れた方がいいって態度だよ。借金は増えるばっかだし参ったね。俺は社長だから会社が潰れても借金背負うんだろう。専務はいつでも逃げられっから気楽だよな」

 「借金はいくらあるんですか」

 「最初は十五億だったんだが今は二十億になったよ。二、三千万なら首をくくって保険金をもらう手もあるが二十億じゃ死ぬ気にもなんねえ」

 「誰に騙されて会社を買ったと言うんですか」

 「ここを買わないかと持ちかけてきたのは黒田だよ」

 「宝塚興業の黒田さんが絡んでるんですね。自社処分場専門のブローカーだと思ってましたが、許可施設の斡旋もやるんですね」

 「そうだよ。あいつにはうまくやられたよ。後で聞いたんだけどよ、最初は自分でここを買おうとしたらしいな。だけど施設がもう直せないと知って断念したんだとよ。まんまと仲介料だけせしめて今じゃ知らん顔だよ」

 「ここを紹介したのはほんとに黒田か。もっと上が居るんじゃないのか」長嶋が脇から言った。

 「ああ駐在さんか。そうだよ、黒田のバックがいるよ。名前は言えないけどよ、俺も世話になってる親分だよ。だから断れなかったんだよ。たまたま土地が売れてまとまった金があったしな」水沢はあっさり認めた。

 「狐澤か」長嶋がたたみかけた。狐澤は地元のヤクザだった。

 「なんでも調べがついてんじゃねえか。だったらわざわざ聞くなよ」

 「前処理残渣の自社処分という口実は誰が始めたんですか。ベールのまま埋めてますよね」伊刈が尋ねた、

 「俺が社長になる前から専務がもうやってたよ。理想の施設なんて聞いてあきれる。施設の中も外も空地にはみんな産廃を埋めてあるんだ。だけど俺もよ会社を潰すわけにゃいかないんでな。今じゃ専務も俺の持ってる山を処分場として当てにしてるよ。あいつは絶対売り上げごまかしてるよ。それって脱税よりか悪いだろう」

 「それがほんとうなら横領ですね」

 「だろう。絶対やってる。そこは調べてくれたのか。あんた俺が隠してる帳簿を見つけられるくらい切れんだからそれもわかってんだろう」

 「それはどうですかね」

 「どっちみちこの会社はもうだめだな。ここはお化け屋敷だよ」

 「班長、集計は終わりました」喜多が水沢にも聞こえるように報告した。

 「どうだった」伊刈は水沢に隠そうともせずに喜多に尋ねた。

 「マニフェストの比率としては専務分が四、社長分が六、売上の比率としては逆に専務分が七、社長分が三て感じでした。搬入台数は去年は月間千台くらいでしたが今年はもっと増えています。でもたぶん全部不法投棄だと思います。施設が動いていれば増えるはず電気代が増えているどころか減っています」

 「社長、いったいいくらで受けてるんですか」伊刈が水沢に向き直って聞いた。

 「俺のはよ、ダンプ一台八(万円)くらいだな。汚泥はよ、安いんだよ」

 「だいたい帳簿と合いますね。専務の方は十二万くらいです」喜多が補足した。

 「社長、今日はこれで引き上げます。このノートはお預かりしますよ」

 「おいおい」

 「コピーを取ったらお返ししますよ。専務の帳簿はまさか捨てないでしょうから置いて行きます。税務署には修正申告してください。そうしないと重加算税がつきますよ」

 「どうせない袖はふれねえさ。それよか専務の横領のこと頼むぞ」水沢は自分の脱税はすっかり忘れて専務の告発に夢中だった。

 翌朝、銀司から電話があった。「三嶋がやめましたよ。昨日みなさんがお帰りになると同時に辞表を置いて帰りました。彼女に何を言ったんですか」冷静な銀司にはめずらしく気色ばんでいた。

 「少しつらいことを申し上げたかもしれませんが、辞めるように諭したわけじゃじゃありませんよ。彼女の意志でしょう」伊刈が応えた。

 「いい子だったのにどうしてくれるんですか」

 「早く次の会社を見つけてあげたほうが彼女のためにいいんじゃないですか」

 「いきなり辞められてはいろいろ困るんですよ。経理担当なんですから」

 「それより昨日の検査結果では搬入中止を命じるしかないですね。営業を自粛していただければ文書は出さないことにしますが」

 「搬入は止められません」

 「それでは文書を出します」

 「私はともかく社長は荷を止めませんよ。ああ見えても社長は頑固ですよ」まるで捨て台詞だった。

 伊刈と水沢の消耗戦が幕を切った。

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