それから五日ほどでエマの傷口は完全に塞がり抜糸が行われた。


「痛いところは無い?」


 美濃は時々作業の手を止めてエマに優しく声を掛ける。


「いたくはないけどムズムズします」


「皮膚に糸が通るって独特の感触があるから。痛い時は遠慮無く声を掛けてね」


「はい」


 エマはおとなしく座って抜糸が終わるのを待つ。

 あれからエマの記憶に変化が無いようで、相変わらず五歳児のままの話し方をしている。会話そのものに淀みは無いし、聞いたことに対する受け答えもしっかりしている。美濃はエマとの会話で外傷によるものではないとほぼ確信していた。


「あのね、せんせい」


 何かしら? 美濃は作業の手を休めずに返事をする。


「ぼく、じゅうにねんまえからタイムスリップしたんだよ」


「えっ?」


 美濃自身もびっくりする様な素っ頓狂な声を上げてしまい、手元が狂いそうなのを必死に抑えていた。


「どうしてそう思ったの?」


 彼女は一度中断してエマと向き合うよう移動する。エマが何故そんなことを思ったのか、専門外ではあったが、医師として興味の引く話のような気がした。


「う〜ん、うまくいえないんだけど……ぼく、かいだんからおちてめがさめたらじゅうにねんたってるって。おじちゃんも、よりちゃんも、なおちゃんもみんなとしをとってるの。せとやませんせいもちょっとしらががはえててね、ぼくのからだもおっきくなってるんだ」


 話をしているエマの表情はとても生き生きとしていた。今のエマ自身は五歳だと認識しているが実際は十六歳、自動二輪免許証と保険証を確認しているので間違いない。


「でもね、なおちゃんが『とおかかんねむってた』って……とおかとじゅうにねんじゃけいさんがあわないもん。だからたましいだけがじゅうにねんのじくうをこえて、にゅういんしてるおとなのぼくのなかにたましいがはいったんだとおもうんだ」


 子供の想像力って凄すぎる……と感心している場合ではない。五歳のつもりで目を覚まして、いきなり十二年後と言われたらショックの一つも受けるだろう。一夜明け、二日三日と過ぎていっても状況は変わらない。今日が二〇○○年七月二十一日だと言い聞かせても恐らく納得は出来ていない筈だ。きっとエマなりに今の状況をどう受け止めてどう咀嚼しようか、無意識に考えを巡らせていたのだろう。そして彼なりに見付けたのがタイムスリップという一つの“仮説”なのかも知れない。


「沖野くん」


 美濃はエマの手をそっと握る。


「ほんの少しだけ、抱き締めてもいいかしら?」


「うん、いいよ。ぼくせんせいだいすきだから」


 こんなこと初めてする……美濃はエマの頭をそっと撫でてから細い体を抱き締めた。初めのうちから嬉しそうに抱き着いてきたのだが、そのうち何かを思い出した様で表情を曇らせていく。エマは美濃の肩に顔を埋め、小さく嗚咽を漏らしながらせき切ったように泣きじゃくった。


「ここでは我慢しなくていいの、瀬戸山先生にもお話ししましょう」


「うっ、ひくっ……しんじてくれるかな?」


「大丈夫、彼ならきちんと話を聞いてくださるわ」


 美濃はエマを優しく宥めて普段なかなか見せない笑顔を向けた。陰で“鋼の女”と呼ばれているだけに自分でも分かるくらいに固い笑顔だったと思う。それでもエマは涙を拭って機嫌を直し、あと少しだけ残っている抜糸を再開させた。

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