6.濡れ衣
「ええっ? 仕事場?」
朝食の後、グリードが仕事場について行きたいと言うと、椅子でくつろいでいたターシャはあからさまに嫌な顔をした。
ターシャにとって、仕事場な神聖な場所だ。ターシャは幼い頃、ルーシアによりこの能力を見出された。そんなターシャの元にやって来る人が、ぽつりぽつりと出て来た頃、ルーシアは自宅を使って占いをするよう勧め、その間は部屋に入る事はしなかった。そのため、占いの最中に依頼人でもない人物がそばにいるのは、やりにくい。それに、占いの腕を疑われた事も、少し根に持っていた。
「嫌よ。だってまだ家の仕事が終わってないじゃない」
室内は綺麗に片づけられたが、まだ裏口の立て付けや、屋根の修理、外壁のペンキ塗りなど、手をかけるところは残っている。そう話すと、グリードは思ったよりもすんなりと引き下がった。
「あ~。そうだな。わかった」
「ペンキとか工具が必要よね……」
ターシャは寝室に戻ると、数枚の札を持ってきた。
「これで足りるかしら……」
「預かってる金がまだ余ってるから、いいよ。必要最低限の物しか買わないし。それはちゃんと仕舞っておけ」
グリードは、伸ばした手で札を受け取らず、ターシャの頭をポンポンと撫でた。
「ただし、これが終わったら次は仕事場だからな? 見られて困るなら、片付けておけよ?」
「失礼ね! 汚いから嫌がってるんじゃないもの!」
「どうだかな~?」
ムキになって反論するターシャに、グリードは楽しそうに笑い返した。
* * *
数日後、色がくすんであちこちペンキが剥げていた外壁が、綺麗な青色になった。
屋根の修理も終わり、雨漏りの心配も無くなった。ギィギィと耳障りな音を出し、欠けた隅から隙間風が入っていた裏口の扉も、グリードが新しく作った扉に変わった。
たった数日で、ターシャの家は劇的な変化を遂げていた。
今日こそ、仕事場について行こうと思っていたグリードだったが、肝心のターシャは仕事に出かけずに、のんびりと朝食の席についた。
「わ。なぁに、これ?」
目の前にあるパンは、いつもと違ってしっとりと卵色をしており、表面は綺麗な焼き目がついている。
ターシャがいつも通り手に取って食べようとしたところ、グリードに「ちょい待て!」と止められた。
「それはこれで食え」
渡されたのはナイフとフォークだった。
面倒だな、と一瞬思ったが、グリードがパンの上にたらりと蜂蜜を垂らしたので、手で食べるのは諦めた。
ナイフを入れると、ふわっとした感触に驚く。
パンなのに、しっとりふんわりってどういうことだ。
焼き色がついてるのに、ふんわりって。
内心訝しく思いながらも口に入れると、じゅわんと甘さが口に広がった。
「んんんん! おいしいっ!」
ターシャの表情を伺っていたグリードが、ニカッと大きく笑う。
「だろ?」
「おいしい! ねえ、これどうしたの? パンよね? どうしてこんなにふんわりしてるの?」
「日にちの経った古いパンがあったから、卵を牛乳で溶いたものに浸して、それから焼いたんだ。硬くなったパンはこうした方が食べやすいだろう」
ターシャは口いっぱいに頬張ったまま、コクコクと忙しなく頷く。
よほど美味しいのだろう、視線はパンに釘づけだ。
「こういうの、食べたりしなかったのか?」
「うん。硬くても食べれないことはないし。ねえ、まだこのパンある?」
「あるよ。なんだ、今日は随分のんびりしてるんだな。そろそろ仕事に行くんじゃないのか?」
「あ、今日は休みよ。商店街も全部休み。そこに暦があるでしょ」
「あるでしょ、って……。これはこの前、俺が散乱してた荷物の中から発掘したヤツじゃないか」
「い、いちいちうるさいわね。そういえば、グリードが住んでた森では、休みはどんな感じ?」
「月の満ち欠けだな。俺ら人狼は月の満ち欠けに体調が左右されるから。それにしても、休みか~。今日はターシャの仕事場まで一緒に行こうと思ってたのに」
「えっ。嫌だってば」
ターシャが、また嫌そうに顔を顰めた。
「あのな、俺はお前の用心棒なんだぞ? それに、店の掃除も俺がちゃんと確認しなきゃな。いくら大丈夫って言っても、ターシャには前科があるからなぁ」
「失礼ね。さすがにちゃんとしてるわよ。店は荷物が増えるってこともないし」
「じゃあ、窓や棚を拭いたのはいつだ? 床を掃いたのは? 外壁を洗ったのは? 空気の入れ替えをしたのは?」
言い返した勢いはどこへやら。
途端に、ターシャの視線が泳ぎ出す。
「答えられないってことは、明日は俺を連れて行かなきゃな。大体、物が増えなきゃいいってわけじゃない。一応客商売なんだろうが」
「――わ、わかってるわよ」
ターシャはなんとかそう言い返すと、一口大に切ったパンを口に入れた。
「あ~あ、蜂蜜ついてるぞ」
唇の端を指差され、指で拭おうとすると、その前にグリードの手が速く唇から蜂蜜を拭いとった。
なんだか、すっかりグリードのペースだ。
ターシャは、心の中でため息をついた。
* * *
さて……。店が休みとなると、どうしようか。
ターシャはグリードも休むべきだと言ったが、突然そう言われても、特にやることがない。
ベッドでゴロゴロするのも性に合わないし、なによりこの家に来てからは、夜ぐっすりと眠れているのだ。それには、ターシャの存在が大きいような気がする。
住み込みが決まった日の夜にも、グリードはひどい夢を見ていた。
走っても走っても森を抜けることができない。
尊敬する祖父も、叔父も、随分先を走っている。
このままでは置いていかれる。
また、ひとりになる。
それは嫌だった。
早く立派な大人になりたかった。
足手まといな存在だと、思われたくなかった。だから、色々我慢した。辛くても、なんでもやった。何度置いて行かれても、家に連れ戻されても、ふたりの後を追った。
でも、いつも気づけばひとりだった。先を走るふたりの足音も、気配も消えていた。
嫌だ。
ひとりになるのは嫌だ。
必要とされないのは嫌だ。
苦しい。寂しい。悲しい――。
そんな感情の渦の中、優しくあたたかい手が頭にそっと触れた。
この手を離してはいけない。そう思った。
がむしゃらに手を伸ばして、その手を捕らえる。
引っ張りこんで、抱きしめた。そこから感じる温もりが、嬉しかった。
やっと深く息を吸えた。暖かな、太陽が降り注ぐ草原のような香りがした。
明け方、目を覚ますと、腕の中にはターシャがいた。
あの夢は、半分本当だったのだ。
思えば、この家に来た時、久しぶりにぐっすり眠った日も、ターシャを腕に抱きしめていた。
どうしてターシャが隣にいると、ぐっすりと眠れるのかはわからない。けれど、これだけは分かった。ターシャは、グリードにとって、自分自身を見てくれる初めての人間だった。
ここに居座るために無理難題を言った自覚はある。でも、困った顔を見せながらも、ターシャはグリードを受け入れてくれた。
人狼であるということ以外、ターシャはグリードのことを知らない。
どこからやって来たのかも、なぜ倒れるまで旅をしてきたのかも。
それでもグリードを受け入れてくれた。
そんなところも危なっかしいと思う反面、やはり嬉しかった。
となると、悪い虫は排除したくなるものだ。
今日は掃除にかこつけて店に同行し、しょっちゅうちょっかいかけてくるというアジルとやらを見定めるつもりだった。
別に明日でもいいのだが、なんだかヤツの存在を思うと、胸がもやもやする。
「ここは村の中心部まで出て、それっぽいヤツを探すしかないのか?」
それにはまず、家の事を片付けてさっさと出かけなければ。
洗い物をしようと裏口を出たグリードは、貯水樽の水が少なくなっている事に気がついた。
そういえば、ここ最近家の修繕で、水を使う機会が多い。
ターシャはいつも湖で身体を洗った後に、桶に水を汲んで来ているみたいだが、こんなに減らしてしまっては補充も大変だ。
ここに来て数日、しっかり食べてぐっすり眠って、そして適度に動いているため、体力は戻りつつある。
桶二杯分を一度に運べば、何往復かで貯水樽もたくさんになるだろう。
「よし、そうと決まれば、湖に行くか」
ついでに、水浴びもしてこよう。用心棒としては、本当に安全なのかも確かめて来なくてはならない。
「まったく、世話の焼ける主人だなあ」
両手に水汲み用の桶を持ち、グリードは意気揚々と湖に向かった。
*
水が入った桶を持って三往復目、ようやくこれで最後だと水を汲み、ターシャの家に向かう。
(あ~あ。汗かいちまった。先に水浴びしなきゃ良かったな)
後から来るターシャと鉢合わせしないようにと思い、先に水を浴びたのだが、水汲みで往復しているうちに、身体はすっかり汗だくだ。
確かに、ターシャの言う場所は、目につきにくく、わざわざ滝の反対側に行くなど面倒を考えると誰も来ないと言うのも分かる。だが、やはり外は外だ。
後で湖で水浴びをするというターシャを、勿論、グリードは説得した。だが、日常的に湖を利用しているターシャは、聞く耳を持たない。
ターシャは自分が年頃の若い娘だという自覚がないのだろうか?
アジルというヤツも、家の風呂に誘うくらいだ。ターシャに気があるに違いない。それなのに、当の本人は気が付かないどころか、無防備すぎるくらいだ。
いくら穴場だといっても、湖なんていつ誰に覗かれてもおかしくないというのに。
そんな事を考えながら歩いていると、こちらに向かって歩いて来る足音がした。
その足音は、ターシャの家から湖に続く小道ではなく、鬱蒼とした草むらの中をかき分けながら歩いている。
(誰だ? ターシャか?)
気になったグリードは、桶を脇に置くと、忍び足で音の方に向かった。少し歩くと、遠くにキョロキョロと周りを確認する男がいた。
(なんだ。ターシャじゃないのか)
グリードは来た道を引き返すと、水桶を持ち、家に戻った。
ザァァ、と一気に水を入れると、貯水樽はほぼ満水になった。三往復した甲斐もあるというものだ。
「ターシャ、水汲んできておいたぞ!」
裏口から声をかけるも、返事はない。
「ターシャ? いないのか?」
家の中に入っても、人の気配はなかった。もう湖に向かったのだろうか。
玄関の扉を開けて、ターシャの姿がないことを確認すると、扉を閉めようとして、不自然な足跡がある事に気がついた。
玄関前をうろつくような足跡は、ターシャの小さな足跡ではない。一見して男の物と分かる足跡だ。
(これは……)
…………。
グリードはハッと顔を上げた。
「――あ!」
急いで家を出て、走り出す。
その足が向かう先は、さっき戻って来たばかりの、湖だ。
「今日は暦通り、店は休み。アジルはターシャが共同浴場にもアジルの家にも行かないことを知っている!」
どうして、もっと早く気が付かなかったのだろう。
ターシャは自分に魅力がないと思い込んでいるが、とんでもない。
確かに目はパッチリと大きいが平凡な茶色だ。でも、少し吊り上がった丸い目はとても綺麗だ。
鼻だって少し低い。だけど、鼻筋が通っている。
髪もくすんだ茶色で強い癖毛だ。でも、とても柔らかくて抱きしめた時に首筋をくすぐる感触がとてもいい。
なにより、とても優しくて小さな手と、柔らかくて抱き心地の良い小柄な身体は、男のグリードとは正反対のものだ。
つまり、他の男に覗かれるのは、腹が立つ。
絶対、さっきの男はアジルだ。そして、アジルはターシャが湖にいると踏んで、向かったに違いない。
そう結論づけたグリードは、森に入った瞬間、大きな木の陰で狼に姿を変えた。
急激に嗅覚と聴覚が鋭くなる。
水の音――ターシャの香り――そこに混ざる、他の人間の匂い。
一瞬足を止め、グルルとうなると、グリードは一気に駆け出した。
草木をかき分ける音も、滝の音にかき消されて、目の前の光景に夢中の男には聞こえないらしい。
ヒョロリとした体躯の金髪の男は、立派な幹を持った木の影に隠れ、息を飲んで湖を――いや、水浴びを楽しむターシャを見ている。それを確認すると、グリードは、はらわたが煮えくり返るような強い感情が身体の中を駆け巡った。
一気に近づいてやろうか。それとも、静かに近づき、間近に迫ってから脅そうか。
効果的なのは、後者だろう。
すぐに蹴散らしたい気持ちを抑えて、グリードは慎重に距離を縮める。
アジルと思われる男の息遣いが荒くなる。
嫌悪感に鼻を顰めると、グリードはアジルの真後ろで、ガルルルルルと威嚇した。
驚きに飛び上がって振り返ったアジルが、目の前に迫る大きな狼に腰を抜かす。
「ひっ、な、なんでこんなところに、お、狼がっ……」
ぐっと顔を近づけ、至近距離で大きく口を開けて牙を見せると、アジルは声にならない悲鳴をあげて、這うように逃げていった。
「ふん。覗きだなんて、汚い真似をするからだ」
満足げに鼻を鳴らしたグリードだったが、先ほどの悲鳴に気づいたのだろう。ターシャの声が聞こえた。
「なんの音? 誰かいるの?」
近づいてくる気配を感じ、グリードは焦り出す。
覗き魔を蹴散らしたのはいいが、今グリードがひとりの状況で見つかっては、犯人にされかねない。
急ぎ足で戻ろうと踵を返した時だった。
「ああああああああ!?」
視界が反転する。
あっと思った時には既に遅く、グリードは大きな水しぶきを上げて、湖に落ちてしまった。
「グリード!? ちょっと、一体なにしてるのっ……!?」
「いや、これは、その……水浴び、しようかな~って」
「はぁ!? じゃあ、なんでそんなコソコソしてるのよ!」
「それは……そのぅ……」
両目を吊り上げ睨み付けるターシャに、グリードはタジタジだ。
ターシャは薄手のワンピースを着ていたが、身体に貼りついて柔らかそうな白い肌が透けている。これはやはり、湖での水浴びを止めさせなければならない。
アジルがこの姿を見たかと思うと、どうにもイラつく。
「ターシャ! やっぱりそんな無防備な恰好で、水浴びは止めろ! 覗くやつがいたらどうする!」
「あんたがそれ言わないでくれる!?」
結果的に、覗き魔に仕立て上げられたのは、グリードだった。
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