5.ぬくもり
グリードは、不思議な青年だった。
明日も仕事だというのに、ターシャはなかなか寝付くことができず、ベッドの上でゴロリと寝返りをうった。
人狼、というものを、ターシャは初めて見た。
隣の国に人狼族という種族がいるということは、ルーシアから聞いて知っていたが、まさか自分の目の前に現れるとは思っていなかった。
憔悴して倒れていたところからして、彼の身になにかあったのだということは予想はついた。
それなのに、一晩経ってみれば、彼はそんな暗さを感じない明るい青年だったのだ。しかも、やたらと調子がよく、距離が近い。あんな生きるか死ぬかの瀬戸際にいたとは思えない程だった。
しかも、元気を取り戻したのならすぐに送り出すつもりが、いつの間にか彼のペースに巻き込まれ、部屋まで提供することになってしまった。
(おかしいな……。なんでこんなことになってるんだろう)
ルーシアの部屋で、グリードが眠っている。
この家に、他の誰かがいるなんて、本当に久しぶりだ。
ターシャはまた寝返りをうち、古びた薄い壁を見る。
この壁の向こうに、グリードがいる。
あんなに人懐っこい彼が、なにも持たずに、たったひとりでここにやって来た理由はなんだろう。
勝手に用心棒を名乗ってターシャの家に転がり込んだところを見ると、この土地に知り合いがいるとは思えない。
それは、ここが彼の目的地ではないということだ。だが、先を急ぐでもなく、ターシャの家に居座るということは、そもそも目的地がないように思われた。となると、弾きだされる答えはひとつだ。
グリードは、故郷から逃げてきた。
やっと自由になれた――彼はそう言っていた。
人はそれぞれ、その人の事情があるものだ。
人間が大半のこの世界では、人狼ということだけで、生きづらいのかもしれない。
だが、自由であるということも、本当の自由ではない。それをターシャは知っている。
ターシャは、幼い頃の記憶がない。
この村での記憶が、ターシャの全てだった。
面倒を見てくれたルーシアが亡くなった今、ターシャがここに留まる理由はない。けれど、ここを去るということは、ターシャはまた全てを手放してしまうという事なのだ。
ターシャは、それが怖かった。
思わず、顔を毛布に埋める。
グリードは……怖くないのだろうか。
自由すぎることは、時として不自由だ。
根無し草のように、どこか知らない場所に飛ばされてしまうとも分からない怖さ。
これまでの自分を失ってしまうかもしれない怖さ。
ターシャの目に、グリードはとても危なっかしく見えた。
単に空腹で倒れた狼を助けたにすぎないが、体力が回復したからとすぐに送り出すには、彼の事情が気になりすぎる。
(お金も持ってないし――仕方ない。しばらく、私が世話をしよう。ルーシアが生きていたら、きっとそうしたはずだから)
そうなったらより一層仕事に励まないといけない。そうなると、さすがにもう眠らなくては。寝不足では、明日の仕事に支障をきたしてしまう。
(無理矢理にでも、寝なきゃ)
ターシャが目を閉じようとした時だった。
ウ……グルル……。グルルルルルル……。
「な、なに!?」
まるで壁が震えるような唸り声が響いて、アリーシャは飛び起きた。
唸りの主は、この壁の向こうにいるグリードだろう。
ふたりを隔てる薄い板一枚がグルル、ウゥゥゥ、とむせび泣く。
壁に手を当てていたターシャだったが、結局心配になって部屋を出ると、起こさないようにグリードの部屋のドアをそっと開けた。
そこには、壁に顔を押し付けるように丸まって眠るグリードがいた。
「人型でも、寝る時は丸まって寝てる……。狼みたい……」
ルーシアが使っていたベッドは背の高いグリードにとっては、小さいだろうと思っていた。だが、そんな心配も無用だったかと思うほど、グリードは身を縮めて丸くなっていた。これでは窮屈だろうに。
「――なんで寝言で唸ってるのよ。ていうか、壁に顔押し付けて唸ってたら、そりゃ壁にも響くわよ……」
足音を立てないよう慎重に近づくと、気づかれないように上から覗き込む。そして、ハッと息を飲んだ。
グリードはなにかに耐えるように、目も口もぎゅっと引き結び、苦しそうな顔をして眠っていた。
「ちょっと。ねえ、なんて顔してるのよ。グリード、ねえ、あなたの身に一体、なにがあったの?」
グリードはどんな思いでここに来たのだろう。
なぜ、こんな苦悶の表情で眠っているのだろう。
なぜ、こんなに小さく身体を丸めているのだろう。
こんな昼間の人懐こくて明るい真昼のグリードと正反対の姿は、見ているだけでも、胸が苦しくなる。
ターシャはベッドの上にあがると、手を伸ばしてグリードの髪に触れた。
起こさないようにそっと撫でると、グリードは、鼻をスンと動かした。ターシャの存在に気がついたということだろうか。それを確認して、静かに話しかける。
「……グリード。大丈夫よ。ここは安全よ。そんなに小さくならなくてもいいの。唸らなくてもいいのよ」
優しくゆっくりと話しかけながら、豊かな髪に手を入れて撫で続けると、グリードの身体からふっと力が抜けた。それに気づき、ターシャがまた顔を覗き込むと、先ほどに較べて表情が柔らかくなっている。
少しすると唸り声も治まり、規則正しい寝息に変わった。
「良かった。もう大丈夫ね」
ホッとすると同時に、ターシャにも睡魔が襲いかかる。
ぐっすり眠るグリードを見ていて、眠気がうつったのかもしれない。
なにやらもがいた後のように乱れた毛布を、グリードにかけ直す。最後にもう一度ゆっくりと撫でると、グリードの身体からすっかり力が抜けていた。
(私もいい加減、寝なくちゃね)
そろそろ自室に戻ろうと、身体の向きを変え、ベッドから下りた。
下りた――はずだった。
だが、足が床につく前に、伸びてきた腕に引かれ、気が付くとターシャは、後ろから抱きすくめられるような形でベッドに横たわっていた。
「な、な、な!?」
なにこれ! と慌ててもがくが、後ろから肩とお腹をがっちりと抱えられている。
「む~~~!!」
身体にまわった腕を外そうとしたり、ぺちぺちと叩いてなんとか動かそうとしたが、グリードの腕はびくともしない。それどころか、耳元で聞こえる寝息と、背中に感じる温もりに、離れようとする気持ちよりも、心地よさと眠気の方が勝ってきた。
「は、外れない……」
最後の力を振り絞ってグリードの腕に手をかけるが、横になった体勢では、思うように力が入らない。
「無理だわ、コレ……」
諦めたようにため息をつくと、ターシャの意識は、とうとう夢の中へと旅立ってしまった。
* * *
「おーい」
近くで声が聞こえる。
「おーい、ターシャ」
吐息が耳をかすめ、くすぐったさで身をよじる。
心地よい暖かさは、いつもの薄っぺらい安物毛布とは大違いだ。
あまりの気持ち良さに目の前の温もりに顔をうずめると、なぜか頭上から笑い声が漏れた。
「おい、やめろ。くすぐったいって」
「ん~~。なによ……だって眠いんだも……えぇ!?」
目を開けたターシャの視界に飛び込んできたのは、鎖骨だった。
そのまま恐る恐る視線を上げると、ターシャを見下ろす黒い瞳と出会った。その目はこの状況を楽しんでいるかのように、弧を描いている。
誰だ、これは。
なんだ、これは!?
夢の中でターシャは、ルーシアに甘えていたはずだ。子供がするように、抱き付いて、ルーシアもまた抱きしめ返してくれた。それなのに、起きてみたら、この腕はルーシアの柔らかいものとは違う、逞しい男の腕だったのだ。これは一体何事なのだ。
混乱したターシャが目の前の身体を押しのけようとすると、その手は簡単に捕らえられてしまった。
「またベッドから落とすつもりじゃないだろうな?」
「なななななな、なに!? なんで!?」
「それは俺の台詞だ。起きたらお前がここにいたんだから」
「そんなわけが――」
慌てて周囲を見渡すと、確かにいつもと景色が違う。
「ル、ルーシアの部屋……あ。そうか」
昨日のことをやっと思い出したターシャは、気まずさに顔を覆った。
いくらあたたかさが心地よかったからと言って、そのまま腕の中で眠ってしまうなんて、恥ずかしくて仕方がない。
「うああああ! 違うの! これは、あのっ……」
「俺、もしかして襲われちゃった?」
わざとらしくシャツの前を合わせるグリードに、ターシャは顔を赤くして否定した。人聞きの悪い事を言わないで欲しい。
「ち、違うのー! ただ、昨日の夜――」
「昨日の夜、なんだよ」
グリードがすごく苦しそうに寝ていたから、心配で――そう言いかけて、ターシャは口を噤んだ。
昨日の姿は、きっと誰にも見られたくない姿だっただろう。そしてあの寝姿は、グリード自身、無意識だったに違いない。
「ええ~と……私、寝ぼけてたみたい。ごめんね。え~と、あの、ほら。久しぶりにルーシアの夢を見ちゃって。あの~、隣の部屋に人がいるなんて、久しぶりだから!」
言いかけた言葉を飲み込み、モゴモゴと言い訳する。
嘘は言っていない。
起きる直前、ルーシアの夢を見ていたのは本当だ。
ただ、その温もりがグリードだっただけで。
そう意識してしまうと、顔に火が点いたように熱くなる。
「ごごごごごごめん。私、向こうに行くね」
ルーシアの夢を見ていたことと、グリードの部屋に来たことは結びつかないのだが、今のターシャはそんなことまで気がまわる状態ではない。
とにかく離れなければと急いでベッドから足をおろすが、また床につく前に、後ろに引き寄せられた。
あっという間に、再びグリードの腕の中に引き戻され、心臓が大きく跳ねる。
(ヒィィィィィ!)
バクバクと脈が強く速くなるターシャとは違って、背中で感じるグリードの鼓動はとても落ち着いていた。
この余裕がなんとも恨めしい。
昨晩はあんなに苦しんでるようだったのに、今はとてもリラックスしている。
緊張で固まるアリーシャが抵抗しないとみると、グリードはターシャの頭に顎を乗せ、満足げに深い息を吐いた。
ターシャの前髪に、フーッとその息がかかる。
「外はまだ暗い。起きるにはまだ早いだろ。それに、あっちのベッドは冷えてるだろうし」
なんだその理由は。
でも、なんだか嫌ではない。
ドキドキは収まらないけれど、グリードの腕の中は妙に心地が良いのだ。
ターシャがふぅっと息を吐くと、身体の緊張もふっと和らいだ。
それがグリードにも伝わったのか、手に力を籠めて抱え直すと、ターシャはすっぽりと腕の中に収まった。
そのまま目を閉じる。
耳元で、トクントクンと規則正しい鼓動が聞こえる。
少しすると、ターシャは再び眠りについた。
スー……スー……
腕の中で、静かな息遣いが聞こえる。
(もう寝てる……)
「……おーい。ターシャ、もう寝たのか?」
小さな声で尋ねても、返事はない。
ターシャはグリードの腕の中で、身体を預けるようにして眠っている。
こんな状況でこんなに無防備に眠られるのは、男としては少々複雑だ。だが、信頼されているという事でもあり、嬉しくもある。
「……あったかいな」
ターシャはあたたかい。そして、柔らかい。
グリードはターシャの髪に顔を埋めて、スンと鼻を鳴らした。
グリードは、いつもの悪夢にうなされていた。
抗っても、逃げ出しても、いつもいつまでもまとわりついてくる。
自由になったはずなのに、それは夢となってグリードにどこまでもついてきた。
認められたい。でも、求められているのは自分ではない。
そこに、自分はいらない。
(苦しい――。俺には、どこにも居場所なんてないのか――)
息苦しくて仕方がない。
その時、ふわりと優しく触れる手を感じた。
『……グリード。大丈夫よ。ここは安全よ。そんなに小さくならなくてもいいの。唸らなくてもいいのよ』
ゆっくりと語りかける声が、凝り固まった心を癒す。
優しく撫でる手が、強張った身体を解す。
その柔らかさが、あたたかさが、グリードの心に染みわたる。
(本当に? ここでは、ありのままの俺でいいのか? 俺はこのまま、ここに居ていいのか?)
呼吸が楽になり、深く息を吐く。
静かに流れる涙に驚いて起きると、腕の中にいたのは、ターシャだった。
「……ターシャ?」
かすれた声で名前を呼ぶと、ターシャは口をむにゃむにゃと動かした。
「……だよ。グリード……だいじょ、ぶ……」
「ターシャ……ターシャ」
出会ったばかりの少女の存在が、グリードの中で大きくなる。
ターシャはグリードの腕にすっぽりと収まる程の小さな身体だけれど、グリードは今、大きな安堵に満たされていた。
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