三章

 ある日、オアシスの王の元に一人の使者が訪れました。

 使者は隣国の岩砂漠の国王に使える廷臣で、謁見の間に通されると、王から託された親書と、いくつかの貢ぎ物をオアシスの王に献上しました。

 王は親書を読み、貢ぎ物の中から一番大きくて平たい包みを開けさせて中身をみると、大きく一つうなずいて、王女を謁見の間に呼ぶよう侍従に命じました。

 いつものように侍女たちを連れて王女がやってくると、謁見の間には王に呼ばれた他の大勢の重臣たちもが居並んでおりました。

 玉座の隣りには、壁のように大きくて平たいものが深紅のびろうどに覆われて立てかけられていました。

 赤い髪をヴェールで覆った王女がしとやかに裳裾をつまんで御前で頭を下げると、王は言いました。

「娘よ。良き知らせだ。そなたはかねてより、この王宮の外へ出てみたい、外の世界を見てみたいと申しておったな」

「ええ、お父様……」

 父の意図を計りかねて、王女はわずかに首をかしげました。

「その願いを叶えてとらせよう」

「まあ……! それは……、それは本当でございますか? なんてうれしいのでしょう……。ありがとうございます、お父様……」

 満面の歓喜にあふれた王女の笑顔に、王も満足げにうなずきました。

「さきほど、岩砂漠の国より使者が参った。跡継ぎたる王子の妃に、是非ともそなたを迎え入れたいとの申し出であった。願ってもない話だ。余は早速に承諾の親書を送り、そなたの婚礼の準備を整えるつもりだ。喜べ、娘よ。そなたはようやくこのオアシスの王宮を出て、砂漠を越えて、そうして広大な領地を誇る岩砂漠の国の王妃になるのだ」

 王女は大きく目を見開き、息を呑みました。

 王が片手を上げると、侍従の一人がびろうどの覆いを取り外して、うやうやしく頭を下げました。

 謁見の間に詰めかけた廷臣や女官たちから驚きと賞賛に満ちた溜め息がもれました。

 目の前の臣下たちに向けて、王は誇らしげに声を張りました。

「見よ、これが我が娘の生涯の伴侶である」

 それは人の背丈よりもまだ大きい、金箔を張った額に縁取られた立派な肖像画でした。

 がっしりとしたいかつい体躯と、あごには凛々しく髭をたくわえ、腰には幅広の偃月刀(えんげつとう)を下げて、錦織の戦装束もつきづきしい立ち絵は、いかにも岩砂漠の世継ぎにふさわしい堂々たる若武者の似姿でありました。

 王女は目を見張り、ただ声も無く、その肖像画を見つめていました。

「これより三月(みつき)の後(のち)を、婚礼の日と定める」

 ようやくざわめきが静まった重臣たちに告げる王の声は、砂漠にまぶしい夜明けを告げる喇叭(ラッパ)のように謁見の間じゅうに響き渡りました。

「それまでに、すべての準備を整えよ。婚礼の衣装も、嫁入りの道具類も、すべてそなたの思うがままの品物を取り揃えよう。気心の知れた侍女たちも、好きなだけ連れて行くがよい。なんでも、父に言うが良いぞ」

「……はい。わかりました。お父様」

 目を伏せ、いつになくか細い声でようやく答えた王女を見ても、王は婚礼の喜びと許婚者のあまりの立派さに娘が気後れしているのだとばかり思い込み、深く考えることはありませんでした。

 重臣たちは、玉座の前に序列に従って並ぶと、一人ずつ王と王女に祝いの言葉を述べました。

 王女はどこかぎこちない笑みを頬に浮かべてはいましたが、かろうじて彼らの祝福を受け続けました。

 その間も彼女の瞳は大勢の臣下たちの中に、ある人の姿を探していましたが、彼が謁見の間に現れることは最後までありませんでした。



 その夜。

 王女は自分の寝室におりました。

 気に入りの侍女たちも全て遠ざけ、大きな寝台の端にぽつんと腰を下ろしてただ一人うなだれていました。

 部屋の明かりは消えていましたが半分だけカーテンが開いていて、そこから満月の光が静かに室内を照らし出していました。

 その月明かりの中に、黒く長い影法師が差しました。

 カーテンが揺れて、その人が寝室の外のバルコニーにあらわれました。

 王女は息を呑んで彼を見つめました。

「アルハザード……!」

 寝台の上から立ち上がり、王女は窓辺にひざまづくその人影に駆け寄りました。

「お別れに参りました」

 代書屋アブドゥル・アルハザードは、しかしその場にひざまついたまま、部屋の中へ入ろうとはしませんでした。

「え……?」

「肖像を、拝見いたしました」

 彼の答えに、王女は凍りついたようにその場に立ち尽くしました。

「王女様の永年の願いが、とうとう叶う時が来たのでございます。貴女(あなた)様はこの王宮を出て、ついに外の世界をご覧になる。いくつもの砂丘を越えて、はるかな岩砂漠の国の王妃におなりになるのです。……私の役目は終わりです。どうか、お幸せに」

「あなたは来てくれないの?」

 王女の言葉に、立ち去ろうとしたアルハザードの足がぴたりと止まりました。

「……どこへ行くつもりなの?」

「わかりません。ですが、もう貴女様のお側にいられないことだけは、わかっております。この都を出て、それから……」

「あなた、本当にそれでわたしが幸せになれると思っているの?」

 真夜中のバルコニーに立ち尽くすアルハザードの背に、王女の言葉が刺さりました。

「岩砂漠の国の王子に嫁いで、王妃になる。……それがいったい何だというの? この王宮という牢獄を出て、また新しい牢獄につながれるだけのことでしかないのよ?! その上、そこには……」

 震える声が途切れ、王女は両手で顔を覆いました。

「そこにはあなたがいないなんて……あなたのその顔も、その姿も見ることができない。声を聞くこともできない。そして、あなたの物語……。生まれたときからずっとこの王宮に閉じ込められてきたわたしに、あなただけが限りなく豊かで果てしない世界を見せてくれたというのに……あなただけがわたしの心に熱い炎を灯し、わたしを本当に生かしてくれたというのに……」

「王女様……」

 うなだれたまま恋人の嘆きを聞いていたアルハザードは、夜空を仰ぎました。

 その砂色の瞳が、星の光を受けて輝いたかと思うと、代書屋アルハザードは振り返り、静かに王女の寝室へと歩み入りました。

「この都を出ましょう」

 泣き崩れる王女の肩を、アルハザードは優しく抱き寄せました。

「あ……」

「私がお連れします」

 胸にすがりつく王女の、貝殻のように可憐な耳に、彼はそっと囁きかけました。

「命に替えても、私があなた様をお守り申し上げます。共に逃げましょう。地の果てまでも。砂漠の果ての、果てまでも──」

「アブドゥル……」

 オアシスに満ちる水のように清らかな涙が王女の瞳からこぼれ落ちました。


     *     *     *


 真夜中を過ぎて書いていたところへ密(ひそ)かなノックの音が聞こえて、私は扉を開けた。

「仕度をして、アルハザード」

 止める間もなく、彼女は私の部屋に入り込んできた。

 侍女も連れずにやってきた王女が、後ろ手に扉を閉めながら私に囁いた。

「当座、あなたが入り用なものと、どうしても持っていきたい物だけをまとめて、……できれば、袋ひとつにして頂戴。私の準備はできているわ。外のラクダに、食料と水も二人分用意できているから……」

「……どういうことですか」

 黒いヴェールの下から思い詰めた目をのぞかせた王女は、だが、私の問いには答えなかった。

「私、急いでいるの。一刻も早く王宮を出なければ……夜明けまでに出来るだけ都から離れた遠くまでたどり着いておかないと」

「仰(おっしゃ)る意味が判りかねます」

「急いでいると言ったでしょう!?」

 かんしゃくを破裂させた彼女の甲高い声が、深夜の室内に鋭く響いた。

 その残響にびくりと身を震わせた王女に、私は静かに告げた。

「お急ぎなのでしたら、どうぞ、お一人でお出ましになればよろしいでしょう」

「私をばかにしているの?」

 さしもの考えなしの王女も、今度は声を潜めることを忘れなかった。 

「あなた、自分の言ってることがわかっているの? 私に一人で駆け落ちしろとでも言うの?!」


──何を言っているのかわかっていないのは、彼女の方だ。


 壁に高々と掲げられていた王子の肖像画の前でしきりに噂話に興じる侍女たちの姿が私の脳裏に浮かんだ。

 だが、そのことが何故、こんな形で私に降りかかって来なければならないのだろう?

「私に、どうしろと仰るのですか。私などを巻き込んでみたところで、何がどうなるものでもありません」

 にべもない私の態度に王女はいっそう焦りをつのらせた。

「仕方がないでしょう! 他に方法がないのだもの!」

「お相手がお気に召さないのでしたら、ご自分でそのようにお父上に仰ればよろしいでしょう」

「無駄よ! だって、どちらにせよ私ーー」

 王女が言いつのるほどに、私の頭はかえって冷えていった。

「いいえ、きちんとお話をなされば……あなたの仰ることなら、お父上は必ずお聞き届けになるのですから」


──私をこの王宮にとどめたのと同じように。


「そう……」

 突き放した私の言葉が、王女の激情をも醒めさせたようだった。

 だが、かえってそれが彼女の覚悟を強固にしたようだった。

「……そうね。お父様なら、きっと聞いて下さるわ。私のいうことなら、なんでも」

 さきほどまでの激した口調が嘘のように、彼女の声は夜の王宮の静けさに低く沈んだ。

「ではこう言いましょうか」

 真夜中の王宮の一室で、上目づかいに王女が私を見つめて、言った。


「あなたの子よ」


 その声と共に、琵琶(ウード)の響きがとても遠くから夜風に乗って、私の耳に届いた気がした。

 裳裾の下に、ほんのわずかな膨らみを隠した自分の腹に王女は軽く手を触れた。


──そういうことか。


 あまりに浅薄な讒言に、だが、はっきりと私は答えた。

「それは嘘です」

 抗弁しながらも同時に、腑に落ちた。


──既に私は、決して逃れようもない陥穽の底に落とされてしまっている。


 はっきりと、それが判った。

 ここで抗(あらが)ったところで甲斐もなく、正しさすら伝わらない。

 そうした事例も、逸話も、数え切れないほど読んで知っていた。

「いいえ、本当よ」

 私から目をそらし、それでもなお王女は言い張った。

 だが、妙に冷静な諦めが、いつしか私の中の動揺と困惑とを拭い去っていた。

「それは、ありません。そのことは私が知っているのと同じくらい確かに、あなたご自身もご存知のはずです」

 上衣の裾を両手で握りしめて唇を噛む王女に、もう一度私は静かに告げた。

「だって……」

 怒(いか)らず、混乱もせず、同情すら見せない私に、王女はかえってつのりゆくばかりの不満を隠そうともしなかった。

 だが、ないものをないと言うだけのことに、どうして他に言いようがあるというのだろう。

「……だったら、どうだっていうの? そんなの、私にとっては、もうどうだっていいことだわ」

 王女の目が、これまで意のままにならなかったことなど何一つない者だけがもつ傲慢さをはらんで、私を見上げた。

「だから、これはあなたの子なの。だって私がそう言うのだから。私がそのようにお父様に言えば、お父様は間違いなくあなたを殺すわ。だからもうあなたに選択肢はないの。あなたは私を連れて、逃げるのよ」


     *     *     *


 狭いラクダの背の上を二人で分け合い、小高い砂丘を越えようとした王女とアルハザードの前に、突然、黒づくめの男たちの一団が現れました。

「死にたくなければ有り金全部と、その女を置いて行け!」

 ひときわ大柄なひげ面の男が腰の曲刀を抜き、ラクダの上から切っ先を二人に向かって突きつけました。

「アブドゥル……」

 か細い声をふるわせ、王女は恋人にすがりつきました。

 アルハザードは手綱を握りしめたまま王女の体を抱き寄せましたが、何も言わず、静かな砂色の瞳で盗賊どもの群れをじっと見つめました。

 しかし、黒いヴェールの下に隠された王女の赤い髪と白く美しい顔を盗賊の首領は見逃しませんでした。

「女には傷をつけるな。高く売れねえ。……いや」

 首領は身を寄せ合う二人をじろじろと値踏みするように眺め回していましたが、砂に汚れた顔に野卑な笑みを浮かべて言いました。

「見れば見るほど上玉だ。俺の女にしてやるぞ!」

 最後まで聞かず、アルハザードは手綱を引くと素早くラクダの向きを変え、盗賊たちに背を向けて矢のように砂丘を駆け下りました。

「待ちやがれ!」

 即座に盗賊の首領もラクダを駆って二人の後を追い、手下共もそれに続きました。

 王女が密かに用意させたラクダは、王宮で飼われていた中でも一番丈夫な、よりすぐりの一頭でしたが、二人ぶんの重さを背に乗せての旅が続いたせいか、思うように速く走れません。

 どこまでも広がる砂漠を風のように駆けてゆきながらも、なかなか盗賊たちを振り切ることができません。

 そのラクダの足元の砂に、手下たちが放った矢が何本も音を立てて突き刺さりました。

「ああっ……」

 王女は青ざめてアルハザードの胸に顔を埋めました。

「馬鹿野郎! 女に傷がついたらどうする!」

 首領は振り向きざまに手下どもを怒鳴りつけましたが、盗賊たちはおびえた顔つきで前方の空を指さしました。

「お頭!」

 手下の指し示した方に向き直った盗賊の首領の顔がこわばりました。

 さっきまで雲ひとつなく晴れ渡っていたはずの砂漠の向こうに、いつの間にか黒くわだかまる巨大な煙が見えます。

 吹きすさぶ突風が砂塵を巻き上げ、膨れ上がりながら、激しい砂嵐がみるみるうちにこちらへと向かってきます。

「退(ひ)け! 退け!」

 慌てて手綱を引き絞ってラクダを返した首領が叫ぶより早く、下っ端の盗賊共は砂嵐から逃れようと我先に自分のラクダを走らせていました。

「あの女はいかにも惜しいが、命あっての物種だ」

 ちらりと首領は背後を振り返りながら、そう呟きました。

 迫り来る砂嵐に背を向け、盗賊たちを乗せたラクダの一団は、一目散に砂丘を越えて去って行きました。

 ところが、アルハザードと王女のラクダは二人を乗せたまま、逃げるどころか砂嵐に向かってまっしぐらに駆けてゆくのです。

 空はもう半分以上が真っ暗な砂色の雲に覆われ、山のようにそびえる砂塵の壁に太陽はすっかり隠されてしまっています。

「アブドゥル! 駄目よ! 逃げなきゃ!」

 ラクダを駆るアルハザードに、王女は叫びました。

 しかし彼は答えませんでした。

「アブドゥル……!」

 激しく揺れるラクダの背の上で、愛する人の胸にしっかりとすがりついたまま、王女はぎくりと息を呑みました。

 恋人の瞳は、もう何も写してはいませんでした。

 いつもは明るい真昼の太陽に照らされた砂丘のように静かだった砂色の瞳が、今は目の前を覆い尽くす砂塵のようにどす黒い色に染まっていたのです。

 砂漠を飲み込む闇色の巨大な雲を見つめたまま、アルハザードは王女に告げました。

「この砂嵐の向こうに、無名都市はあるのです」


     *     *     *


 強風に真っ先に飛ばされたのは王女のヴェールだった。

「あっ……」

 空へと舞い上げられた黒い布切れに、咄嗟に王女は走り続けるラクダの背中から手を伸ばしたが、もう私はそれに構う余裕などなかった。

 ラクダの足を急がせる。

 ちらりと背後を振り返る。

 私の乗るラクダの後から、王女のラクダも必死についてくる。

 その後ろ。

 視界を遮るものもない、見渡す限りの砂漠の向こうに、砂色の雲のように立ちはだかる巨大な壁が見えた。

 砂嵐だ。

 太陽が遮られ、急激に辺りが暗くなる。

 小山のように盛り上がった砂煙が空を覆い尽くしてゆく。


──どうする?


 みるみるこちらへ迫ってくる。

 砂塵を巻き上げる激しい風の音が近づいてくるのもはっきりとわかる。

 嵐はもうそこまで近づいている。

 それなのに私たちの周囲には、ほんの小高い砂丘の他には身を隠せる場所など何もない。


──どうすればいい?


 王女を乗せたラクダが一声、不安げにいなないた。

 間に合わない。

 砂丘の影まで来たところで、ラクダを降りた。

「アルハザード! 駄目よ! 逃げなきゃ、逃げて!」

 王女が叫ぶのにも構わず、私はラクダから彼女の体を引きずり下ろした。

「伏せて下さい」

 荷物の中で一番大事な水と食料の袋を下ろして抱え込む。

 二頭のラクダを並べて座らせ、その隙間に、王女と自分もしゃがみ込んだ。

 ほぼ同時に、砂丘を越えて、激しい砂嵐が私たちに襲いかかった。

 周囲の視野の全てが、どす黒い砂塵に包まれた。

 ラクダの背よりも低くなるように王女の背中を片腕で押さえつけ、反対の手で荷物の袋をつかみ締める。

 こんなことで砂嵐をやり過ごせるものなのかどうかわからなかったが、他にどうしようもなかった。

 暴風と、ひっきりなしに叩きつけてくる砂つぶてが、身体中を打ち付けてくる。

「いや……! 助けて!」

 王女の悲鳴と、恐怖にいななくラクダの声とが風の音に入り混じって聞こえてくる。

 時折、激しい突風が吹きつけてきて、飛ばされてきた砂の中に全身が埋もれそうになる。

 驟雨のように砂が身体中を叩きつけ、唸りを上げる烈風が頭上で吠える。

 突然、ひときわ甲高いいななきが響いたかと思うと、王女の方へとラクダの体がどっと倒れ込んできた。

「ああっ!」

 巨体にのしかかられて、王女の体が砂の上で潰されかける。

「……助けて……!」

 必死で逃れようとする細い手を取り、砂をかき分けるようにして引きずり出す。

 かろうじて這い出してきた彼女のすぐ側に、ラクダの胴が横倒しになった。

 残ったもう一頭のラクダの影に王女の身を隠す。

 目の前を激しい砂礫が飛ぶ。

 視界がすべて黒い砂塵の色に変わる。

 もう目を開けていられなくなって、その場に伏せた。

 頭を抱えるようにしてうずくまる。

 激しい風の音が耳朶を叩きつける。

 吹き飛ばされてくる砂塵が背中と頭の上にひっきりなしに降り注ぐ。

 その音の中に、ラクダの鳴き声と王女の悲鳴が切れ切れに混じって聞こえてくる。

 いや。

 それは本当に、ラクダと王女の声か。

 本当に、私のそばに彼女らはいるのか。

 私の周りはすっかり砂に埋め尽くされている。

 伏せた体の下も、すべて砂漠の砂だ。

 ざらざらと背の上に、絶え間なく砂塵が降ってくる。

 腹の下で、ぎしぎしと砂がきしむ。

 空気混じりの砂嵐が吹き荒れ、腕も足も背中も頭の先まで降り積もった砂に包まれている。

 激しく吹きすさぶ風の声と、叩きつけてくる砂の音しか感じない。

 砂塵が獣のように叫んでいる。

 閉じた目蓋の裏にも、吹き荒れる砂嵐の色がはっきりと写っている。

 見えるのも、聞こえるのも、肌に感じるのも、砂しかない。

 どこからどこまでも。

 何から何までも。

 砂の中に埋もれてゆく。

 私自身が。

 いや。

 そんなものは、そもそも最初からどこにもなかったのかもしれない。

 どこにも区別はない。

 境界もない。

 だったら、なにもない。

 そう。ないのだ。

 私などというものは、どこにも──


 いや。

 だけど。


──本当に、そうだろうか?


 うずもれた砂の中で、疑問に手を伸ばす。

 水をかき分けるように、足掻く。

 指先がふっと軽くなり、空気に触れた。

 空気が、私に触れた。

 そう。私だ。

 いる。

 ここだ。

 顔を上げ、目を開いた。


──ここにいる。


「あ……」

 両手を砂の上について、体を起こす。

 目の前の砂漠の上に、空があった。

 晴れていた。

 どこまでも続く真っ平らな砂の大地の上に、うそのように晴れ渡った青い空がひたすら広がっている。

 その青空を切り取るように、ラクダの長い首が伸びて、しゃがんだままきょろきょろと辺りを見回していた。

 いつの間にか、砂嵐は私たちの頭上を通り過ぎていた。

 大きく息をついて、その場に座り込む。

 頭と背中に降り積もっていた大量の砂が音を立てて、小さな滝のように流れ落ちた。

 かすかに背後で風の唸(うな)る音がした。

 振り返る。

 砂色に膨れた煙が地平の向こうへと遠ざかって行くのが見えた。

 立ち上がろうと砂に手をついて、気付く。

 目を見張る。

 さっきまで目の前にあったはずの砂丘が、今はもう影も形もない。

 砂の山がごっそりと削り取られたかのようになくなっている。

 代わりに、はるか向こうの方に砂の小山がそびえている。

 激しい砂嵐に、砂漠はすっかり地形を変えてしまっている。 

 私のすぐ側にも、小さな砂の盛り上がりがあった。

 柔らかい塊が中にある。

 かすかに、それが身じろぎをした。 

「ああ……」

 か細い声をあげて、砂の中から王女が身を起こした。

「無事ですか」

「え……ええ……」

 その場にぺたりと後ろ手をついて座り込む。

 赤い髪は砂にまみれ、顔も砂のように白かったが、声ははっきりしている。

 王女をそこに残し、私はラクダの方へと向かった。

 おとなしく待っているラクダの足元に落ちている水と食料の袋を拾って、背中に積み直す。

 倒れている方のラクダの背からも、荷物を降ろして乗せかえる。

 王女は黙ったまま砂の上に座り込み、呆然とそれを見ていた。

 だが、横倒しになった方のラクダは顔と脚を砂の中に埋めたまま、もう二度と動くことはなかった。


 

 炎の中の焚(た)き木が崩れる音で目が覚めた。

 思いのほか冷え込む夜の砂漠で、たき火のそばで膝を抱えたまま眠り込んでしまっていたようだった。

 砂丘の影で、心許ないたき火の明かりだけが辺りを照らしている。

 一頭だけ生き残ったラクダも、声もなく眠りについている。

 細く頼りない三日月が砂漠に弱々しい光を投げかける中に。

 王女の姿はなかった。

 冷水を浴びせられたように、立ち上がる。

 毛布が一枚、ぬぎ捨てられた蛹(さなぎ)のように砂の上に残されているだけだった。

 辺りを見回しても、他には何もない。

 たき火の中から手頃な太さの木切れを手に取る。

 深呼吸を、いくつかする。

 手にした木切れをたいまつ代わりに周囲を照らす。

 毛布のあたりから足あとのような、何かの這いずったような跡が砂の上に残されている。

 動悸を抑えながら後を追う。

 揺れるオレンジの明かりが風紋の上の乱れた足跡を浮かび上がらせる。

 たき火から離れて砂丘を上って行く方向に、それが続いている。

 なだらかな斜面をのぼりつめる少し手前に、ひときわ乱れた砂の跡があった。

 たいまつの明かりをさし付けて、立ちすくむ。

 

──赤い血だまり。


 同時に夜闇を裂いて、悲鳴が響いた。

 声の聞こえた方を見やる。

 たいまつの光をかざすと、私が上ってきたのとは反対側の砂丘の麓に黒い人影が見えた。

 そこまでだらだらと、赤黒い血痕まじりの足跡が砂の上に続いている。

 焚き木を手にして砂丘を降りる。 

 沈み込むような砂に足を取られそうになりながら足早に進む。

 その間も、壊れた琵琶(ウード)の弦を引きちぎるかのようなかすれた声が断続的に聞こえてくる。

 風紋の上にうずくまる王女のもとに、ようやくたどり着いた。

 だが、彼女の目は私を見なかった。

「なに……これ……?」

 たいまつの明かりひとつに照らされた王女の顔はこわばって、真っ青だった。

 突然体を襲った激しい苦痛と衝撃とが、彼女の息を乱し、大きく肩で喘いでいた。

 砂の上に座り込んだまま、自分の両手を呆然と見つめている。

 その手と、彼女の腰から下が、真っ赤だった。

 乱雑にまくり上げられた衣服も、その裾から見える両脚も、鮮血にまみれている。

「なんなの、これ……。どうして? どういうことなの……?」

 ほんの手のひらほどの、小さな赤い塊が王女の手の中にある。

 私の手にしたたいまつの明かりが、その様をはっきりと照らし出していた。

「いや……。どうして……? どういうこと? いや……いや……」

 砂漠の夜の闇が、さっきまで隠していた、『それ』を──


「いやああああっ」


 手の中の赤い塊を、王女は放(ほう)った。

 すぐさまそれは、たいまつの光も届かない砂漠の暗がりのどこかへと消えて見えなくなった。

 うめくような悲鳴をあげ、くず折れるように王女はその場に倒れ伏した。

 たいまつを手に、私はその場に立ち尽くすだけだった。

 時折か細い声で悲鳴をあげては、かすかに身を震わせる王女の体をそこから動かすこともできなかった。

 仕方なく、いったん王女をその場に残してたき火のところに戻った。

 火の始末をしてから再び王女のところに戻り、すぐそばにもう一度たき火を起こした。

 ぬぎ捨てられていた毛布をおざなりに王女の体にかけ、自分も頭の上からすっぽりと毛布をかぶって横になったが、書き留めることもできないような王女のかすれた悲鳴とうめき声とは間断なく聞こえ続けていた。

 ようやく私が少しばかりまどろんだのは、衰弱した王女が眠りについた明け方だった。

 やがて日が昇ると同時に風が吹いて、王女が闇の中へ放ったものを砂漠の平(たい)らかな砂の中へとすっかり覆い隠してしまっていた。


     *     *     *


 側付きの近習に手綱を預け、岩砂漠の王子はラクダから飛び降りて王の隣りに駆け寄りました。

 オアシスの王は崖の上から黙って眼下を見下ろしていました。

 二人の前には、赤い夕焼けに照らされてどこまでも続く砂漠が広がっています。

 その砂漠の真ん中にそびえ立つものに、彼らは目を奪われていました。

 

──名も無き都市。


 遺跡のように古びた建物や黒く尖った塔が、高く低く、一つの街を形作るかのように寄り集まって立っていましたが、よく目を凝らして見てみても、どこからどこまでが一つの建物なのか、どうにもよくわからないのです。

 まるで遺跡全体が夜空のようにべったりと暗く、冷たく、本当にそこに都市があるのだろうかとすら思えるほどでした。

 しかし、その夜闇色の建物たちは、ぎらつく赤い夕陽を背負い、吸い込まれそうなほどに黒い影をくっきりと砂の上に落としていました。

 その影の指し示す先に、足跡が一つ見えました。

 点々と、しかし真っ直ぐに続くその足跡に、王子は目を留めました。

 足跡の一番先には小さな人影がありました。

 砂色のフードを目深(まぶか)にかぶった男が、夕陽の中で黒く長い影を引きながら、砂漠の中を歩いているのです。

 男は両腕に何か大きな物を抱えています。

「あれは……」

 王子は目を見張りました。

 黒いヴェールの隙間から、赤い髪が夕陽の光を反射してわずかにきらりと光りました。

 弓をとれば空を飛ぶ鷹をも射落とす王子の目が、ぐったりと目を閉じたままアルハザードの腕に抱かれている王女の姿を見逃すことはありませんでした。

 踵(きびす)を返し、再びラクダに乗ろうとした王子を、オアシスの王は腕を掴んで引き止めました。

「ならぬ」

「何故でございますか!」

 思わぬ制止に声を荒げた王子に、オアシスの王は重く沈みきった声で答えました。

「そなたは何もわかっておらぬ。……無名都市は、人を寄せ付けぬ。入った者は、生きて出てくること決して能(あた)わずと言い伝えられ、中が一体どうなっているのか、どんな『もの』が棲んでいるのか、いないのか、誰にも判らぬのだ」

「それがなんだとおっしゃるのですか!」

 それでも王子はオアシスの国の王に抗(あらがい)いました。

「今すぐラクダを走らせれば、日暮れまでにはあそこにたどり着きます。遺跡の中をしらみ潰しに探して、なんとしてでも王女を取り返し……」

「あれを見よ」

 険しい声で詰め寄る王子に、オアシスの王は真っ赤な夕陽に照らし出される無名都市の影を指差しました。

「よく見るのだ」

 王の指し示した方を見て、岩砂漠の国の王子は息を呑みました。

 いつの間にか、黒い巨大な影が砂漠の上に落ちています。

 影は無名都市全体を取り囲むように、砂の上に大きな黒い円を描いています。

 見えざる巨人の手が砂漠を切り取ったかのような底なしの影の中に、無名都市はまだありました。

 しかし、都市の建物の土台は闇の中に沈んで全く見ることもできません。

 立ち並んだいくつもの塔や遺跡のような建物は、暗い影の中に浮かんででもいるかのように、丸い大きな闇の中でぼんやりと立っています。

 ところが、その黒い丸い影はどんなに目を凝らしてよく見ても、どこもかしこも真っ暗で、まるで夜空のようにどこまで行っても底がないようにしか見えないのです。

 その証拠に、影のちょうど縁のところでは、砂漠の砂が滝のように砂煙をあげながら闇の中へと大量に流れ落ちてゆくのです。

 底なしの黒い影の中で、無名都市の建物は、どれもまるで黒曜石の巨大な欠片のようになめらかな輝きを放っています。

 やがて、その建物の中でも、都市の真ん中にある一番背の高い塔が少しずつ形を変えつつあるのに王子と王は気づきました。

 鋭く尖っていた塔の先端が、だんだんと枝分かれして五本になり、まるではるかな天上にある何かをつかもうとする手のように、夕空に向かって伸びていっているのです。

 手を伸ばす黒曜石の塔の足元では、いつしか他の遺跡の建物はすべて影の中に沈み込むようにように消え去っていました。

 今や、巨大な底なしの深淵の中には本物の夜空のようにいくつもの星々が瞬き始め、真っ赤な夕日が照らす砂漠の砂を絶えることなく飲み込み続けています。

 その奈落の深淵の真ん中に、黒くつややかな指先の手だけが、冷たい星の海に浮かぶように、はるか天空を指して聳(そび)え立っています。


 アルハザードは王女を抱えたまま、その無名都市へと向かって真っ直ぐに歩いているのです。


「余とて、辛(つら)いのだ」

 王は声を詰まらせ、王子の腕を掴んだ手に力を込めました。

「あれは確かに、余のたった一人の血を分けた娘。だが、それはそなたも同じことだ。そなたの身に何かあっては、余は岩砂漠の王に申し訳が立たぬ」

「陛下……」

「それに……」

 片手で目頭を拭うと、王は言葉を続けました。

「あの男は、アブドゥル・アルハザードは、あの無名都市から生きて帰ったただ一人の人間だという。……だが、それが最初に無名都市に入っていった時のアブドゥル・アルハザードと同じ男であると、いったい誰に判るというのだ?」

 王は震える声でそう言うと、がっくりと肩を落としました。

 そうして、自分の愛する娘が砂漠の砂もろとも底なしの深淵へと落ちてゆくのを見るに耐えないとばかりに、崖下に広がる景色に背を向けました。

 ひと粒種の愛しい娘を亡くした父と、婚約者を失った王子とは、互いに手を取り合ってその場を後にし、男泣きに流れる涙をぬぐいつつラクダの背にまたがりました。

 二人の王族は、すっかり意気消沈した兵士たちをともなって、オアシスの都への道をたどりました。 

 やがて日没とともに彼らの背後から、妙に冷え冷えとした風がひときわ甲高い音を立てて強く吹きつけてきました。

 王と王子はたまらず、耳をふさいでラクダを急がせました。

 しかし、その風に乗って聞こえてきた声は何故か断末魔の悲鳴ではなく、まるでようやっとこの世に生まれ出てきたことを喜ぶ産声のような響きを孕んで彼らの頭上を通り過ぎて行きました。



  (続く)

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