二章
不意に背後で部屋の扉が開いて、王女の呼ぶ声が私の耳に届いた。
「アルハザード? そこにいるのでしょう?」
掴みかけていた光景が、あっけなく揺らいだ。
ずっと潜(もぐ)り込んでいた遺跡の深い穴から襟首を掴んで引きずり出されるように、書きかけのまま見つめていた紙面から私は顔を上げたが、いましも言葉に捉えようとしていた情景の名残が消え去らぬようにと再び目線を落とし、葦のペンで辛うじて書き留めた。
そこから引き剥がされるのは、まるで傷口を覆う瘡蓋(かさぶた)をはがすように痛んで、わずかばかりの血をにじませながら胸元を赤く染めるのが見えるような気さえした。
その後で、ようやく返事ができた。
「──そのままで」
「えっ?」
一人だけ侍女を連れて無遠慮に部屋に入り、閉め切られていたカーテンを開けようとしていた王女の手が止まった。
ぎこちなく振り向いた王女の顔には、まだ笑みが貼り付いたままだった。
暗い室内を切り開くように、カーテンの隙間から明るい昼の太陽光が部屋に射して、ヴェールからわずかにこぼれる王女の赤い髪がかすかに輝いた。
部屋の明かりは、書き物机の上で私の手元を照らすランプが一つあるだけだ。
確かに、これでは暗いだろう。
だが。
「……失礼しました……」
薄暗がりの中に沈み込むようにして書き綴っていた残滓を振り払い、ようやっと謝罪を口にした。
「いえ、いいのよ」
王女がカーテンを元通りに閉め直すと再び、ゆらめくランプの灯だけが室内をぼんやりと照らし出した。
「けど、書き物をするにはあんまり暗いと思ったから……」
「陽(ひ)の光は、紙の毒です」
不満そうな声の王女に、私は言って聞かせた。
「紙が傷めば、本は読めなくなってしまいます。ですから、なるべく本には日が当たらぬように、カーテンは閉めておきたいのです」
「本? ……ああ……」
部屋を見渡すと、王女はあきれたように溜め息をついた。
王宮の小さな一室には壁の一面に本棚が並べられ、全ての棚に隙間なく本が詰め込まれている。
入り切らない本は部屋の隅の床に積み上げられ、書き物机の上にも小山がいくつもある。
すべて私が自分の下宿から持ち込んだものと、ここに部屋を与えられてから買い足したものだ。
「名も無き都市にも、こんな風にたくさんの本があるの? この世の始まりから終わりまで、全ての人間の生き様と死に様と、彼らの語った全ての言葉と、世界のあらゆる歴史と物語とがそこに書かれているってーーあの人がそう歌っていたように」
「それは……」
無邪気な王女の問いかけに、私は口ごもった。
──そんな話を、あの詩人は王女に語っていたのか。
だが、そこまで途方も無いことを書いた覚えは私にはなかった。
「無名都市とは、そういう場所ではありません」
「え?」
王女が目を丸くした。
「あなた、そこに行ったことがあるの?」
「いいえ。確かにいろいろと噂されている話はありますが、無名都市を訪れ、調べて帰ってきた者は何人もいて、記録も残っているのです。そもそも、都市とは呼ばれていますが、あそこはすべて墓地なのです」
「そうなの?」
一転して拍子ぬけした様子で王女は言った。
「じゃあ、それがどうして、皆が噂するような不思議な話になってしまったの?」
「……それは、わかりません……」
王女の問いに、口籠る。
椅子に座ったまま壁際の本棚を眺める私の目が、一冊の本の上に止まる。
続きを書くのは諦め、葦の茎を切ったペンを置いて、私は書き物机の前から立ち上がった。
目当ての本を抜き出してページを開く。
『都市にはただ墓石のみ、立ち並びたり。日干し煉瓦を積みし墓、砂岩を方形に切り出した墓とが多く見らる。何(いず)れも、すべて碑文はなく、埋葬者の名を刻みしものも一つとしてなし。ゆえに無名都市と名付く──』
書かれたページを開いたまま机に置き、今度は別の棚から古びた表紙の詩歌集を取り出して、また開き、ページをめくる。
『──その手が全てを書き記せり。
すべての始まる前から、すべてが死に絶えた遥か後(のち)の世まで。
誰もおらぬ始まりの時と、誰もが消え去りし最期の時に、誰も名付けるものとてなく、何人に名乗る名も無し。都市もまた然(しか)り』
開いたままの二冊の本を王女に向けて差し出そうとしたが、やめた。
王女は、今も興味なさげに立ち尽くし、本棚に並ぶ背表紙に目を向けることもなかった。
王宮の暮らしが退屈だから、せめて様々な珍しい物語で無聊(ぶりょう)を慰めたいというのなら、なにも私の書くものを読まなくてもいくらでも本はあるのだと、王女には何度も言ったのだが、聞き入れられなかった。
自分の蔵書の中から、なるべく若い女性でも興味を引かれそうなものをあれこれと選んで貸したのだが、すべて「つまらない」「難しすぎる」「何が面白いのかわからない」と言って返されてきた。
「私が言っているのは、そういうことじゃないの」
追放された詩人に話を書いて売っていたように、詩人の代わりにここで自分のために話を書けと王女に命じられたから、そうした。
話の種なら、それこそ売るほどあった。
種々の歴史書、宗教書、旅行記、賢人の日記や随筆、見聞録、様々な神話や伝承などを聞き書きした書物に、詩歌集、叙事詩、散文詩──そういった、本屋で目にして興味を惹かれた書籍を、私は手当たり次第に買い集めては、冬ごもり前の栗鼠(りす)のように溜め込んで、狭い下宿の部屋にあふれさせていた。
昨日の私が書いたのは、無名都市の最後の住人が、かつて都市で起きたことをひたすら書き続け、やがて自分が死んでしまっても気付かずに、書架の本をいつまでも増やし続けているという話だった。
しかし、本当に世界の始まりから終わりまでの全てを書き記した書物があるとしたら、こんな程度のもので済むはずがない。
そんなものが存在し得るとしたら、この王宮どころか砂漠のすべてを埋め尽くしても足りないだろう。
本のページを閉じて本棚に戻し、私も書き物机の前の椅子に再び戻った。
そもそも、この世の始まりから終わりまでの歴史だの、すべての人間が生まれてから死んでいくまでの有りさまだのを、誰がどうやって見聞きして、書き留めることが出来るというのか。
そのすべてを一体、誰が知っているというのか。
──神か?
机の引き出しから、昨日のうちに書き上げてあった方の紙束を取り出す。
紙面に書かれた自分の文字を見つめる。
神ならば、この世のすべての初めから終わりまで知っていて──あるいは何もかも全部を自らが決めてしまって、その通りに動かすこともできるだろう。
──いや……。
神であれ、他の何者であれ、この世界の最初から最後まで、私のような取るに足らない人間の一人ひとりに至るまで、全ての生きとし生ける者が心に何を感じ、頭に何を思い描き、どのように生きて死んでゆくかまでを、いちいち決めてやった上にその通りに動かしてやるほど手間をかけてなどいられないのではないか。
それとも……。
私は自分の書き上げた物語を記した十枚ばかりの紙を手の中でそろえ、見つめた。
たったこればかりの物を書くのにも、随分と手間がかかった。
なのに、それが既にどこかに書き留められていたりなどするだろうか。
だとしたら、私のしていることに、こうして書くことに、意味があるのか。
疑念が、私の胸を重く塞いだ。
「あら!」
ずっと退屈そうに本の山々を眺めていた王女がこちらを向いた。
「それが今日のお話ね!」
私の暗鬱な思いにも気付かず、王女は無邪気な声を上げた。
「……ええ……」
差し出された彼女の手に、私は紙束を手渡した。
王女は受け取ると、そのまま侍女が捧げ持っていた盆の上に起き、代わりに盆に乗っていた新しい紙とペンとインク壺を手に取り、私の座っている書き物机の上に置いた。
それはまるで、王女よりもずっと幼い年頃の少女が、ままごと遊びの子供の世話をしているかのように見えた。
頭を下げて礼を言った私に王女は鷹揚にうなづきかけたが、侍女はこちらに見向きもしなかった。
それでやっと、私が座ったまま礼を述べた不作法に気づいた。
だが、王女は盆の上の紙束をちらりと見て、言っただけだった。
「あとで侍女に読ませるわ。サーラがいいかしら。あの娘(こ)が一番上手なのよ。声も奇麗だし……それはまあ、吟遊詩人のようにはいかないけれども……」
言いかけて、王女はわずかに視線を落としたが、すぐに顔を上げた。
「そうだわ。もうすぐお茶の時間だし、あなたもいらっしゃいな、アルハザード。みなで一緒に続きのお話を聞きましょうよ」
「いえ……私は」
ぎくりと、まるで群衆の中から刑吏に手首を掴んで引きずり出される罪人のような動揺が、私の声を詰まらせた。
「そのような場所はどうか、ご遠慮させていただきたく……」
言葉を濁す私の返答に王女の口元がわずかにこわばった。
「あら、そうなの?」
だがすぐに王女の表情はいつもの無邪気さを取り戻していた。
むしろ、そばに控えていた侍女の無言と無表情の方が、私の身の程知らずをはっきりと咎(とが)め立てるかのようだった。
「……折角のお誘いを、申し訳ございません……」
もう一度、今度はより丁重に頭を下げるのを見て、ようやく侍女が私から目線を外した。
だが、なぜ私がそんな場所へ出て行かねばならないと言うのだろう。
なぜ、そんなところを私が楽しむなどと思えるのだろう。
「そうねえ……。でも、毎日毎日こうして一人で部屋にこもって本を読んだり書いたりしてばかりいるだけなのでしょう? 退屈ではないの?」
私の思いを読み取ったわけでもないはずの王女が尋ねてきた。
「いえ、それは……」
おそらく、説明したとて解ってなどもらえるはずもない。
人と言葉をかわすのも、顔をあわせることすらも、僅(わず)かばかりの代書の仕事がかろうじて成り立つ限度だけで、他のすべては読むか、書くかだけの時間を過ごしてきたのだから。
そうして生きてきたのだから、他にどうしようもないのだ。
私には。
「だって、王宮の暮らしときたら本当につまらないのですもの。私、ここで生まれて、それから一歩も王宮の外へ出たことがないのよ? 都の外の世界など、一度も見たことがないのだから」
「それは、私も同じです」
私とて、生まれてから一度も、このオアシスの王都から外へ出たことなどない。
「あら、そうだったの?」
意外そうに、王女は目を丸くした。
「それにしては、本当にいろんなことを知っていて……いろいろなお話を書くものだから……」
「それは、いろいろと読んだので……」
ちらりと本棚に目をやって、うつむく。
かすれたインクのこびりついた自分の指先を見ながら、答える。
だが、いつまでこんな話を続けなければいけないのだろう?
胸の底からわき上がったいら立ちが、かえって私を饒舌にした。
「きちんと書かれている物を読めば、かなり多くのことはわかります。ですが、それがありとあらゆるすべてなどとは申しません。そういう意味でも、無名都市に、あるいはこの世界のどこかにすべてが記された書物があるなどと言うのは……」
「あるはずもない、ということ?」
「……それでは、やはりお父様のおっしゃった通り、あの人の言葉にはまことの一欠片(ひとかけら)すらなかった、それがあの人の本質なのだということなのかしら」
呟きのような声が、王女の唇からこぼれた。
「ああ……」
うつむいた視線が、ふと顔を上げて窓の方を見る。
「なんてつまらないのかしら」
彼女の視線が窓を覆うカーテンをつらぬいて、どことも知れぬ遥か遠くでいったい何を探そうとしているのか、私にはまだわからなかった。
だが。
──つまらない、か。
人生に、つまるもつまらないもない。
胸の中で、そう吐き棄てた。
人生がつまらないのは、自分で日々をつまらなくしているだけのことだ。
何故それがわからないのだろう。
邪魔をしてしまったわね、と、小さなため息まじりに言いおいて、王女は侍女を連れて部屋から出て行った。
開いた扉から差し込んだ陽光が一瞬だけ王女の目元に光を散らせた。
その目蓋のきわに、緑の石を細かく砕いた粉がほんの細いひと筋、ぬり付けられているのがわかった。
だが、扉が閉じてランプの明かりだけになった部屋にはその輝きすら残らなかった。
美しく着飾って化粧をして、赤い髪をどんなに丹念に結い上げても、上からヴェールをかけてしまえばわからなくなるというのに、いったいそれが何になるというのか。
ふんだんに手をかけた料理を食べ、酒を飲んでは浮かれ騒ぎ、甘い菓子や果物をつまんでは噂話に花を咲かせる。
下町の洗濯婦たちが衣服を踏み洗いしながら、夫や姑の愚痴や上つ方の醜聞を言いふらすのと何の変わりもない。
そうやって俗事を消費して、日ごろの鬱積を少しばかり晴らすだけだ。
語るのは他人のことばかりで。他人の物差しばかりで。
そんなうわべで語るだけで、自分のことなど何も語らない。
──語れるものがないからだ。
確かに、それはつまらないだろう。
世界を司(つかさど)る摂理や、真理の輝きに目を向けようとすらしないのだから。
古来から幾多の人間が夢見てきためくるめく物語の光景にふれる喜びに、本さえ開けばいつまででも浸っていられるというのに。
自分を生かしている天然自然の理(ことわり)や、自らを育んだ国の歴史を形作ってきた思想や、人々の思考と精神のありようが、自分たちの足元でいくらでも溢れているのに。
そのひとつひとつが、すべて違った彩りを持って輝いているのに。
それらが、自分たちを形作っているというのに。
ばらばらでしかないと見えたそれらが、驚くべきつながりを持った物語を我々にささやきかけながら目の前を流れているというのに。
誰もがみな、見向きもしないで生きている。
まるで砂漠の砂のように踏みつけにしている。
そんな人生がつまらないのは当然だ。どうして、それで生きていけるというのだろう。
──では、これはどうなのだ?
紙を手に取り、書き留められた文字を見つめる。
黒にほんの少しだけ青みを帯びた色合いのインクで書き連ねられた文章を読み返す。
私が書いているものも、王女にとっては所詮、一時(いっとき)の暇つぶしの種でしかない。
──だが、それが一体どうしたというのだ?
そうだとしても、私にはどうでもいい。
手にした紙を書き物机に置き、辺りを見渡す。
書き上げた羊皮紙とペンのかたわらに何冊もの本が積み上がっている。
ずらりと蔵書の並ぶ本棚は隙間にもありったけの本を詰め込まれ、それでも足りずに床にも山になっている。
他人にはただの砂漠にしか見えなくても、私にとってこれは宝石箱だ。
そうしていつしか、書き始めていたのだ。
──これらが私を作った。
いったいいつから、これほどまでに取り憑かれてしまったのだろう。
読むことと、書くことに。
こんなにも。
蓄えられ続けた知識と、見出され続けた世界と、そこから紡がれ続ける物語。
まだ誰も読んだことのない、書いたことのない物語。
それがあるとしたら。
それは──
天井を仰ぎ、目を閉じる。
そうやって自分の中を覗き込む。
──ここにしかない。
そう。
私だけが、それを作り出すことができるのだ。
これほどに心が満たされることはないだろう。
私の紡ぐ物語は、私以外の誰によっても、この世に現すことなど出来はしないのだ。
目を開き、だが意識だけは自分の内側へと焦点を移している。
話の続きは、ここにある。
果てしない世界が。
きっと。
吸い込んだ息とともに、肺から頭頂へと意識が流れてゆく。
固く、暗く、狭い頭蓋の中のはずが、何故かとても広く自由に感じられる。
ふと顔を上げ、天井を見上げる。
限りない広がりの中をめぐり始める。
その中に、私がいる。
また目を閉じて、探す。
脳裏を覆う雲の切れ目から上天の青い色がひと筋差し込み、照らし出す。
ああ。
あった。
暗がりの中に、不意に小さな裂け目から光が漏れ、そこから地下水脈のように透明な水があふれ出す。
流れに手を差し伸べ、手のひらに水を受ける。
そっと、ペン先に含ませ、書いてゆく。
その間にも、こんこんと涌き出す水脈が手の中へと注ぎこまれる。
時折、手のひらをのぞき込む。
浮かび上がるのは、世界と、光景と、人々と。
蜘蛛の巣のようにわずかなか弱い糸を慌てて引き寄せれば、あっけなく消え去って、二度とつかみとることはできなくなってしまう。
そこにある音と、匂いと、息づかい。
か細く震える人々の思いを。激しくきらめく、叫びを。
それらを言葉でうつし取る。
水面(みなも)にきらりと欠片のようにきらめいて、そこから走り始める。
いつの間にか、再び私の意識は暗い頭蓋骨の中から解放され、わき返る水脈に全身で浸(ひた)っている。
焦がれる胸の燃える息吹。
つめたく触れる、肌ざわり。
その全てに、ひたり込む。
幻想がうねる奔流の中で、流れが皮膚と触れ合って、ペンを持つ右腕から手の甲へとふるえるような摩擦を起こしながら書いている。
淡い印象がちらりと眼前をかすめるのをペン先でとらえ、言葉を連ね、いくつものピンで蝶の羽根を広げて留めてゆくかのように、その場面を確かなものにしてゆくのだ。
じいんと、指先からの振動を抑えながら、紙とペンとの間で言葉が滑り出てゆく。
私も一緒に滑ってゆく。
ペンは、それをなぞるだけだ。
あふれる言葉があまりに早くて手がまるで間に合わない。
気が付くと、自分でも読み取れなさそうなほどに形の崩れた文字の羅列が羊皮紙の上に書き連ねられている。
だが、それでいい。
こうでもしなければ、迸(ほとばし)る言葉たちを全てとらえて書き留めてゆくことなど到底できはしないのだから。
あとできちんと読めるように書き直せば良いだけだ。
紙もインクも新しいペンも十分に用意されているし、時間だって、いくらでもある。
いったん手を止め、読み返してみた。
「だれ……?」花のような唇からかすかな声が漏れました。
「『わたし』を呼ぶのは誰?」
「『わたし』よ」もう一度、姫君は呼びかけました。
「『わたし』が、あなたを呼んでいるのよ」
「ああ、やはり……」
はっきりとした声が、答えました。
寝台に横たわったまま、『わたし』は目を開きました。
『わたし』のすぐ横に『わたし』がいるのが、『わたし』にはわかりました。
「やはり、そうだったのね……『わたし』がずっと夢見ていたあなたは、『わたし』……」
ゆっくりと視線を横に向け、『わたし』は、『わたし』の傍らで『わたし』が『わたし』そっくりの顔で寝台の上に横たわる『わたし』を見下ろしている『わたし』の瞳が──
ああ。
足りていない。
ペンを置いて肘をつき、掌の上に額を乗せる。
これでは『見え』ない。
再び息を吐いてペンを持ち直すと、さっき書いたばかりのところへ二重線を引いて消した。
──読むと書くとでは大違いだ。
しばらく考えて、新しく数語を書き、差し替えた。
足りないところは行間に書き加えていく。
順番を入れ替え、挿入する文をペンでぐるりと囲み、矢印を引いて中途へ差し込む。
──まるで鉱脈のようだ。
同じ書くのでも、代書の仕事とは全く違う。
ただ、そこにあるものを書くのではない。
作り上げながら、書いてゆくのだ。
どう書けば、それが伝わるのか。
どう書けば、見えるのか。
頭を振り絞り、手探りで言葉を綴る。
そうして自分の求める姿へと形を整えてゆく。
わずかにしか見えない鉱脈を掘り起こすのは途轍もない大仕事だし、やっと掘り出したものでも、そこからまともな形に整えるのもひと苦労だが、そうして生み出されるうねりは、計り知れない。
誰も書かない、誰にも書けないものを、いま、私が書いている。
この私が。
ちっぽけで、取るに足りない、有象無象にまぎれて生きるこの私だけが、これを書くことができる。
いまだ誰も聞いたことも、読んだことも、書いたこともない物語を。
これは、そういう『もの』だ。
書かれた景色の断片が、読み手の芯に刺さるだろうか。
眼の奥で弾(はじ)け、きらめくだろうか。
胸の鼓動をつかみ、響かせるだろうか。
──いや。
その時、ただ一人の読者のことすら私の頭には浮かばない。
私が言葉を突きつけているのは、私自身だ。
誰のためでもない。
一語一語の響きと紡ぎ出す情景のすべてが、胸の奥底で私を優しく撫ぜるためにある。
その手触りが、一番私にとって良いものとなるように。
だが、それにすら到底手の届かない、つたない言葉の断片にしか過ぎなくても。
それでも、今はただこうして書けるように書くだけだ。
好きに書くことの喜びと、未熟さへの恐れと、わななく思いにひたすら溺れながら──
私が書くのは、そういうものだ。
私の脳裏に浮かび上がるその瞬間まで、それはこの世界のどこにもなかったものなのだ。
絶対に。
どうして、それがすべてどこかに書き留められていたりなどするだろう?
(続く)
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