一章

 むかしむかしの、その昔。

 いくつもの砂漠を越えた彼方に、オアシスの国がありました。

 オアシスの国の王には、砂漠を照らす夕陽のように赤い髪を持つ美しい王妃がおりました。しかし、か弱い王妃は女の子を一人生んで間もなく、流行り病にかかってあっけなく亡くなってしまいました。

 王はたいそう嘆き悲しみました。そして、王妃のたった一人の忘れ形見である王女をとても大切に思い、王妃ゆずりの赤い髪を慎ましやかなヴェールで覆うと、王宮の奥で風にも当てず大事に育てました。

 大勢のお付きの者たちに守られて、王女もまた砂漠に上る朝焼けの太陽のように輝く赤い髪の美しい娘に育ちました。

 ところが、王女はとても退屈な日々を過ごしていました。

 きらびやかなドレスや宝石を浴びるほどに与えられ、贅沢な料理と菓子を口にして、よくしつけられた侍女たちに手厚く世話をされていても、ちっとも楽しくないのです。

 豪華な王宮の部屋も、咲き誇る花々でいっぱいの庭園も、何の喜びも与えてはくれません。

 見かねた王は、王女に尋ねました。

「なぜ、そのようなつまらない顔をしているのかね」

「だってわたし、生まれてから一歩も王宮の外に出たことがないんですもの」

 王女は父である王に訴えました。

「これでは退屈で退屈で、たまらないわ。せめて王宮の外がどうなっているのか、見てみたいのです」

「とんでもない。お前の母のように、悪い病気にかかりでもしたら大変なことではないか。王宮の外に出るなど、許すわけにはいかぬ」

「まあ。本当に、なんてつまらないのかしら」

 王女はすっかり機嫌を損ねて、自分の部屋に閉じこもり、お付きの者にも王自身にも、誰とも会おうとしなくなってしまいました。

「いったいどうしたものか」

 すっかり困り果てた王の元に、廷臣の一人がある噂話を聞きつけてきました。

「なんでも、都の下町にたいそう人気の吟遊詩人がいるそうでございます。その詩人ときたら、古今東西、世界じゅうのありとあらゆる不思議な物語をいくらでも知っていて、琵琶(ウード)を弾いては歌い語り、町の者たちに毎日のように聞かせているのだそうです。その話というのがまた、どれもこれも面白く、ひとつとして同じものがないのだそうで。この吟遊詩人の語る話をお聞かせすれば、王女様もきっとお喜びになりましょう」

「ではすぐにその詩人を連れて参れ」

 即座に王は廷臣に命じました。

 王宮に召し出された詩人に王は尋ねました。

「その方が古今東西のあらゆる物語を知っていてるというのはまことか。下町の民衆に毎日聞かせている話には、どれ一つとして同じものがないと皆が申しておるが、それに相違ないか」

「いかにも、左様でございます」

 まだうら若い吟遊詩人は王の前で平伏してはいましたが、歌で鍛えた美しい声で自慢げに答えました。

「私は砂漠の彼方、海の向こう、はるか幾山河を越えて世界の果てまでも旅して見聞きしてきた無数の物語を知っております。お望みとあらば、この琵琶と私の声で、王様が『もうたくさんだ』とおっしゃるまで、いくらでも語ってご覧に入れましょう」

「その方の話を聞かせるべき相手は余ではない」

 王は王女の部屋の前に詩人を連れてゆきました。詩人は、かたく閉ざされた扉の前に座ると、琵琶(ウード)を構え、指先でさらりと弾き鳴らしました。

 幾日も部屋に閉じこもっていた王女の耳に、扉の隙間から聞こえてきたその音色が届きました。

「なんの音かしら」

 豪華に天蓋をしつらえた寝台の上で、所在なげに腰掛けていた王女は耳をすませました。

 琵琶の音に合わせ、吟遊詩人が弾き語る声が聞こえてきます。

 それは、とあるお城の一室で眠り続ける姫君のお話でした。

 深い深い海の底にある城の中で、姫君は夢を見ていました。

 その夢の中で、姫君は一人の英雄でした。

 辺境の領主から身を立てて、華々しく手柄を上げ、領土を広げ、いくつもの国々を支配し、やがて大陸の端から端までをもその手に収めました。

 大国の王として君臨し、広大な城にはあふれんばかりの金銀財宝が納められ、後宮にはよりすぐりの美女たちがはべり、とうとう彼はこの世の栄耀栄華のすべてを手に入れたのです。

 ところがある夜、いつものように後宮を訪れた王は、最も気に入りの寵姫にあっけなく寝首をかかれてしまったのです。

 その寵姫がかつて王の侵略によって家族と恋人を失い、復讐のために後宮に入ったことを、王はそのとき初めて知ったのです。

「なんて虚しい!」

 広い寝台を真っ赤な血に染めて息絶えた王の身体を抜け出し、天井から眺めながら姫君の魂は思いました。

「愛がなければ、どれほど多くの財宝を手に入れても、広大な領土を従えても、何の意味もないのだわ。互いを心から思い合い、決して裏切られることのない本当の愛が欲しい!」

 姫君の魂は後宮の屋根からはるか彼方へと飛び去ると、今度は森に住む木こりの体に生まれ変わりました。

 貧しい木こりは粗末ながらも住み心地の良い小屋を建てて、妻と二人で暮らしていました。

 訪れる者もいない深い森の奥で、二人は互いに互いだけを見つめ、深く愛し合って生きていました。

 ところが幸せな日々も束(つか)の間、美しかった木こりの妻は若くして病で命を落としたのです。

 冷たい土の下に葬られた妻の墓の前、木こりは引き裂かれた虚ろな胸を抱えたまま、いつまでも呆然と立ち尽くしていましたが、やがてそのまま倒れて息を引き取りました。

「ああ、なんて儚(はかな)いの!」

 姫君の魂は木こりの体を抜け出して、嘆き悲しみながら森を後にして、地の果ての荒野へと飛んで行きました。

「愛すらも、命尽きれば失われてしまう。人は誰しも、たった一人で死んで行かねばならないなんて、あまりにも寂しすぎるわ。永遠に尽きることのない命と体があれば……」

 大地に身を投げ出して悲しむ姫君の手に、荒野の砂が触れました。

「そうだわ」

 姫君の魂は荒れ地の砂をかき集め、わずかに流れる細い川の水を混ぜて手でこね合わせると、人の形を作り始めました。

「これなら病気になることも、老いて死ぬこともないわ。私は永遠の命を手に入れるのよ」

 出来上がった人形に向けて姫君がふっと息を吹きかけると、土の人形は姫君の魂を吹き込まれ、たちまちのうちに姫君にそっくりの若く美しい体になったのです。

 朽ちることなき永遠の体と命を手に入れた姫君は、同じようにして自分の恋人や家族や友人たちの体を作っては、次々と命を吹き込んでいきました。

 長い年月をかけて──永遠の命があるのだから簡単なことです──姫君は自分の世界に住む人たちのすべてを、土をこね、魂を吹き込んで作り出してゆきました。

 やがて、荒れ果てた大地は姫君の手で作られた大勢の人々が暮らす豊かで賑やかな王国になりました。

 ところがどうしたことでしょう。

 決して裏切ることもない優しい住人たちと、死に別れることもない愛する人々に囲まれているというのに、心は何の喜びも感じないのです。

「どういうことなの?」

 親しみに満ち溢れた笑顔で語りかけられても、どれほどの愛の言葉を囁かれても、その声は姫君の心を少しも動かすことはありません。

 そうしてやっと、姫君は気付きました。

 永遠の命を手に入れるとは、自分の心の響きを止めてしまうことだったのです。

「……これは私の望んだことじゃない」

 一切の鼓動を止めてしまった自分の胸を両手で押さえ、姫君は立ち尽くしました。

「こんなのは、私じゃない。私が欲しかったものは、私が本当に望んだものは一体なに? ……ああ、もう何もわからない……。私の……私の本当の心は一体どこへ行ってしまったの?」

 姫君は、自分が作りあげたはずの愛する人々と王国に背をむけると、どこへともなくさまよい歩いてゆきました。

 創造主に捨て去られた人々は土の人形に戻り、壊れて砂になりました。

 砂にはしばらくの間、姫君の吹き込んだ魂が残っていて、姫君のことや自分たちのことを語っていましたが、やがてその声も聞こえなくなりました。

 そうして、豊かだった大地は砂で覆い尽くされ、見渡す限りの砂漠になってしまいました。

 あてもなくさまよい続けていた姫君は、大地の果ての海にたどり着きました。

 この世の栄華を極め、愛を求め、永遠の命を得て長い長い時を生き続けてきた姫君は、とうとう疲れ果てて海に身を投げました。

 それでも、永遠の命を持つ体は溺れることも、海の水に溶けて崩れ去ることもありませんでした。

「私はなんて愚かだったのかしら。自分がいったい何者で、何を欲したのかすら解(わか)らずに生きてきたなんて」

 深い深い海の底へとひたすら沈んでゆきながら、姫君はつぶやきました。

 彼女の瞳は涙をこぼすこともなく、ただ虚ろに海の色を映していましたが、突然海底に現れたその景色に姫君は目を奪われました。

「あれは──」

 ずっと響きを止めていた心が、胸の奥で大きく鼓動を打ちました。

 ひと筋の陽(ひ)の光すらも届かぬ海の底に、まるで一つの都市ほどもある大きな城が静かに沈んでいたのです。

「この場所を、私は知っているわ」

 海底に沈む城の一番高い塔から中へ入り込むと、姫君は青い魚のように水を呼吸しながら、ひたすら下へ下へと塔を降りて行きました。

「ああ、ここだわ」

 塔の一番奥底にある扉を、姫君はそっと押し開けました。

「ここにいる……」

 エメラルド色の海水に満たされた部屋に一つだけ置かれた寝台の上に、人の姿が見えました。

「間違いない。あれは『わたし』よ」

 とうとう姫君はたどり着いたのです。

 城の中で眠り続けていた自分自身に。

 深い海の色に染まる寝台の天蓋の下、自分にそっくりな顔を持つその体が静かに横たわっています。

「起きて、『わたし』」

 姫君は自分に呼びかけました。

「あなたは、『わたし』よ」

『わたし』の体に、『わたし』が手を差し伸べました。

 その気配に、寝台の上の『わたし』がかすかに身じろぎをしました。

 長い睫毛の目元がわずかに震え、目を開こうとします。

「だれ……?」小さな唇からかすかな声が漏れました。

「『わたし』を呼ぶのは誰?」

「『わたし』よ」もう一度、姫君は呼びかけました。

「『わたし』が、あなたを呼んでいるのよ」

「ああ、やはり……」

 はっきりとした声が、答えました。

 寝台に横たわったまま、『わたし』は目を開きました。

『わたし』のすぐ横に『わたし』がいるのが、『わたし』にはわかりました。

「やはり、そうだったのね……『わたし』がずっと夢見ていたあなたは、『わたし』……」

 ゆっくりと視線を横に向け、見上げる『わたし』の青い瞳と見下ろす『わたし』の瞳がついに、出会いました。



「『わたし』は──」



 その時ぷつりと、歌声と琵琶の音色は聞こえなくなりました。

「どうしたのかしら」

 はっと息を呑み、王女は辺りを見回しました。

 そこはいつもの見慣れた王宮の自分の部屋でした。

「え……?」

 いつの間にか日は傾き、窓からは砂漠の夕陽が真っ赤な光で部屋の中を照らしています。

 ついさきほどまでは、琵琶(ウード)の音に乗せて語られる、海の底の不思議な景色が目の前に広がっていたというのに。

 冷たい海の水に身も心も浸(ひた)り込むようにして聞き入っていたはずなのに。

 透き通る青に深く染まっていた深海の城の情景は、もうありません。

 海の底で眠る美しい姫君も、呼びかけるもう一人の姿も、まるで陽炎のようにはかなく消え去って、後に残るのは豪華な牢獄のように閉ざされた自分の部屋でしかありません。

「そんな……」

 王女は寝台から降りて部屋の入り口に駆け寄ると、ずっと固く閉ざしていた扉を両手で大きく開け放ちました。

「何故やめてしまうの? この物語は……いいえ、これから『わたし』は……『わたし』に出会ってしまった『わたし』はいったいどうなるの? お願い、もっと──もっと聞かせてちょうだい」


 その手首を、吟遊詩人のしなやかな手が掴んで引き寄せ、部屋の外へと王女を連れ出しました。


「お望みとあらば、いくらでも。美しい王女様」


「あなたは──」


 王女が出会ったのは、自分と同じ顔を持つ『もう一人の私』ではなく、不思議な物語を語るうら若い声の吟遊詩人でした。

 

 慎ましやかに被(かぶ)せられていたヴェールがはらりと落ちて、砂漠に上る朝焼け色の髪がこぼれました。



 王宮に迎え入れられた吟遊詩人は王女のお気に入りとなり、日ごと夜ごとに琵琶を弾いてはたくさんの不思議な物語を聞かせておりました。

 しかし、それがふた月、三月(みつき)と続いたある日、とうとう王女は父王に訴えました。

「やっぱりわたし、王宮の外に出たいわ。だって退屈なんですもの」

 娘の言葉に、王は首をかしげました。

「どうして退屈なのだね。あの吟遊詩人が毎日違う物語をいくらでも聞かせてくれているのではないか?」

「とんでもない!」

 王女の声が王宮の広間に響き渡りました。

「あの詩人が世界中のあらゆる物語など知っているなどとは真っ赤な嘘ですわ。だってわたし、ここ十日ほどはずっと同じ話ばかり繰り返し聞かされているのですもの!」

 すぐさま、王は兵士に命じて吟遊詩人を引き連れて来させると、厳しい声で問い質しました。

「お前は余を騙したのか。お前が余に、自分は古今東西の物語を無数に知っていると申したのは偽りか」

「とんでもございません。私は嘘など申してはおりません」

 広間の床に額をこすりつけるように平伏したまま、吟遊詩人はこわばった声で答えました。

「だが、ここ最近のお前が語っているのは、同じ話の繰り返しばかりだというではないか? 本当に無数の物語を知っているのならば、そのようなことになるはずがないであろう。おおかた、町の広場で聞かせて評判を取っていたというのも、そうした繰り返しの話ばかりだったのに決まっている」

「違います。私は町でも、ずっと違う物語を聞かせておりました。どうかお信じ下さい」

「いいえ、とうてい信じることなどできないわ」

 王の詮議を聞いていた王女が、王に負けずとも劣らぬ険しい剣幕で詩人を問い詰めました。

「ここしばらくの間、あなたがわたしに語った物語といえば、出てくる人物が少しばかり違うだけで、筋書きはみんな同じような話ばかりだったじゃないの。下町の者ならそれで誤魔化せても、わたしは騙されないわ。それとも、下々の者に語る話はいくらでも知っていても、わたしに聞かせる物語などないとでもいうの?」

「決してそのような……それは……」

「偽りの申し開きをしても余には通じぬぞ」

 王は怒りをはらんだ声で詩人に言い渡しました。

 どんなに大勢の聴衆の前でも物怖じなどしたことのなかった吟遊詩人は、大蛇の前の蛙のように脂汗を流しながらも、ようよう抗弁の声を上げました。

「……それはただ、私が無数の物語の仕入れが出来ておらぬせいでございます」

「物語の仕入れだと?」

 睨みつける王の視線に、ますます詩人は頭を低くしながらも、声だけははっきりと広間じゅうに通る声で答えました。

「この都の下町の小路でも、もっとも貧しい者ばかりが住む薄汚れた裏通りに、代書屋のアルハザードという男が住んでおります。身なりは貧しく、地位も無く、髭も髪も伸び放題のまま、あばら屋に住み着いて、わずかばかりの代書の仕事でかつかつの暮らしを営んでおりますが、驚くべきことに、この者は本当に古今東西の様々な物語をいくらでも知っていて、尽きることなく私に語ることが出来るのです。それもそのはず、彼こそは──」

 詩人は言葉を切り、床に平伏していた顔をわずかに上げて王の顔を窺(うかが)いました。

「──恐れながら、王様は『無名都市』の噂についてはお聞き及びでございましょうか?」

 その言葉を聞くと、不機嫌そうに眉根を寄せて耳を傾けていた王は、わずかに身じろぎをしました。

 それに気付かぬまま、王女は詩人に問いました。

「『無名都市』の噂ですって? 知らないわ。それはいったいどういう……」

「そなたは知らずとも良いことだ」

 剣のように鋭い王の言葉が娘の疑問を断ち切りました。

 いつになく厳しい父の声色に、王女はかすかに身を震わせると、玉座に向かってしとやかに頭を下げました。

 王女がそのまま広間から立ち去ると、王は詩人にうなづきかけました。

「話を続けよ」

 吟遊詩人はいっそう深々と頭を下げましたが、再び顔を上げると、王に向かって答え始めました。

「代書屋アブドゥル・アルハザードは、この世でただ一人、その無名都市を訪れ、生きて還(かえ)った者なのです。この砂漠に……いいえ、この世界に人類が初めて築いた都市の、もっとも古い礎石が置かれるよりも遥か遠い過去に滅び去ったという、名も無き都市──そこには、この世の始まりから終わりまでに生まれ、死んでいった人々の、一人残らず全ての生き様と、死に様の記録がある。この世界の歴史に起きた全ての出来事と物語とを書き記した書物が、それこそ無数に収められていると言います。アルハザードはそれを読んだのです。……人間の世が生まれるはるか以前より始まりて、この地上から全ての人類が滅び去ったあとにも終わりなく続く無限の物語のすべてを私は知っている、それをお前に語ろう……彼は私にそう言ったのです」

 詩人の言葉は、王の前に引き据えられて尋問されるのではなく、都大路の広場で群集を前に琵琶(ウード)を手にして不思議な物語を弾き語っているかのように王宮の広間に響きました。

「代書屋のアルハザードは言いました。これから自分は、お前に毎日ひとつの物語を語るだろう。それは無名都市の奥底の、果てしなく続く書庫に収められた万巻の書に記された無数の物語と歴史である。それを知る者はこの世にただ一人、無名都市から生きて還(かえ)ったこのアブドゥル・アルハザードだけである。お前は大通りへ出て、町行く人々にその物語を語るがいい。お前の琵琶の音(ね)にのせて、お前のその声で歌い語れば聴衆はみな喝采し、都大路の真ん中でお前は毎日のように大評判をを取るに違いない、と」

 詩人は何も手にしてはおりませんでしたが、まるで自分のかき鳴らす琵琶の音(ね)に合わせて歌うように語り続け、王もまた熱心に耳を傾け続けました。

「翌日、さっそく私は通りへ出て、琵琶(ウード)を奏でながら、代書屋から聞いた『幾度もの転生の果てに海の底で眠るもう一人のほんとうのわたしに出会う姫君の物語』を下町の者たちに歌い聞かせました。すると、まさしくアブドゥル・アルハザードの言った通り、町を行き交う者たちはみな足を止め、私の語る物語に熱心に聞き入り、喝采し──それ以前から私はこの都では吟遊詩人として大層な人気をとっておりましたが、それまでとは比べ物にならぬほどの投げ銭が投げ与えられ、道ばたに置かれた私の帽子はすっかりあふれ返っておりました。続きの話を聞かせてくれとせがむ人々に、もうすっかり日も暮れてしまったので今日はここまでと何とか聞き分けてもらって別れを告げると、私は再びアルハザードの住むあばら屋へと向かいました。私は彼の予言通りに大当たりを取ることができたことに感謝を述べ、礼として投げ銭の半分を支払おう、と申し出ました。ところが、アルハザードは投げ銭の中からもっとも薄汚れた鐚銭(びたせん)を指先で摘み取ると、こう言いました。『物語の代金は、これ一枚で充分だ。では明日の物語をお前に教えよう。よく聞くがいい──』」

「もうよい。わかった」

 それまでじっと詩人の語る言葉を聞いていた王が、ようやく口を開きました。

「つまり、お前は毎日、その代書屋から自分が語る物語を買っていたというわけだな」

「その通りでございます。……このところ、私はずっと王宮に留め置かれておりましたので、物語の仕入れが出来ていなかったのでございます。王様のお許しさえ頂ければ、今すぐにでも下町へ戻り、代書屋アルハザードから新しい物語をたくさん買って参りますゆえ……」

「では望み通り、早速お前を王宮の外に出してやろう」

 王は相変わらず歌うように語り続ける詩人を遮って言いました。

「ああ、王様。お許しを頂き、まことに……」

「そしてもう二度と戻って来ずとも良い」

 安堵した顔を上げて感謝を述べようとした吟遊詩人に向かって、しかし王は冷酷に告げました。

「もうひとつ、わかったことがある。お前はとんでもない嘘つきだ。自分は古今東西のあらゆる物語を知っているなどと大口を叩きおったくせに、その物語を知っていたのは貧しい代書屋で、お前は金でそれを買っていただけではないか。お前のような者は、聴衆が続きを聞きたくなるような面白おかしい話を仕立て上げるためなら、いくらでも物事をねじ曲げて語るのに決まっている。そうやって口から出まかせで話を粉飾し、それを歌い語る自分に酔っているだけの、真実の欠片もない奴だ。それがお前の、詩人というものの性分なのだ。それが良くわかった。もうたくさんだ。余はお前を王宮から、いや、この都から追放する。余と、余の娘をたばかった罰だ」

 怒りに満ちた王の宣告に吟遊詩人も、もはや床に這いつくばったまま弁解するどころか顔を上げることすらできず、兵士たちに引きずられるようにして広間から連れ出されてゆきました。

 それから兵士たちは詩人からアルハザードの住処(すみか)を聞き出すと、裏通りの下宿屋から代書屋のアルハザードを連れ出して、代わりに詩人は都の門から外に放り出してしまいました。

 王は、代書屋アブドゥル・アルハザードとは一体どんな男だろうかと、さぞかし怪しげな呪術師めいた人物か、偏屈な老隠者であろうかと懸念しておりましたが、王宮の広間へ連れてこられた男の姿は、それとは全く違っていました。

 まだ若い代書屋の顔は青白く、痩せた体を刺繍一つない砂色の質素な衣に包み、王の前で深々と頭を下げました。

 ただ、その瞳だけは、まるで真昼のまぶしい太陽に照らし出される砂丘の砂のように静かに輝いておりました。

「やはり、あの詩人はとんでもない大嘘つきであった」

 王は誰にも聞こえぬよう、口の中で呟きました。

 侍女たちを連れた王女が広間へやってくると、王はアルハザードに尋ねました。

「お前が吟遊詩人に物語を売っていたという代書屋か」

「はい。左様でございます」

 アルハザードは顔を伏せ、低い声で答えました。

「では詩人が申しておったのは真(まこと)か。お前が古今東西、この世のありとあらゆる全ての物語を知っていて、尽きることなくいくらでも語ることが出来るというのは」

「あの詩人が陛下に何をどのように申し上げたのか、私は存じません」

 王の前でも臆することのない代書屋の答えに、広間に居流れる侍女たちはかすかにざわめきましたが、アルハザードの言葉は静かに続きました。

「また、私は確かに数多(あまた)の物語を知っておりますが、それらが本当にこの世のすべての物語であるかどうかも、わかりません。ですから、私はその問いに答えることはできません」

「なるほど」

 アルハザードの答えを聞いた王は腕組みをして、ひとつ息を吐き出しました。

「どうやらお前はあの詩人とはまるで逆のようだな。お前は自分が知らぬことは知らぬと言うし、自分が知っていることについても、どこまで、どのように知っているのかを包み隠さず明らかにして語るのだな。代書屋とはそうしたものか。依頼人の知らぬこと、思ってもおらぬことを勝手に書き加えてはならぬのだな」

 ひとり言めいた王の言葉に代書屋は答えず、ただじっと広間の床に額をつけておりました。

「──では、こう問おう。お前は吟遊詩人に一日ひとつ、それぞれ違う物語を売ってやっていたが、それは本当に毎日違う物語であったか?」

「はい」

「だが、其奴(そやつ)は、ここしばらくずっと買いには来ておらなんだはずだ。もしも今日までずっとあの詩人が物語を買いにきておったとしても、お前は毎日違う物語を教えてやることが出来たか?」

「はい」

「……うむ。そうか」

 ためらいのないアルハザードの答えに、王は腕組みをほどくと、玉座の上で身を乗り出すようにして問いかけました。

「では、この先はどうか? お前はこれから当分の間も、毎日違う物語を売ることができるであろうか?」

「この先、当分の間とは……」

 その時、初めてアルハザードははっきりと顔を上げ、王に尋ねました。

「それはいつから数え始めて、何日後までのことでございましょうか?」

 代書屋は、まるでそれこそが、この契約を書き記すにおいては最も重要な箇所だとでも言うかのように、砂色の瞳を王の顔に向けて問い返しました。

「そうだな、では五年……いや、十年ではどうか。今日より数え始めて十年のちまで、詩人が毎日やってきたとしたら、お前はまた物語を売り続けてやれたか? 詩人が町で大当たりを取れるような物語を語ってやることが出来たか?」

「……はい」

 アルハザードは砂色の瞳を伏せ、静かに答えました。

「まあ、それは素晴らしいわ!」

 玉座の隣りに控えていた王女が両手を胸の前で組んで言いました。

「では、お前は今日よりこの王宮に留(とど)まりなさい。そうしてあの詩人の代わりに、わたしに毎日めずらしい物語を聞かせてちょうだい。楽しみだわ! わたし、これでやっと退屈な日々から再び逃れることができるのね!」

「いいえ。それは無理です」

 無邪気な喜びに満ちた王女の声をアルハザードが遮(さえぎ)りました。

「えっ……?」

 代書屋の返答に、王女は思わず言葉を失いました。

「何と言ったか?」

 王女づきの侍女たちは風に揺れる湖畔の葦のようにざわめきたちましたが、王がじろりとそちらを睨見つけると、再び口をつぐんで壁際に控えました。

「恐れながら、それは致しかねます」

 代書屋は長い指先をぴたりと床の上に揃えて深々と頭を下げたまま、しかしはっきりと答えました。

「……どうしてなの?」

 模様も飾りも何一つない砂色の衣服を身につけて、真昼の砂丘のようにじっと平伏したままのアルハザードに王女は問いました。

 王のたった一人の娘として、望むもの全てを与えられ、王以外の全ての者を意のままに出来なかったことなど一度たりとてなかった王女にとって、つれない拒絶の言葉を聞かされるなど、生まれて初めてのことだったのです。

「あなたはついさっき、これから十年間、毎日違う物語を売ることができると言ったばかりではないの! あれは嘘だったの? あなたも、あの吟遊詩人と同じ嘘つきで、本当はこの世のあらゆる全ての物語を知ってなどおらず、とっくの昔に物語を売り尽くして、失くしてしまっているのではないの?」

「そうではありません」

「ではいったい、どうして……」

 当惑に揺れる王女の瞳を、顔を上げた砂色の瞳が受け止めました。

「どうかお許し下さい。確かに私はこの先、十年が百年であっても売れ残るほどの物語を知っております。ですが、私はただの代書屋です。とある事情で知るに至った風変わりな物語を数えきれぬほど抱え込んでいるという、それだけのことです。あの吟遊詩人が町で大当たりを取ったように、見事に琵琶を弾き、美しい声でめずらしい物語を歌い聞かせて退屈をお慰めする。それが王女様のお望みなのでございましょう? なのに、貴女(あなた)様はそれにすら、退屈しておしまいになったのです。私では到底お役に立つことはできません。ですから、お断りするより他はないのでございます」

「そんな……違うわ……」

 にべもないアルハザードの拒絶に、王女は力なく項垂(うなだ)れました。

「確かにわたしは、あの吟遊詩人のことをとても気に入っていたわ。華やかにかき鳴らされる琵琶(ウード)に乗せて歌い上げられる物語はとても素晴らしくて……王宮から一歩も外に出ることが叶わずとも、この砂漠を越え、山と海を越え、はるか彼方の星の世界までも旅した景色が本当に私の眼の前にあるかのようで、心の底からふるえたわ。まるで見知らぬ誰かのやさしい手が、小さな殻の中で一人うずくまったままの、わたしの魂にふれたような気がしたの。でもやっぱりわたしは、やがて退屈するようになってしまって……。けれどいま、その理由が分かったわ。それは、物語が尽きた詩人が同じような話ばかりを繰り返し語っていたからではなかった。わたしが求めたのは、きっと、あなたの物語なのだわ。あなたの中にしかない、あなたの他には誰も知らない物語だったの。だから……そうだわ……」

 いつしか、アルハザードではなく自分の胸の内側に棲む誰かに向かって答えるかのようだった王女は再び顔を上げ、アルハザードに言いました。

「あなたは代書屋なのでしょう? ならば書くのは得意なはずよ。美しい文字と文とで、あなたの抱える無数の物語をきっと書くことができるはずだわ! ねえ、いいでしょうお父様。この者に、王宮に部屋を与えて、良い紙とペンとインクをたくさん用意して物語を書かせましょう。それを読めば、きっと退屈な気持ちなど吹き飛んでしまうわ!」

「私が、物語を書くのでございますか?」

「そうよ。あなたが書くの。だって、あなたしか知らない物語なのだから、あなたが書くしかないでしょう?」

 熱心に、しかし無邪気に要求を突きつける王女に、アルハザードは困惑して目を伏せました。

「私では、王女様の心を満たすほどの──吟遊詩人の音曲に匹敵するほどのものが書けるとは限りません。それでもよろしいのでしょうか」

「それでも……それでも構わないわ。だってわたしは……」

 しばし王女は答えに詰まりましたが、やがて自分の心の中をそっと探るように言葉を選びながら言いました。

「あなたが抱え込んでいるという物語をこそ、知りたいの。その世界に、触れたいの。だから、あなたでなくてはならないのだわ」

「どうか、娘の願いを聞いてやってはくれぬか」

 王女の懇願にも答えかねる代書屋に、王は頼みました。

「余は嘘つきを遇する道は知らぬ。それゆえ、あの詩人を追放した。だが、己の誠意を尽くそうと励む者には正当な報酬を与えよう。決して悪いようにはせぬ」

「では、決まりね」

 王女は玉座の前に進み出ると、しとやかに衣の裾をつまんで赤い髪をヴェールで覆った頭を下げ、父王に感謝の言葉を述べました。

 やがて、侍女たちとにこやかに言葉を交わしながら王女が退出してゆくと、王は広間に残った廷臣たちに人払いを告げました。

「そなたは残れ」

 近習に促されて広間を出ようとしたアルハザードに、王は命じました。

 警護の兵士たちすらも遠ざけて代書屋と二人だけになると、王は玉座から下りて、アルハザードに歩み寄りました。

 砂色の、それぞれが少しずつ違った色合いのタイルを敷き詰めたモザイク模様の床の上で、うずくまるようにして頭を下げている代書屋の姿は、風の途絶えた砂漠に静かにそびえる砂丘のようでありました。

「ひとつ、聞いておくことがある」

 その砂色の小山に向かって王は言いました。

 貧しい代書屋のすぐ傍(かたわ)らで身をかがめ、囁くように声を潜める王の様子は、その場には自分とアルハザードの二人だけしかおらぬのに、他の誰かに聞かれはせぬかとひどく恐れてでもいるかのようでした。

 ひそかなその声が、代書屋の耳に届きました。

「無名都市のことだ」

 低頭したまま身動きひとつしないアルハザードの前で、王は言葉を続けました。

「あの吟遊詩人が言うには、太古の昔に滅びた無名都市には万巻の書物が収められていて、この世の始まりから終わりに至るまでのあらゆる歴史と物語とが記されているのだと。だが、その程度のことでは、これほどまでに恐れられ、声を潜めて語られるほどのことではないだろう。……他にも怪しげな噂はある。我ら人類が生まれるよりも遥か以前にこの世界を支配していたという大いなる種族が地下の墓所に眠っていて、再び地上を支配するべく甦(よみがえ)りの日を待っているのだと。いや、そやつらは今も無名都市の地下で生きていて、夜陰にまぎれ、砂漠を行く隊商のうちの幾人かを殺して入れ替わり、誰も気付かぬうちに少しずつ人間の中に仲間を増やしつつあるのだとも。都市の地下深く、迷宮の奥には巨大な扉があって、そこは星と星との間に広がる無限の深淵に通じているのだという者もある。だが、本当のところは誰も知らぬのだ。……その無名都市からお前は来たのだと、あの詩人は言っていた。この世でただ一人、そこから生きて帰ってきた者なのだと。果たしてそれは本当に──」


──そのとき。


 ゆっくりと、砂のかたまりが王の目の前で身を起こしました。


 王の御前で平伏したまま身動きひとつしなかったアルハザードは顔を上げ、目を見開くと、かがみ込むように自分を見下ろしていた王を真正面から見返しました。


 その瞳は──。



 代書屋アブドゥル・アルハザードの瞳は、もはや真昼の太陽が照らし出す眩しい砂丘の色ではなく、どことも知れぬ遠くからやってきて、猛烈な突風を巻き上げて太陽を隠し、大地と空とを底なしの暗闇の中に飲み込む激しい砂嵐のようにどす黒い砂塵の色に染まって王を見上げていたのでした──。



「──よい。わかった」

 息を呑み、気押(けお)されるように言葉をなくしていた王は、押し潰されそうな喉からようやく声をしぼり出しました。

「もう聞かぬ。金輪際、余は『そのこと』についてはお前に聞かぬ。娘にも、聞かぬようにと……いや、あれはそのようなことに興味はないであろう。他の者にも、もし聞かれることがあれば、余が決して語ってはならぬと命じたと答えれば良い。……それで、よいな?」

「……はい」

 再びゆっくりと、アルハザードは顔を伏せ、御前にふさわしく床の上に頭を低く垂れて平伏しました。

 王はずっと溜めていた息をようやくひとつ吐き出すと、広間の床とひとかたまりになって溶け込んでしまったかのような代書屋の背中から目をそらし、足早に広間から出てゆきました。

 アルハザードは、ただ一人、その場に残されました。

 いつの間にか彼の瞳からは、どす黒い底なしの砂塵の陰(かげ)りは消えていました。

 再び、その眼は風の途絶えた午後の砂漠にうずくまる砂丘の色を取り戻し、床の上に並ぶモザイクタイルの一つ一つが発する声に、いつまでも耳を傾け続けてでもいるかのようでした。



  (続く)

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