四章

 無数の墓碑がどこまでも並び続ける中に、ようやく一つ、地下墓所への開口部を見つけた。

 王女を乗せたラクダを引き、足早にそちらへ向かう。

 砂嵐を避ける場所を求めて、無名都市の中に網の目のように張り巡らされた細い路地を彷徨(さまよ)ううちに、日没が間近に迫っていた。

 夕陽が墓石の影を長々と落とす中に紛れるように、それはあった。

 ラクダの引き綱を手にしたまま、中を覗き込む。

 切り出した砂岩を並べて四角く囲い、人がようやく入れるくらいの入り口が開いている。

 石造りの階段が地下へと続いているが、その先は暗闇に沈んで見えない。

 もちろん、ラクダは入れない。

 だが。

 黒い砂塵を巻き上げる暴風のうなりがもうそこまで近づいているのが、そちらを見るまでもなく、わかった。


──ここしかない。


 せめて、どこかに引き綱を繋ぐところはないかと周囲を見回していると、背後でばさりと音がした。

 ぎくりとして、振り返る。

 すっかり中身の乏しくなった食料の袋がラクダの足元に落ちている。

 その上の方で、ぐったりと力を失った王女の体がラクダの背から今にも滑り落ちそうになっているのが見えた。

 いつしか日に焼けてしまった細い腕がだらりと垂れる。

 ずるずると女体が重力に引かれる。

 そのまま逆さに落ちて行くのに向かって、反射的に駆け寄った。

 かろうじて、間に合う。

 脱力しきった身体がずしりと私の腕の中に落ちてきた。

 だが支えきれず、地面に尻餅をつく。

 足腰と腕が痛んだ。

 砂に汚れ、半分瞼(まぶた)を閉ざした王女の顔は王宮で廷臣や侍女たちに囲まれて暮らしていた頃の容色を失い、見る影もない。

 だが、私の顔はもっと無様なものだったろう。

 陰鬱な息を吐いて、そのまま私は地下への入り口へと彼女の体を引きずって行った。

 このまま置き去りに、と頭をかすめる思いすら実行する気力はとうに失せていた。

 それができるぐらいなら、王女が何を言おうが、ありのままを王に話してきちんと申し開きをしただろうし、そもそも言われるがままに王宮に連れてこられることもなかっただろう。

 全ては自業自得だ。

 王女も、私も、それは変わらない。

 ぞんざいに扱われながらも、王女は相変わらず一言も発しなかった。

 その間にも、みるみる夕闇は迫り、それをはるかに上回る速度で砂まじりの風が空を覆い尽くして行く。

 ぐったりした体を再び両腕になんとか抱え直しながら、慎重に地下への階段を降りる。

 かろうじて、日没近い太陽の光が開口部から斜めにわずかに差し込み、通路を薄暗く照らしている。

 十段ほど降りたところで階段はいったん踊り場のようになっている。

 石造りの通路の床に王女の体を下ろそうとしたとき、風の音に混じってラクダのいななきが聞こえた。

 王女をその場に残し、急いで階段を上がる。

 開口部から身を乗り出したところで、迫り来る砂嵐に怯えたラクダが私の目の前を走り去ってゆくのが見えた。

「あっ……」

 とっさに引き綱を掴むこともできず、どこへともなくラクダは逃げていった。

 呆然と、地下通路の入り口で立ち尽くす。

 ごうっと、ひときわ強い突風の音がして、我に帰った。

 上半身だけを開口部から出した状態で辺りを見る。

 砂嵐はもうそこまで来ているはずだが、墓石が立ち並んでいて周囲がよく見通せない。

 ぽつんとひとつ、荷物の袋だけが路地に落ちているのが見えた。

 地下の入り口から出て駆け寄り、袋を掴み取る。

 その目の前がもう、どす黒い砂塵の壁だった。

 煙るような砂嵐の中は何も見えない。

 急速に周囲が暗くなる。

 吠え猛る獣の声のような暴風に追い立てられて地下の入り口へと戻る。

 階段を駆け下りて踊り場に座り込み、袋から手探りで取り出したランプにかろうじて火がつくのと同時に、階段付近を照らしていた最後の陽(ひ)の光を砂塵が奪った。

 狭い入り口に烈風がぶつかり、悲鳴のような声を立てる。

 だが、そこから流れ込んでくる砂はほんのわずかだった。

 階段下から見上げた開口部の外は夜空のように暗かった。

 水も、食料も、袋の中にはもうほとんど残っていない。

 徒労と諦念の入り混じったため息をつき、ランプを手に取る。

 だが、その頼りない灯りが照らす中に、王女の姿は見当たらなかった。

「え……?」

 ぎくりとして、立ち上がる。

 まさか。

「──いや……」

 ランプの明かりで入口の方を照らしてみる。

 出て行く気配はなかった。

 あれほど弱り切っていた体で、一人で階段を上がって外へ出ていけるとは思えないし、狭い通路ですれ違えば私が気づくはずだ。

 もう一度、辺りをよく照らしてみる。

「あ……」

 地上へ向かう階段とは反対方向に、奥への広がりがある。

 狭い踊り場かと思っていたのが、その奥に向かって通路が伸びているのが見えた。

 その、ずっと先の方。


──思わず、目を見張る。


 ぼんやりと淡い光を浴びて、王女が立っていた。

 石造りの長い通路の先にはランプの光は届かない。

 激しい砂嵐に覆われたまま日没を迎え、きっと地上ですら、陽(ひ)の光などどこにもないはずなのに。

 私の視線の先、長い通路の奥に。

 どこからともなくわずかな光が差し込んで、黒い衣の裾を引いて立つ王女の横顔を浮かび上がらせている。

 ちょうど、通路はそこでいったん突き当たり、右手方向へむかって曲がっているようだった。

 その先を、王女は見つめていた。

 真っ直ぐに。

 虚ろに焦点を失い、あるいは現実の全てを拒否して閉ざされていた瞳ははっきりと見開かれ、乾いてひび割れていた唇は、ほのかに赤い血色を取り戻している。

 無残に乱され、輝きを失っていた赤い髪も、今は地下深くから吹いてくる風に豊かになびいている。

 逃避行と流産とで容赦なく打ちのめされていたのが嘘のように、美しさと生気を取り戻した王女の姿に、私は目を奪われていた。

 右の横顔を私に向けたまま、しかし、王女は私を見なかった。

 そのくちびるが動いて、声を発した。

 通路の果てからその声が私に届いた。


「──ここに、いる……」


 ひと声だけをその場に残し、通路の先へと王女は消えた。

「えっ……」

 奥へと歩き去る彼女の白い脚が残像のように私の眼にちらつく。

 手にしたランプの明かりがかろうじて通路を照らす。

 だが、一瞬ののちにはもう、そこには砂岩を積み上げた地下通路の壁があるだけだった──


「あ……」


 弾(はじ)かれたように、後を追った。

 頼りないランプの明かりの中に通路がぼんやりと浮かび上がる。

 冷え冷えとした石造りの床が真っ直ぐに伸びてゆく。

 王女の立っていた突き当たりまでを足早に目指す。

 その足下が、ざらりと音を立てた。


──いる。


「え……?」


 立ち止まり、足元を見る。

 地上から流れ込んできていた砂が、地下通路の上でわずかな吹き溜まりを作っている。


──ここに、いる……。


 そこから再び、王女の声が響いたような気がした──。


「いや……」

 視線をもう一度通路の先に向け、足を速める。

 王女が立っていた場所には、まだかすかに明かりが差している。

 その光が今にも目の前で消えてしまうのではないかと私は恐れた。

 まるで、たった一匹で置き去りにされた子猫が母親の後を必死に追うかのような心地を抱えて、私は薄暗い通路を先へと進んだ。

 ランプの明かりが突き当たりの壁に届いた。

 そのまま、王女が姿を消した通路の右へと向かう。

 その先の通路は、もうなかった。

「あっ……」

 不意に断ち切られた地下通路の前で、立ち止まる。

 手にしたランプのか細い明かりは、だが、私の足元に広がる膨大な空間を照らし出すことができなかった。

 切り出した砂岩で囲まれた四角い通路は私の目の前でぷつりと途絶え、そこから先は見渡す限りの真っ暗な空間が夜空のようにどこまでも広がっていた。


……いや。

 「通路」は、あった。

 

 地下通路の途切れたところから、つややかな黒曜石を刻んだような階段がらせんを描きながら闇を貫いて、真下へと向かって伸びている。

 例えば、星空を見下ろせるほどに高い山の頂上に登り、そこから遠く夜空を眺めたとしたら、こんなふうに奈落の深淵が眼下に果てしなく広がっているのが見えるのかもしれない。

 実際、無数の淡い光が星のように、暗い空間の中に小さく瞬いているのが見えていた。

 石造りの通路は桟橋のように星の海へ向かって突き出している。

 私が王女を追って地下通路をたどってきた記憶が嘘でしかなかったかのように、底なしの奈落の空間が果てしなく広がっている。

 その下の、暗がりに溶け込むかのように下りてゆく黒曜石の階段の上に、駆けてゆく人影があった。

 息を飲み、見つめる。

 手にしたランプが奈落の底へと滑り落ち、一瞬だけ闇を照らして、消えた。

 その最後の明かりの中、ろうそくの炎が揺れるように、赤い髪がなびくのが見えて──。


 それを追うように、私も階段を駆け下りた。


──どうして?

  

 王女の後かららせん階段の通路を降りてゆく私に、私の中の誰かが尋ねた。


──どうして、……って……。


 なぜ、私はこの先へと進んで行こうとしているのか。

 なぜ、私は彼女を追っているのか。

 助けられるはずもない。

 助けるつもりだって、ない。

 砂漠の只中でラクダを失い、水と食料の残りも乏しいというのに。

 そんな義理も、思い入れも、彼女に対して持ってなどいないのに。


──そうじゃない。


 これは、逃げているのだ。

 逃げるために、追っている。

 不意に、かつての自分の姿が胸に浮かんだ。

 裏通りの古びた狭苦しい下宿で夜までかかって書き仕事を終え、貧しい食事もそこそこに、ため息をひとつついては蔵書に埋もれた。

 あるいは机に向かい、書く。

 時には昼日中(ひるひなか)に、仕事すら置き去りに。

 そうしてひたすら読んでは。

 ただ、書いていた。

 それだけが、大事で。

 それだけを、追い求めて。

 自分の中の尽きせぬ興味と飽くなき幻想だけが大切で。

 他のことなど、どうでもよかった。

 だからずっと、逃げてきた。

 そうして逃げ込んだ袋小路から襟首をつかんで無理矢理引きずり出された王宮でも同じだった。

 結局、そこでも私は外界を拒んで鼠のように穴蔵に籠(こも)り、自分の中の想念だけをただひたすら追い求め、齧(かじ)り続けた。

 それしか、なかった。

 私には。

 その報いが、これなのだ。

 そこに他人を巻き込むか、巻き込まないかだけが、王女と私との違いだった。

 だから彼女を恨む気はない。

 同情も、しない。

 王女は私を利用したが、私もまた、彼女を利用していたのだから。

 今も、そうだ。

 こうして王女の後を追っているのも。

 暗夜のように容赦ない現実の中で引きちぎられ、吹き飛ばされそうになる自分の理性を繋ぎ止めるために、彼女を利用しているに過ぎない。

 そうまでして、何のために私はあがいているのだろう。

 生きるためか。


──そうか。


 そうやって、生きていた。

 誰にも読まれるあてのない物語を書くことで。

 私だけが見た、ただ一つの景色を目指し。

 その先の、まだ私すらも見たことのない光景にたどり着くために。

 だが、今はもう、それも叶わない。

 だとしたら、私はもう生きてはいないのではないか。

 それでも生きているのだとしたら、それはただ、この行き着く先が見たいだけなのだ。

 私は──。


 なめらかな階段の段差をがくりと踏み外した。

 よろめきながらも、なんとか行く先を見ようとする。

 らせんを描く階段が、そこかしこに小さな星を浮かべた夜空のような暗い空間を貫いて、ずっと下まで続いている。

 かろうじて通路の先に華奢な人影が見えた。

 か細い星明かりだけの空間に黒い階段が溶け込んで、よく見えない。

 なのに、王女はおどろくほど迷いなく、自分の行く先だけをまっすぐに見据えて降りてゆく。 

 暗く、冷たく、星だけが輝く奈落に向かって吸い込まれるように私と王女は階段を下る。

 少しずつ、王女と私との間の距離が縮まる。

 いつ果てるともなく下り続け、もつれそうになる私の足も、その先で、らせんを描く階段にそって踊るように軽やかに駆けてゆく王女の白い素足も、全く音を立てない。

 その静けさの中で囁くような、かすかな声が私の耳に届いていた。

……遠くで、あるいは、近くで。

 だが辺りを見回しても、そこにいるのは私と、らせん階段をひたすら駆け降りてゆく王女だけで、他には誰もいない。


……無数に浮かぶ星の他には。


 ひやりと、それに気づいて足を止める。

 もう一度、周囲を見渡す。

 宝石箱の中身を降り撒(ま)いたように散らばる光の一つに目をこらす。

 虚空の中に光る星が静かに浮かんでいる。

 その星が、ふるりと震えた。

 かすかな光を放ちながら、砂のように細やかな粒子がさらりと、暗い奈落の底へと流れ落ちていった。


──その音が、聞こえた気がした。


 雲ひとつない星空のような景色を、輝く無数の光が創りだしている。

 星のように瞬くその光のうち、いくつかが、まるで生き物のようにかすかに震え、さらさらと声を辺りに振りまいている。

 その星の一つが、波に漂うように私の足元にいつの間にか流れ寄ってきていた。

「あ……」

 階段の途中に立ち止まったまま、見る。

 私の両手にすっぽりと収まりそうなほどの、まるく透き通った星が、らせん階段のすぐそばに浮かんでいる。

 その中に、なにかがいる。

 目を見張る。

 透明な球体を通して、淡い光を放つ。

 やや大きい頭部はうつむくように顎を引き、小さな手足と胴体を丸めるようにしてうずくまっている。

 閉じられた薄い目蓋を透かして、黒い瞳が見えた。


──それは、胎児だった。


 小さくやわらかな唇が、わずかに開いている。

 そこから声がこぼれている。

 囁いている。

 絶えず、唇が動き、声を発している。

 胎児を包む透明な球形の星も、その声に震えている。

 さらさらとそこから、声が砂になって降っている。


──ここに、いる……。


 そう囁いた彼女の声が、耳に蘇(よみがえ)る。


──いるって、何が?


 霧雨のように細やかな音を立てて、私の周囲で砂が降りそそいでいる。

 黒くつややかな階段は闇に溶け込み、ともすれば足で踏みしめる感触すら曖昧になった。

「いる……」

 王女が不意に、ひと声を残して駆け降りてゆく足を早めた。

 きりもみのように回りながら、まっしぐらに下る。

 慌てて私も、吸い寄せられるように小走りになる。

 くるくると闇の中で赤いらせんを描いて王女の髪がなびく。

 そのはるか、下方に。

 小さく、朝焼けの空のような赤い光がひとつ、眼下に灯(とも)った。

「ああ……」

 ずっと探していた何かを見つけ出したかのような吐息が、闇を越えて私に届いた。

 深淵の底から浮かび上がるように、輝きがますます近づいてくる。

 燃える火のような赤い揺らめきが王女を招く。

 階段を下ってゆくにつれて、その光の中に横たわる人影が見えてきた。

 豊かな髪と長い薄衣(うすぎぬ)の裾が、孔雀の羽根のように大きく左右に広がっている。

 

 そう。

「いる」のは。

 呼んでいるのは──。


 ふわりと、蝶が地面に降りるように、ついに王女は奈落の一番奥底に降り立った。

 ぼんやりと赤い光が揺らめきながら辺りを照らしている。

 らせん階段がそこで途切れ、赤く透き通る大きな寝台がひとつだけ置かれていた。

 まるで燃え上がる炎を閉じ込めたかのように、寝台の内側で光がゆらめいている。

 彼女の赤い髪も、その明かりを受けてきらりと輝いた。

 砂漠をさまよい、身籠っていた子も失ってやつれ果てた面影は消え、あの王宮で何不自由なく暮らしていた頃の幸福な笑みを白くすべらかな頬に浮かべている。

 やがて私も深淵の底に降り立つと、王女のすぐ横でその邂逅を見ていた。

 ほうっと、柔らかな唇からため息が漏れた。

 そうして見つめる視線の先に。

 女の顔が、そこにあった。

 人形のように白く美しい顔が。

 長いまつげの下で目蓋を閉じている。

 そして何より、豊かに広がる赤い髪──。

 薄く小さな貝殻のような唇が、わずかに開いている。

「ああ……」

 王女の口唇が開き、呼びかける。

 手を差し伸べ、触れようとする。

 無名都市の奥底で眠る、自分と同じ顔の──

「ここにいたのね」



「ほんとうの、わたし──」


 

 ひとすじの陽の光も届かない深海のように暗い奈落の奥底に、一人のうら若い乙女が目を閉じて横たわっていた。

 王女も、私も、確かにその「光景」を「見た」ことがあった。

 喪服のように黒一色の衣の襞(ひだ)が柔らかな肢体を包み、ゆったりとその裾が寝台の上に広がっている。

 陶器のように白く整った顔立ちと、赤く輝く長い髪を、黒いレースのヴェールが半ば覆い隠している。 

 美しく、だがまだどこかにあどけなさを残した横顔は、すぐ傍らの王女の顔と、どこからどこまで一つとして欠けることなく同じ顔をしているのがはっきりとわかった。

 黒くなめらかな床が鏡のように、らせん階段の根元に置かれた寝台をつめたく映し出していた。

 王女の呼びかけが聞こえたかのように、横たわるもう一人の王女の唇が何事かを呟いた。

 薄いヴェールを透かして、朝焼けの赤い髪のきらめきがこぼれ落ちる。

 呼び声に、目を開く。

 長い睫毛の下の瞳が動いて焦点を結び、傍(かたわ)らに立つ王女と目があった。

「あ……」

 何気なく差し出されていた王女の手に、寝台の上からほっそりと白い手が伸びて、触れる。

 そのまま静かに身を起こした。

 寝台から床に脚を下ろし、立ち上がる。

 反対の手も伸ばし、目の前の王女と両の掌(てのひら)を合わせて向かい合う。

 その側(そば)で、赤い炎を閉じ込めた寝台が音もなく溶けるように消えた。

 王女と、もう一人の王女が、互いの目と目を見つめあう。

 比類ない腕を持つ肖像画家が、鏡に映るその姿を描き写したかのように、寸分違(たが)わぬ二人の王女が向かい合い、立っていた。

 その頭上が、かすかな青い光に照らされる。

 もう一人の王女の顔が上を向いた。

 あやしく光る瞳が遥か上方の何かをとらえた。

 あたりがぼんやりと青い光に照らされる。

 王女の赤い髪となめらかな白い頬も、青に染まる。

 吊られるように、私と王女も頭上を仰ぐ。

 まぶしい青い光が私の目を打った。

「あっ……」

 思わず片手を上げ、遮(さえぎ)る。

 その指と指の間から、見えた。

 あざやかな宝石のように煌めきながら墜ちてくるのが。


──青い彗星。


 夜闇の中を、青く激しい輝きが降ってくる。

 上に伸びるらせん階段の中心を貫くように、まっしぐらに駆け下りる。

 箒星(ほうきぼし)のまぶしい尾が階段を真っ青に染め上げながら、奈落の奥底で待つ私たちの元へとに降りてくる。

 海と空の、全ての青を足し合わせたよりもまだ青い。

 だが、その青は一瞬たりとも同じ色あいに留まることはなく──



 そうして見つめる私達に、その『声』が聞こえてきた。

 歌うように。



──このごろ、王都にはやるもの。


 紺色。水色。瑠璃色。


──もえる火柱 ひとばしら。


 つゆくさ、りんどう、わすれなぐさ。


──黙(もだ)せる寡婦の 赤い髪。


 新橋色、白群(びゃくぐん)色、紺青(こんじょう)色。


──あおい赤子を抱いて立つ。


 トルコ石、ひすい、アクアマリン。


──月夜に 銀のつばさ猫。


 瓶覗(かめのぞき)、花浅葱(はなあさぎ)、紺藍(こんあい)。


──緑のいかづち、海を割く。


 スカイブルー、コバルト、ミッドナイトブルー。


──ほしは、彗星──



「ああ……」

 再び、甘やかな声が王女の唇から漏れた。

 生まれる前から待ち続けていた恋人にやっとめぐり会えたかのように、青い輝きをただ一心に見つめ続けている。

 もう一人の王女は黙したまま、同じように彗星の到来を待っている。

 いつしか、王女ともう一人の王女は向かい合ったまま両掌を上に向け、互いに手を差し伸べるようにして立っていた。

 みるみる近づいてくる青い星を見つめる。

 二人の王女の手が重なり合う。

 ほっそりとした指先とやわらかな手のひらが、青く染まる。

 その四つの手の中に、まぶしい彗星の光がゆっくりと降りてきた。

 あたりは一際、青い輝きに満たされ、王女の赤い髪も海の底にいるかのような青に染まった。

 だが、もう一人の王女の髪は朝焼けの色を保ったままだった。

 赤と青の、二人の王女が彗星の降臨を迎えた。

 青く透き通るガラス玉のような星が二人の手のひらの中にそっと収まる。

 光は生き物のように脈動しながら球状の星を内側から輝かせている。

 明滅する青い光に合わせるように、心臓の鼓動のような音が辺りに響いていた。

 そう。

 生きている。

 卵のような、ガラス玉の中で。

 小さな手足と、体を丸めて。

 眠っている。

 青い瞼の下に、さらに深い青の瞳を隠して。



『この世のすべての青』が──。



「あ……」

 青い王女が両手で光る星を抱き寄せようとする。

 赤の王女は逆らわず、青い星を託した。

 いとし子を抱く母のように、優しく、そっと胸元に抱きよせる。

 青い髪をいっそう青く輝かせながら、王女は光の中に眠るものを見つめた。

 星の揺りかごに閉じ込められたまま、『それ』がくるりと回って、上を向いた。

「私の──」

 聖母のような微笑みを浮かべ、青い王女が『それ』に呼びかけた。



「私の子──」



 それはあの夜、王女の手の中で真っ赤な血に染まり、たいまつの明かりすら届かない闇の中に母の手で捨てられたものと同じ形と、大きさをしていた。

 だが、その色は──。



──この世のすべての青。



 あおい、あおい、ほんの手のひらほどの小さな胎児が、王女の手に抱かれて、そこにいた。


 うっとりと、青い髪の王女は輝くガラス玉に包まれたままの青い胎児を胸に抱き、目を閉じた。

「ああ……、私の子……」

 細い両腕が、すがるように青い光を抱きしめる。

 あの夜の砂漠で、我が子を自ら闇へと投げ捨てた絶望と悔恨を拭い去ろうとするかのように。

「私の──」

 そのとき、ぴしり、と、固い何かがひび割れるような音が辺りに響いた。

「あ……」

 王女の抱えた青いガラス玉に、ひとすじの割れ目が走っている。

 そこからにじみだすように、青い光がこぼれ出た。

「まあ……!」

 待ちわびた生誕を喜ぶ王女の顔がいっそう青く輝く。

 するどく走った亀裂は少しずつ、枝分かれしながら球体の上を伸びてゆく。

 薄い卵の殻が割れるような軽い音を立てながら、蜘蛛の巣のように、ひび割れが星の表面を覆ってゆく。

 裂け目が少しずつ、拡がる。

 あふれる泉のように、青い輝きがそこから零(こぼ)れ落ちる。

 そしてついに、内側からこじ開けられるように、するどい音を立ててゆりかごが割れた。

 そこから、声が聞こえた。

 三万年目のうぶ声が──。



──シュブ=ニグラス!



 ふわりと、風に煽られるように、砕けた細かいガラス玉の欠片が王女に散りかかった。

 青いレースの薄衣(うすぎぬ)を投げかけたように、きらめきが全身にまといつく。

 その破片の触れたところに、ぽつぽつと赤い火が灯る。

 ろうそくの炎のように、そこから小さな火がついたかと思うと次の瞬間、青い仔を抱いた王女の全身を紅蓮の炎が包んだ。


──シュブ=ニグラス! シュブ=ニグラス!


 その間も、生まれたばかりの青い仔は王女の手の中に抱かれたまま、ひっきりなしに産声を上げ続けている。

 王女のくちびるが、動いた。

「シュブ=ニグラス! シュブ=ニグラス!」

 王女もまた、仔に合わせるようにして、その名を呼んでいた。

 あかあかと燃え上がるほのおに全身を灼かれながら。

 それでも、彼女は笑っていた。

 形の整った口唇と、白い頬が赤い火柱の中で満足げに微笑む。

 だが、だんだんと、その体は炭のように黒く焼かれて、燃え崩れてゆく。


──その光景を、どこかで私は見たような気がしていた──


「シュブ=ニグラス! シュブ=ニグラス! 千匹の仔を孕む森の黒山羊!」

 やわらかな頬が、白く細い手脚が、美しい髪が、叫びながら火柱に包まれる。

 それでも彼女は手の平に乗った小さな我が子を決して手放すことはなかった。

 そんな必要はもう、とうになくなっていたのに。


 なぜなら──


 始め、それは王女の身を灼く炎から辺りに立ち込める黒煙かと見えた。

 だが、違った。

 いつの間にか、もう一人の赤い髪の王女の背後に黒く、積乱雲のように盛り上がる巨大な靄(もや)の塊が現れていた。


「あれは……」


 煙のように渦巻く靄ははるかに見上げるほどの高さにそびえ立ち、下の方からはぞろぞろと何十本もひづめのある黒く毛むくじゃらの脚が生え揃っている。

 だが、角も尾もない。

 顔も、頭も、腕もない。

 太々しい脚と、一瞬たりとも形の留まることのない霧状の黒い塊だけが、『それ』の身体を形作っていた。



──『千匹の仔を孕む森の黒山羊』……。



 異様なその姿は、美しくもあどけない顔の王女とはまるで似ていない。

 代わりに、もう一人の王女が三日月のように形のよい口唇に笑みを浮かべ、そのすぐ前に立っている。

 だが、それだけでもう、私には事のすべてを眼の前で見せつけられ続けてきたも同然だった。

 そう。

 この『黒山羊』こそが、あの夜の砂漠に投げ捨てられ、再びここに生まれた青い仔の本当の母親であり、らせん階段の周りの星の中で眠る無数の胎児をもすべて生み落としてきたのだ──。


「ああ……」

 ついにか細い一声だけを残し、燃え盛る炎の中へと王女の身体は黒く燃え落ちた。

 その無残な光景が、まるでかつて確かにどこかで見たようで、目を離せなかった。

 それともどこかで読んだのだろうか。

 やがてもう一人の王女も、闇に溶けるように姿を消した。

 二人の王女の姿はもう見えない。

 だが、青い仔は地に落ちることなく、そこにいた。

 王女たちの代わりに『黒山羊』が、生まれたばかりの我が子を懐に抱いている。

 やがて胎児のように丸く縮こめていた手足を伸ばすと、母の手元を離れた仔はゆっくりと地面に降り立った。

 背が伸び、それに合わせて手と足も長くなって、少年の身体(からだ)になる。

 ゆっくりと、目を開く。

 やや大きめの瞳が辺りを見渡す。

 薄い瞼の下から現れた瞳の青は絶えず移り変わり続ける。

 青い手を、星をつかもうとするかのように高く伸ばした。

 細くしなやかな指先が、はるかな天上を指す。

 唇が開いて、声をあげた。



「シュブ=ニグラス!」



 青い産声が闇の中を駆け上がる。

 再び流れる彗星のように。

 深淵の向こう、彼方の果てまで届けとばかりに──



「シュブ=ニグラス! シュブ=ニグラス! 千匹の仔を孕む森の黒山羊!」



 その声が、届いたのか。


──シュブ=ニグラス!


 らせん階段の周りで輝いていたすべての星々までもが、一斉に叫んだ。

 響き渡った無数の聲が突風のように奈落を駆け抜ける。

 らせん階段の周囲の空間が激しく震えた。

 同時に、私のはるか頭上で何かが砕ける音がした。

 引き寄せられるように上方を見上げる。

 目をこらす。

 満天の星が暗い空間いっぱいに輝いている。

 その星々が、震える。

 八方へと閃光が迸(ほとばし)る。

 瞬く光がそこかしこで震えたかと思うと、無数の星々が悲鳴のように甲高い音を立て、すべて一斉に砕け散った。


──シュブ=ニグラス! シュブ=ニグラス! 千匹の仔を孕む森の黒山羊!


 炸裂する閃光が全天を真っ青に染め上げた。

 砕けた星々が激しく破片を飛び散らせた。

 割れた小さなかけらが無数に降ってくる。

 ずっとらせん階段の周りで胎児を抱えて輝いていた星が一つ残らず砕け、割れた。

 落ちてくる途中でかけらが互いに触れ合って、いっそう細かくなり、輝きも失われてゆく。

 粉微塵の破片が下にいる私に向かって一斉に落下した。

 最初は五月雨のように、ばらばらと降りかかって来るだけだったのが、だんだんと激しい夕立のような音になって、どっと降り注いだ。

 砂になった破片が下にいる私に向かって一斉に襲いかかる。

 激しい雨期のスコールが、見る間に天の底が抜け落ちたかのように猛烈さを増して、膨大な量の砂が私をめがけて凄まじい勢いで降ってきた。

「あ……」

 その感覚で、ようやっと我に帰った。

 両腕を上げ、頭をかばう。

 けたたましい音を立てながら、頭上から無数の砂つぶてが私を襲う。

 あの砂漠で遭った砂嵐とは比べ物にならない。

 あっという間に膝下までが砂に埋もれた。

 足をとられ、倒れこむ。

 見る間に圧力と密度を増しながら、砂が怒涛のように全身に叩きつけた。

 『黒山羊』と青い仔の姿はもう見えない。

 巨大な滝壺に放り込まれたかのように、次から次へと途方もない量の砂が背にのしかかった。

 かろうじて両手をついて起き上がったときには、もう砂は私の腰のあたりまで積もっていた。

 踏みしめたようとした足は、階段から降り立った奈落の底ではなく、頼りなく砂を蹴りつけるだけだった。

 そのままあっさりと、頭の上まで私は降り注ぎ続ける砂の中に埋もれた。

 流砂の中に放り込まれたかのように、砂は形を変えながら、まるで巨大な手のように私を掴み、嬲(なぶ)り、翻弄した。

 頭も体も手も足も、ざらざらした砂が覆いつくしてくる。

 足掻く手の中で、ぎしりと砂がきしむ。

 どさりと音を立て、背の上にのしかかる。

「ここに、いる……」

 聞こえるその音が、意味を持つ。

「私の子──」

 聞き覚えのある響きに、気づく。

「どういうことなの……いや……。どうして……? どういうこと?」

 一瞬にして冷えた胸がぎくりと鼓動を打つ。

 気づいてしまう。


「いや……!」


 ぞっとして、振り払った手に触れた砂が私に叫んだ。



「いやああああっ」



 泣きわめく声に、気づいてしまった。

 気づかなければそれまでだったのに。

 触れたところから聞こえてくる。

 私の肌と衣服をざらざらと擦る砂の音が全部、その瞬間から無数の聲に変わった。

 あの夜、砂漠の陰で頭から毛布をかぶり、それでも遮られる事なく王女の声が私に聞こえ続けていたように。

 いや、もっと。

 鬱蒼と茂る森の、葉擦れの音としか聞こえていなかったざわめきの全てが、悲鳴と怒号と叫喚だったと気付かされたかのように。

 私の周囲を埋め尽くし、降り注ぎながら、その全てが叫び、喚く。

 一粒ひと粒の砂がすべて、『聲』だった。


──そうか。


 ずっと、そうだったのだ。

 最初から。

 ただ私が気づかなかっただけで。

 聞こえてくるのは王女の聲だけではなかった。

 言葉にならない無数の叫びが、呻きが、嘆きが背にのしかかり、ざらざらと私に覆いかぶさった。

 生まれたばかりの私の産声も、幼い頃の泣き声も、嘆きも嗚咽も絶叫も、砂になって一斉に全身にまとわりついた。

 もうとうに忘れ去ってしまっていた誰かの聲の砂が私の頬に触れて、親しげに私に呼びかけた。

 時折、ひどくはっきりとした、だが全く聞き覚えなどない何者かの聲が膚(はだ)に爪を立て、するどく引き裂く痛みを与えながら激高を私に刻みつけた。

 大量の砂が目の前にのしかかり、首を両手で締め上げながら、呪詛と憎悪が私の顔めがけて吐き出された。

 私は誰にも怒(いか)ってなどいないのに、恨んでなどいないのに、謝罪し哀願する聲がいつまでも目の前を去らない。

 ざらりと蠱惑的に背後に寄り添うと、愛が甘やかに胸を撫でさすり、囁いた。

 幼子(おさなご)のはしゃぐ聲が無邪気に背の上でころころ転げまわり、肩にまとわりついたかと思うと頭の上で癇癪を起こし、泣き叫ぶ。

 いつの間にか胸元にまで這い寄ってきていた罵倒を、ひやりとして払いのける手にも、容赦のない讒言(ざんげん)がぴたりとまとわりついてくる。

 ひりひりとした嫉妬が喉元に焼きついて、心にもなかったはずの醜い面罵(めんば)を、聲を荒げて手当たり次第に投げ散らかした。

 心地良く耳にしなだれ掛かる箴言に聞き入る間もなく、逆説めいた皮肉が奈落の絶望を脳に押し込めた。

 にぎやかな宴のさざめきは砂糖菓子のように無闇と鼓膜に甘く、口当たりはざらついて、一枚下の嘲笑と蔑視を私の舌に苦々しく焼き付けた。

 下賤極まる噂話を憶測で膨(ふく)れ上がらせ、ねじ曲げて、得意気にふれ回っても、ほんのいっとき気が晴れるだけで、どす黒い嫉妬と怨嗟の聲が自分の胸にいっそう詰め込まれるばかりだった。

 静かに義を語る聲の理性が、乱れる心にほんの一時(いっとき)沁(し)み渡り、荒ぶる混乱の暴威を少しばかり、くじいた。

 訥々(とつとつ)と呟く聲が頭上に深々と降り積もり、ようやく見出した法則と真理を開陳するにつれ、足を止めて聞き入る聴衆は次第に増え、感嘆のため息がそこかしこに漏れ、やがてそれは満場の喝采に変わっていった。

 万雷の拍手を浴びて登壇する圧制者の扇動(アジテイト)が、歓呼する衆愚の聲と一体になってのしかかり、顎を殴りつけ、耳を塞ぎ沈黙する少数者(マイノリティ)の呻吟(しんぎん)が重く、私の心臓の中で岩盤のように押し潰した。

 瀑布のように砂は私の周囲に降り注ぎ続け、らせん階段の周りに広がっていた空間を完全に埋め尽くしていた。

 あれほどの広さが、まるで砂時計にでもなってしまったかのように、ぎっしりと細かな砂で詰まっている。

 その中で、私はうっかり紛れ込んでしまった蟻のように、砂の中に封じ込められてしまっていた。

 私の周囲で、なおも砂がじりじりと震え、蠢いている。

 名もなく無数の聲が私の周囲で叫び続ける。

 地層のように降り積もる砂の中で私は押し固められ、化石のように指先一つも動かすこともできず、なおもその上に降りかかる聲が鼓膜に圧力をかける。

 髪を掴んで搔きむしり、わめき立てる。

 間断のないざわめきが皮膚を通り抜けて沁み通り、それらの聲と私との境界をいつしか完全に消失させていた。

 手と足を掴んでねじり上げ、引きちぎられた断端から尚も呻吟が注ぎ込まれる。

 指と爪の隙間を囁きながらすり抜けたかと思うと、野蛮な叫びを上げて血管の中へとなだれ込む。

 頭蓋骨の内側にまでも喚声が刻み込まれてゆく。

 未練がましい哀願が肩を掴んで振り向かせようとして。

 かと思えば、羽毛のように軽くやわらかな憩いと慰めがそっと背後から抱きしめ、胸元と腰に手を回して囁きながら肺の奥底に忍び入った。

 爪先に口づけ、指紋を震わせて、ささやく。

 脊髄の内側から浸潤しながら高らかに快楽を歌い上げる。

 私の中だけではない。

 きっと、世界の果てまでもが、こうして砂に埋め尽くされているのに違いない。

 私の声など、とうに窒息していた。

 いや。

 最初からそんなものは、なかった。

 なぜなら。

 混沌と混じり合い、途絶えることなく轟き続ける声の中には、しかし、誰かの名を呼ぶ声だけは、一つとして、なかった。

 その理由(わけ)が、私には嫌というほど思い知らされていた。

 呼ばれる名など無いからだ。

 どの声も、どの言葉も、とうの昔にどこかの誰かが発した聲だからだ。

 いつかの誰かが、叫んだ聲。

 だが、もしも一つだけ、呼ぶに値する名前があるとするならば。

 その母の名を呼ぶ者は──。



 やや大きめの丸い瞳が、こちらを見た。

 すべての青が混じり合って、溶け合って、重なり合って結晶した宝石のように深いその色合いに吸い込まれそうになる。



──誰が見ている?

──誰を見ている?



 絶え間なく叫び、喚き、呟き、囁き続ける砂の色に埋め尽くされていたはずの私の視野に、その姿が飛び込んできた。

 ふっつりと切り揃えられた髪と、なめらかな頬と。

 体重を持たないかのように、ふわりとその場に少年の体が立ち、真正面から私を見つめている。

 ついさっき生まれたばかりの仔が──


 いつしか無数の声の代わりに、膨大な量の砂を詰め込まれた巨大な器が軋(きし)み、ひび割れる音が私の耳に聞こえてきていた。

 彼の唇が動いて、また、母親の名を呼んだ。

 同時に、はるか天上から地の底までをも一息につらぬいて、砂を押し込められていた容器が割れて砕け散る音が甲高く空間中に響き渡った。

 その一瞬で、彼は飛翔した。

 深淵の彼方の星へ。

 宿願を果たして──。

 閃光が私の視界を奪う。

 だが、その中でも彼の瞳のあざやかさと艶やかな髪の色だけは、残照のように私の網膜に鋭く突き刺さった。

 

──青の中でも最も黒に近い青を、黒の中でも最も青に近い黒へと移り変わりながら……。


     *


 その青が、雲ひとつなく澄み切った晴天の青に変わった。

 砂丘の上に一点の曇りなく晴れた眩しい空が広がっている。

 みっしりと、地層のようにのしかかり、押しつぶしていた膨大な量の砂は私の上からは消え去って、代わりに見慣れた砂漠の景色だけが周囲に広がっていた。


──見慣れた、景色の……?


 ゆっくりと、上体を起こす。

 こわばった首を軋(きし)ませて、辺りを見る。

 見渡す限りの砂漠のただ中に、私はいた。

 そびえる砂丘の頂上に、尻餅をつくような恰好で、後ろ手に両手をついて座り込んでいる。

 私の手の中で、足の下で、砂漠を覆い尽くす無数の砂がほんの僅(わず)かなきしみを上げた。



「あ……」



 果てない海のように、ひたすらどこまでも砂漠が広がっている。

 だが、つい先程まで確かにそれらは私の上で、私の中で、あるいは私と一体となって声をあげていたはずの。

 風はそよとも吹かず、砂丘の上から砂がこぼれ落ちる事もなかった。

 いま、私の体の下で砂は静かだったが、それでも私にはわかっていた。

 ざらり、と、私の手の下で一握りの砂が声を立てた。

 息を詰め、耳をそばだてて、私はそれを聞いた。

 そう……。



 この果てしない砂漠の砂すべてが、聲(こえ)。

 一粒一粒の砂が、今も一切を叫び続けている。

 叫びも、祈りも、呪いも、嘆きも、愛の言葉も。

 私が書いた言葉すらも──。



 ゆっくりと、両腕から力が抜けてゆく。

 のけぞるように後ろ向きに上半身を倒れ込ませながら。

 そのまま私の体は砂丘の頂点から転がり落ちた。

 朽ち果てた樹の切り株のように、なだらかな斜面を砂の谷底まで落ちてゆく。

 ざらざらと、砂も一緒に崩れ落ちる音がした。

 

 いや。

 既に私は。


 乾き切って砂まみれの手のひらが、目の前にばたりと落ちている。

 静脈の色が、うっすら手首に青く浮いている。

 その手がかすかにふるえている。

 聞こえている。

 響いている。

 私の体の骨と、肉と、皮膚と、あらゆる隙間にぎっしりと入り込み、関節が動けば軋みを立てて囁いている。

 血潮と一緒に流れる砂の一粒ずつがすべて、私の中で絶えず聲を上げている。

 まるで身体じゅうに砂を詰め込まれ、全身が砂袋になってしまったかのように。

 だが、その砂を払いのけるために私は指先ひとつ動かすことも出来なかった。

 かろうじて目だけを動かして、周囲に広がる果てしない砂漠の景色を見た。

 青い空と砂漠とを区切る、まっすぐな地平線も。

 なだらかな砂丘のうねりも。 

 風紋のひとつひとつさえもが、あの無名都市の地下で聞いた聲のすべてを書き記しているのがはっきりと私の目には読み取れていた。

 私が読んできたものも、まだ読めていないものも、私が書いてきたものも、書けてすらいなかったものも、すべて既に、ここにあったのだ。

 だから──。

 

 だからもう、私というものなど、どこにもない。

 最初から、そんなものはなかったのだ。

 どこにも。



  (続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る