05:紙の翼
戦闘機が凄まじい音を立てて飛んでいく。
誠は鉛筆を持った右手を空へ突き刺すようにして、空を横切る鉄の翼を視野に収めた。
「あれ描くの?」
昌子がそう訊ねても、誠は黙っていた。その目には青い空と戦闘機、そして基地が映っていた。
視線を画板へと落とした誠は、なにやら呟きながら鉛筆を紙の上に走らせる。
二人が辿り着いたのは「ひょうたん池」と呼ばれる場所だった。基地を見下ろせる位置にある小高い山の中腹にあって、その名の通りひょうたんの形をした池と大きな欅の木だけが佇んでいる。
昔は此処は見晴台として使われていたが、戦争が始まってからは誰も管理する人間がいなくなって、ただの空き地となってしまったらしい。昌子達が此処を知っているのは、幼い頃に金作が連れてきてくれたからだった。
欅の木の下に腰を下ろした二人の前には、池がひんやりと広がっている。そこには亀が何匹も住んでおり、今も大きな一匹がのっそりと水中から這い出て、陽の下で甲羅干しをしていた。濡れた亀の甲羅に緩やかに反射するのは空の青で、更にその青の下にはR基地がある。昌子は遠くから見る基地の中の白い建物を見ながら、先日のことを思い出して口を開いた。
「七夕飾りの話、聞いた?」
「聞いたよ」
今度はすぐに返事があった。視線は相変わらず合わない。
「太郎兄ちゃんが考えたんだろ。本当にあの人は賢いよ」
「皆、そう言うのね」
「だって実際、そうじゃないか」
誠の手が紙の上に飛行機の翼を描いていく。昌子はそれを真似てみようとしたが、なんだか茄子みたいな物体がぐったりと横たわっただけだった。
「太郎兄ちゃんは、生きていくのに必要なことを知ってるんだよ」
「なぁに、それ?」
「誰よりも早く動くことだよ」
誠は「よくわからないけど」と付け加えた。だが昌子は相手の言いたいことを何となく悟っていた。
太郎は兎に角素早い。誰より早く駆けつけて、誰より早く考える。きっとそれが白い七夕飾りを作り上げ、リヤカー一杯の御祝儀を生み出したのに違いない。
「この前、太郎兄ちゃんに言われたんだ。これから、日本は変わって行くんだってさ」
「そうなの?」
「東京じゃ車がバンバン通ってさ、綺麗な服着て仕事する女の人が増えてるらしいよ」
昌子の住む町は東京から電車で一時間と離れていないが、車は殆ど通らない。
オフィスガールと呼ばれる働く女性のことも知っているが、この目で見たことは無い。
「戦争が終わって十年経ったから、もう皆変わるしかないんだよ」
「……終わったなんて信じられない」
まだ戦闘機は落ちているというのに。
日本が戦争をしなくてもアメリカの戦闘機は昌子達の頭の上を通過しているのに。
「終わってるのさ。じゃなきゃ、飛行機が飛ぶたびに隠れなきゃいけないだろ」
誠は静かに言った。
実際には昌子達は、頭上を何が通ろうと平然と学校へ向かう。この町に住む人間にとっては、戦闘機が飛ぶことなんて当たり前すぎて、何の危機感も与えない。
落ちた時にだけ怖がり、恐れてはみるが、すぐに忘れたように日常を取り戻す。誰も、戦闘機が飛ぶのを止められない。だったら慣れるしかない。
「こっちに飛んでくるよ。カッコイイや」
誠が空を示す。先程よりも細い戦闘機が轟音を立てて飛んで来るのが見えた。
それが自分達に向かって墜落することを想像して、昌子は唇を浅く噛む。もしそうなったら、二人は逃げる間もなく燃え上がるのだろう。此処の亀や鯉やらと一緒に、三年前に見た火の玉と同じになる。
昌子は喉にせり上げた苦い唾液を、力任せに飲み込んだ。その想像がもたらしたのは恐怖ではなかった。今まで多くの人がそうやって死んでいった事実を認識したうえでの、諦観に近いものがあった。
「まーちゃん、描くもの決めた?」
誠が気付いたように尋ねる。その手元の画用紙に描かれた戦闘機は、真っ直ぐに天を目掛けて飛んでいて、墜落することなど微塵も考えていないようだった。
「亀にする」
「じゃあ何匹か引っ張りだしてやるよ」
誠は画板を置いて立ち上がると、池の方へ踏み出す。
「大きいのがいい?」
「そうね。逃げられちゃうと困るもの。動きが遅いのがいいわ」
戦闘機のように、子亀のように、素早く動くものは昌子は苦手だった。その変化を目で追い切れず、何か大事なものを見逃してしまう気がして仕方なかった。
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