とが
ゆきさめ
とが
色は空に異ならず、空は色に異ならず。
彼は母に何を説くか。
「色即是空。空即是色。
およそ物質的現象というものは、全て実態などありはせず、およそ実体が無いということは、物質的現象なのである。この世に存在する形あるものは、等しく永遠に存在することの叶わないむなしい仮初のものであって、全てのものの本質とはむなしいものであり、それこそがこの世の一切を示しているのである。むなしい、空そのものであることによって、万物は成り立つのである。
猿のままの愚かな人は、まったく哀れなことに自己に執着し、自己の所有するものに執着していることは明らかであり、あらゆることに執着しているのは自明であるのだ。人は人に執着して、母に、父に、子に、他人に、このようにあることは当然という風に、人への執着を捨てることは困難を極めるのであった。あるいは嫉妬、色欲、貪欲、これもまた人、蜃気楼にも似た曖昧そのものである現世の仮初とは猿回しか、猿は踊らされるばかりである。
本質を見抜けぬ猿は、執着を捨てることができない。執着していては、輪廻を巡るばかりで地獄の堂々巡りでしかないというのに、地獄の輪廻を繰り返し、繰り返し、永遠に続く苦しみの末に、更なる苦しみを味わうしかないというのに。
欲するものを捨てよ。
愛するものを捨てよ。
自己を、捨てよ。
あらゆるものを放棄し、その胸中に痛みの一切も生まれず、善悪さえも己の心に波紋を浮かべることのなくなったとき、永久の輪廻の苦しみから解き放たれるのである。
あの釈迦でさえも、解脱によって己以外を救済することは難しかったのだ、ゆえに猿となり果てた我我に解脱を目指すことは、困難以外の何者でもないだろう。これ以上に困難なことなど、ありはしないだろう。
あらゆるものが己の心に干渉しなくなったとき、輪廻を外れたとき、そこには幸も不幸もありはせず、それこそが幸福そのものであり、空を掴み、空と一体となり、空の一部となり、万物に帰することが解脱である。執着をしてはならない、赤子が大人の知らぬところで一人歩きをする瞬間のように、人はいつでも孤立すべきであるのだ。執着をしてはならない、ふと立ち止まった人波で感じる侘しさを掻き消した瞬間のように、人はいつでも一人で立たねばならないのだ。
執着とは、悪である。
それを捨てよ。
捨てねばならない。
愛する赤子さえも捨てねばならない。
愛とは執着である。
捨てねばならない。
それを捨てねばならない。
執着とは悪である。悪とは執着である。執着とは愛である。愛とは執着である。
執着とは悪である。愛とは、悪である。
捨てねばならない。
人は、捨てねばならない。
一切の愛を捨て、輪廻を越えて遥か海原の、宇宙の根源に至る心地よい至上の郷里に帰るのだ。執着という縛鎖を解き、己でかけた錠前の鍵をもう一度この手に取って、呪われた愛という偽りのむなしさを捨てるべきであるのだ。それでなくては、猿は六道輪廻の悲しみから逃れられない、苦しみから逃れられない。
母が子を思う。
子が母を思う。
これもまた執着である。これではあまりに母子が報われぬではあるまいか。母は子を捨て、子は母を捨て、それを悪と思うな、これこそ真である、愛という執着の悪を乗り越えねばならないのだから。
鬼となれ。食わぬ鬼となれ。
猿を脱し、鬼となれ。
そして鬼となった心ですべてを放棄し、己さえも遠くへ置き、それを眺めなくてはならない。その心は平穏そのものである。
解脱した心に、しかし平穏は無い。不穏も平穏も無く、一切が存在しない、空となるのだ。それこそ、人の子が目指す究極である、猿よ鬼となれ、人となれ。
あらゆる事象は捉えることができない、捉えたところで仮初である。さらに進まねばならない、捉えてそしてそこに己を溶かさねばならない。魂の解放である、魂の融合である。空となったとき、その心には一切が生じないのだ、揺らがないのだ。
ゆえに、心惑わす愛などという邪悪なものに、囚われてはならぬ。捨てよ。
捨てねばならない。
母は子を捨てねばならない。
子は母を捨てねばならない。
あらゆる執着を超越し、愛情の一切を否定せよ。そうでなければ、母子が報われないのだ。あまりに哀れではないか、あまりに不憫ではないか、そこには不幸しか生まれやしないのだから。
執着とは悪である。
母よ、その腕に抱くものを捨てよ。
愛とは執着である。
捨てねばならない。
それを捨てねばならない。
捨てねばならない。
母よ、今すぐそれを捨てろ」
彼は母に何を説くか。
虚ろな母の腕には乳飲み子。母は彼の母ではない。
彼の母はいない。
「吾子に科などがあったろうか」
僧形の小児は何を説くか。
「さあ母よ、子を捨てよ。愛を認めるな」
とが ゆきさめ @nemune6
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