第3話 悪夢を見ている
絶叫。悲鳴。助けを求める声と、啜り泣き。
ニアの身体が回復するたび、激しさを増す叫び声が、小さな家に響いていた。
何度も何度も、夜中に彼は目覚める。小さな少年、推定年齢は恐らく10歳過ぎ。彼は何も言わないから、マアサは想像するしかないが。
ニアは幼く、孤独だった。
彼の首もとには魔女の呪いがある。彼の両親は、恐らく彼の目の前で殺された。他の街の人々の何人が魔女みずから手を下したのか分からないが、その他大勢のように炎に巻かれて死んだのではなく、明確な殺意のもと、彼の両親は殺された。
あぁ、とマアサはニアの部屋の扉の前で扉を開くことを躊躇う。彼が見ているのは悪夢だ。幼い彼に容赦のない、悪夢。
彼を慰められるのは、もう死んだ両親だけ。魔女は慰められない。
魔女は憎しみの対象だから。
「……カラス。カラス、来て。来なさい」
ガァガァと、黒い鳥が影の中からぬっと現れた。使い魔、ではない。
良き友人、と言うべきだろう。魔女と同じように、普通のカラスから生まれ出る特殊な力を持った個体。
マアサよりもよほど芸達者なこのカラスは、まるで狸や狐のように化けることができる。そして、同じように化けさせることができる。
マアサたち魔女は、こういった特殊な生き物に見返りを与えることで力を貨りる。もっとも、特殊な生き物たちはどれだけ報酬が魅力的でも、信頼できる相手にしか力を貸さないが。
カラスは、マアサの良き友人だった。というより、マアサのことを妹だと思っている。彼もまた、おばあさまに育てられたのだ。
「私を、彼の、母にして。父にして。慰められる存在にして」
「……マアサ。余計なものを拾ったな?」
やれやれ、と溜息を吐いてマアサの姿を変える。優しげな、少しふくよかな女性へ。
「アイツの名は知ってるのか?外見が一緒でも、バレるぞ」
カラスは呆れたようにいう。言うが、止めはしない。
「この前聞いたもの。知ってるわ」
「この前?」
カラスの首が、こてりと右へ傾く。人間に育てられたせいで、このカラスはどこか人間ぽい。
「数日前に、あんまり悲鳴が酷かったから部屋を覗いたのよ。見事に、部屋の中のものを投げつけられて追い出されたけど、悲鳴の間に言っていたわ。とうさん、かあさん、ジョシュを置いていかないで。って」
「ジョシュ?……てことは、アイツの名はジョシュアか」
「そうよ」
喉が潰れるほど悲痛な声で泣き叫び、自身のことを『おれ』ではなく『ジョシュ』と呼ぶ幼い少年。小さく大丈夫か尋ねたマアサへの返事は、ベッドサイドに置いたテーブルの上の小物たちだった。
興奮させてはいけないと思い、その日は催眠効果のある治癒魔法で部屋を満たして無理矢理眠らせた。
それでもなお、彼は悪夢を見る。夢を見ないほどの深い眠りに追いやっても、彼は呪いのように悪夢を見るのだ。
そんなことでは、治るものも治らない。心も病んでしまう。
いつか、早いうちに、幼い少年には壊れてしまうだろう。そんなのはあんまりだった。
可哀想だった。
おばあさまがマアサを愛したように、は難しいかもしれないが、それでも、マアサなりに彼を救いたかった。傲慢と言われようと。
カラスが変えてくれた母親の姿で、マアサは部屋へと入った。悲鳴が途絶える。
「だれ……?」
昼間、起きている時よりもよほど幼い声。
寝台の上で毛布にくるまり、小さくなっている。ゆっくりと近づき、背中を撫でた。
「ジョシュ。ジョシュ、私の愛しい子」
ニアを拾ったあの辺りの母親は、子を抱きしめ『私の愛しい子』と呼ぶらしい。おばあさまもよく、言っていた。
だからマアサも、ニアにそう言った。
毛布の中から、ニアの頭が出てくる。泣きじゃくった涙の跡。治らない嗚咽。
伺うようにそっと毛布の隙間から母の姿をしたマアサを見る。幼子は聡く、鋭い。ばれずに彼を抱きしめられるだろうか。
不安はあったが、じっと待った。
柔らかな微笑みを心掛け、彼から来るのを待った。
庇護を失った幼子は、毛布ごと、恐々と動いた。そして、ゆっくり、母の姿をしたマアサに抱きついた。
「かあさん、どうして。どうして、死んでしまったの。ジョシュを置いて。ねぇ。ジョシュを、迎えに、来てよ……っ!」
しゃくりあげながら、どうして、なんで、と繰り返す。
「かあさん、ジョシュは、復讐するよ。憎い魔女に。魔女なんて、死んで、しまえば、良いんだ」
マアサは何も言わなかった。ただ、ニアの頭を撫で、背中をさすり、抱きしめた。きつく。彼の親が、残された彼になんと言うか、マアサには分からない。
仇を討ちなさい。そう言うのかもしれないし、私たちのことは忘れて生きなさい、幸せになりなさい、そう言うのかも知れない。
だから、何も言わなかった。
「かあさん……ジョシュを、見ていてね。お空から。きっと、仇を討つよ。だから、」
言葉は続かない。
ニアはマアサにしがみつくような形で、眠ってしまったからだ。顔にかかった髪を避ける。
鈍い金色の髪と、翡翠の瞳。珍しい色合いだ。
もしかすると、ニアの両親のどちらか、あるいは両方がアルバルドではない他国の人間なのかも知れない。
眠ってしまったニアに治癒魔法をもう1度軽くかけ、寝台に寝かせる。寝顔は穏やかで、悪夢を見ている様子はない。
「お休み、ジョシュ」
空気に溶けるように囁く。眠りを妨げないように。
「……」
そっと離れようとして、マアサは固まった。寝衣として来ていた白いワンピースの腰辺りを、ニアが握って離さないのだ。
困ってしまった。折角寝た子供を起こすことなど、出来るはずがない。かと言って、このままここに留まることも出来ない。
悩んだ末に、マアサはワンピースを脱ぐことにした。ワンピースを取れば、シュミーズになる。
家の中とはいえ、おばあさまが見たら怒るだろう。頭の中に懐かしいおばあさまの声が蘇る。
明日、ニアが起きるまでにワンピースを回収しなければならないだろうが、今日のところは穏やかな眠る幼子の眠りを妨げないことが優先だ。
扉を出ると、カラスが待っていた。
「おい、マアサ。なんだその格好は」
扉を出た途端、マアサの姿はニアの母の姿から元へと戻っていた。シュミーズ姿のマアサに、カラスが難しい顔をしている。
烏の表情はそんなに豊かだっただろうかと首を捻りながら、自身の部屋へ向かう。
「そういやマアサ、アイツの反応はどうだったんだ?」
「とりあえず、眠ったわ。今は穏やかに」
「良かったじゃないか」
「えぇ。本当に、良かった。カラスがいて助かったわ。また、頼むかも知れないけれど」
「まあ良いさ。お前は大事な妹だ」
「報酬は?」
「いらない、と言いたいところだが。これを検討してくれたら良い」
何もないところから、カラスが手紙を取り出した。アルバルド皇家の紋章。
中身は、見ずとも分かる。少なくとも、このあいだのようなただ助けを求めているものではない。
いつもは突っぱねた来た手紙だが、マアサはそれを受け取った。
「あなたが何故、アルバルドに飼われているのかわからないわ」
「そういうマアサだって、助けを求められれば駆けつけるじゃないか。それと変わらないさ」
「……そうね。あなたも私も、変わらないわ。少しも。じゃあ、お休みなさい」
カラスは1度花を動かして、それから影へと溶けて消えた。
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