第2話
今のところは、ただ単に「カクヨム」というサイトに入力しているだけで、中身の判らぬ発表の仕方である。
この作戦が当たるのも十中八九受け入れられないだろう。
離婚もその頃には決まっていた。
嫁は父と母にイザコザばかり行っていた。私の苦悩は最高点まで沸騰していた。嫁はその頃からの工作としていたようだ。
その頃の私は、小学四、五年生と秀才の小学一年生の三人の男の子の面倒を見ていた。その頃の私は、自分の方向性がわからなかった。
生きていくための真理に明確な指針が見つけられなかった。その頃の我が家の家事は私の役目だった。ボルシチを作ったりハンバーグを作ったこともある。
ぶり大根を作ったりもした。
何せ、母は家事には向かなかった。美意識もなく雑だった。母の姉妹が三人いたが、母ほど雑な者はなかった。
それは父が居ないことの現われである。
当時の父は、NTTの下請けの協和電設に勤めていて、父は盆と正月ぐらいしか帰らなかった。
祖父と祖母の農業仕事を手伝っていた。母の悩みの一番多い日常であって、我が家の夕食は十円のコロッケや卵焼きであった。
だが、私の母は裁縫の腕が良く、我々の夜着の着物は、母の手によった。
私も無口だったが、母は隣近所の同年の主婦達と仲良くなる人はいなかった。その母が九十九年も長生きしている。
昔は農作業が気休めの時間だった。我が家には、父の居ないせいか、叔父や叔母の出入りが多かった。
祖母は、その彼等を可愛がっていた。特に女児一人の叔母を可愛がった。彼女は最初の結婚は失敗して、実家である我が家にいる日が多かった。
我が家にテレビがきたのは、私が小学五年生の頃だった。
その頃の母の気持ちがわかったのは、母が老人ホームに入り、私も片目で別の老人ホームに入った六十五歳ごろのころで、遅すぎたという感がある。
今の私は、「空是空」等とほざいている人生を諦めた年寄りに過ぎない。
そんな私に小説を書くだけの知識がないのは、当の私自身が良くわかっているし、絵画の知人は多かったが、文筆業の友はいなかった。
たった一人の分筆家は芸術新潮のコラムニスト、州之内徹だけだった。
そこで知ったのは、白州正子さんぐらいであり、私は、彼女に会ったことはなく、今頃になって彼女のエッセーを読んでいる。
面白く、深い知識に圧倒されてしまった。
そんな私でも、六作品の絵画を氏の店であった現代画廊で買い求めている。
その頃知り合ったのが私の嫁さんになるT・Mという名の若い美人だった。私より九歳若いハツラツした女だった。
その彼女が、私の店のアルバイターになったのは、私が三十一歳で彼女が二十三歳の時だった。
私の店の従業員数は、佐々木さんと言う女性言葉を使い、仕事のできる三十歳の秋田県生まれの田舎ものの男だった。
私の店の専務にしようと思っていのだが、彼は五年間私の店を手伝い、バブル崩壊の平成五年に辞めた。
彼の仲間は派手で、百万の時計をしていた新潟出身のピアニストを始め、彼の奥さんは、浅草のそのピアニストと同じスナックで働いていて、何となく私の立ち入る場とは思わなかった。
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